2010年03月26日

そこに歌があるから

NEC_0359.jpg人はなぜ歌を聴くのだろう。
音楽は何のためにあるのだろう。

竹仲絵里の新作『Garden』を聴きながら、そんなことを考えている。

4年ぶり2枚目となる今回のフルアルバムに収録されたのは、前作『ペルソナ』(2006年)以降に発表されたシングルや、ライブでの演奏曲、セルフカバー、それにボーナストラックとして松任谷正隆アレンジの「サヨナラサヨナラ」も加え、盛り沢山の16曲。4年間の彼女の軌跡をたどるベスト盤といった趣きだ。

コンセプト・アルバムではないが、しっかり1本、筋が通っている。一見バラバラに見えるそれぞれの曲は、じつは根っこの部分でつながっている。土の中でひそやかに共鳴し合っている。

試しに、目を閉じて、耳をすましてみよう。そうすれば、有機的に結びつきながら成長していく野の草花のような、曲たちの命の脈動が聞こえるかもしれない。もしそれが感じ取れたら、静かに目を開けてみよう。あなたの眼前にはきっと、色とりどりの花が咲き誇る「庭」が広がっているはずだ。眺めるのもいいけれど、ぜひその庭に下りてみてほしい。花を愛でた後は、地べたに寝転がって土のぬくもりを感じてみたらどうだろう。心配はいらない。農薬なんて一切使われていないから。ここは100%オーガニックで、懐かしい匂いのする庭なのです。

朝昼晩の24時間、春夏秋冬の365日、自然のサイクルにしたがって移ろいゆく「庭」の様相。種が芽を出し、成長し、つぼみをつけ、花が咲き、実りが土へ還っていく。静かに進行していくドラマティックな営みは、命あるものに普遍の物語だ。人間だって喜怒哀楽、いろいろあるけれど、すべては移ろうものなのだ。そう考えれば、もっと幸せに生きることができるかもしれない。

地球は回る。季節はめぐる。この世の物事は永遠ではない。でもだからといって、悲観することはない。生まれたものはやがて消える運命にあるけれど、その先には再生が待っている。

生きることの喜びとは、その再生にこそあるのではないか。何度も何度でも、生まれ変わればいい。このアルバムには、そんなメッセージが込められているように思える。

竹仲絵里の曲には植物をモチーフにしたものが多い。「循環と再生」というのは、彼女がこれまでずっと歌い続けてきたテーマでもある。バラバラに発表された曲に統一感があるのは当然といえば当然。彼女の軌跡を追えば、自然と物語ができ上がってしまうのだ。今回のアルバムのコンセプトは、言ってみれば「竹仲絵里」という存在そのものなのである。

4年というのは短いようで長い。前作と比べてみると、アルバム全体から受ける印象もすいぶん違う。歌声は一段と深みを増しているし、ファルセットなど技巧を凝らした曲も多くなった。迷いや逡巡といった内省に向かう詞は影をひそめ、より前向きに、外へ働きかけていこうという歌が目立つ。ある雑誌のインタビューで彼女は「迷いがなくなった」と言っていた。「自分のやるべきことが見えている」。なるほど、そういう確信のようなものが、たしかに伝わってくる。

世の中にはいろんな歌がある。反体制、主義主張、自己表現、娯楽…「何のために歌うのか」と問えば、アーティストの数だけ答えがあるだろう。「何のために聴くのか」と問えば、リスナーの数だけ答えがあるだろう。

そんな無数の歌があふれる原野の一角に、竹仲絵里の「Garden」はひっそりと息づいている。そんなに広くはないけれど、手入れの行き届いた庭。四季折々、この庭が見せる豊かな表情は、日々の暮らしをうるおしてくれることだろう。

ただそこにあるだけで、見る人をなぐさめ、励まし、ときに心の支えとなる。そんな庭の草花のように、竹仲絵里の音楽はきょうも少しずつ、地道に成長を続けている。

僕はなぜ歌を聴くのだろう。
それは、歌がそこにあるから。
そして、その歌が咲かせる花が見たいから。


追記

7曲目の「光のゆくえ」。
クレジットに「作詞:森若香織」とある。驚いた。森若香織といえば、あのGO-BANG'Sの真ん中にいた人だ。1990年ごろだったか、「あいにきてI・NEED・YOU!」という大ヒット曲を飛ばしたガールズバンド。明るくて、はじけていて、エキセントリックで、好きだったなあ。高校生のころ、よく聴いていた。森若さん、今では音楽に限らず、多方面で活躍中だとか。

「風が生まれたときに 景色は動き出す
 いくつも道を越えて 私に辿り着く」

抑制された言葉とゆるやかなメロディが、互いを高め合って作り出す、静謐で荘厳な世界。スタンダードナンバーを歌うジャズシンガーのように、情感を込めて歌い上げる力強いヴォーカルが心に沁み入る。これこそ竹仲絵里の新境地。自分を見つめながらじっくり耳を傾けたい曲だ。

森若香織、今こんな詞を書いているのか。
20年ぶりの不思議なめぐり合いに、ちょっと心が熱くなった。
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2010年02月13日

心の空気を入れかえよう

NEC_0107.jpg何もかも凍りつかせてしまうような当地の冬のやり方に負けるものかとあらがうことにも疲れて戦意喪失、すっかり萎縮した身体と心に生気を取り戻す術もなく、守りの姿勢でなんとかこの季節をやり過ごすしかないのかと思い始めていた2月、大事なことを思い出した。

わが心の歌姫、竹仲絵里がステージに立つのである。

3月に2枚目のフルアルバム発売を控え、新曲をひっさげてのワンマンライブのタイトルは、「Garden**」。

トンネルの先に見えた、かすかな光明。導かれるように私は、雪と氷に閉ざされた信州を出て、東京に向かった。

2月11日の祝日、東京は雨だった。傘は持っていなかったが、会場の赤坂BLITZは駅直結なので心配無用。傘といえば、竹仲絵里の最新シングルがまさに「傘」という曲である。

「嵐の日はあなたを包み込む小さな傘になりたい」

しなやかな強さを持った詞を、やさしく歌っている。

さらに彼女は昨年から金沢で「みんなのeRe:kasa」というプロジェクトを始めた。街中に誰でも自由に使える置き傘を設置するというもので、余っているビニール傘をリユースすべく、寄付を募っている。ローカルCMに曲が使われたこともあり北陸で竹仲絵里の知名度は抜群なのだという。それで金沢なのである。

ドリンク代を払って会場に入ると、傘の寄付、ちゃんと置き場があった。わざわざ買って持ってくる人もいるらしい。それはやめてとホームページで呼びかけていた。もっともだ。

赤坂BLITZに来るのは2回目。着席で定員600人ほどの大きなホールだ。2階席まであり、1階には椅子が所狭しと並べられていた。自由席で、もう9割方埋まっている。前から10列目くらいの向かって左端の方に空席を見つけた。昨年の暮れのライブハウス・ツアーの時とはやはり見え方が違う。あらたまった感じがする。

現れた「えりつぃん」こと竹仲絵里は、洗いざらしのジーンズにふわっとした赤いワンピース。GibsonのJ200の黒が引き立つ。2曲歌った後にあいさつがあった。

「いつものつらいことやいやなことを忘れて、今日は楽しんでいってください。心の空気を入れかえて」

そんな言葉でえりつぃんは、最初のあいさつを結んだ。こういう表現がさらりと出てくるんだなあ、この人は。

向かって左からドラムス、ベース、キーボード、ストリングス、ギターと並ぶバンドは、おなじみの顔ぶれだ。各々の音を聴くだけでも贅沢なほどの豪華メンバーなのに、誰も突出することなく、調和しながら竹仲絵里の世界を形作っている。

バンドならではの重厚な音が腹の底まで、心地よく響く。とくにドラムの宮川さんの豪快な叩きっぷりは見ていて気持ちよい。こういうリズム隊が、曲に生命力を与えるのだ。万全のサポート態勢のもと、今日のえりつぃんは少し昂揚気味か。

新アルバム収録曲中心のセットリストの中には、聞き慣れない歌もちらほらあり、新鮮だ。今度のアルバムには、代表曲「サヨナラサヨナラ」の新たなバージョンが収録されるという。アレンジャーは松任谷正隆。いったいどんなふうに仕上がっているのか、想像もつかない。

中盤、静かな歌が何曲か続いた後のMCで、えりつぃんがこんなことを言った。

「みんな、お尻痛くない?」

これはもしかして。
そう、スタンディングを促しているのだ。あのえりつぃんが。何度かライブには行っているが、これまで一度も客が立つのを見たことがなかった。ノリのいい曲を歌うときも、彼女はけっして客席をあおることをしない。客の方も手拍子はしても、自分から立つ人はいなかった。

そういうとき、私は立ちたくてうずうずした。でもひとりだけ立つのは恥ずかしい。後ろの人に迷惑かもしれない。そんなふうに心の中で言い訳をして、立ちたい気持ちを抑えていた。ステージであんなに懸命のパフォーマンスをしているのに、どうしてそれに応えようとしないのか。座ったままの客席が腹立たしかった。自分もその一人なのにもかかわらず。

そんなえりつぃんが今、ぼくらに呼びかけている。「口笛」のイントロが始まった。アップテンポのノリのいい曲だ。「立とうぜ」でも「立とうよ」でもなく、「立ちませんか」と彼女は言った。

えりつぃん、英断す。

この瞬間をこそ待ち望んでいたのだ、私は。客席が動いた。みんながぞろぞろと席を立って、手拍子を始めた。私はすっくと立ち上がり、夢中で手をたたき、リズムをとった。何も考えることはない。誰を気遣う必要もない。気持ちのよい解放感。見る人と見られる人の垣根が取り払われ、客席とステージが一体になった。

ひさびさに味わう、ライブの充実感。すべては「立ちませんか」という、あの一言のおかげだ。えりつぃん、よくぞ言ってくれたと思う。でもファンとしては、やっぱりちょっと情けない。立つとか立たないとか、そういうことをアーティストに心配させてはいけない。ファンの側に、参加者としてライブを楽しもうという自覚があるのなら、それは自分たちで決める問題であるはずなのだ。

心の空気が入れかわると、乾き切っていた精神が少し潤った気がする。冬の荒地に蒔かれた種が芽を出し、成長し、やがて色とりどりの庭になる。そんな光景を想像しながら、春を待ちたいと思う。



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2009年11月30日

三宮のエリー

NEC_0328.jpgというわけで。

やって来ました飛行機で。竹仲絵里アコースティックツアー、2度目の参加は関西である。会場は三宮の神戸ウインターランド。駅から遠くはなかったが、お上りさんにはわかりにくい場所にあり、30分以上歩き回ってやっとたどり着いた。

この間の宇都宮の会場より少し広めのライヴハウス。席の配置はだいたい前と同じで、前半分がテーブル席、後ろに丸椅子が並んでいた。入った時にはテーブル席はすでに埋まっていたが、椅子席の前の列、宇都宮の時よりは見やすい席に座ることができた。

右隣にはおとなしそうな30代若手サラリーマン風の男。その前には耳にイヤホンを詰めて、じっと前を見つめている大学生風の青年が座っていた。自分が学生のころ、こういう感じの同級生がたくさんいた。長めの髪を分け、黒のブルゾンにジーンズをはいている。服装はいたって地味だ。左隣には野暮ったいセーターを着た40代前半くらいのおじさんが座った。だいたい、いつもと同じような客層だ。

今回も黒いGIBSONを抱え、足を組んで歌う竹仲絵里は、この間よりもいくぶんリラックスした感じだった。MCは同じところもあれば、新しい話もある。場所によって話の内容や演奏する曲も、ところどころ変えているようだ。ライヴ中盤にやはりカヴァー曲のコーナーがあって、この間はマイケル・ジャクソンの「Heal the World」を歌ったのだったが、きょうは宮崎駿の『天空の城ラピュタ』のテーマ「君をのせて」だった。ピアノの伴奏で歌う彼女の声はどこまでも澄み切っていて、この歌によく合っていた。子どものころから宮崎アニメの大ファンで、小学生の合唱コンクールで歌ったのだという。

右斜め前のイヤホン青年はさすがにイヤホンは外していたが、すべての曲に合わせて歌を口ずさんでいた。声は聞こえなかったが、ステージの光に照らされて、口が動いているのが見えた。よっぽど彼女の歌が好きなんだろうなあ。でもそれを共有する人もやっぱり、周りにはいないんだろうなあ。十数年前の自分の姿が少し重なって見えた。

左隣のおじさんもまた、熱心なファンであるらしい。手拍子がどうしても民謡調になるのが微笑ましかった。全般的に前回よりもさらに客席はおとなしく、まるでクラシックのコンサートのようだった。アコースティックなので確かに、耳を澄ましてじっくり聴きたい曲が多いのだけれど、何だか物足りない。椅子を取っ払ってオールスタンディングでやればいいのに。彼女のライヴを見に来るたびに、そう思う。

今年2度目のライヴで聴く竹仲絵里の歌声からは、土のにおいがした。ジョニ・ミッチェルやキャロル・キングというよりは、ジュディ・コリンズやリタ・クーリッジ、さらにはボニー・レイットやエミルー・ハリスに近い趣きさえ感じられる。彼女の歌は、やはり生で聴くほうが断然いい。自然の実りは、選別されパッケージ化されたものよりも、畑で収穫したそのままを味わう方が何倍もおいしい。土のついた彼女の歌を、また聴きに来よう。
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2009年11月16日

宇都宮のエリー

NEC_0295.jpg竹仲絵里の2009年ライブツアーが始まった。
「花と夢とほほえみと*」というタイトルは、昨年夏の「苗と土と太陽と*」、秋の「愛の蕾に栄養を*」に続くもので、シンガーソングライター竹仲絵里が蒔いた音楽の種を育んでいこうという思いがこめられている。

ツアー初日の宇都宮公演に参加した。会場のライブハウス「エスプリ」は、前半分がテーブル席で、後方に椅子を並べている。それで収容人数は100人ほど。チケットは完売ということだったが、はたして公演開始10分前の17時50分に着いたときには最後列の席しか空いておらず、会場はほぼ満員だった。500円を払いドリンクを受け取るとまもなく照明が落とされ、開演となった。

おなじみの黒のGibsonJ200を携え現れた竹仲絵里は、長袖シャツにウエスタンっぽい柄のノースリーブを重ね着し、細身のジーンズ姿。アコースティックライブということで、椅子に座っての弾き語りスタイルである。それにキーボードとパーカッションのサポートがついている。

数曲歌うとMCが入り、ときには客席と対話したりしながら、和気あいあいのムード。なにしろステージが近い。前方のテーブル席なら、手を伸ばせば届きそうである。自由席で先着順だから、席は早い者勝ちだ。いまさら何を言ったって始まらないけれど、最後列の自分の席は、とにかく見にくい。ホール会場と違って、平らな床に椅子を置いただけなので、前に並ぶ人と人の間から、かろうじてステージが垣間見えるという感じなのだ。

7曲目に歌った「Heal the world」。マイケル・ジャクソンのカヴァーである。マイケルがこの曲を歌う映像をYouTubeで見たという彼女は、それほどのファンではなかったけれど、心打たれるものがあったという。キーは変えていないようだ。女性がそのまま歌っても違和感がない。マイケルという人はどうしてあんなに高いキーで歌うことができたのだろう。「Make a better place」というサビのフレーズは、なかなかいいと思う。「もしあなたがこの世界で生きていこうとするのなら、そこを今よりも少しでもいい場所にしていこう」。環境問題に関する発言など、ナイーブな印象しかなかったマイケルだけど、その言葉には、なかなか深い含意があるのかもしれない。

ところで竹仲絵里の声、誰かに似ていると思っていたが、MCを聞いていて、ふっと気がついた。小泉今日子。あの、高いけれどどこか懐かしい、母性を感じさせる声。その声で、友達に話すように親しげに、でも敬語を崩すことなく、言葉を選びながら、客席に語りかけている。

客席は男が8割以上。20代から30代が中心だが、年配の人もなかなか多い。同世代の女性に向けた内容の歌が多いわりには、女性客の姿は目立たない。歌う内容とは別に、幅広い年齢層の男どもに訴える何かが、彼女にはあるようだ。

アンコールの2曲を含め16曲。新しいアルバムに収録するという新曲もいくつか織り交ぜて構成された2時間あまりのステージは、派手な趣向はないけれど、竹仲絵里の飾らない人柄があらわれていて、気持ちの良いものだった。歌い手と聴き手の距離、観客同士の距離、人の間にあるいろんな距離を、ギター1本で縮めてしまう弾き語りの魅力。生の音を通して今の思いを直に伝えようとする竹仲絵里のスタンスは、その音楽の蕾が開いて花が咲いても、おそらく変わらないのだろう。

posted by Dandelion at 08:59| Comment(2) | 竹仲絵里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

心の声再び 竹仲絵里

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竹仲絵里の歌声には、体温がある。
草原に吹き渡る春の風に吹かれているような清涼感。さわやかでやさしく、そしてあたたかい。夏は夕暮れの打ち水のようにひんやりと、冬は雪の中の露天風呂につかっているようにじんわりと、身体のなかに染み入ってくる。夜には孤独な魂を照らす灯火になり、昼は日陰となって、まぶしい日差しから守ってくれる。365日、傍らに置いておきたい。そんな歌声である。

何よりも魅力なのは、豊かな低中音域だ。これが土台となり、少々はかなげな高音をしっかりと支えている。そのヴォーカルは、どこまでも柔らかい。言ってみれば弾力性のあるゴムのように、じつによく伸び縮みする。そしてその伸びしろの大きさが、歌に陰影と深みを与えている。低音から高音へ、高音から低音へと、うねるように移行する時にひそやかに漂う色気は、「VOICE OF HEART」と称されたカレン・カーペンターの歌声を彷彿とさせる。

カーペンターズが歌っていた70年代は、シンガー・ソングライターの時代でもあった。シンガー・ソングライターとは「自作自演」という意味だ。自分のなかに、伝えたい何かがまずあって、それを曲にして、自ら歌う。そういう表現形式が、この時代に発見された。作曲家・作詞家・歌手の分業ないし共同作業が相対化され、歌うことは個人的な営みとなった。シンガー・ソングライターとは何か。あえて言うならばそれは、聴く者に直接、自らの声と言葉で語りかけるという、表現者の姿勢ではないか、と思う。

そういう意味では、竹仲絵里は正統なシンガー・ソングライターだといえる。「音楽の力を借りて、勇気のない人の背中をそっと押すこと」。なぜ歌うのかという問いに、彼女はこう答えている。同じインタビューの中ではまた、音楽という「仮面」を通じて、ふだんさらけ出せない自分を表現できる、とも語っている。(ちなみに彼女の唯一のフル・アルバムは『ペルソナ』というもので、自分にとっての音楽のあり方を仮面になぞらえているのだ)。70年代のシンガー・ソングライターたちのように、「なぜ歌うのか」という自分への問いかけから、彼女もまた、活動を始める。自己の内面を見つめ、心に映る風景を切り取って、そのディテールを丹念に、自分の言葉で描き出そうとする。ときに穏やかに、ときに激しく。その詞はそのまま、竹仲絵里という一人の女性がいまを生きる姿なのだ。

これはもう、推測にすぎないのだけれど、竹仲絵里という人は、いわゆる優等生タイプで通してきた人なのではないか、と思う。普通のサラリーマンの家庭に育ち、学校では勉強もできて、心を許す友人もいて…たぶん彼女は、そういうどこにでもいるような、10代の女の子だった。

そんな普通の女の子が、何を歌うのか。訴えるべき何か特異な体験や境遇があるわけではない。それでも彼女は、歌わなければならなかった。詞を書き、曲をつけ、演奏し、発表する必要があった。だからプロになった。

私の声を聞いてほしい―
竹仲絵里の歌にはどこか、そういう差し迫った、切実な感じがある。もちろんそこには、彼女がデビューから数年間、インディーズとして、(別の名前で)比較的長い間下積みの期間を送ったということも関係しているかもしれない。そのような事情は別としても、彼女の一見さわやかで耳障りの良い歌声から、かすかに伝わってくる切実感とはどのようなものか。それは、たとえば椎名林檎のように、声そのものが切迫しているというのではない。あくまで耳に優しく響く声のなかに、ほんの数%の割合で含まれている成分のようなものだ。でもその数%の成分を含むからこそ、彼女の声は単に美声というにとどまらず、聴く者の感情の奥深くにまで届く「心の声」であり得ているのだろう。

ふだんさらけ出せない自分を表現できる。だから歌う。インタビューのなかで彼女はそのように言っていた。普通の女の子だからこそ、表現しなければならないことがある。そういう衝動に突き動かされて、彼女は歌っている。そのように思える。

私は、あなたの思っているような人間ではない。あなたもまた、私の思う「あなた」とは違うかもしれない。それは、いくら仲の良い間柄だって、本当のところはわからない。そういう自他のイメージの錯誤を互いに繰り返しながら、人はこの世の中を生きている。いろんな形のペルソナを使い分けながら。

無限の錯誤の中で、それでも人はかかわり合って生きていかなければならない。竹仲絵里の歌の切実感は、自分もまた、そういう人と人のかかわり合いのなかで日々生きているのだという、抜き差しならない現実のリアルな描写によるものだ。

何の変哲もない日常の、特に意識しなければ次の日には忘れてしまうような小さな出来事の数々。そんな暮らしのなかで日々感じる喜びや悲しみを、彼女は克明に書き留め、音楽で表現する。そのようにして、個人的な喜びや悲しみを普遍的な人間の営みの表現へと高めるのは、シンガーソングライターの手腕だ。人と人のかかわり合いの機微というのは、おそらく普通の存在であるからこそ、より鮮明に見えてくるものなのだろう。

竹仲絵里には、強力な武器もある。アコースティックギターだ。愛用するのはGibsonのJ200とJ50(黒のJ200は「ジジ」、J50は「J子」と名付けているらしい)。アコギでもどちらかといえば無骨な部類に入るこの2種類のギターを、女性の弾き手として解釈し、自分のものにしている。しなやかで繊細なアルペジオの指使いで聞かせると思えば、激しいストロークに情念を込めることもある。楽器を自在に操ることができるというのも、シンガー・ソングライターの条件だ。

日本のジョーン・バエズが森山良子であり、日本のジョニ・ミッチェルが金延幸子であり、日本のキャロル・キングが五輪真弓であるというような、根拠はないけどなんとなくわかるというなぞらえ方が、かつてあった。森山良子ら60・70年代の日本の女性歌手たちは、同時代の最先端としての海外の音楽に影響を受け、そのスタイルを取り入れ、日本に紹介することで、そのような評価をされたのだった。

それに対し現在20代の竹仲絵里は、音楽が多様化するこの00年代において、シンガー・ソングライターという形式を、あえて選んでいる。両親の影響でジョニ・ミッチェルやキャロル・キングを聴き始めたという彼女の音楽は、けっして人目を引くような目新しいものではない。でもそれがアナクロニズムに陥らないのは、「いま」という時代にしっかり向き合っているからだ。時代に埋没せず、遊離もせず、肩肘張らず静かに身の回りを見つめること。竹仲絵里があの時代の音楽から引き継いだものは、そのようなシンガー・ソングライターの視線なのかもしれない。


竹仲絵里 作品ガイド

NEC_0127.jpg@『ペルソナ』(2006)…出世作となったアルバム。コブクロとのコラボ作『サヨナラサヨナラ』が入っている。陰と陽を巧みに織り込んだ精密な構成は、ファン以外の人にも聴きやすい。

A『秋晴れモノラル』(2004)…ミニアルバム。「ペルソナ」よりプライベートな印象。アコースティック色を前面に出した内省的な曲が並ぶ。『まなざし』と『トンネル』は必聴。前者は「この世界が朽ち果てても/あなたの腕を握っていたい」という心の叫びが切ない。闇の先にかすかに見える光へ進んでいこうという後者は、ミュートしたギターとリズムを刻むドラム、うねるベースだけの演奏がやたらとカッコいい。ボブ・ディランの「I Want You」の弾き語りカヴァーも。

B『帰らない夏と消えないあのメロディ』(2008)…圧巻はアコギ1本で歌うB面の『距離』。竹仲絵里に関するすべてがわかる。これを聴けば、彼女のファンにならないわけにはいかない。おそらく一発録音。指が弦に触れる音や声の息づかいまでバッチリ聞こえる。こんな弾き語りをする人は、いまの日本の女性歌手にはまずいない。70年代にもそうはいなかっただろう。ぼくの浅薄な知識ではジョニ・ミッチェルとボニー・レイットくらいしか思い浮かばない。

C「イエスタデイ・ワンス・モア〜トリビュート・トゥ・ザ・カーペンターズ」(2009)…「ONLY YESTERDAY」を丁寧に、一音一音確かめるようにして歌う。低音の伸びと澄んだ高音が際立つ忠実なカヴァー。

D『余韻』(2003)…すれ違い、軋み合い、もつれてしまった感情をどうすればいいのか。持て余すほどの感情の高まりがひりひりと痛い。あの満たされた幸福の日々はどこへ行ってしまったのだろう。途方に暮れながらも、そんな自分を投げ出さずに見つめ続け、言葉を探しながら、冷静に描写している。この世の半分は夜なのだ。いまできることは、月が支配する世界に寄り添って、静かに日の出を待つことだ。春を待つ草花のように。

踏まれても/冷たい雪に埋もれても/
強く生きて/太陽を探して欲しい/
ひとりじゃない/ひとりじゃない/
見えない土の下で/誰かの根っこが/
あなたに向かって伸びている (「花びら」)
posted by Dandelion at 04:42| Comment(0) | 竹仲絵里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする