2017年08月21日

「再会」

去年5月に行った熊本県宇城市のボランティアで知り合ったT君から、お盆に長野に行くんですが、と突然のメール。あの後、何度かメールのやり取りをしたが、特段の付き合いがあったわけではない。

何事かと思ったが、会って話を聞いて、ああそういうことかと納得した。長野県内の人と5月に結婚して、その奥さんの実家に来たついでに寄った、ということだった。

T君は30代前半の図書館職員で、千葉の市川に住んでいる。熊本で僕らは他の4、5人と一緒にチームを組み、民家の部屋の割れた壁を撤去するという作業をした。その帰り道、ボランティアは初めてという彼は、思い切って参加してよかった、一歩踏み出せた気がすると、うれしそうに語ったのだった。

長野駅近くのカレー屋でランチをしながら、T君は近況を語ってくれた。
あれから2回、熊本でボランティアをし、2回目は母親を連れて行ったこと。奥さんは学生時代からの友達で、今年になって関係が進展し、今は都内で新居を探していること。山が好きな図書館の同僚が退職して、山小屋で働くために長野県内に移住したこと。最近ランニングを始めてハーフマラソンにもエントリーしたが、それは僕の影響だということ。

去年、熊本から博多に帰る新幹線の中で、僕は持っていた「走れメロスマラソン」のシューズ袋をきっかけに旅ランの経験を話した。確かにその時T君は、いろいろ質問をして、自分もいつか走ってみたいというようなことを言っていたが。あれは話を合わせてくれたというだけでなくて、本気だったのか。

地震の影響で間引き運転だった新幹線は混んでいて、僕らはデッキに立って1時間余り、お互いの仕事や趣味、地元などの話をして過ごした。初ボランティアのT君はジーンズにスニーカーという軽装で来ていたから、僕はベテラン気取りで、彼に装備や心構えについて、得意になって教えたのを覚えている。

T君は去年のおとなしい印象とは違って、明るく快活に、よくしゃべった。
そんな彼と話をするうちに、心の中に風が吹いたような、すがすがしい気持ちになった。彼と僕の間にあった断片的な物事がカチッとかみ合って、一気に全体が見渡せた。そんな感覚があった。

彼の人生の物語は、あの熊本の経験をしっかりと刻んだうえで、確実に進展している。そして、その物語の一部に、僕という存在があるということがうれしかった。

もちろん僕の人生においても熊本や彼の存在は、何らかの役割を果たしているに違いない。ああ、あれはそういう意味だったのかと、物事の筋道がはっきり見える瞬間が、いつか来るのだろう。

これから妻の実家にいったん戻って、それから一緒に東京に帰りますと言ってT君は、お盆の長野駅の雑踏の中に消えていった。そういえば去年、博多駅で別れる時も、こういう雑踏の中で後ろ姿を見送ったっけ。あの時は再び会う日が来るなんて、思いもしなかったが。

人生のめぐり合わせとは、不思議なものだ。

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2017年04月27日

ハートアイランド点描 〜沖縄・黒島2016A

宿の夕食に春巻が出てきて、他もチャンプルーとかラフテーそばとかではなく、揚げ物とかタレのかかった肉とか、手のこんだコース料理のような品目だったので不意を衝かれたが、主人が元中華の料理人と聞いて、合点がいった。

20人ぐらいは座れそうなテーブルの片隅に4人。秋田から来たという30代後半ぐらいの夫婦はもう何度も黒島に来ていて、今回は釣りが目的だという。国の登録有形文化財の伊古桟橋は釣りの名所で、何とかという南国の魚を狙いたいと話した。真っ黒に日焼けした小太りの青年は石垣島から来た20代。居酒屋で働きながらダイビングをしているがそれは夏の話で、冬は北海道でアルバイトしながらスキーをするという生活をしている。今回は休みが取れたので、たまたま来たことがなかった黒島で過ごすことにしたという。「こう見えて暑さは苦手なんすよ」と、ご飯を何杯もおかわりしながら説得力のないコメントをして、場の空気を和ませていた。

何をしに来たのかと自分も聞かれ、「牛が人より多いと聞いて、沖縄っぽくない風景を見てみたかった」などと自分でもよく分からないなと思いながら答えたが、長野から来たという点はインパクトがあったらしく、山や寒さなどに関していくつかの質問を受けた。

食事が終わり、宴会でも始まるのかなという期待に反して3人が部屋に引き上げてしまったので拍子抜けして、といってやることもないのでテーブルでサービスのコーヒーを飲みながらテレビを見ていると、奥さんと一緒に片付けをしていた主人が厨房から出てきた。

「長野って、冬に花火大会やるんだよね」と、突然言われてピンと来なかったが、しばらくして、えびす講のことかと思い当たった。25年ぐらい前、料理人の修業時代に仲間の結婚式のために長野に行ったことがあって、花火のこともその仲間から聞いたという。

横浜の中華街にある四川料理の有名店で修業したという主人は、東京生まれの50歳。顔も体も引き締まっている。ショーケンの昔のドラマ「前略おふくろさま」に出てくる板前のような、凛としたたたずまい。標準語の静かな語り口で、こちらの質問に丁寧に答えてくれた。26歳の時、仲間のつてで黒島に来て、後継者のいない民宿を引き継いだ。はじめは軽い気持ちだったが、民宿の仕事は面白く、そのうちに今の奥さんと知り合った。3人の子に恵まれ、10年ほど前に念願だった今の民宿を建てた。奥さんは外から来た人で、結婚前は島のダイビングショップで働いていた、とのことだ。

やっぱりそうだったか、あの翳りのあるスミレのような美は、と厨房の方を見るとすでに灯が消えていて、もう9時を過ぎていることに気づいた。あと少しすると星がよく見える、案内しましょうと言うのでお言葉に甘えることにして、コーヒーをおかわりしてもうしばらく主人の話に耳を傾けることにした。

「島にとけこむのは大変じゃなかったですか。その時代はそんなに移住者もいなかったでしょうし」
「大変ではなかったけど、島のことは一生懸命勉強したよ。地域の集まりや行事に出るのは当たり前、おじいやおばあに昔の話を聞きにいったりもした。そのうちにだんだん認められていったというか」
ちょっと待って、と席を立った主人は、隣のリビングに立てかけてあった三線を持ってきて、調弦を始めた。「昔は若者同士集まって、よくみんなで弾いてた。そのうちに自然に覚えたよ」と、人差し指に爪型のバチを装着しながら、主人は懐かしそうに言った。

滑らかではないが、着実な指使い。素朴な響きは主人の人柄をそのまま表しているように思えた。目をつむって歌う主人の顔と指先を見ながら、登川誠仁や知名定男やBeginのCDで聴いた曲を思い浮かべたが、何という曲か、思い当たらなかった。

弾いてくれたのは、「チンダラ節」という黒島の民謡だった。琉球王朝による強制移住政策で離れ離れになった男女の悲恋の物語。石垣島へ農地開拓のために連れて行かれた娘は、野底岳に登って黒島の方を眺めながら恋人を思った。野底岳の頂上にはその娘の形をした岩があるという。この歌は黒島では誰でも知っていて、小学校の学芸会でもマーペーの物語を演じるから、子どもたちも民謡を歌えるそうだ。

興に乗った主人が、続けて「デンサー節」を弾いている途中のことだった。庭に面したガラス戸がスーっと開いて、男が入ってきた。初老に見えるその男は、無言のまま食堂の棚に並んだ泡盛の瓶を取り、手慣れた感じでグラスに注ぐ。主人は一瞥しただけで、また目を閉じて歌い続ける。グラスを持った男は冷蔵庫を開けて氷を入れると、悠然と歩いてきて私の隣に座り、一緒に聴き始めた。

「あのー、どなたなんですか」と、歌が終わるのを待って尋ねた。近所に住む友達だと、主人。料理人時代の先輩だという。蛭子能収さんを知的にしたような風貌のその男は、思いのほか人当たりがやわらかく、自分から話すわけではないが、聞けばプライベートな質問にも答えてくれた。昔から八重山の海が好きで、黒島にも何度も来ていたが、4、5年前に退職した後、地域とのつながりがある暮らしがしたいと、単身移住してきた。毎日のように夜になるとさっきのように民宿にやってきて、一緒に飲んでいるらしい。

10時半。主人と蛭子さんと3人で、星を見に出かける。民宿を出ると、むっとした熱気がまとわりついた。5分ほど歩くと、よく見える場所があるという。真っ暗な道をペンライトで照らす主人の後について、歩く。「ハブがいるからね」と蛭子さん。ハブにかまれる事故は年に何度かあり、島では夜、ハブを避けられるように街灯をつけることになっているが、民宿が多いこの集落では、客が星を見られるように消えた状態にしてあるという。

家並みが途切れ、牧場地帯に入るころには、目が慣れてきた。主人が立ち止まる。見上げる。降るような星の輝き。天の川がはっきり見えた。あれがさそり座、こっちは、はくちょう座・・・主人が差し向けるペンライトの光の筋が、漆黒の闇の中を一直線に延びていく。寝転がって見られればいいんだが、ハブの危険があるから、と主人。昔、鳩間島で見た星空を思い出した。鳩間島にはハブはいない。だから港で寝転がって見た。圧倒的だった。流れ星がよく見えた。数分にひとつ。ずっと数えていた。あの時一緒に見た人は今、どうしているだろう。もう10年以上も前の話だ。

主人も蛭子さんも、黙っていた。3人がそれぞれに空と向き合い、自分と向き合う時間。しばらく待ったが、流れ星は見えなかった。
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2017年04月03日

ハートアイランド点描 〜沖縄・黒島2016

エメラルドの海をかき分けて、小さな高速船はエンジン全開で爆走していた。ぬるく湿った風が、デッキを吹き抜けていく。8月下旬の八重山は、まだ夏の盛りのようだった。大きなリュックやトランクを脇に置き、旅人たちが静かに景色を眺めている。青い空に白い雲、間近に見える緑の森は、竹富島か。南国の濃い色彩に目が慣れてきたころ、突然船がエンジン音を低めた。石垣島を出て約30分、黒島の桟橋がすぐ目の前にあった。

黒島は、周囲約12.6km、面積約10.02平方km。石垣島の南西にあり、島の輪郭から「ハートアイランド」の愛称で呼ばれる。畜産が盛んで、人口202人に対し、牛の数は2452頭(2016年8月31日時点)。平らな島のあちこちにあるのは肉牛の生産牧場で、飼われているのは黒毛和牛の母牛と子牛だ。子牛はここで生まれ、10ヵ月間育てられた後、日本各地に出荷される。そうして出荷先の肥育牧場で育てられ、その土地のブランド牛になるのである。

桟橋には、島じゅうの民宿の送迎車が待ち構えていた。予約した宿の車を見つけて名乗ると、おかみさんが「ようこそいらっしゃいました」と迎えてくれた。同乗の客は、30代くらいのカップル。私が助手席に乗り込む。宿は港とは反対側の海岸の集落にあり、車で10分ほどかかるという。

港を離れるとすぐ、道の両側に緑の平原が広がった。柵の向こうには、草を食む黒い牛の群れが見える。
「左の方を見てください。ずっと向こうに四角い建物が見えますね。あれが水道の施設です」
車をゆっくり走らせながら、おかみさんが説明してくれる。まだ若くて、鼻筋の通った横顔。どことなく翳りがある面差しに、ちょっとドキドキしてしまう。
「水道は西表島から引いています。黒島には水源がないんです。40年くらい前に水道ができて、島はやっと水の心配をしなくてすむようになったんですよ」
カップルの女性は、もう10回くらいこの島に来ていると言った。のんびりした雰囲気がいいという。八重山諸島の中でも珍しい、リゾート施設がない島。まるで北海道のようなこの広大な風景の中に、どんな暮らしがあるのだろうか。

宿の建物はまだ新しく、居心地が良さそうだった。広々とした前庭から玄関を入ると広い食堂、その奥に浴室があり、2階に6畳ほどの和室が8部屋並んでいる。食堂の泡盛やお茶、コーヒーは飲み放題。庭に並んでいる自転車も自由に乗っていいというので、さっそく使わせてもらうことにする。部屋に荷物を置いて出かけようとすると、おかみさんが言った。
「カラスに気をつけてください」
島では数年前から、観光客がカラスに持ち物を取られたり、荒らされたりする被害が頻発しているという。
「自転車の前カゴの荷物が危ないです。特にお菓子とか、食べ物は外から見えないように注意すること。もし被害に遭ったら、どんなに小さなことでも、ここに書いてくださいね」
おかみさんが見せてくれたノートには、具体的な事例と日付が宿泊者の字で記されていた。月に何度かはそういう被害があるようだ。

乗りやすそうなママチャリを選んで、こぎだす。宿のある仲本集落の家並みを抜けると、「黒島研究所」があった。黒島で産卵するウミガメの研究と展示をする施設。入館料500円を払って中に入ると、カメの生態や島の暮らしを紹介する展示室があった。屋外のプールにはアカウミガメが泳いでいて、200円で餌やりができると書いてある。研究所に餌やりは似つかわしくないようだが、ここはどちらかといえば観光施設に近いようだ。聞けばもともと環境庁関連の施設だったのを、ウミガメ保護活動をするNPO法人が引き継いで運営しているらしい。民間施設としては、収益を上げなければいけないということなのだろう。

研究所を出て、島の対角線上にある伊古桟橋に行くことにする。夕刻とはいえ、さすがは南国、まだ日は高い。島の中央部に向かうにつれて、視界が開け、牧場地帯に入った。車や人はほとんど通らず、静かな空気が流れている。北海道の道東あたりを走っているみたいだ。

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ふと、視界の隅に黒い影が動いた気がした。地面から急上昇して、電線にとまる。カラスだ。電線には間隔をおいて数羽ずつ。人がいないだけに、威圧感がある。ヒッチコックの「鳥」を思い出した。ここで襲われたら勝ち目はなさそうだ。

海に向かって一直線に延びる伊古桟橋は、長さ約354メートル。かつて船着き場として使われ、2006年に国の登録有形文化財に指定された、と案内板に書いてあった。白いコンクリートの桟橋。誰もいない。たもとに自転車をとめて、先端まで歩いてみる。遠浅の海はすっかり潮が引いて、黒っぽくごつごつした底が露出している。歩くと痛そうだ。ここは釣りのスポットらしいが、泳ぐ場所ではないのだろう。水たまりをのぞくと、小魚や小さなカニが見えた。

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ご飯の時間は7時。仲本海岸で夕日を見てから、宿に戻ろう。宿と仲本海岸はすぐ近く。また島を横断するように、自転車を走らせる。横断するといっても、4キロほど。この島のサイズ感、なるほど、車ではつまらないし、歩くとちょっと大変。自転車にぴったりだ。

島の中心部である東筋(あがりすじ)集落に入ると、石垣と平屋の赤い屋根の、いかにも沖縄という家並みが続く。ちなみに沖縄では「東」はアガリ、「西」はイリ。東は太陽が上がる方角、西は入る方角だからそのように読むのだという。集落を抜けると、また一面の牧草地。広い空の下で、金色に輝いている。自分は今まさに、イリに向かって走っているのだ。

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仲本海岸は、島で唯一の海水浴場。ただ泳ぐというよりも、シュノーケリングで有名なビーチだという。売店やシャワー室もあるが、とっくに閉まったという様子で、人の気配がなかった。こぢんまりしたビーチ。海に突き出た岩に登ってたたずんで、赤みを増していく空を眺めていると、遠くまで来たのだなあという実感が湧いてくる。今ごろ、会社では夕食に行く時間だな。今日は忙しいのかな。つまらないと思いながらも、ついついそんなことを考えてしまう。

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2016年07月19日

無名の歯車として 熊本地震ボランティアA 益城町

ヘルメットの隙間から湧き出る汗が、鼻梁を伝って、瓦のかけらの上に滴り落ちる。農家の広い前庭の一角、50センチほどの高さに積み上げられた瓦の山には、前夜の雨で湿った土、瓦を繋ぎとめていた針金、コンクリート片など、いろいろなものが入り混じっていた。とにかくそれらを一つ一つ、手で選り分けなければならない。集積場は資源ごとに分別しないと受け入れないから、重機で集めてそのまま持っていく、というわけにはいかないのだ。

「化石を発掘しとるみたいや」
スコップで山を崩しながら、丹波のおやじがつぶやく。
「昔の家の屋根には、こんなにいろんなもんが載っかってたんやな」
「ほんとですね」と、誰かが答える。おやじの明るい声に、ボランティアたちの表情が緩んだようだった。おやじは1カ月ほど前に兵庫県丹波市から車で益城町に来て、役場の駐車場で車中泊しながら活動を続けているという。現場に慣れないボランティアにとって、おやじのようなベテランの存在は心強かった。作業のリーダーシップをとりながら、雑談で場の空気をやわらげる。見知らぬ者同士の協力が不可欠なボランティアの活動の中で、おやじはそんなムードメーカー役も積極的に引き受けているようだった。

高台にある農家の庭からは、山あいにひっそりたたずむ集落が見渡せた。益城町東部の津森地区にある集落のひとつ。「小谷」と書いて「おやつ」と読むのだと、農家の息子さんが教えてくれた。静かに時が流れる山里の風景だが、あちこちの屋根にブルーシートが被せられ、よく見ると、傾いたり、崩れてしまっている家も少なくなかった。道を挟んだ隣の家も壁が崩れ、台所の内部をのぞかせたままの状態で置かれている。農家は幸い、住めなくなるほどの被害はなかったが、やはり大量の瓦が落ちてしまい、その処分をボランティアに依頼したということだった。

選り分けては袋に入れ、袋に入れては軽トラの荷台に積む。山はなかなか小さくならない。朝の天気予報によれば、最高気温は30度。全身くまなく汗まみれである。
「日が照ってないだけ、今日はまだましな方ね」
話している女性は、富山から来た学校の先生だ。「連合」と書かれた赤いビブスを着けた彼女は、労働組合によるボランティア派遣制度に応募して、熊本に来たと言っていた。

「休憩にしましょうか」
午前1時すぎ、満杯になった軽トラが集積場に向けて出発したところで、丹波のおやじが言った。納屋の軒先を借りて、それぞれ持ってきた昼食を広げる。年配の男性が多いせいか、会話も少なく、静かな時間が流れる。庭の縁石に一人座って、たばこを吹かしている中年の男性がいた。作業では率先して力仕事を引き受け、黙々と、要領よくこなしていた。丹波のおやじとは対照的だが、相当なベテランだろう。一匹狼のような孤高の存在感が少しかっこよかった。

暑さのせいか、あまり食欲がない。昨日の夜コンビニで買ったパンを食べていると、軽ワゴンが入ってきて、前庭の真ん中に停まった。出てきた年配の男性に、ベテランのボランティアたちがあいさつする。この家のご主人らしい。ご主人は車の後ろに回ると、荷室から何かを取り出した。深い緑色の、丸々としたスイカであった。おかみさんが家の中から包丁を持ってくる。地面に敷いたビニールシートの上でご主人が切り分けていると、ボランティアたちが続々と集まってきた。

「みなさんご苦労さまです。どうぞ」と、おかみさん。みんなが一斉に手をのばす。スイカの鮮やかな赤。食べるのは何年ぶりだろう。「甘いね」「おいしい」と歓声が上がる。「冷えてないけど」とおかみさんは申し訳なさそうに言うが、そのみずみずしい甘さだけでも、疲弊した体を癒やすには十分だった。

スイカは益城町の主要な産物であり、ご主人とおかみさんは、スイカ専業の農家ということだった。2度目の震度7の後、しばらくは家に入るのがこわくて、スイカを育てるハウスで暮らしたと、おかみさんは話した。スイカの方は、農業用水の供給設備が被害を受けて水が来なくなり、ほとんどがだめになってしまったという。

地道な作業は午後も続いた。それでも、終わりが見えてくると作業がはかどるのか、瓦の山は次第に小さくなっていった。午後3時前、軽トラが出発したところで、作業終了ということになった。とりあえず前庭に積まれた瓦は撤去することができた。とはいえ、ベテランたちの話によれば、こうした瓦の山が残された家はまだまだ多く、この地区だけでもいつになったらすべて撤去できるのか、見通せないということだった。撤収を終え、バンに乗り込んだボランティアを、農家の夫婦が見送ってくれる。遠ざかっていく夫婦が見えなくなるまで、私たちは手を振り続けた。

農機具メーカーの広大な運動場に設けられた益城町の災害ボランティアセンターは、帰還したボランティアたちで賑わっていた。土のグラウンドの上にトラックやバスが並び、その真ん中に白いテントがいくつも張られている。机やパイプ椅子が並んだテントの下では、人々が忙しそうに立ち回っている。その光景はいかにも非日常的で、さながら戦場の前線基地といった趣である。センターの一角で、女性たちがペットボトルと即席のみそ汁を配っていた。活動を終えたボランティアへのサービスということだった。

ありがたく受け取ったが、お湯はないという。残念。持って帰ろうとすると、声を掛けられた。
「お湯ならあるよ」
一緒に活動した、あの一匹狼の男性であった。車中泊をしていて、駐車場の車にコンロがあるという。
「すいません、じゃあちょっとおじゃまします」
男性の軽ワゴンは宮城ナンバーだった。車内には毛布や食料が雑然と積まれ、ダッシュボードには、活動日ごとに身につけるボランティアセンター発行の名札がたくさん貼られている。車の横に座ってお湯を沸かしてもらい、みそ汁を作った。男性は、2週間ほど前に宮城県角田市から来て、益城町で活動を続けていると言った。センターでの車中泊は禁止なので、熊本市内にある、車中泊が許された空き地から毎日通っているという。

「宮城は僕も行ったことあります。仙台や気仙沼でボランティアをしました」と言うと、東日本大震災の時の話をしてくれた。2011年3月11日、男性は仙台空港の近くで被災した。迫る津波を背後に、必死に車で逃げて難を逃れたが、逃げ遅れて流される人たちも見た。
「あれはショックだった。家から出られなくなって、しばらく引きこもりみたいになった」
結局、東日本大震災では東北のために何もできなかったという気持ちがある。その心残りが熊本に来るきっかけになったという。

「いつまで続けますか」
「さあ、どうするかな。泊まる所も探さないといけないしなあ」
バスの運行管理者の仕事をわけあって辞め、次の仕事が始まる10月までは時間があるという。実は5月にも2週間ほど熊本市で活動し、一度帰って再びやって来た。いま車中泊をしているのは、その時知った空き地だが、そこが建物の建設のため間もなく閉鎖されることになっているらしい。
「でも、まだまだ終わりそうもないよなあ」
積まれた瓦の山。崩れたままの家。作物が作れない農家。すべての状況を元に戻すか、元より良くしなければ、復興とはいえないだろう。その途上で、どこまでのことをボランティアができるのか、あるいは、すべきなのか、分からない。ただ、進んで復興の歯車となろうとする人たち、人生をかけて行動しようとする、多くの無名の人たちがいる限り、その人たちは十分に報われなければならない。車中泊の場所を求めてさまようボランティアがいる。それは不条理に違いないと私には思えた。

「まあ、スーパー銭湯の駐車場でも道の駅でも、どこでもいいさ」と男性は、気楽な感じで言った。
別れ際、名刺を渡して自己紹介すると、ダッシュボードに貼られていた名札に携帯電話の番号を書いて、渡してくれた。
「また来たら連絡して。しばらくはここにいるから」
名札を見て初めて、彼の名前を知った。今まで名前も知らずに話していたのが、不思議なことに思えた。でも考えてみれば、名前や肩書きなど、ここでは大した意味がないのだ。
「頑張って下さい。また暇をみつけて、来ます」
無名の歯車として、自分はあとどれだけ役に立てるだろうか。再会を期して別れた。広いグラウンドの土が、夕日を受けて、金色に輝いていた。

活動日 2016年6月15日



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熊本地震で被害を受けた益城町中心部


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2016年06月28日

不条理に抗う 熊本地震ボランティア@ 宇城市

ひび割れた壁は、割れ目に指を入れて引っ張ると、簡単にはがれ落ちた。2階の八畳間の、生活のにおいがしみついた壁。何十年もそこにあり、暮らしの風景の一部であった壁というものは、これほど簡単に崩れてしまうものなのか。壊すのは後ろめたいが、それが依頼だから仕方がない。この家のおじいさんは、地震で亀裂が入った部屋の壁を全部取り払って、リフォームすると言った。新しい壁を作るのは本職の大工に頼むとしても、壊す作業は自分たちでしなければいけない。でも高齢の自分たちでは無理だから、ボランティアを頼んだという。

「この辺のきれいな部分は残しときますか」
防塵マスクを外して、リーダーのコガさんが訊ねる。「そこも壊してください」とおじいさん。
「わかりました。じゃあ思い切ってやってしまいましょう」
コガさんが無傷の壁に木槌を打ち込むと、再び共同作業が始まった。木槌で壁を砕くのは、コガさんと、女性のナカムラさん。割れた壁を、手ではがすのは私。畳の上に散らばった破片を、女性のスガノさんがほうきで集め、それを若いタジマさんが土のう袋に入れ、たまったら手の空いた人が1階に下ろす。誰が指示するでもなく、それぞれが臨機応変に自分の役割を見つけて、てきぱきと作業を進めていく。

熊本で大きな地震が続いていた4月中旬、私は腹が立って仕方がなかった。繰り返し流れる緊急地震速報。揺れるたびに破壊される街。何度も何度も、同じ地域が襲われる。その執拗さが許せなかった。
「なぜ熊本ばかりがこんな目に遭わなければならないのか」
運命とか宿命とか、そんな言葉でこの災禍を解釈して納得することはできなかった。これが仮に人智を超えた力によるものならば、今を生きている人間として、その力に抵抗しなければならない。壊されたものは、元に戻さねばならない。試練に屈しないという意思表示、それが私にとってボランティア活動だった。活動先を探し、駅に送迎してくれるという宇城市災害ボランティアセンターを選んだ。

部屋の壁は、1時間もするとすっかり取り払われてしまった。みんな、ついさっき初めて会ったばかりとは思えないチームワークである。5人は、松橋駅前からの送迎バスにたまたま乗り合わせた面々。ボランティアセンターでマッチングの結果、そのままチームを組むことになり、現場に向かう車の中で、簡単な自己紹介をした。リーダーを引き受けてくれたコガさんは60代で、福岡から来た元県職員。ナカムラさんは30代の調理師、スガノさんは40代の主婦で、いずれも福岡の人。30代のタジマさんは図書館職員で、千葉県から来たということだった。

部屋を丁寧に掃除し、玄関先の土のう袋を門の脇に集める。作業が一段落すると、家のおばあさんがお茶を出してくれた。ガレージに椅子まで用意してもらって、恐れ多いが、ありがたくいただくことにする。ガレージで同年代のご近所さんと「女子会」をするのが楽しみだったというおばあさん。地震の後はそれどころではなかったけれど、近々再開することが決まったのだと笑顔で語る。この家もそうだが、近所はほとんどの家が瓦が落ちて、屋根にブルーシートが被せられている。明らかに傾いている隣のアパートは取り壊しが決まって、住人が立ち退いたということだった。2回あった大きな地震のうち、14日よりも16日の揺れの方がひどかったと、おじいさんとおばあさんは口を揃えて言う。その後は家に入るのが恐くて、1週間ほど庭で車中泊したという。

「みなさん、どこから来なさったの」とおばあさん。私も聞かれ「長野からです」と答えると、「まあまあ、それはそれは」と言って、塩尻や諏訪湖を夫婦で旅した思い出を話してくれた。おじいさんによると、息子さんが山梨に住んでいて、数年前に訪ねたついでに長野にも寄ったとのこと。「長野は自然がいっぱいあって、いいところだねえ」。老夫婦にとって、今の状況は苦境であるに違いない。それなのに自分たちの訴えは後回しにして、見ず知らずの他人を気遣っている。人はこんなにも強く、優しくなれるものなのか。私はこの人たちの気持ちをどのように受け止め、どのように応えればいいのだろうと、途方に暮れる。

集めた土のう袋は後日、集積所に運ぶとのことで、私たちは夫婦に別れを告げ、センターに戻った。運動公園の一角に設けられたセンターは、芝生の広場の上をさわやかな風が吹き渡り、たたずんでいるとここが被災地であることを忘れてしまいそうだ。昼食にそれぞれ持参したパンやおにぎりを食べていると、活動報告を終えたコガさんが戻ってきて、午後からはセンターに集められた廃棄物の分別をすることになったと告げた。

衣類、家具の破片、書類、カセットテープ、洗剤の容器・・・センターの外れの区画には、被災した家々から出た不用品が山と積まれていた。雑然とビニールや紙の袋に入れられたそれらを一つ一つ取り出して、燃えるもの、不燃物、金属、木材、というふうに仕分けしていく。処分場は分別しないと受け入れてくれない。後日そこへ運ぶための準備を、手が空いたボランティア総動員で進めようということだった。雨で濡れていたり、ガラスや釘が混じっていたり、作業は思いのほかつらいものであった。総勢30人ほどで協力し、地道に続ける。ここでも、指示を出す人、道具を持ってくる人、というように、自然発生的に役割分担が出来てくるのが面白い。仕切る人はやはり現場の事情に通じたベテランで、何週間も滞在して活動を続けている人が何人かいるようだ。分業体制が明確になるにつれて、全体の作業の効率も上がる。2時間ほどかけて何とか片付けることができた。

午後3時ごろ、すべての活動が終了。さっさと帰ってしまう人もいれば、残って雑談している人もいる。駅に戻る私たち5人は、帰りも一緒だ。送迎車の中で、せっかくなので「食事でも」ということになった。松橋駅周辺に店が見つからず、熊本駅まで行って、駅ビルの郷土料理店で食卓を囲んだ。みんな疲れてはいるけど、まだまだ元気な様子。活動で感じたことなどを話していて、全員が熊本でのボランティアが初めてだったということが判明する。ベテランの雰囲気を漂わせるコガさんも、つい2日前に熊本市のボランティアセンターまで行ったものの、雨で活動のニーズそのものがなくなり、断念したという。宇城市に来た理由としてみんなが挙げたのは、やはり送迎だった。同じ九州といっても、熊本の地理をよく知らない。だから連れて行ってもらえると安心なのだと、福岡の人たちは言う。そこから九州各県の特色ある個性、といった雑談が始まり、たとえば語尾の言葉では「〜ばい」と「〜ちゃ」の地域性とか、博多の男女比は女性の割合が高く、それは女性が地元志向であることの表れであるとか、そういう話題になるとがぜん強いのは女子で、特に主婦のスガノさんを中心に会話が盛り上がるのであった。

午後4時半、人吉で泊まって明日は観光するというナカムラさんを駅前のバス停で見送り、後は三々五々、解散ということになった。在来線で帰るというコガさんやスガノさんと別れ、私とタジマさんは新幹線で博多に向かう。物静かで、朝の作業も最初のうちは見ていることが多かったタジマさんだが、夕方の食事会ではだいぶ打ち解けた様子だった。人生初のボランティアで、やはり緊張していたという。ヘルメットと安全靴を入れた私のバッグを指差して、「やっぱり買った方がいいですかね」と聞く。東日本大震災の時、気になりながら何もしなかったのがずっと心に引っ掛かっていて、それが今回の活動につながった。そんな身の上話もしてくれた。

「みなさんのおかげで一歩踏み出せました。来てよかったです」
博多の駅で別れ際、タジマさんが握手を求めてきた。その手にはびっくりするくらい、力が込もっていた。
「おつかれさまでした。僕はこれからも来るつもりです。また一緒にやりましょう」
答えながら、自分でこれは社交辞令なんかじゃなく、心からの言葉だと思った。

私はきっとまた行くだろう。あの土地が人手を必要とする限り、暇を見つけて何度でも行くに違いない。とにかく壊されたものは、直されなければならない。大したことはできなくても、大事なのは続けることだ。不条理には屈しないという意志を示し続けることだ。


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*活動日 5月18日
 宇城市災害ボランティアセンターは5月31日をもって閉所。九州以外からの一般ボランティア受け入れは 終了している。
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2010年04月05日

清張のいた街

NEC_0065.jpg城には桜の花がよく似合う。

4月最初の日曜日、小倉の城は春を楽しむ人々であふれていた。

天守閣が花で見えない。表門から続く坂道は、桜のトンネルだ。人の波をかき分けながら上がっていくと、天守閣前の広場に出た。ここも一面の桜。格好の花見会場だ。それぞれの木の根元にシートが敷かれ、4、5人ずつのグループが陣取っている。

時折吹く風の冷たさが陽光のぬくもりと混じり合い、ひんやりと心地よい。満開の花々の間からのぞく空はあくまで青く、澄み渡っている。花をまとった木々の枝が落とす影が、地面にくっきりと、入り組んだ幾何学模様を描き出している。

まだ正午前である。宴会には早いのだろう。騒いでいる人はいない。みんな何となく所在なさげに、立ったり座ったり、歩き回ったりしている。ずらりと並んだ露店の人たちも、開店準備に追われて忙しそうだ。

カメラを持った人が大勢集まって、何か撮影していた。ファインダーの先には鮮やかな紫の和服をまとった女性がひとり。撮影会のようだ。女性モデルの名前を書いたプラカードを持った人が立っていた。

広場の喧騒を横目に、裏口の方へ歩いて行くと、2階建ての瓦葺の建物がひっそりと立っていた。「松本清張記念館」とある。せっかくなので入ってみる。

最初は、松本清張の生涯と作品をたどるコーナー。年譜と作品を関連づけて展示してある。

北九州に生まれ育ち、44歳の芥川賞受賞まで小倉で過ごした清張。1924年、15歳で会社の給仕として働き始め、19歳で印刷所の見習いとなり、27歳で結婚。印刷工の仕事を続け、そのつてで朝日新聞の広告部嘱託となったのが30歳。33歳で西部本社の正社員に採用された翌年に出征、戦後は広告部に戻りデザイナーの仕事をしながら、創作を続けたという。

41歳の時に転機が訪れる。「西郷札」がコンクールで入選して注目され、翌年に直木賞候補となる。そして2年後の44歳、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞。同年、朝日東京本社に転勤となり、小倉を去る。練馬に転居して2年、47歳で朝日を退社し、以後、作家生活に入る。52歳で高井戸に居を構え、1992年に82歳で亡くなるまで、そこに住み続けることになる。

その高井戸の家が、再現されていた。「思索と創作の城」と銘打たれたその家屋の展示で、書斎と書庫、応接室の様子を見ることができる。

デザイナー時代から使っていた斜面台、十数本ものモンブランの万年筆などと並んで置かれていた清張の眼鏡が印象的だった。異様に分厚い右のレンズ。1センチくらいはある。説明によると、この家で仕事をしていたころ、左の眼はほとんど見えなかったらしい。

若いころはカメラに凝り、愛用のニコンF3で撮影した写真はいろんなコンクールで入選したという清張だが、年齢を重ね、視力を失うと、撮影もままならなくなった。得たものと失ったもの。どんな気持ちで彼は自己の運命を受け止めていたのだろう。

清張は作家生活に入る前の小倉時代を振り返って、「濁った暗い半生」だったと書いている(『半生の記』)。この言葉の含意は明らかでないけれども、その「濁り」こそが清張作品の持ち味であって、魅力なのだと、私は思う。

社会的強者へのコンプレックスと、その裏返しとしての憧れ。貧しさのゆえ、あるいは学歴がないために、社会の下層にいることを強いられる人々の、どうしようもない屈託ぶり。私が惹かれるのは、その暗い情念を直截的に描いた初期の作品だ。そういう情念が社会を動かす原動力となった時代が、かつてあった。それを「戦後」と言ってもいいだろう。清張の初期作品からは、「戦後」のエネルギーが痛いほど伝わってくる。

戦後日本とは何か。振り返ってみれば、松本清張ほど、そのテーマに肉迫した作家はいないのではないか。それは清張自身がまさに「戦後」を身をもって生きたからであり、その体験を作品に昇華し得た稀有な作家だからだろう。

清張が小倉で積み重ねていたキャリアについて、もっと知りたいと思った。新聞社の広告部で彼はどのような仕事をしていたのか。15歳から47歳まで続けた勤め人の生活。清張にとって仕事は、創作の片手間といった軽いものではなかったはずだ。そのキャリアがどのようなかたちで創作に生かされているのか。あるいは生かされなかったのか。「前半生」と「後半生」の連続性についての説明がどこにもないのが残念だった。

記念館を出ると、再び春の喧騒に包まれた。いつの間にか2時を過ぎている。城は相変わらずの賑わい。この花見客のなかにも、ひょっとしたら清張のように、暗い情念を抱えて生きている人がいるかもしれないと思ったら、見ず知らずの小倉市民に少し親近感がわいた。

それにしても、「濁った暗い半生」なんて、そんな悲しい言い方をしなくてもいいのに。他人の人生ながら、いつまでも心に引っかかるものがあった。たぶんそのあたりが「昭和の文豪」の限界なのだろう。松本清張は作家としてはやはり過去の人なのだ。とりあえず暫定的にそんな評価を下しておいて、春の小倉城を後にした。

小倉の街は意外にも、美しかった。広々とした道路を歩くと、空が広く感じられる。橋を渡ると、川を渡る風がすがすがしい。

松本清張が生まれ育った街。彼の見ていた風景はおそらく、これとは違うものだろう。時代が変われば、街も変わる。そうして「戦後」はどんどん遠ざかっていく。
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2009年12月07日

ホーバークラフトの思い出

NEC_0287.jpg大分空港と大分市内を結ぶホーバークラフト航路が、10月31日をもって廃止された。旅客の減少による赤字が膨らみ、運航会社の大分ホーバーフェリーも清算されたという。

先週、『サンデー毎日』の岩見隆夫氏のコラムで初めてこのことを知った。飛行機で大分に行くたびにホーバー航路を利用していたという岩見氏もまた、先月訪れた時、空港の乗り場まで行って初めて廃止を知ったのだという。「代替バス」というのがあって、仕方なくそれに乗ると、着いた先は大分市内にある元のホーバー発着所。この発着所というのは大分市街地から少し離れた場所にあり、大分駅からはバスで20分ほどかかる。市街地に行きたいのに、なぜこんな所に降ろされるのか。「代替」だからといって、まさか、なくなってしまったホーバーの発着所にバスが着くとは思わない。観光客にとってこれは不親切ではないか、というのがコラムの趣旨だった。

私は昨年の6月、このホーバークラフトに乗った。あれは廃止が決まっていた九州行き寝台特急「はやぶさ・富士」の「富士」に乗って終点の大分まで行った旅の帰途だった。大分空港は国東半島の中ほどにあり、大分市からバスだと、別府湾をぐるっと回って1時間近くかかる。ホーバーは、その別府湾上を真っ直ぐ突っ切って所要時間25分。それが早いかどうかは別として、ホーバークラフトなる乗り物はどんなものか、一度見ておきたかった私は、迷わず駅からバスに乗ってホーバーは発着所に向かったのだった。

初めて見るホーバークラフトは、不思議な乗り物だった。
発着所は海に面しておらず、ゲートの外はコンクリートの白い地面が、ただ広がっている。切符を買って待っていると、しばらくしてどこからか、飛行機のエンジンのような腹にこたえる音がした。外を見ると意外に大きな船体が、地面を滑るように近づいてくる。やがてそれは発着所のゲートのすぐ前まで来て、停止したかと思うと、船体を沈めるようにして、ゆっくりと着地した。

その時、初めて気がついたのである。ホーバークラフトは水陸両用なのだと。浮いて進むのだから、下は別に海でなくてもよい。乗りこむとまず始めに、何百メートルかコンクリートの上を行き、それから海に出た。空港に着くとそのまま水から揚がって、地面を進み、空港建物のすぐ近くまで行って停船。条件にしばられない自由自在な動きがまるで生き物のようで、新鮮だった。『となりのトトロ』に出てくるネコバスを思い出した。

船室の一番前にある運転席は仕切られておらず、自動車のような丸いハンドルがついているのが見えた。100席ほどの座席の半分くらいが埋まり、背広を着たビジネスマンが目立った。

海の上を行く時は、軽い衝撃がある。子どものころ、川に向かってアンダースローで石を投げて水面にはねる回数を競ったことがあるが、ちょうどその石のように、トントントンと軽く水面を跳ねながら、ホーバークラフトは進んでいく。乗った時は波が高かったためか、思ったより揺れが大きかった。

片道2980円は高いようにも思えたが、楽しい乗り物だった。廃止は仕方がないことなのかもしれないが、ひとつの乗り物がなくなるというのは、旅行者としてはさびしい限りである。そういえば昔、瀬戸内海航路でよく乗った水中翼船というのも、いつの間にか消えてしまった。時代に合わないという理由で、多様な乗り物がどんどん一元化されていく。それは旅の多様性が失われていく過程でもある。

旅行者は新幹線に乗れと言わんばかりに廃止される夜行列車。町中は自家用車で移動しろとばかりに廃止される地方の路線バス。「採算が取れない」というのはわかるが、それは存続に向けて最大限の努力をした上でそう言っているのか。最近のさまざまな「廃止」のニュースを聞いていると、その辺のところが、どうもよくわからない。

将来へ向けてクルマ社会を見直すべきだとわかっているのに、高速道路はいまも各地で造られている。のみならず無料化されようとしている。狭い街中にクルマがあふれ、交通事故でいくら人が亡くなっても、マイカーを前提とした高度成長以来の路線は見直される気配がない。そうやってマイカーを持たない人々の選択肢が、日に日に狭められていく。

長距離鉄道にしても同じようなことが言える。特別料金を上乗せされる新幹線に乗らない、あるいは乗ることができない人は、どうすればいいのだろう。私も昔よく利用した「ワイド」や「ミニ」の周遊券も、いまはない。在来線の夜行や急行といった周遊券設定の前提条件そのものがなくなってしまった。新幹線を組み込んだパッケージの周遊券は発売されていない。JRとしても「採算が取れない」ということだろう。でもだからといって、学生が安く旅をする手段を奪ってしまっていいのだろうか。

不況の時代、「採算」という言葉は真実味がある。企業にとってそれは伝家の宝刀だ。採算が取れないと言われると、こちらは仕方がないと思ってしまう。でもその結果、社会があるひとつの方向に向かっていくというのは、仕方がないといって片付けられない問題だと思う。

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2009年07月26日

九州上陸作戦 阿修羅のごとく

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博多行き特急「ソニック8号」は、満席だった。座れないので、デッキに立って外を眺めていると、時々渡る川が、あふれんばかりに増水している。上流ではだいぶ雨が降っているのだろう。厚い雲が垂れ込める車窓とは対照的に、車内は明るい雰囲気だ。JR九州の車両というのは、外観も内装も工夫を凝らしたものが多い。この「ソニック」のインテリアは、なんと床がフローリングである。シートも面白い形をしていて、大きなヘッドレストが飛び出たようになっている。ポップだけど落ち着いていて、なかなかいいセンスだと思う。

9時41分に博多駅に着いた。ホームに降りると、屋根をたたく雨音が聞こえるほど、強く降っている。太宰府に行くため、ここで西鉄に乗り換える。無意識のうちに「西鉄」の案内表示を探すが、見当たらない。と、ここで気がついた。博多には西鉄は乗り入れていなかったのだった。西鉄のターミナルは天神にあって、そこまで地下鉄で行かなければならない。

そんなこんなで、太宰府に着いたときには、もう11時を回っていた。意外と時間がかかるものだ。列車のなかでは眠気に襲われ、しばらく意識を失っていた。ここへ来て不眠の影響が出始めた。なんだかすっきりしないまま、駅に降り立つ。あちこちに「阿修羅展」のポスターが貼ってあり、そのせいなのか、駅はけっこう賑わっている。改札を出ると、右手に石の鳥居の柱が見えた。そっちに参道が続いているようだ。リュックの奥の方から、持ってきた傘を出して、歩き出す。参道ではあちこちに、ガラス張りの実演販売のようなブースがあって、中で何か作っている。のぞいてみると、三角巾をしたおばさんたちが、白いものを練ったり焼いたりしているようで、そういえば何となく香ばしいにおいが漂っている。張り紙には「梅ヶ枝餅」とあった。この有名な太宰府名物、たしか『47都道府県 女一人で行ってみよう』のなかで益田ミリが、おいしいと言っていたっけ。300メートルほどの参道を歩いていくうちに、「梅ヶ枝餅」の店はどんどん増えていき、「○○本舗 梅ヶ枝餅」とか、「本家○○ 梅ヶ枝餅」とか、各店ごとに独自の看板を出しているのが面白かった。

筋違いかもしれないが、神社で吉田拓郎の健康とか、自分のもろもろの問題とか、いろいろお願いしてみた。本殿のすぐ横に、菅原道真を追って都から飛んできたという「飛梅」があった。その木の下で雨をしのぎながら、しばらくたたずんでいた。いろんな人が次から次に、掌を合わせにやってくる。年配の人から子どもまで、家族連れ、カップル、団体など、祈りのかたちは、じつにさまざまだ。団体さんは韓国や中国の人が多いようである。そういえば福岡市内の駅などの案内板には、必ずハングルと中国語の簡体字の表記がある。さすが九州だ。中国や韓国からの観光客の目に、この国の姿はどう映っているのだろう。一度聞いてみたい。

いよいよ九州国立博物館である。驚いたのはこの建物は大きさだ。入口からものすごい長さのエスカレーターを上り、さらに動く歩道のある歩廊を数百メートル歩いて、やっと「阿修羅展」会場にたどり着いた。東京駅の京葉線ホームから八重洲中央口まで歩いたくらいの疲労感。寝ていないせいか、歩くと足にこたえる。リュックがやたらと重く感じられる。

チケットを買って、また3階ほど上って、ようやく展示スペースに入る。興福寺の宝物が飾ってあるところを抜けて左に曲がると、そこに阿修羅が立っていた。阿修羅像そのものは1メートル50センチくらいだろうか。意外と小さい感じがした。それが乗る台の周りを、人が取り囲んでいる。「立ち止まらずに、時計回りに歩きながら見学してください」と、係員。人の流れに乗って、阿修羅像の周りをぐるり360度。説明によると、この阿修羅像は、好戦的だった阿修羅が仏に感化され、いままでの自分の行いを改めて、懺悔する表情を表しているのだという。

憂いを帯びた表情にはやはり、惹かれるものがある。あの切なげな眉の線は、どのような心の現われなのだろう。自分の来し方行く末について、思いを馳せてみる。懺悔するほどのこともしていない自分は、この阿修羅の表情について論ずる資格などないような気がする。

三面のうちの向かって左側の顔は、唇をかみしめているという。見ると確かに、下唇を噛んでいる。考えてみたら、側面の顔を正面から見る機会なんて、寺のなかに安置されている限り、まずないだろう。そういう意味では、仏像を360度見る、というこの企画は、かなり面白いアイディアだと思う。阿修羅の手なんて6本もあって、正面から見ただけではどのようについているのか、わからない。立体表現というのは、とにかく形にしなければいけないから、いろいろつじつまが合わなかったりする部分も出てくるに違いない。そういうところをどのように処理して、昔の仏師たちは宗教的観念を仏像という形で表現していったのだろう。

展示は阿修羅以外にも、他の八部衆や十大弟子、さらには鎌倉期の四天王像など、たくさんあった。それらの中では特に、八部衆の1人で、鳥の頭を持つ迦楼羅(カルラ)像が印象に残った。斜め45度ほどに構えた立ち姿が、なんとも毅然としていてよい。でも彼が何者で、なぜトサカや嘴を持つのか、そのあたりのことはよくわからなかった。展示スペースを出るとお土産コーナーがあり、ここも黒山の人だかりだった。ポストカード、Tシャツ、マグカップ、クリアファイル…充実のグッズ販売。だれかのコンサートに来たみたいだった。

13時40分。疲労が濃くなってきた。眠いというよりも、体がだるい。九州国立博物館はあまりに広く、とにかく歩くのがつらい。常設展示は足早に、ざっと見てから、太宰府を後にした。池のほとりの東屋という店で買った梅ヶ枝餅は、うまかった。帰りの新幹線で食べたら、焼きたてを包んでくれたその余熱がまだ残っていて、ほのかに温かかった。つぶあんなのに甘くない。だるい体に、ちょっと気合が入った。

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2009年07月25日

九州上陸作戦 そして船は行く

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阿修羅展というのをやっていて、行った人に聞くと、これがなかなか面白いらしい。興福寺阿修羅像の実物をぐるり360度から見ることができて、仏像だけに、なかには拝んでいる人などもいたりするという。興福寺創建1300年記念事業として、東京を皮切りに全国を巡回していて、7月15日からは太宰府の九州国立博物館で展示されている。太宰府には一度行ってみたかったので、これを気に出かけることにした。

さて、問題は行き方である。九州は遠い。2日の休みで行くにはどうしても飛行機か新幹線ということになる。しかしながら、それではいかにもつまらないので、少しアレンジを加えて、行程を組んでみた。

いつものように昼過ぎに起きた私。「組んでみた」というよりは、残された時間を最大限有効に使う必要に迫られて、苦しまぎれに導き出した行程は、次のようなものだ。まず特急と新幹線を乗り継いで山口県の徳山まで行く。そこからフェリーに乗る。行き先は大分県の国東半島。竹田津という港である。この航路は24時間運航なので、夜中の便に乗れば、宿泊費を浮かせることができる。所要時間2時間で運賃は2600円。眠れるか眠れないか微妙だが、まあ自業自得だ。竹田津から6時55分のバスで宇佐駅に向かい、待ち時間9分で日豊本線の特急に乗れば、博多には10時前に着くことができる。福岡市内から太宰府までは西鉄で30分くらい。名古屋経由でその日のうちに長野に帰るには、博多発16時の新幹線に乗ればいいので、5時間くらいは滞在できそうだ。

最終便の「こだま」で徳山に着いたのは23時35分。夜行フェリーは2時と3時30分の2便あり、2時の便に乗るつもりだ。徳山のフェリー乗り場は意外にも駅のすぐそばで、0時すぎに着いてしまった。まだ窓口は開いていない。無人の待合室でしばらく観光ポスターやパンフレットなどを見て過ごす。近くに大津島という島があって、そこは人間魚雷「回天」の訓練基地があったところで、現在は記念館があり、それなりの観光スポットらしい。ここから船が出ているという。今からホテルに泊まって、明日はこの島に行ってみようか。少し迷ったが、やっぱり阿修羅を優先することにした。

手持ち無沙汰なので、駅の反対側に回って街を歩いてみる。大掛かりなアーケードなどもあり、徳山というのはなかなか大きな街のようだ。新幹線で到着する直前、広大なコンビナートのような施設とともに、「出光」という文字が見えた。石油で栄える工業都市なのだろう。

駅近くの24時間マックでコーヒーを飲んでいると、友人からメールが入った。「吉田拓郎、ツアー全公演中止」との発表があったという。やっぱり無理だったか。とにかく今は休養してほしい、と思う。太宰府でお願いしてこよう。拓郎さん、元気になってまたみんなの前で歌えますように。

フェリー乗り場に戻ると、積み込みを待つトラックや乗用車がいつの間にか並んでいて、そのエンジン音で、周りが少し活気づいていた。建物の中に相変わらず客はおらず、旅客だけで乗る人は自分ひとりのようだった。切符を買って船の方に行ってみたが、旅客ブリッジは架橋されていない。まごまごしていると、作業員の人が「こっち、こっち」と手招きする。乗り込もうとするトラックの間を縫うようにして、車両と同じ入口から、船内に入った。

午前2時。スオーナダフェリー「ニューくにさき」は大分の竹田津に向けて、徳山を出港した。座った船室前方の椅子席には、誰も入ってこない。あまりにも静かで、人の気配がない。しばらく座っていたが、少し不安になってきて、船室の後ろの方に行ってみたら、カーペットが敷いてあるボックス席に一人、また一人と、寝ている人がいた。見る限り、乗客はすべて壮年の男の単独客だ。出港間もないというのに、みな目をつぶって、横になっている。煙草を吸ったり、話をする時間も惜しいのだろう。ドライバーというのは本当に過酷な仕事なのだと思う。「高速1000円」でフェリーが苦境だというが、それが結果的に、彼らの貴重な休息時間を奪い、労働強化につながるのだとしたら、誰のための政策なのかと思う。

船はトレーラーがタテに2台入るくらいの大きさで、今まで私が乗ってきたフェリーのなかでは中くらいの部類に入る。キャビンは30×10メートルほどで、前方に椅子席、中ほどにボックス席、後部にゲームコーナーと、3分割されている。ゲームコーナーにはスロットマシーンや麻雀ゲームが5、6台と、カップめんや飲み物の自動販売機が置いてある。カップめんが無性に食べたくなり、無人の部屋でひとり、カップのチキンラーメンをすすった。

甲板に出てみると、海の上は闇一色だった。月や星は出ていない。風も波もおだやかなようだ。目を凝らすと、ところどころ、遠くの方にオレンジや白の光の点が、かすかに瞬いている。それでも、じっとみていると吸い込まれそうなので、煙草を1本吸い終えるとすぐ、船室に戻った。

1時間ほど椅子席で横になっていた。気がついて時計を見ると3時40分。起き上がると、体全体がなんだかふわふわする。しばらくぼんやり座っていると、わかってきた。ゆっくりと、船が左右に揺れているのだ。意識がはっきり戻ってこないまま、午前4時15分、フェリーは竹田津に到着した。

竹田津には漁港があり、海と山に挟まれて人家が並んで集落になっているようだった。下船すると、ちゃんと待合室のある乗り場があって、少し安心した。バスが来るまで2時間半、ここで過ごさなくてはならないのだ。大型トラックがここでも何台が乗り込み、4時30分に折り返し便が出港すると、辺りは途端にさびしくなった。聞こえるのは虫の音だけ。徳山より若干涼しいのが救いだ。開け放しの待合室のベンチに座り、本を読んで過ごそうと、室生犀星の「蜜のあわれ」を読み始めるが、どうにも集中できない。そのうち腕や足がなんだかむずむずし始め、かゆくなってきた。見ると、蚊がまとわりついている。ショートパンツで来たのが間違いだった。

かなわないので、周りを歩こうと外に出てみると、空が白々してきた。5時だ。次の便を待つのだろう、アイドリングしているトレーラーが1台、停まっている。地元のバスとは別に、もうひとつバス停があって、「別府ゆけむり号」と書いてある。別府と広島を結ぶ長距離バスが1日2便あって、これはバスごとフェリーに乗ってしまうという路線であるらしい。広島から別府まで5時間余り。途中、船でゆっくりくつろいで温泉へ行けるなんて、広島の人にとってはなかなかいい旅かもしれない。

駐車場の裏手に砂利の浜があって、しばらく座って海を見ていたら、沖合の、もやの中からエンジン音が聞こえ始め、それがだんだん近づいてきたかと思うと、1隻の船がふいに姿を現した。時刻は5時半、徳山を3時半に出たフェリーが入港してきたのだった。

そんなこんなで6時。すっかり夜が明けた。セミが鳴き始め、ツバメが乱舞し出した。駐車場の向こうの方で、カラスが喧嘩している。乗用車でフェリーに乗ろうとする人たちがぼちぼち集まってきた。家族連れのクルマは鹿児島ナンバー。本州に遊びに行くのだろうか。それにしても長かった夜。なんとかやり過ごすことができた。不思議と眠くはない。でも睡眠不足の影響は、これからきっと出てくるだろう。きょうも苦しい旅になりそうだ。




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