2017年10月29日

草津温泉、もう一つの歴史 〜重監房資料館を訪ねて

草津温泉で有名な群馬県草津町には、国立のハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」がある。標高約1100メートル、総面積約73万平方メートル。尾根を切り開いた広大な敷地に居住棟や診療施設などが建ち並び、今も約80人の元患者が暮らす。1932年創設のこの療養所には、戦前から戦後にかけて「重監房」という建物があった。反抗的とされた入所者が監禁され、23人が死に追い込まれたという、全国で唯一の懲罰施設。療養所の広大な敷地の一角に建つ「重監房資料館」では、その重監房の一部を実物大で復元し、医療の名の下に国家が行った人権侵害の実態を伝えている。

温泉街中心部のバスターミナルから歩くこと約40分。国道から静かな林道に入り、しばらく歩いた先に、その資料館はあった。レンガ風の壁の、こぎれいな建物。あたりに人の姿はない。開いているのだろうか・・・私はいささかの不安を覚えた。そもそもここは療養所の敷地なのだ。勝手に入ってきて良かったのだろうか。

入り口から中をうかがう。事務室の奥に、座っている人がいる。「見学したいんですが」と告げると、初老の男性が出てきた。入館無料とのこと。受付で名前を書くと、男性は「こちらへどうぞ」と先に立って歩き出す。案内されたのは、学校の視聴覚室のような部屋だった。「まずこれを見てから、展示を自由にご覧ください」。そう言うと男性は明かりを消し、扉を閉めて行ってしまった。

資料館ができたのは2014年4月。らい予防法廃止(1996年)と、国の強制隔離政策の責任を認めた国家賠償請求訴訟熊本地裁判決(2001年)の後、重監房の復元を求める元患者らの要求を受けて、厚生労働省が開設した。1938年に設置された「重監房」には、全国の療養所から反抗的とされた入所者らが送り込まれ、暖房もなく食事もろくに与えられない過酷な環境に置かれた。47年に廃止されるまでの間に延べ93人の患者が収監され、うち23人が亡くなったとされるが、十分な調査もされないまま取り壊されたため、詳細な事実は未だ定かではない。2013年には、基礎部分だけ残る重監房の発掘調査が行われ、資料館にはそこで出土した南京錠や食器、眼鏡なども展示されている。

その部屋で見たのは、15分ほどの啓発番組だった。ハンセン病の概要や強制隔離の歴史、重監房ができた経緯などが関係者の証言を交えてまとめられていた。国の政策が誤りだったという視点から番組は作られ、私はこの問題に対する国の姿勢というものを明確に感じ取ることができた。

教室を出ると、館内はやはりひっそりしている。私は順路に沿って、第1展示室に向かった。収監者の記録を紹介するパネルには、氏名、収監時期や理由、死亡者はその年月日などが記されていた。収監理由は「無断外出」「飲酒喧嘩」「浮浪」「逃走癖」「本妙寺部落役員」「園内不穏分子」など、さまざま。収監は療養所長の権限だったということだが、それがいかに恣意的に行使されていたかが分かる。氏名の一部は「□山□男」というように伏せ字になっていて、「収監者の尊厳を守るため」という断り書きがあった。負の歴史を伝えるための展示が、なぜ匿名なのか。私には解せなかった。国の事業の限界だろうか。

展示室の奥には、重監房の一部が実物大で復元されていた。灰色のコンクリートの壁に、分厚い扉の入り口には「特別病室」の表札が掲げられている。内部の通路と独房はやはり壁で仕切られ、中に入ると建物の全容は分からない。記録によれば、独房は全部で八つ。医務室もあったが、医療が行われた形跡はないという。通路から身をかがめて、壁のくぐり戸を抜ける。そこが独房の区画だった。

4畳半ほどの板敷きの独房。覗き込むと、薄い布団が敷かれ、人形が座っている。入所者の証言によれば、冬は氷点下20度近くにもなり、積雪も深かったが、暖房も電気もなかったという。明かりといえば、壁の上部に開いた縦約10センチ、横約70センチの穴から差し込む光だけ。床と壁の間には、小さな食事の差し入れ口がある。食事は1日2回で、わずかな麦飯と梅干し、具のないみそ汁といった程度。2ヵ月と定められた期間を超えて収監された人も多く、記録によれば14人が「獄死」、8人が病気のため「出獄」後1年以内に死亡したという。

続いて、第2展示室へ。強制隔離と療養所の歴史をまとめたパネルとともに、4年前の発掘調査で出土した南京錠、眼鏡、椀などが並んでいた。丸い縁の眼鏡は、片方の柄が折れている。ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長で、栗生楽泉園の自治会副会長でもあった詩人の谺(こだま)雄二さんは、重監房を「日本のアウシュビッツ」と呼んだ。国家が法の名の下に個人の存在を否定し、抹消する。それは世界史の中の事実ではなく、自分がその一員である、この日本という国が積極的に推し進めた政策でもあったのだ。

重監房は1947年8月、参院選補欠選挙の活動で日本共産党員が栗生楽泉園を訪れたことをきっかけに、その存在が明るみに出る。入所者自治会が重監房撤廃と職員の不正を訴え、それを新聞が報道、国会は議員調査団を楽泉園に派遣した。そしてその数ヵ月後、重監房は廃止、一部の職員が休職や懲戒免職になった。

第2展示室では、その議員調査団の視察を伝えるニュース映像を見ることができる。「日本ニュース 戦後編第91号 『楽泉園の実状 群馬』」というタイトルのモノクロ映像には、重監房の外観や独房内部の様子が映っている。これが重監房の姿を知ることができる唯一の記録ということだ。

議員調査団訪問の6年後、重監房は突然取り壊される。入所者には何も知らされなかったという。それが戦後の話、「基本的人権」をうたう日本国憲法が施行された後の出来事であることに、私は愕然とする。戦争が終わっても、隔離政策を定めた法の規定は残った。そして、重監房の建物やその公的記録は残らなかった。議員調査団の「調査」とは一体、何だったのか。釈然としない思いは消えなかった。

ところで、その重監房はどこにあったのだろう。事務室で尋ねると、さきほどの初老の男性がA4版1枚のマップをくれた。重監房の遺構は療養所西端の正門の近くにあり、そこまで敷地の中を歩いて行けるという。療養所の東端にある資料館から敷地の外周に沿う形で見学コースが設けられていて、一般の人が園内の史跡を見学しながらたどれる、ということだ。私はマップを手に、そのコースを歩いてみることにした。

まず、資料館の隣の納骨堂を見学する。東屋に箱入りの線香が置いてあり、1本取ってお供えする。資料によれば、2006年までにこの療養所で亡くなった入所者は2003人。うち納骨堂に納められている遺骨は1192柱。納められていない遺骨のうち遺族に引き取られたものはごくわずかで、多くは納骨堂が建てられる前に誰のものか分からなくなってしまったという。病気というだけで家族や社会との縁を切られた入所者たち。亡くなっても、その縁が戻ることはなかったのだ。

案内板に従って、先へ進む。居住区域は立ち入り禁止ということだが、道のすぐ脇には赤い屋根の長屋が並んでいる。窓も庭も丸見えで、庭の手入れをしているお年寄りらしき人の姿もあった。マップには「入所者に話しかけないでください」と書いてある。こんなところをほんとに歩いていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。私は少し気後れしながら、居住区域の方を見ないようにして先を急いだ。

道は林の中に入る。午後3時すぎだが、日は傾き、風は冷たい。上ったり下ったり、起伏が激しくなる。木々の中に、火葬場跡の供養碑があった。1964年まで、ここで入所者の火葬が入所者の手で行われていたという。さらに進むと、宗教団体の施設が続く。天理教会堂、日蓮宗妙法会、浄土真宗大谷光明寮、創価学会の会館。死んでも社会には戻れない。そんな絶望的な不条理を、宗教は入所者に対して、どのように説明したのだろう。

「松の湯」という共同浴場の建物があった。案内板の説明によると、療養所で温泉が引いてあるのは全国でも栗生楽泉園だけという。温泉は開所時に引かれ、今も7ヵ所の共同浴場がある。この松の湯は入所者減少のため3年前に閉鎖された、とのこと。1945年度に1313人いた入所者は、2016年度には79人。歴史を知る人が年々減っていく。

見学コースのほぼ中間点にある社会交流会館には、草津温泉にかつてあった湯之沢集落についての展示があった。湯之沢は、世界的にも珍しいとされるハンセン病患者の自治区。湯之沢の存在は、栗生楽泉園の沿革に深く関わる。なぜ草津のような有名な温泉地に、ハンセン病療養所があるのか。ここに来る前から漠然とあった疑問が、徐々に解けていく。私は夢中になってパネルの年表を読み続けた。

・・・明治時代初め、草津温泉はハンセン病に効能があるとされ、多くの患者が湯治に訪れた。明治中期になると、温泉を近代的な保養地として発展させようという動きが地元に強まり、患者たちは当時温泉地の外れにあった湯之沢という荒地への移転を命じられる。患者たちは反発したが、一般客に気兼ねなく療養できる居住地の建設に希望を見出して定住する人も増え、やがて湯之沢には患者やその家族らが営む旅館や商店が建ち並ぶようになった。1902年、湯之沢は草津町の行政区の一つとなる。区長が置かれ、消防や青年団などの組織もでき、町会議員も選出された。定住者の職業は、飲食業や呉服屋、鍛冶屋、大工、左官など多岐にわたったという。1916年、イギリス聖公会の宣教師として来日したコンウォール・リー女史が湯之沢に移住し、患者の救済活動を始める。教会や病院、幼稚園、小学校、患者が暮らすホームなどができ、湯之沢はハンセン病者の自由の別天地として発展していく・・・

そんな湯之沢の歴史にとって、転換点となったのが1931年。「癩(らい)予防法」の成立だ。公衆衛生の観点からすべてのハンセン病患者を強制隔離することを定めたこの法律に基づき、国は患者の収容先として各地に療養所を開設する。その一つである栗生楽泉園の目的は、湯之沢地区の解体と住民の受け入れだった。つまり、湯之沢という集落があったからこそ、草津に療養所がつくられた。そういうことだったのだ。

興味深いのは、湯之沢の人たちの療養所への移転が必ずしも強権的に行われたわけではないことだ。移転を迫る群馬県に対し、住民は少しでも有利な補償を得るために条件闘争をした。年表の説明から解釈する限りでは、県は警察による強制力を発動していない。住民側は代表を立てて行政と対等に交渉を重ねた、というふうに読める。事実だとすると、それはおそらく、湯之沢が正式な行政区だったからだろう。戦前の大日本帝国憲法の下、この山間部の温泉地に、住民自治が機能していた、というのは言い過ぎだろうか。

・・・1941年、湯之沢の住民はついに療養所への移転を受け入れ、群馬県知事と移転に関する覚書を交わす。県は移転命令を発し、湯之沢区は解散。翌年末までに湯之沢のすべての患者の移転が完了し、国内唯一のハンセン病者自治区は55年にわたる歴史の幕を閉じることになった・・・

国家によるハンセン病患者の強制隔離。思えば、私はその歴史的経緯について、何一つ知らなかった。隔離政策の以前、患者たちがどのように暮らしていたのか。草津の温泉街には、患者たちの自治が認められた地区があった。そしてその患者たちが団結して、権力と対峙した。ここで知った歴史には、「差別」という言葉で一括りにできない奥深さがあるように思える。歴史をイメージで捉えるだけで、何も見ず、疑問も持たず、知ろうともしない。それもまた、一つの偏見なのではないか。

資料館でもらった冊子には、社会交流会館に最近配属されたという常勤の学芸員が写真入りで紹介されている。話を聞いてみようと思ったが、会館の事務室にいる男性は別人のようだった。閉館時間も迫っていて、今日のところはこのまま帰るしかなさそうだった。

建物を出ると夕日が眩しかった。マップによると、ここからさらに南側には下地区というエリアがあるが、そこに向かう道は立ち入り禁止になっている。「自由地区」とも呼ばれる下地区は、戸建て住宅が並ぶ居住区。湯之沢集落には資産を持つ患者もいて、国は入所の際に自費で家を建てて健康な介添人(家族など)と一緒に暮らすことを認めたという。このような自由地区は、他の国立療養所には例がないといい、おそらく湯之沢の人たちが勝ち取った条件の一つなのだろう。正確なところは調べないと分からないが。

敷地の西の端に沿って歩く。舗装路だが、ずっと上り坂だ。病棟や事務本館がある。大学のキャンパスのようだ。時折、車が通るが、相変わらず歩いている人とは出会わない。15分ほどで正門への上り道に出る。その途中に、案内板が立っていた。林の中のぬかるんだ道に入る。50メートルほど先に、「重監房跡」と記された石の記念碑があった。

東西約23.6メートル、南北約15.5メートル。林の中にぽっかり空いた敷地は、柵で囲われている。桝目のようなコンクリートの基礎が残る遺構は、きれいに整地されていた。少し上がった「展望所」から全景を見渡す。高さ10メートルを超す木々の枝葉は鬱蒼として、薄暗い。目の前の景色に、資料館に再現されていた建物を重ね合わせてみる。うまくイメージすることができない。もどかしい。

私は東日本大震災の被災地で見た景色を思い出す。津波で流された建物の基礎だけが残る街。悲惨な景色であることは分かっていても、心の底から悲しみは湧いてこない。私は、建物があった街の姿を知らなかった。だから、失われたものがどれだけ膨大なのか、本当のところ実感できなかった。あの時のもどかしさに似ていると思った。

病気を罪とみなし、患者を社会から追放する。隔離し、なかったことにする。医療従事者が、患者に懲罰を与える。それは常軌を逸した蛮行ではなく、法に基づく行政の手続きだった。そしてその法は、ほんの20年前まで存続していた。なぜそんなことが許されたのか。患者と一部の人以外は、なぜそれが間違っていると声を上げなかったのか。

それは要するに、事実を知らなかったからだ、と私は思う。あるいはうすうす知っていながら、その事実に触れようとしなかった。知らないことは、ないことも同じ。触れようとしないことは、変わらない。現実に目を背け、ただ無関心に、絶対悪を許容してきた。隔離されていたのは、患者だけではない。一般社会の側もまた現実から隔離されていたのだ。

温泉街への帰り道もまた、上り坂である。たった4キロ、されど4キロ。入所者にとって、故郷ともいえる湯之沢までのその距離は、どんな意味を持ったのだろう。国により、なかったことにされてしまったハンセン病患者の日常。そこには実は、悲惨さや不条理だけでは語れない、多様で豊かな人々の営みが息づいていた。悲しみとともにあったはずの喜び、絶望とともにあったはずの希望。イメージにとらわれずに理解するには、何が必要なのか。今日一日見聞きしたことを思い浮かべながら、私は薄暮の道を歩き続けた。



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2015年08月31日

宮田村の心意気

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宮田と書いて「みやだ」と読む。長野県南部、伊那市の南隣にある人口約9000人の村である。そこで30日に開かれた自転車ロードレース「第7回JBCFみやだクリテリウム」を観戦した。国内では数少ない公道を走るレース。伊那在住時に見たい見たいと思いながら果たせずにいた。

雨と風がやまない悪条件の下、歯を食いしばって激走する選手たち。長い直線の向こうから集団で走ってきて、目の前を風のように駆け抜ける様子は、さすがの迫力である。

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レースの合間に、大会本部近くで旧知の村職員を発見。声を掛けると、「よく来たな」とパンフレットやら温泉施設の割引券やらを持ってきてくれた。聞けば、今年は数年ぶりに再開したヒルクライムレースが前日に行われたこともあり、週末は早朝から夜まで会場で業務とのこと。公道レース開催の大変さ、地元自治体の苦労については以前から話を聞いていた。表には出てこないけれど、レースを支えているのは地元なのだ。あらためて、「お疲れ様です」と頭を下げた。

レースは2009年に初開催。国内各地で行われる実業団選手のツアー大会の一環と位置づけられ、村は共催者として運営に携わってきた。当初は市街地を周回するクリテリウムと宮田高原までの林道を上るヒルクライムの2日間開催だったが、2011年に林道が土砂崩れで不通になり、それ以来ヒルクライムは中断していた。今年再開するにあたって、行政としては、道路状況の点検や通行規制、観戦方法など、相当な準備に追われたという。

レースの後、そのヒルクライムのコースになった林道を自転車で上ってみた。標高1650mの宮田高原にはキャンプ場があり、林道はキャンプ場が開く夏の3ヵ月だけ通行できる。その昔、牧場やスキー場もあったという高原からは、天竜川沿いに広がる伊那谷と南アルプスの山並みが一望できるという。「いいところだよ」と聞かされていたが、行く機会を逃していて、それが心残りだったのである。

約11kmの林道は高低差約1000mで、平均勾配8.5%。ヒルクライムコースとしての難易度はけっこう高い。上り始めのつづら折りは12%くらいはあろうか。雨も絶え間なく、苦しい道のりである。標高が上がるに連れて道には霧が立ち込め、気温が下がっていくのを体感する。ところどころ開けた場所には「ビューポイント ちょっとひと息 宮田村」という真新しい木の案内板があり、車も人も通らない孤独な道中で心がなごむ。下界は白い雲に覆われて何も見えなかったが、「ここに来てもらいたい」という村の人たちの思いと心配りが感じられて、ペダルが軽くなる気がした。

1時間5分かけて、宮田高原に到着。霧の中にキャンプ場はひっそりと、人影はなく、景色も見えない。それでも念願達成である。これで心残りを解消できた。上から下までびしょ濡れだが、爽快な気持ちで山を下りた。

下山後、割引券をもらった温泉施設「こまゆき荘」へ。駒ヶ岳ロープウェイにも近い大田切川沿いにあり、宮田村いちおしのスポットである。冷えた体に温もりがしみわたると、かつてこの土地で過ごした日々のいろんな場面が思い出された。

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2014年11月28日

富嶽百景2014秋

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会社の後輩女子の結婚披露宴に招待され、富士山の麓、山梨県富士河口湖町に行ってきた。

伊那市に勤務していた数年前に知り合った新郎と新婦。今では2人とも転勤になったが、新郎の地元で開かれた祝宴には両家の親族や友人知人のほか、伊那時代の仕事仲間も集まり、再会を喜び合った。

紅葉の河口湖畔のホテルから見る富士は大きく、力強い。100人ほどが出席した披露宴は、歌あり踊りありの賑やかさ。20〜30代の友人たちも、年配の親族たちも、1人1人が本気で祝福しようとする気持ちを素直に表していて、会場を包み込む温かさはそのまま、新郎新婦の人柄を反映しているように感じられた。

1泊して、車で帰る途中に寄ったのが、太宰治ゆかりの御坂峠。太宰が滞在した天下茶屋は、今も峠の茶屋として営業している。2階の部屋には太宰が使った机が置いてあり、写真や手稿を展示していた。

昭和13年の秋から冬にかけて天下茶屋で過ごした太宰は、その間に執筆に取り組み、茶屋のおかみや娘さんと交流し、師の井伏鱒二の紹介で甲府の人と見合いをした。「この風景と向き合いながら、太宰も結婚のことなど考えていたのか」。峠から見る富士は、なるほど、あくまで景色の真ん中に、末広がりの山容を現している。「風呂屋のペンキ画」という表現もなかなかいいものだと思いながら、名物のいも団子と甘酒を味わった。
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2012年09月18日

都バスは飛ばす

久々に上京しようと思い、渋谷の映画館の伊丹十三特集に行こうか、それともいっそ千葉に足をのばしてマリン球場でアメフトのXリーグを観戦するのもいいな、などとあれこれ前夜に考えた挙句、昼まで寝てしまい、それでもせっかく考えたのだから行かないともったいない気がして出発したものの、新宿に着いたら午後5時半になってしまった。

とりあえず上野駅構内のアンデルセンで長時間発酵ブレッド2斤を買い、上野公園でもぶらつこうと駅を出たらもう街は夜の風景だった。ああもう秋なのだなと思う。

真っ暗な不忍池のほとりを歩く。ホームレスの高齢者が佇む隣のベンチで、若いカップルが愛をささやいている。そんな光景にやや緊張感を覚えつつ歩を進めていると、なにやら対岸の方がやけに騒がしい。風に乗って届いてくる不特定多数の歓声に耳を澄ますと、聞き覚えのあるメロディが。あ、これはレキシの「狩りから稲作へ」ではないか。

野外ステージ入口の看板には「ドリフターズ・トリビュートライブ」とあった。昼間からずっとやっているらしく、出演リストには何組かの名前があったが、知っているのは序盤のボカスカジャンと最後のレキシくらいだった。看板には何のトリビュートなのか書いてなくて気になったが、蒸し暑くて面倒くさいので確かめるのはやめた。

午後6時半。いかにも中途半端な時間だ。さてこれからどうしようと喫煙所でタバコをふかしていたら、目の前のバス停に目がとまった。行き先は「大塚駅」とある。路線バスか。そういえば都内の移動はもっぱら地下鉄で、ほとんどバスに乗ったことがない。バスを使いこなしてこそ一流の旅人というもの。なるほどいいかもしれない。

うまい具合に10分後に大塚駅行きのバスが来たので、さっそく乗り込む。始発なので空いている。車窓を流れていく大通りのネオンやら人混みやらを眺めるのはなかなか楽しい。それはそうとこのバス、かなりの勢いで走るので若干冷や冷やする。赤になっても歩いている若い女にクラクションを浴びせかけ、車体を傾けながら右折していく。遅れ気味なのか運転士の性分なのか。

車両の加速性能も相当のものだ。変速後にアクセルを踏み込む度に、状態が背もたれに押し付けられるのが気持ちいい。本気で走れば0→400メートル10秒前半で走れそうな感じだ。

そうか東大の方を回るのか、などとひそかに心をときめかせているうちに、春日駅でほとんどの客が降り、車内は閑散と静まり返った。その後はうつらうつらとしてしまい、気がつくと終点の大塚駅。上野公園から30分ほどで着いたのだが、距離的に近いのか遠いのか、電車と比べて速いのか遅いのか、よく分からなかった。

大塚駅前に都電の駅があるのは知っていたが、歩くのは初めてかもしれない。めったにない機会なので、都電に乗ることにする。目的地を鬼子母神前に決めてから乗り込む。

ローカルな車内広告に思わず見入ってしまう。「全国仲人連合会」は池袋サンシャイン60の45階にオフィスがあるらしい。「あなたの結婚活動(婚活)は私にお任せ下さい」という言葉の傍らに、豊島東池袋支部長の某というおじさんの頼もしげな表情を浮かべた顔写真が添えられている。サンシャインにオフィスを構えるのが全国組織の本部なのか、地域の支部なのか、広告をいくら見ても結局分からず気になったが、それ以上確かめる術もないので疑問はそのままにしておいた。「結婚活動(婚活)」という言葉についても、「就職活動(就活)」との並置して何やら説明してあったが、字が小さくて読むのに骨が折れそうで、しかも一読した限りでは理解できそうもない文章だと直感的に分かったので、そういう独りよがりな理屈は放っておくことにしたが、そういえば戦争直後に書かれた小説で「就職運動」という言葉が使われていたなあと昔の読書の記憶がふとよみがえり、あれは誰の何という小説だったかとしばらく考えたけれど、結局思い出せなかった。

鬼子母神前の駅で降りる。70年代に放送された「水もれ甲介」という連続ドラマで石立鉄男の妹役の村地弘美(チャミー=高校生)がここのホームに立っている姿が印象的だったが、さすがにあの当時の面影はあまり感じられなかった。夜だからかもしれない。

鬼子母神の方に行くうちに街灯もまばらになり、細い道に迷いこんだりして少し心細くなったが、池袋の駅はこの方向で間違いないとさっき確認したので大丈夫、と自分の感覚を信じることにして、道があらぬ方向に曲がっても、かまわず歩く。意外なところに東京音大があったり、墓地の横の小道を風が吹き抜けて漱石の「野分」の風景を思い出したりしながら、15分も歩くと見覚えのある東口の風景に突き当たった。

午後8時、池袋駅東口に到着。繁華街のネオンが懐かしく思える。大仰に言えば、砂漠を通り抜けてオアシスにたどり着いた旅人の気分。今日のうちに長野に帰らなければいけないという事情もあり、実は内心冷や冷やしていたので、これでほっと一安心、というわけなのだった。
posted by Dandelion at 03:18| 長野 ☀| Comment(0) | 関東・甲信越の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月04日

安中榛名で恐縮です

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 長野新幹線ユーザーにとって、安中榛名は気になる駅だ。群馬と長野の県境あたり、トンネルとトンネルの間に唐突な感じで現れる対面式ホーム。壁に阻まれて、車窓からは駅前の様子を見ることができない。停車する列車は1日に上下各12本ずつ。見る限り乗降客は多くはないけれど、ゼロというわけでもない。接続路線もない山間の駅。彼らはどこから来て、どこに行くのか。そもそも駅が位置するのは安中なのか榛名なのか。積年の疑問を晴らす日が来た。

 夕方の安中榛名駅は、草の匂いがした。上りのあさまが行ってしまうと、ホームは何事もなかったように、しんと静まり返った。列車を待つ人はいない。一緒に下りたはずの4、5人の姿はもう見えない。がらんとした構内に虫の声だけが低く響いている。

 階段を下りた先の改札を抜けて、駅前広場に出る。幸いなことに雨は降っていないが、やはり肌寒い。振り返ると、駅の構造が見て取れた。ホームの両端、目と鼻の先にトンネルの入り口があり、わずかな谷間にはりつくように駅がつくられているのがわかる。背後に迫る山は上の方が白く霞んで、稜線が見えなかった。
 
 観光案内の看板によれば、ここは安中市らしい。8キロほど下ったところに信越線が通っていて、その沿線に「舌切り雀のお宿」で有名な磯部温泉がある。歩いて行けないこともなさそうだ。
 詳しい地図でもないかと駅構内に戻る。「峠の釜めし」の看板を掲げた立ち食いそば屋があったが、すでに営業を終えているらしかった。午後6時20分だから閉まっていてもおかしくはないが、少しさびしい。

 釜めし、久しく食べてないなあと残念に思いながら、未練がましく看板を眺めていると、店の傍らに明かりがついているのに気がついた。よく見ると、観光案内所である。誰かいるみたいだ。

 行ってみると、カウンターを挟んで2人の男性が座っていた。料理人のような白い上着を着た年配のおやじさんと、30代前半くらいの恰幅のいい兄さん。知り合い同士といった態で、くつろいで話をしている。声を掛けると、どちらともなくいらっしゃいとにこやかな応対を受けた。兄さんの方が「さあさあ」と言って椅子を勧めてくれた。

 「磯部ね。遠いよ、歩って行けねえことねえけど」
奥の棚から「美しき郷、安中」という観光マップを探し出して渡してくれながら、おやじさんが言った。白髪の角刈りでキップがいい。どことなく噺家を思わせるたたずまいだ。あえて言うなら八代目林家正蔵改メ彦六。べらんめえ調に、そこはかとなく癒し系の穏やかさが漂っている。
  
 「バスがあるんだけど、えーと、バス何時だっけ、おじさん」と言いながら、自分で運行表を見ていた兄さんが、あー、次は7時半だと諦めたように言った。「10キロ、いやそれ以上はあるな」と言われて迷うが、このまま新幹線に乗るのも惜しい気がして、とりあえず行ってみますと答える。

 長野から来たと言うと、「それじゃあわかると思うけど、善光寺から須坂くらいの距離はあるね」と兄さんが興味深い喩え方をするので聞いてみると、信大の教育学部卒だという。地元は高崎で、仕事は東京のはとバスの運転手。今日は休みで、同級生の父親である彦六師匠を訪ねて来たということだった。

 「昔の人は歩ったんだから、行けねえことね。若い人の足なら1時間半ってとこだな」。師匠は止めなかった。マップではわかりにくいからと、地図を書いてくれる。この一帯はもともと山で、何もなかった。新幹線開業とともに駅前に住宅地が造られた。駅があるのは安中市で、裏側の山を越えた先が高崎市榛名。駅前こそ新興住宅地になっているけれど、その向こうはやはり山で、ゴルフ場などもある。磯部にしろ安中にしろ、町に出るには峠道を越えなければいけないらしい。
  
 「ここから磯部まで歩って行く人は見たことないなあ」
心配そうな兄さんの表情に見送られて、なんだか申し訳なくなりながらも、「アルッテ」という言葉の響きの面白さに心ひかれてしまう。ああそういえばあいつもこういう言い方をしていたなあと、今はもうほとんど会うこともなくなってしまった学生時代の友人たちの顔が次々と浮かんできたりする。自分の周りにはなぜか群馬県出身者が多かった。朴訥で多くは語らないけれど自分の世界をしっかり持っている。そういう奴らだった。

 駅前広場の向こうは下り坂になっていて、新しい住宅ばかりの街が広がっていた。すれ違ったのは犬の散歩をするおじさん1人だけ。ここは首都圏のベッドタウンなのだ。夜になれば新幹線でお父さんたちが帰ってくるのだろう。それにしても、店といえば駅前のデイリーストア1軒だけ。ここの住民は買い物とかどうするのだろう。やはり車でどこかの国道沿いまで出かけていくのだろうか。

 信号や交差点、ゴルフ場やコンビニといったランドマークまで詳細に書き込んでくれた師匠の地図を頼りに、ひたすら坂を下って行く。20分ほど歩いたところで県道を渡ると、道は峠に向かって上り始めた。

 ここまで来ると、昔ながらの街道の風情だ。点在する古い民家と水田。数種のカエルが競うように鳴いて、梅雨の日暮れ時を演出する。降り出すのは時間の問題に思えるが、まあ何とかなるだろう。傘は持ってきている。
 
 上るにつれて、沿道の茂みが迫り、空が狭くなる。午後7時20分。街灯はない。夜の帳とはこういうものだと実感しながら、ずんずん歩く。とにかく歩く。30秒に1台くらい車は通るので、それほど不安は感じなかった。

 間もなく下りに入る。たいしたことのない峠だ。自転車ならシッティングで上れる。左手にゴルフ場。これか。師匠の言った通りだ。下り切れば、チェックポイントのコンビニがあるはず。明かりはまだか。あとどのくらいか。カエルの合唱が心持ち音量を増したように思えた。

 峠道はなかなか終わらなかった。歩き始めて40分。まだ行程の3分の1も来ていない。たどりつけるのだろうか。道はわかっているのだから、大丈夫なはずだ。知らず知らずのうちに、そんな自問自答を繰り返している自分に気づく。何にしても、先が見えないのはつらいな。そんなことを思いながら、たばこに火をつけたその時だった。傍らを通り過ぎて行った軽自動車がウインカーを点灯させた
かと思うと、10メートルほど先で停まったのである。

 「まだ全然ですよ。ここじゃあ」
車から出てきたのは、あの兄さんだった。責めるでもなく、あきれる風でもない。兄さんは約束通り迎えに来ましたという態で後部座席のドアを開け、「乗せていきますよ」と言った。

 1分ほどで坂を下りるとコンビニがあり、道を渡るとまた上りになった。峠はひとつではなかったのだ。降り出しましたねと言われて外を見ると、路面が濡れて光っていた。「まだまだ遠いですよ。この時間だからね。暗いし危ないから」。確かに、歩いて行けないことはなかっただろう。でも多少無謀ではあったかもしれない。非常識であったことは間違いない。それはまあ、自覚している。

 峠をさらに2つ越えて、旧中山道を渡ったら、すぐに現在の中山道(国道18号)が現れた。ヘッドライトの洪水と大型店のネオンサインが眩しい。乗せてもらって10分も経っていないが、車で10分といえば7〜8キロ。歩けばかなりの距離に違いない。

 碓氷川の橋を渡ると、磯部の市街地だ。「ここが足湯」「あそこが有名な〇〇旅館」というように軽く街の案内などしてくれながら、兄さんは細い道を縫って走る。はとバスに就職する前は、群馬でタクシーを運転していたという。道理で。運転が律儀だし、気配りがきいている。地元は高崎だけど、群馬全域から埼玉くらいまで、だいたいの道はわかりますよ。兄さんの口調には仕事に対する自負がこもっていたが、それがさりげないのが聞いていて気持ちよかった。

 7時45分、磯部駅到着。「はい、どーぞ」と言って、兄さんは車を停めた。申し訳ない。ありがとう。何と言っていいかわからない。「ほんとに、ありがとうございました」。降りた私は、45度のおじぎをしながら、一気に息を吐き出して言った。感謝の気持ちをとにかく最大限に表現して伝えなければと思った。

 高崎行きの電車まで時間があったので、近くの日帰り温泉「恵みの湯」に立ち寄ることにした。新しく広々した浴槽で、冷えた身体を温めながら、短くて長かった今日の旅について考えた。

 あの兄さん、高崎に帰るのにわざわざ遠回りして、様子を見に来てくれたのだ。なのに去り際もちょっと目礼しただけで、やっぱりさりげなかった。偶然行き会った人に対して、当然の義務を果たすように親切を施す。自分には真似できないことだ。ただひたすらに、有難い。

 初めての安中榛名に、そんな出会いが待っていた。

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2011年01月22日

平成23年の初詣

正月に柴又に行こうと突然の
電話で言い出したのは僕の方
そんないかにも無茶な申し出
迷惑がらず付き合ってくれた
Mに僕はただただ感謝したい

どうせおいらはやくざな会社員
わかっちゃいるんだ後輩よ

からりと晴れた週末の門前町
さすがに朝からかなりの人出
映画で見るより小ぢんまり
それはたぶんいろんな出店が
ひしめき合うからそう見える
のではないかと僕ら2人は
そんな話をとりとめもなく
おいしそうな香りに包まれた
参道の石畳を人波かきわけ
かきわけて
ゆるりゆるりと歩いたね

なぜか見慣れて懐かしい
題経寺の瓦葺きの屋根
立派な門の左手から
今にもジーパンにエプロンの
妹さくらが自転車で
走って来そうな気がしたが
それはやっぱり映画の世界
こんなに混雑していては
歩くことさえままならない

門をくぐるとそこは寅さんが
まさに産湯をつかった境内で
低い枝を広く延ばした
緑の松は映画そのまま
帝釈天って何の神様
ご利益は何だっけ
わからないまま何となく
それでもちゃっかりお願いだけは
時間をかけてしっかりと
しておきそのあと本堂で
お寺の人に教えてもらって厄除けと
心願成就のお守りを僕は買い
Mは家族のおみやげに
かわいらしい色のお守りを
やっぱり買ったのだ

人ごみ抜けて江戸川沿い
河川敷に開け放たれた
空にはただの一片の
白い雲さえ見当たらず
そんなのどかな土手の風景
僕らは芝生に腰を下ろし
しばしの間語らった

時間も所も気にせずに
ゼミで侃侃諤諤の
議論を交わし合った
大学時代も今は昔
あれからだいたい10年の
時がいつしか過ぎており
郷里の群馬で農業を
継いだMは立ち上げた
会社の今では若社長
仕事をどう進めるか
社員をどう育てるか
世間知らずの抽象論でなく
土に根差した生活こそが
大事なのではないだろうかと
仕事を始めて思えるのだと
語る中身は違えども
熱く静かな口調はあの頃のまま

広々とした河川敷は
風もなくまさに小春日和
グラウンドでは白い球
追いかけるユニホームの草野球
犬を連れた家族連れ
ジョギングにサイクリング
始まったばかりの休日を
楽しむ人の姿を見ていると
世の中捨てたもんじゃないと
思わず顔がほころんでくる

なんだかんだ言ってみても
みんなきっちり自分の道を
見つけてしっかり歩んでいる
学んだことがどのように
これから役に立つのか立たぬのか
わからないとMは言う
それでもやっぱりあの歳月
かけがえのない数年間だった
それはまぎれもない事実なので
あの時の仲間とここでこうして
また会って語り合っている2人は
ただ懐かしいというだけでない貴重な
じつは何物にも代えがたいほど大事な
ひと時を過ごしているんじゃないかと
僕は思う

土地に根差して生きてゆく
根無し草として生きてゆく
いずれにしろ覚悟がいることだ

どぶに落ちても根のある奴は
いつかははちすの花と咲く

人生のその辺のところ
一度差し向かいでゆっくり
あの人と話してみたかった
もっともあの人にとって
正月は商売の稼ぎ時
柴又にいるわけはないのだけど

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2010年03月02日

巡礼 補遺:『複雑な彼』について

『複雑な彼』は現在、角川文庫から出ています。1966年の1月から7月にかけて、週刊誌『女性セブン』に連載されました。このころ三島は41歳。「盾の会」設立のための資金を得るために、破格の原稿料の依頼を受け、初めて書いた連載小説だということです。この小説の主人公は宮城譲二という航空会社のパーサーなのですが、これにはモデルになった人物がいて、それがなんとあの、安部譲二。巻末の解説で、安部自身がこの作品が書かれた経緯を説明しています。

それによると、「安部譲二」というペンネームは、この作品にあやかって付けたものなのだそうです。18歳のころ銀座のゲイバーで用心棒をやっていたという安部。その店の常連だったのが三島で、そういう縁で2人の交流が始まったといいます。実際に安部は20代後半で、渡世人の身でありながら航空会社にもぐりこみ、パーサーとして働いたらしい。おそらく三島はそういう安部の生き方に興味を持ち、そこから着想を得て小説を書こうと思い立ったのでしょう。

考えてみれば、三島の小説には実在の人物や事件に取材したものが多い。文壇の枠にとらわれず、各方面に顔を出し、さまざまな世界の人と交流する。あくまで外向きの三島の「作家活動」は、実際にいろんな作品に生かされていたのです。

そういう意味では、この『複雑な彼』もやはり、作風こそ異質であれ、いかにも三島的な作品だといえます。モデルの安部譲二自身が解説のなかで、この作品には三島らしいタッチがない、と書いているのが面白い。

たとえば美輪明宏などもそうですが、いろんな人がテレビなどで事あるごとに「三島は云々」と懐かしげに語る場面をよく目にします。そんなとき、私は思うのです。三島由紀夫というのは、よっぽど人間的魅力にあふれた人だったのでしょう。と同時に、あの50年代から60年代という時代の空気感を体現する人物として、三島は、ある世代の人々の記憶のなかにいつまでも存在し続けているのだなあ、と。

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2010年03月01日

巡礼

NEC_0335.jpg山中湖畔の三島由紀夫文学館に来ています。

静かなところです。丘の上に広がる針葉樹の木立に中に、瀟洒な造りの建物がひっそりと建っています。この一帯は公園になっていて、「山中湖文学の森」というそうです。

500円の入館料を払うと、同じチケットで隣の「徳富蘇峰館」に入ることもできます。徳富蘇峰は山中湖ゆかりの人で、生前この辺りに別荘を構え、「旭日丘(あさひがおか)」という地名の名付け親でもあるとのことですが、三島の方はこの土地に関して特にそういう縁があるわけではないそうです。ただ小説の舞台として山中湖がしばしば使われていて、詳しい経緯は不明ですが、遺族の意向でここに文学館を構えることになったという説明がありました。

朝方、雪が降るほど寒かったということもあるのでしょうか。日曜の午後だというのに、人の気配がありません。訪問者は私ひとり。展示室は1階だけですが、主要作品ごとに直筆の原稿や創作ノート、写真パネルが数多く並べられ、内容は充実しています。奥の方には三島の書斎を再現したセットがあり、書棚の本をみると、東西の古典の全集がずらりと並んでいるのが印象的でした。映写室では作家の軌跡をたどるドキュメンタリーが放映されており、これが何と54分もある立派な作品で、思わず最初から最後まで見入ってしまいました。

それにしても、だれも入って来ません。結果、2時間にわたって、私はこの贅沢な空間を独占することになってしまいました。誰に気兼ねすることもなく原稿や創作ノートを仔細に見ていて気がついたのは、三島がじつに丁寧な字を書く人だったということです。毛筆を意識しているのでしょうか。はねやはらいもきっちり、最後までおろそかにしていません。字がそれを書く人の性格を表すのだとすれば、三島という人はやはり、かなり几帳面な人だったということになるのでしょう。

これまで読んだ三島の作品で特に印象に残っているのは、『複雑な彼』という小説です。これは、ある意味で衝撃的な作品でした。なぜこれほどまでに、つまらないのだろう。読んだ時、まずそう思いました。これが本当に、あの三島由紀夫の作品なのか。私にとって三島とは、普遍の美を目指す作家でした。その三島が、これほどまでに通俗的な小説を書き、発表していた。その事実が、私には信じられないことのように思えました。

でもその後、三島の作家活動を追っていくうちに、少しずつわかってきたのです。あれもこれも、すべてひっくるめて、「三島由紀夫」なのだと。『豊饒の海』4部作を書く一方で、雑誌に通俗的な小説を発表する。戯曲も書けば映画にも出る。体も鍛えるし、戦闘機にも乗る。大学に赴いて学生と議論もする。八面六臂の活躍は、脈絡のないようにみえて、じつはすべて彼の中では一貫した行動規範のもとになされた、作家としての不可欠な活動だったのかもしれない。そんなふうに思えてきたのです。

三島由紀夫は、創作において自我とか主体とかいったものを重視した作家でした。文学がイロニーやシニシズムに陥らないためには、作者である自分が強くなければいけない。事あるごとに、三島はそう言っています。三島の作家活動とは、いうならば、その「強い自己」を確立するための、不断の営みだったのではないかと思うのです。そのために三島がとった方法は、自分の世界に閉じこもることではなくて、いろんな世界に顔を出し、さまざまな仮面=ペルソナを使い分けながら、その中で必要不必要を見極めて取捨選択し、本質的な部分を陶冶していく。この場合の本質とはもちろん、『豊饒の海』に結実をみたような、純文学的な作品の系譜です。その部分は大事に取っておき、誰にも触れさせない。むしろそのために多くの仮面が必要だったのかもしれない。そのように考えると、彼の多岐にわたる活動も、なんとなく理解できるような気がしてきます。

なんだか少しも明瞭ではない見方ですけれど、やはり私は、あれこれいろんなことを楽しそうにやっている三島由紀夫という人が好きなのです。しかも彼は、何をするにしても、手を抜かず、真剣に取り組むのです。成功したかしないかはともかく、彼がいつも真摯な姿勢であり続けたことは疑いのない事実でしょう。全共闘を始めとする学生たちとの対話などは、まさにそれを象徴する活動だと思います。

建物の外に出たのは午後2時すぎでした。雪はやみ、木立の間から差してくる日の光が暖かく感じられました。標高1000メートルというこの富士の裾野にも、春の足音は確かに近づいて来ているようでした。

いま静寂に包まれているこの三島由紀夫文学館も、夏の観光シーズンには賑わったりするのだろうか。多くの人に知ってもらいたいような、もらいたくないような。ひとりの作家の生きざまに思いを馳せながら過ごす静かなひとときというのも、なかなかいいものです。小春日和の林の中を歩いていると、それこそ心の空気が入れかわったような感じがします。明日からまたがんばろう。そんな意欲も湧いてきました。

机の上に積んだままになっている『鏡子の家』と『サド侯爵夫人』、帰ったらさっそく読んでみよう。


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2010年02月09日

小僧の神様

NEC_0055.jpg1月某日、23時すぎ。
上野駅の16番線ホームは静かな熱気に包まれていた。

一眼レフ、コンパクトデジカメ、携帯と、さまざまなカメラを手にした人々がいる。その数30人ほどだろうか。シャッターを切っては別の場所へ移動して、また撮る。そうやってみんな、ホームを駆けずり回っている。深夜の駅に似つかわしくない、あわただしさだ。

カメラ小僧たちのお目当ては、急行「能登」。金沢行きの夜行列車だ。23時33分に上野を出て、金沢には6時29分に着く。鼻先が伸びた昔懐かしいボンネット型の特急車両は国鉄カラーそのまま。博物館から抜け出てきたような古めかしい列車である。

この急行「能登」が3月をもって定期運行を終了する、というニュースが数ヵ月前に流れた。北陸新幹線が開通するまではなんとか存続するのではないかと思っていたが、廃止へ向けた布石がこれほど早く打たれるとは意外だった。

風前の灯となった夜行急行、写真に残そうとする人々もいるだろう。それは察しがついた。自分自身、今日こうしてやってきたのは、長年親しんだ列車を今のうちにもう一度見ておこうという思いもあった。でもこれほどの騒ぎになっているとは。

長野に住むようになってから、私はしばしばこの「能登」を利用してきた。上野を出た列車は上越線を経由して早朝4時13分に直江津に停車する。約1時間の待ち合わせで信越線の始発に乗り継げば、7時前に長野に着く。それなら新幹線に乗り遅れても宿に泊まらずに、しかも朝早い時間に家に帰り着くことができる。夜遅くまで東京に滞在したいときなど、この夜行急行は重宝する列車なのだった。

9両編成の列車はすべて座席で、自由席5両と指定席4両。指定席車両にはグリーン車と女性専用車が各1両ずつ付いている。高崎あたりまで帰宅する通勤客も乗ってくるが、自由席でもまず座れないことはない。基本的には空いている列車である。

きょうも自由席に乗り込む。土曜日だが、いつもより若干混んでいるようだ。2人掛け座席の1つはほぼ埋まっている。それでも単独客がほとんどなのは普段のとおりだ。

発車まで約10分。窓際の席を確保した私は、かばんから取り出した本を読もうとして、やっぱりやめた。何だか落ち着かないのだ。窓を横切る人影がたえずちらちらする。気になって仕方がない。何より目障りなのは、車内に入りこんでくるカメラ小僧だった。通路に立ち、黙って室内にレンズを向けている。入れかわり立ちかわり入って来て、ときどきフラッシュが光ったりする。そのうち、こんなアナウンスが流れた。

「撮影は一般のお客様のご迷惑にならないようにお願いします」

「一般のお客様」とは誰のことか。一般客でないと言われているカメラ小僧とはどういう人たちなのだろうか。それを確かめてみたいと思って、私は落ち着かぬ客室を出ることにした。 

ホームには、車両の前、横、斜め、あらゆる角度から、カメラを向ける人々がいた。鉄道マニアなのだろう。でもいわゆる、それらしい風貌の人はほとんどいない。若い女性の姿もちらほら見える。みんな一人で行動している。撮るたびに画像を確認しようと、ディスプレイを見つめている。これだけ大勢の人が互いに言葉を交わすでもなく、無言のままなのが少し異様だった。

缶コーヒーを買って、車内に戻る。あと数分で発車だというのに、小僧たちは相変わらずホームで忙しそうにしている。その時、やっとわかったのである。

彼らは一般の客ではない。

カメラ小僧は列車に乗らないのだ。彼らは入場券を買って、見るだけ。それは列車の利用客とは言えない。アナウンスが言っていたのはそういうことだったのだ。

動き出した列車の窓から、たくさんの人影が見えた。それだけの人に見送られて今、自分は旅立とうとしている。そんな感じがしなくもない。だがそれはやはり錯覚なのだろう。彼らの目的はあくまで「能登」という列車なのであって、別に乗客に関心があるわけではないのだ。

でも、乗客を抜きにした「能登」とは、いったい何なのだろうか。それは車両そのものを意味するのか。あるいはその車両に何らかの人格や神格のようなものを与えているのか。もし「能登」が何かの人格や神格だとしたら、どうしてそれをファインダー越しにではなく、もっと自分の目で見ようとしないのだろう。実際に乗って、その存在を身体で感じようとしないのだろう。

カメラを向けて、記録に残せばそれで満足。それは惜別のふるまいではない。あの小僧たちはたぶん、「能登」との別れを惜しんでいるのではない。記録を収集し保存することこそが目的なのだ。彼らにとって「能登」はどのような存在なのだろうか。特に知りたいとは思わないけれど、何となく気になることではある。

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2009年08月13日

われらの映画館

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埼玉県の深谷市にある「深谷シネマ」。封切館ではなく、いわゆる二番館とか三番館といわれる映画館で、公開から2〜3ヶ月経った作品を上映する。『グラン・トリノ』を観たのがここだった。どうしても観たかったけど観られなかった映画。そんな作品を上映してくれるので、長野から行くのも苦にならず、何度か訪れたことがある。

駅北口から歩いて5分ほど、商店街の真ん中に劇場はある。運営はNPO法人で、7年前に開設された。壁には「シネマ基金」に寄付した人たちの名札がずらり。営利を求めず、市民の寄付と、商工会議所の協力で経営が成り立っている。

「全国から視察に来ますよ。尾道なんかもそうです」。こう話すのは受付の男性Aさん。Tシャツにジーンズ。小柄で眼鏡をかけた40代前半くらいの人で、上映終了後、こちらの質問に丁寧に対応してくれた。最近各地にでき始めたNPO運営の映画館の先駆け的存在なのだという。そういえば尾道では、つぶれた映画館を市民の力で復活させたという記事をどこかで読んだ記憶がある。

スクリーンは1つで、収容人数は50人くらいだろうか。小さいけれど、その分、ぬくもりが感じられる映画館だ。上映の前と後には、スタッフの丁寧なあいさつがある。いすの背にはアンケート用紙がペンを添えて、掛けてある。常勤とパートを含めスタッフは10人ほど。観客は年配の人、それも女性が多い。地元が中心だが、上尾とか熊谷とか、近隣の街から観にくる映画ファンも少なくないという。

1週間ごとの2作品上映。いつも思うのは、作品選びのセンスの良さだ。どのように決めているのだろう。「基本はお客様のアンケートです」とAさん。それをもとに、封切館に新作を観に行ったりしたスタッフが、協議して決めるのだという。客層を考えて、アクション映画などはあまりやらない。予告ポスターには作品ごとに「県内初上映」とか「県北初上映」というコメントが貼られている。シネコンを含め地方の封切館ではあまりかからない作品を選んでいるようだ。『スラムドッグ&ミリオネア』には『未来を写した子どもたち』を併映する。両方ともインドを題材にした作品だが、超有名作の前者に比べ後者は単館中心の上映で、あまり一般に知られていない。偏ることなく、あくまで地方という条件から考える姿勢がいいと思う。

運営はうまくいっているのだろうか。採算はとれているのか。そういう話も聞きたかったが、そこはあえて訊かなかった。少しはばかられた。それはここが、来年3月には移転することになっているという話を聞いたからだ。商店街の区画整理のため、少し離れた場所に移るらしい。前に来たときは、チケットと一緒に「おだんごサービス券」が付いてきた。隣のだんご屋に見せれば、何個かただでもらえる。それを食べながら映画を観てください、というわけだ。

でも今回、それは付いてこなかった。だんご屋がなくなってしまったのだ。高齢になった店主に跡継ぎがおらず、廃業したのだという。そうやって、櫛の歯が欠けるように店がなくなり、商店街はさびれていく。ここ深谷の商店街にも、そういう現実がある。

深谷には、30年くらい前まで映画館があった。子どものころにそれがなくなって、映画好きだったAさんは、熊谷まで観に行っていたという。自分たちの街に映画館があったということは忘れられ、いつしか深谷の人たちにとって、映画は熊谷まで観に行くものだということが当たり前になった。

そんな深谷に7年前、映画館ができた。群馬のあの辺は大きな国道が通っていて、クルマ社会である。昔と違って、熊谷のシネコンまで簡単に行くことができる。そんな現代に、自分たちの街に、そこでしか観られない映画を上映する映画館がある。これはなんと貴重なことだろう。深谷市民は幸せだと思う。

市民でもない部外者が勝手な感想を述べている。確かにそうだ。それでもあえて言いたい。映画は観る人のためにあり、映画館を支えているのは、観る人である。「観せられる」のではなく「観る」ことを大切にする深谷シネマのような試みを、頓挫させてはならない。ぜひとも成功させなければならない。市民ではないがひとりの映画ファンとして、そのくらいのことは言ってもいいのではないだろうか。

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2009年06月01日

海へ続く道

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海を見る。ただそれだけのために、80キロの道のりを自転車で行く。そんなアイデアに魅せられて、上越の海へツーリングに出かけたのは、昨年の春のことだった。同行は職場の先輩Sさん。気心の知れた自転車仲間だ。長野市から新潟県上越市(直江津)まで。ルートは最短の国道18号ではなく、遠回りだが自動車の少ない飯山市経由とすることにした。

2008年5月1日、晴。
前日の遅い仕事で2人とも寝坊。予定より1時間ほど遅れ、午前10時40分出発。それでも日のあるうちには到着できる計算だ。長野市街地を東へ抜け、千曲川沿いのサイクリングロードに入る。飯山市まで約30キロの道のり。北は飯山市の南隣の中野市あたりから、南は上田市まで続くこの自転車専用道の沿道には、ところどころに桜並木や花畑があり、走っていて飽きることがない。やや色の濃くなった青空に、桜のピンク色が映える。河川敷の畑からは野焼きだろうか、白い煙が細くたなびいている。上空には絶えることのないヒバリのさえずり。頬をなでる風がなんとも心地よい。あふれる太陽の光の下、ゆっくりと自転車を走らせながら、信州の遅い春を満喫する。

13時30分、飯山駅前着。近くの中華料理店で昼食。30キロくらいでも、走ればメシがうまい。調子に乗って2人でいっぱい頼んで、食べて、くつろいでいると、いつの間にか15時近くになっていた。空模様もなんだか少しあやしい雰囲気。ここから山を越えなければならない。考えてみれば、まだ行程の半分にも達していない。先を急がねば。大急ぎで支度を整えて14時45分、飯山発。いよいよきょう最大の難所、富倉峠越えだ。

国道292号を10キロほど登る。ひさびさのヒルクライム。どうしようもなくつらい。一緒に走っていて、だんだん会話が少なくなる。自分のことで精いっぱい。無言でペダルを踏み続ける2人。薄曇の空とアスファルトの灰色が視界のすべて。山の緑も鳥の声もどこかにいってしまって、聞こえるのは自分の苦しげな呼吸の音だけだ。気がつくと、後ろにいるはずのSさんがいない。くっついて走っていたのが、いつの間にか相手が見えないほど離れてしまった。なんとか登り切ったところで、Sさんを待つ。自転車を降りても激しい動悸が止まらない。1分ほどして、登ってくるSさんが見えた。見ているだけで、こちらにも苦しさが手に取るように伝わってくる。2人して無言のままで、しばらく休憩する。時刻は15時30分。

ここからは一気の下りだ。2キロほどで県境を越え、新潟県に入る。その少し手前に、小学校跡地を利用したレストラン&宿泊施設「ふるさとセンターかじか亭」があり、立ち寄ることにした。「富倉そば」と「笹寿司」というのが名物らしい。私はそばを食べられないので、少し残念。笹寿司はおいしかった。校舎は残っていないが、昔の小学校の門構えが残っていて、往時をしのばせる。

少し焦る。平均時速40キロで山を降り、妙高市の新井で国道18号に合流したころには、16時を過ぎていた。もうここからは見るべきものはない。直江津に向けて、突き進むのみ。もうひと踏ん張りだ。歩道がなく交通量の多い狭い道をしばらく我慢すると、やがて国道は自動車専用になり、自転車はその側道のような道を走ることになる。1時間ほどで直江津の市街地に。信越線の線路を越え、佐渡汽船の看板が見えてきた。もう海はすぐそこだ。

17時45分、直江津の海水浴場に到着。よかった! まだ日は落ちていなかった。浜辺に自転車を乗り捨て、夕暮れの海へ。視界を遮るもののない風景。遥か遠くまで見晴かす水平線。人影まばらな砂浜に落書きしたり、裾をまくって浅瀬を渡って防波堤に登ったり、意味もなく走ってみたり。山国から来た30代と40代の2人の男は、久しぶりに見る海を、日が暮れるまで楽しんだ。80キロ走ってやっと来た海。有難い。心からそう思えるのだった。

復路は輪行、つまり列車に自転車を乗せ、信越線で帰ってきた。自転車の車輪を外し、輪行袋という袋に入れて運ぶのであれば、JRなら無料で車両に持ち込むことができる。ちなみにこの輪行は、飛行機でも可能。輪行を使えば、北海道でも沖縄でも、外国でも、自転車の旅を楽しむことができるのである。
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