2015年07月13日

わが町の劇団

箕輪町で、町文化センター付属劇団「歩(あゆみ)」の第10回定期公演を見た。演目は清水邦夫の「あの、愛の一群たち」。役者の他に、地元の中学校吹奏楽部員、ボーイスカウトとガールスカウトの子どもたち、和太鼓集団まで総勢50人以上が登場する大掛かりな舞台で、アングラの香り漂う濃密な世界観が躍動感とともに現代によみがえった気がした。

演出のIさんは70歳。1960〜70年代に前衛芸術のメッカ「アートシアター新宿文化」周辺の清水邦夫や蜷川幸雄、村井志摩子らの下で修業した筋金入りの舞台人だ。80年代まで東京の第一線で活動した後、20年前に箕輪町に移住。98年の長野五輪では式典の舞台演出も担当した。演劇の講師など地域で活動を続けるなかで2003年の「歩」旗揚げに関わり、以来、主宰者としてこれまで20作品を上演してきた。

以前、Iさんと芝居の話をしていて印象的だったのは「声に出した瞬間に消えてしまう言葉の力を観客の心に残したい。理屈でなく心で芝居を感じ、未知の何かを発見してほしい」という言葉だった。「今ここで自分たちが演じる意味を問い掛けてきた」というIさんの活動は、プロとかアマとか関係なく、地域に生きる普通の人が芝居を通じて何を表現し、何を受け取るか、という問題意識に貫かれているようだった。

「歩」の劇団員たちは、それぞれ仕事や家庭生活と両立させながら、芝居を続けている。稽古場を見学させてもらったことがあるが、彼らの熱気には心打たれるものがあった。公演前ともなると稽古は連日午後10時すぎまで続く。言葉の論理と肉体を使って、全身全霊で演技指導するIさん。それに応えようと、創意工夫を凝らして表現を試行錯誤する役者たち。力を合わせてひとつの作品を生み出そうとする両者は、揺るぎない信頼関係で結ばれているように見えた。

上伊那地方では近年、演劇の裾野が急速に広がった。駒ケ根市で地域の住民と都内の劇団がワークショップ形式で一緒に舞台を作る「共同公演」は昨年まで18年間続き、関わった出演者やスタッフは延べ約1400人に上る。演劇の基礎を身につけた人たちは表現の場を求めて、それぞれの地元で劇団を作り、既存の劇団と交流し、ネットワークを深めている。もちろん今回の「歩」の公演にも、共同公演の経験者が多数参加している。

芝居は選ばれたプロだけが演じるものではない。東京の劇場で見るものだけではない。もっと身近な、たとえば日常生活で自分が今ここで生きていることの証しとして、その意味で誰にでもかかわりのある表現の手段として、演劇というものがあることを、地域の劇団は教えてくれるのである。
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2010年09月11日

風と胡弓と少女の指先

 9月3日、午後5時35分。
 普通列車に乗るために整理券が必要なことを知った観光客の戸惑いと焦燥でむせ返りそうな駅構内の喧騒をよそに、われらが八尾行き地鉄バスは家路を急ぐ数人の地元の利用客を乗せただけで、時間が来ると思い出したように身ぶるいし、富山駅前をおもむろに出発した。
 八尾は富山市中心部から南に約20`の山あいに位置する人口2万人ほどの町で、毎年9月初頭に行われる伝統の祭事「おわら風の盆」の舞台として知られる。二百十日の厄日に当たる9月1日から3日間、昼夜を問わず踊り続けることで風神を鎮め、豊穣を祈願するというこの祭事は、1980年代に小説や映画、歌謡曲の題材に取り上げられて以来、全国的にその名を知られるようになり、近年では祭りの3日間で20万人以上の観光客がこの町を訪れるという。ちなみに八尾は今では富山市の一部である。
 その八尾に向けていま、路線バスは走っている。きょうは風の盆の楽日。富山駅の混雑ぶりを見るかぎり、かなりの人出であることは間違いない。
 夕陽に染まる街路はさすがに終業のラッシュとみえて、車が多い。午後も6時だというのに妙に熱っぽい日の光を全身に浴びて、バスは市民の足としての務めを果たすべく停車と発車をこまめに繰り返しながら、カメの歩みで進んでいく。紫外線の鋭い刃先がガラス窓をやすやすと貫き、夏の疲労にささくれ立った肌を、容赦なしに攻めたてる。今年の記録的な酷暑はここ北陸でもまだまだ圧倒的で、旧式バスの冷房では歯が立たないらしい。座っているだけで下着にじっとりと汗がにじむ。

 八尾の人々が自分たちのためにうたい、踊り、楽しむ祭りとして300年の間ひっそりと受け継がれてきたという風の盆。しかし近年では観光化が進み、本来の情趣が失われつつあるらしい。素朴であえかな祭りのイメージ。しかしその陰には、20万人の雑踏がある。住民と観光客。静寂と喧騒。この相反する要素は小さな町でどのように共存しているのか。そのさまをこの目で見たいと思った。

 午後6時半。バスは住宅地の中の広場に停まったかと思うと、ひとつ大きなため息をつき、それきり動かなくなった。そこが終点なのだった。
 通りの両側にずらりと並ぶぼんぼりに火が入り、たそがれの街に淡い彩りを添えている。何の変哲もない住宅地のなかを、人々の群れが絶えることなく、ひとつの方向に流れて行く。ぼんぼりには「福島」の文字。ここはそういう名の町らしい。人の流れに合流して歩き出す。
 駅に行こう。まずは情報収集だ。5分も歩くと十字路にぶつかった。人は右の方から流れてくる。迷わず右折。向こうから歩いてくるのはおそらく列車で来た人たちだろう。根拠のない直感。信じるしかない。
 道幅が倍に広がった。山並みの上に宵の明星が瞬く。開けた風景とは裏腹に、生温い空気がよどんで動かない。夕凪の街ですれちがう人々の胸元で、うちわが白く波打つ。人の群れは途切れることなく、後から後から流れてくる。なのに街は不思議なほど静かだった。
 観光客は年配の人が多い。今年はどの踊りを見ようか、そんな相談でもしているのか、おだやかに談笑しながら歩く夫婦。旅行会社の旗を先頭に立て、三々五々並んで歩く団体客。言葉から察するに、西日本からの旅行者が多いようだ。
 10分ほど行くと街が華やいできた。道端に軒を連ねる露店の充実ぶりに、思わず足を止めた。たこ焼き、たい焼き、「宮崎牛」の串焼き、サーターアンダギ、遊戯系では金魚すくいや射的、スマートボール…そんな店の前に子どもたちが群がっている。ここは本当に平成22年の日本なのか。軽いめまいを覚えながら、まもなく越中八尾駅にたどり着いた。

 駅前広場の案内所でもらったガイドマップを見ながら、これからの行動計画を立てる。マップの説明によれば、風の盆は「おわら保存会」によって運営され、11地区の保存会支部が個別に連を組み、それぞれの地区のなかで踊るのだという。各地区によって衣裳や所作に違いがあり、見物客は町中を巡りながら、いろんな町の個性を楽しむことができる。通りを練り歩きながら踊る「町流し」、特定の場所に輪を作って踊る「輪踊り」、演舞場のステージで見せる「舞台踊り」の3つがあり、いつどの踊りをやるかは、スケジュールに定められている。そのタイムテーブルをたよりに、観光客は好きな町の好きな踊りを見ることができるというわけだ。
 地図を見ると、越中八尾駅は町のかなり外れの方にある。外れではあるがこの辺りでも、踊りが見られるという。「あと5分で舞台始まるよ」と教えてくれたのは、駅前の靴屋の主人だ。店先に並ぶ踊り子のキーホルダーがあまりにかわいらしかったので、それをおみやげに買ったあとで、看板をみるとそこは靴屋なのだった。
 教えられたとおり駅前広場を過ぎて歩いて行くと、線路沿いに公園があり、そこに舞台がしつらえられていた。踊りはすでに始まっており、階段状になった満員の客席のあちこちからさかんにフラッシュの閃光が走る。
 なるほど、これが「舞台踊り」というやつか−
 桃色の浴衣姿で、編み笠を目深にかぶった女性たちが整然と並んで踊っている姿が、遠くからでもよく見えた。何よりも印象的なのは、やはり胡弓の音色だ。後方に控えた囃し方は胡弓のほかに、三味線と、太鼓。胡弓が奏でるメロディーを、三味線の合いの手が支え、小さな太鼓が控えめに、リズムを取る。ときどき唄も入る。よく聞き取れないが、その唄も含めて「おわら節」なのだろう。編み笠の下からちらりとのぞく踊り手の口許がなんとも艶やかである。
 踊りと演奏の二つの要素が微妙なバランスを保ちつつ、視覚と聴覚双方に訴えるさまざまな演出が細やかに混淆し合い、その相乗効果によって「おわら節」は成り立っている。しなやかで流れるような独特の旋律は「哀調」というよりも、「グルーヴ感」とでも呼ぶ方がふさわしいように思えた。知らず知らずのうちに流れに引きこまれ、身をまかせている自分がいる。
 
 午後8時10分。
 井田川の橋を渡り八尾の中心部に入ってまもなく、人の流れが急に止まった。そして何かにせき止められたように、先の方からゆっくり左右に割れた。「西町」と染め抜かれた紺の法被姿の女性が、踊りの連の接近を触れ回りながら、人々を道の両側に誘導している。いよいよ来た。「町流し」だ。
 「女の人がときどきこうスッとな、体を反らさはんのや。あれはええ。ほんまにええ。初めて見たときはゾクゾク来たわ。ほんま感動もんやで」
白線の外側で待っていると、隣に並んだ五十がらみの男がそんなことを言った。おわらを初めて見る友人に、自らがかつて体験したそのすばらしさを教えているのだ。女踊りと男踊りの違いについて。それぞれを見る際の心得について。おわらとはいかなる踊りであるか。あれこれ身振り手振りを交え、熱心に説いて聞かせている。

 「…町流しはな、若い二十歳前の女の子が踊るんや。男は25歳まで。知らんかったやろ。見栄えが違うわいなァ。なんせお客に見せるんやからな。そらおばんおじんより若い子の方がええわ」。
 へえ、そうなの。知らなかったなあ。男の講釈に聞き耳を立てながら、心の中で返事をする。真偽は定かでないがとにかくおわらについていろんなことをよく見てよく知っている。該博な実践的知識である。こういう人を「オワラー」というのだろうか。
 「来た来た」。誰からともなくそういう声がして、ざわめきが一瞬止まる。暗闇に目を凝らす。たしかに向こうの道の真ん中にぼんやりと人影が見える。整然と並んで動いているが、音は聞こえない。左右から激しく明滅するフラッシュに照らされながら、ゆっくりゆっくり、こちらにやってくる。
 周りの見物人たちが一斉にカメラを構え始めた。バズーカ砲のような一眼レフから携帯カメラまで、機種はさまざま。とにかく皆がこの光景をフレームに収めようと躍起になっている。気がつくと後ろにも人が密集して、道の両側には立錐の余地なく何重もの人垣ができていた。
 あちこちから一斉にシャッター音が響き、無数のフラッシュが閃く。踊りの連はもう、すぐそこにあった。それこそ忍び足で風のように近づいて来たのだ。胡弓と三味線と太鼓。そして甲高くこぶしをきかせた歌声。ようやく囃子方の演奏も聞こえてきた。増幅なしの生の音は、群衆のざわめきにかき消され気味だ。
 女が2列、男が1列、計3列の踊りの連が通り過ぎていく。女性は薄い桃色、男性は黒を基調にした着物姿で、踊り手は男女合わせて約30人。いずれも編み笠を深くかぶり顔は見えない。その後ろに白地の浴衣を着た10人ほどの囃し方が続く。こちらは弾いたと思えば休んだりおしゃべりしたり、かなりリラックスして歩きながら演奏している。
 踊り方は男女で共通の部分もあれば、違う動きもある。ほとんど上半身だけで流れるような優美さを表現する女踊り。なるほど隣のオワラーの言う通りだ。時折身を反らせ、肘を上げて両手を胸の位置に持ってくる女性の仕草には、何かしら人の心を打つものがある。空間に見えない文字を描くような指先のしなやかな動き。掌の向きひとつにも、深遠な意味が込められているかのようだ。それに対して、足を上げたりひざを曲げたり、上下の動きを加える男踊りには独特の躍動感があり、こちらもまた負けず劣らず印象的である。
 
 連が通り過ぎると通りは再び観光客に開放された。サメをやり過ごした小魚みたいに、再び群れを形成した人々が通りを流れていく。西町を抜け上新町に入ると両側に商店が立ち並び、八尾の中心街に来たのだという実感がわいてきた。ここで再び町流しに行き当たり、20分ほど見物した後、さらに進んで、街の西端、西新町に入った。
 ここでは、円形に取り囲む観衆の真ん中で3組の男女が対になって踊っていた。1対1の愛の語らいを表現すると思われるその舞は、男女が近づいたり離れたりするたびに観客から「ヒューヒュー」と冷やかしの声が掛かり、これはもう、まるで歌舞伎の一場面。これもおわらなのかと、少したじろいだ。
 
 街を端から端までほぼ横断した形になったので、こんどは縦の線を攻めてみようと川沿いの鏡町に足を延ばす。ガイドマップによれば、かつて花街だったというこの町の踊りは昔の芸妓風を残し、艶と華やかさに定評があるという。川岸に向かって急な坂を下りると、居酒屋やスナックがひしめく一角に出た。狭い路地がいくつもあり、出たり入ったりしているうちに、タイムスリップしたような古い街並みに迷い込んでいた。
 古びた木目が風情を感じさせる1軒の建物の前に案内板が立っている。「日新楼」という料亭で、明治17年創業とある。経営者が変わり今では違う名前になっているが、この歴史的建造物は今でも現役らしく、広い玄関に明かりがついていた。旧街道の要衝であった八尾は昔から商いの町として栄えたという。過日の町の面影をしのんだ。残念ながら踊りを見ることはかなわなかった。

 再び坂を上り、街をぶらぶらと流す。午後10時を過ぎ街にいくらかけだるい空気がただよいはじめた。疲れた見物人たちが道端のベンチや縁石に座り込んでいる。人波はだいぶ引いたが暑さは引かず、角の売店で買ったソフトクリームで何とか気力をつなぎながら、こちらもゆるゆると街を流す。
 「日本の道百選」に選ばれたという諏訪町の石畳の坂道を下って行くと、東町の流しにぶつかった。ここもまた、女2列男1列、その向こうに囃子方。女性の浴衣は薄い桜色で、華やかな印象だ。着物の柄もまた、町によって異なるらしい。囃子方も特徴的で、ここの唄い手は女性だ。澄んだ声が涼やかに響く。

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 連と歩みを合わせてしばらく見ていると、唐突に演奏がやみ、それとともに観客から拍手が起きた。場の空気が緩んだなかを、踊り手たちは男は男、女は女で何か掛け声を発しながら、足早に歩きだした。こちらも急いでついて行く。100メートルも進まぬうちに連は足を止め、演奏とともにまた踊りが始まった。そうやって10分ほど踊ると、また声を合わせて歩き出す。何度かその過程を繰り返した後で、今度は本当に踊りが終わった。連が解散したのである。踊り手や囃子方の人たちはぞろぞろと建物の中に入っていく。そこは東町の公民館なのだった。
 踊り手の女性たちが次々に編み笠を脱ぐ姿を見て、思わず息をのんだ。笠の下から現れたのは、まだあどけない少女の顔。あれほど艶っぽく、色香漂う舞を見せていた踊り手は、じつはこの、どこにでもいそうな高校生くらいの女の子たちだったのである。踊っている姿に比べるとずいぶん小柄に見える彼女たちは一様に疲れた表情で、仲間同士口数も少なく、公民館の中に消えていった。

 午後10時半。だんだん夜が深くなる。上新町では大輪踊りが始まっていた。飛び入りOKのこの輪踊り、たくさんの観光客が参加していた。じいさんばあさんから子どもたちまで老若男女、浴衣の人もジーンズの人も、商店街をいっぱいに使った輪の中に入り、静かに踊りを楽しんでいる。
 みんなうまいもんだ。踊り慣れている。ひょっとして大勢のオワラーたちは、これを目当てに毎年来たりしているのだろうか。輪のところどころに本物の踊り手が交じる。輪の中に台が置かれ、その上で男女の踊り手が1人ずつ、手本を見せている。地元と観光客が一体になれる場がここにあった。 台上の女性の踊り手の顔を覗き込むようにシャッターを切るアマチュアカメラマンが何人かいた。そういう不届者の存在を別にすれば、ここは観光客にとって祭りの幸福感をもっとも豊かに味わうことができる場所のように思えた。
 
 11時半を過ぎると、目に見えて街が静かになった。歩いている観光客がまばらになり、虫の声が聞こえてきた。駅へ戻る道すがら、ほほに触れる空気の流れを感じた。ここに来てようやく、八尾の街に風が吹き始めたのである。なぜか店を開けていた下新町のインド雑貨店で1杯100円のチャイを買い、店の軒先で最後の一服。きょうは富山に宿を取っており、これから0時36分の最終列車で八尾を去らねばならない。明日は仕事なのである。それはどうにも仕方のないことだし、始めからわかっていたことでもあるのだが、やはり後ろ髪を引かれる思いがする。本当の風の盆、「素朴であえかな祭り」は、観光客が引き上げた街で、まさにこれから、始まるかもしれないのだ。
 最終列車を待つ間、駅前の広場でたたずんでいると、いま来たばかりの道の向こうから男たちの掛け声が風に乗って流れてきた。福島の連。最後の晩も踊り明かすつもりなのだろうか。
 そのうちに富山方面からの最終列車が到着。駅から続々と人が出てきたかと思うと、みんなぞろぞろと街の方へ歩いて行く。

 やはり八尾の夜は、まだ終わらないらしいのだ。次は必ず最後まで見届けよう。また来年、と心に決めた。
 月夜の晩をまた一陣、二百十日の風が吹き抜けた。


 筒井筒ともに十八風の盆 鈴木貞雄
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2009年07月03日

拝啓、内田百阯l

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いつも通りかかる軒下の燕の仔が、ずいぶん大きくなりました。狭い巣の中に窮屈そうに身を寄せ合って、彼らはじっと、降り続く雨を見つめているようです。もう子どもではない。さりとて大人とも言えない。巣立ちの日を間近に控えて、彼らは何を思うのでしょう。

春でもなく夏でもない曖昧なこの梅雨の季節に、たまたま手に取ったあなたの作品を、何となく読んでいます。「阿房列車」というシリーズがありますね。昭和25年、61歳のあなたは思い立って、列車の旅に出ます。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」。目的地のない、ただ列車に乗るだけの旅を、その後あなたは数年の間繰り返し、一連の作品が生まれました。

「区間阿房列車」として作品化された2回目の旅が、印象に残りました。若い頃、郷里の岡山と東京を往復する車窓から見て馴染みのある海岸風景を訪ねて、あなたは静岡県の由比で途中下車します。そうして年下の旅の友「ヒマラヤ山系」君と連れ立って海辺を歩き、通り過ぎる東海道線の列車を眺めたりしながら、昔の思い出を語るのです。

「何十年も過ぎた思い出が、満ちた潮の波をかぶって、今日の事の様に新鮮である」。この辺り、あなたには珍しく感傷的な文章が続いていますね。自分のことを語ったりせず、その時五感で見聞きしたことだけを信じて記述する、というあなたの姿勢が、ここではいくぶん揺らいでいるようです。

あなたがただの偏屈オヤジではないことを、私は知っています。21歳で漱石門下に入り、23歳で大恋愛の末に故郷の友の妹と結婚し、30代で親友芥川龍之介に先立たれ、ずっと借金に苦しみ、またそれが原因で家族と別居して別の女性と暮らすようになり・・・すみません。失礼なことを書きたててしまいました。でもあなたの人生の軌跡をたどってみると、私には何となく見えてきたのです。親しい存在との別れというものが、作家としてのあなたの生き方に、いかに大きな位置を占めていたかということを。

有名な「ノラや」という作品を、私は誤解していました。猫好きの作家の軽いエッセイ。読んでみて、そんなイメージを何となく抱いていた自分が恥ずかしくなりました。育てた猫がある日突然帰って来なくなる。あなたは狼狽してしまって、仕事も手に付かない。あらゆる手を尽くして捜し回ります。新聞に何度も広告を出し、ラジオにまで出演して、情報を求める。「お願いします。ノラを見つけてください」。そうして情報が寄せられるたびに確かめに行き、失望するのです。夜中に物音がしてもノラかと思う。夢に見たノラが今日は帰ってくる気がする。68歳のあなたが、毎日そうやって泣き暮らす日々を綴ったこの作品を読んで、私は胸が締め付けられる思いがしました。

触れたらそのまま形を変えてしまいそうな、心の軟らかな部分。「区間阿房列車」の由比のくだりを読むと、あなたの中にあるそんな部分が、念入りに構築された文体の隙間から、垣間見えるような気がしたのです。

じつは先日、その由比に行ってきました。昭和26年当時あなたが「命なりけり由比の浜風」と詠み昔日をしのんだ磯の浜辺はすでになく、それどころか、海岸線は国道1号と東名高速によって固められ、歩行者は海辺に出ることさえできないのでした。駅前の商店街にはひと気がなく、狭い道にもどんどん入ってくる車が煩わしい。地方の国道沿いの町のそういう風景はまあ、ある程度予想はしていましたが、漁港までが、2本の道路の内側の、入り江のようになった場所に忘れられたようにあるのを見ると、さすがに少し切なくなりました。でも名産の桜えびだけは、変わらず取れるようで、1時間歩き回って見つけた旧道沿いの店で食べたかき揚げは、さすがに美味でした。

ほうぼう旅をしていると、どこもこういう風景ばかりで、なんだか世の中つまらなくなるばかりのような気もして、ついつい「昔はよかった」などと言いたくなったりもします。あなたが旅していたころはどうだったのでしょう。

考えてみると、あなたの旅した時代、「目的がない」ということはかなり大変なことだったのではないでしょうか。昭和20年代といえば戦後復興期、みんなが前を向いて進もうとしている時期ですよね。そんな中でひとり生産性のない旅を続け、無目的という姿勢を貫く。「阿房列車」の旅というのは、当時の時代状況からすれば、相当な反社会的行為だったように私には思えます。

時代にあえて逆らうことで、自分の立ち位置を少しずらしてみる。そうしてそこから再び、この世界を眺めてみる。あなたはそういう仕方で、戦後社会のあくせくと生き急ぐ人々や世間の姿を浮き彫りにしたのではないか、と思うのです。察するに、あなたに見えていたこの世界の姿はたぶん、とりたてて美しくもなく醜くもなかった。でもそんな曖昧なものを、曖昧なままに描き切ることができる作家というのはなかなかいないと思います。

「美しい」「醜い」「つまらない」「面白い」・・・そういう言い方でなく、この世界を表現することがつまり、作家の仕事なのだと、あなたの作品を読んで感じました。

「阿房列車」の車窓からあなたが見た風景を私は見ることはできないけれど、私は私の車窓風景を、あなたがかつてしたように見つめていけたら、と思います。まだまだ修業が足りませんなあ。
posted by Dandelion at 02:39| Comment(0) | 中部地方の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする