2010年05月09日

光明遍照十方世界

R0012131.JPG京都駅前、午前10時。

定宿にしている「松本旅館」を出た私は、大通りを忙しげに行き交う人々を前に、立ち尽くした。

さて、これからどうしよう。

そもそもきょうは、朝から天橋立に行く予定だった。
ところが諸々の事情で、昨日京都に着いたのは午後11時すぎ。旅館に入ったのが12時で、寝たのは2時とくれば、起きられるわけがない。

それはそうと、松本旅館にはひたすら感謝だ。
予約なしでもなんとかなるだろうと、訪ねた昨晩のこと。意外にも旅館はもう戸をたてており、私は途方に暮れた。他に行くあてもなく、仕方なく中をうかがったりしていると、宿のおじさんが出てきて声を掛けてくれたのだ。

「お泊りですか」
「はい! まだ大丈夫でしょうか」
「どうぞどうぞ」

50歳前後の、穏やかな物腰の人だ。宿の主人だろうか。それとも支配人か。そのおじさんによれば、宿の門限は12時だが、まだしばらく仕事をしているから、ご飯も食べて来ていいと言う。風呂もほんとは12時までだが、開けておくとのこと。

まったく、自分のずうずうしさにはあきれたものだが、私はこの松本旅館様のご好意に甘え、京都の人のホスピタリティをひしひしと感じながら、快適な夜を過ごしたのだった。

そして、午前10時。
さて、これからどうすべきか。

このまま立っていても埒があかないので、とりあえず駅に向かうことにして、歩き出した。どんよりした3月の平日、観光客よりも勤め人の姿が目立つ。

タワー前の横断歩道を渡ると、駅の建物が見えてきた。それにしても、京都駅というのはどうしてこんなに美しいのだろう。いつ見ても、ほれぼれしてしまう。機能と景観がこれほど絶妙な具合に融合した建築物というのは、他に見たことがない。ただ歩くだけでも楽しい。心が浮き立ってくる。

みどりの窓口備え付けの時刻表をめくりながら、あれこれ考えること30分、昼近くになってやっと、きょうの行き先を決定した。

比叡山延暦寺。

悪くない。
バスで片道1時間半。行って帰って来ても午後6時30分の新幹線には十分間に合う。2時間くらいは寺で過ごすことができる。

12時25分。
比叡山行きの京都バスは、数人の客を乗せてゆっくりと走り出した。

新入生歓迎の立て看板に華やぐ京大の前を過ぎてしばらくすると、バスはいきなり強烈な山坂道に突入する。すれ違うのが難しい狭い道を右に左に、あえぎながら上って行く。途中、はるか彼方の下界にかすむ琵琶湖の水面を見たりしながら上ること約40分、延暦寺バスセンターに到着した。

入場券を買い、中へ入ってから、気づいたことがあった。

比叡山は、途方もなく広いのだ。

「巡拝マップ」によれば、「東塔」「西塔」「横川」の3つのエリアに分かれる比叡山は、巡回バスで回りながら参詣するのがポピュラーなやり方らしい。ところがその巡回バスが、冬季休業中だというのである。

まあしょうがない。どうせ全部回る時間もないのだと、西塔と横川はまた次の機会にということにして、バスセンター周辺の東塔エリアを歩いてみる。

朝方雲っていた空はいつの間にか青々として、日が差している。山上の冷気は、陽光の温かみにいくぶん和らいでいるようだ。

大講堂でまず、合掌。お守りと念珠をここで選ぶ。健康祈願は愛媛のばあちゃん用。後で送ってあげよう。自分用には諸願成就のお守りと、ヒスイの念珠を。外国の女の子2人組が熱心に選んでいる。お寺の人がそれぞれのお守りの効能を、英語で一生懸命説明しようとしているのが面白く、自分も選ぶ振りをしながら、しばらく立ち聞きしていた。「諸願成就」を「オールラウンド」と説明すると、女の子たちは深くうなずいて納得していた。

次は、ここ東塔地区の中心的存在である、国宝の根本中堂だ。靴を脱いで板張りの回廊をぐるりと回って、薄暗い建物の中に入る。

ここで見るべきは、何といっても「不滅の法灯」だ。開山以来1200年の間、絶やさず守り抜かれたという火を、欄干の前に座って眺める。何も考えずに、そこに広がる厳粛な世界を、ただ感じよう。そう思いながら、自然と手を合わせる自分がいた。

どれほどの時間、座っていたのかよく覚えていない。ふと、我にかえり、時計を見ると15時30分。急いで東塔と阿弥陀堂に向かう。

阿弥陀堂は法事の最中だったが、「ご自由にお入りください」との張り紙があり、観光客も中へ入ることができるようだった。ものすごく張りのある声のお坊さんが2人、あちこち移動しながらお経を上げていて、向かって右側の椅子に、家族が座っていた。正面の柱に、金色の文字でこんな言葉が書かれていた。

「光明遍照十方世界」

宗教上の正確な意味はわからないにしても、直感的に、いい言葉だと思った。「照らす」というのは、天台宗の鍵となるフレーズのようで、機関紙とか、会館名とか、いろんな場面でこの言葉が使われていた。

すべての人と世界に、光が届く。
そんな時代が、いつか来るだろうか。

帰りはケーブルカーで坂本へ下りることにした。
ケーブル延暦寺駅までの道を歩きながら、またしても気づいたことがあった。

ここ延暦寺は、滋賀県なのだ。

比叡山はずっと京都にあると思っていた私にとって、この事実はちょっとした驚きだった。ケーブルカーを下り、JRの駅まで歩く途中に、比叡山高校があった。この琵琶湖のほとりの町こそが、延暦寺の門前町なのだ。

知らないことは、まだまだある。それらをひとつひとつ、発見するために、自分はこれからも旅を続けよう。京都に向かう列車のなか、夕日の赤に染まる湖面を車窓に見ながら、決意を新たにした。

京都に戻るとまだ時間があったので、駅前の洋食屋で夕食をとることにした。トンカツ定食を食べながら見ていた店のテレビで、京都はきょう、桜の開花日だったということを知った。

不思議なめぐり合わせを感じた、早春の京の旅である。

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2010年05月08日

難波発、極楽橋行き

R0012212.JPG寺に行きたい。
最近、よくそう思う。
なぜだかわからない。

振り返ってみれば、寺とは縁浅からぬ人生である。京都で過ごした子どものころ、通っていたのは知恩院が経営する幼稚園だった。それから30年後の現在、住んでいるのは善光寺の門前町である。

でもそういうことは、あまり関係ない気がする。

お寺に行って、仏を前に合掌する。願い事はもちろんあるけれど、それとは別に、ただ手を合わせたいという気持ちが、いまの自分にはある。これを信仰心というのだろうか。

4月末の、ある晴れた日曜日、高野山にお参りすることにした。

大阪の難波から南海電車の特急で1時間半、極楽橋という名の終着駅でケーブルカーに乗り換えると、5分ほどで高野山駅に着く。

山上には町が広がっていた。頭上に迫る青い空と、緑濃い針葉樹の山々の峰を目にすると、別世界に来たような感じがする。

駅前にはずらりとバスが並んでいる。案内所でもらったパンフレットによれば、どの寺へ行くにも移動手段はバスかタクシーとのこと。お得だという南海りんかんバスの「1日フリー乗車券」を800円で購入し、停車中の「奥の院前行き」に乗り込んだ。

駅からうねうねと狭隘な林道を5分も走ると、車窓はみるみる賑やかになっていった。この辺は高野町というらしい。国道が1本通っていて、その両側に寺や店、民家などが建ち並んでいる。大型バスやクルマの列が絶えず、歩道にはたくさんの観光客が歩いている。

「ほどなく○○です」というバスのアナウンスが、新鮮に響く。「まもなく」でも「次は」でもない。南海のバスはこういう言い方をするのか。などと感心しているうちに、もう終点の「奥の院前」だ。駅から10分。こんなに近いとは。

「南無大師遍照金剛」と書かれた門を入る。杉林の中に続く参道は多くの人で賑わっていた。しばらく歩いていくと道の両側が開け、墓所が現れた。

個人の墓よりも著名企業の供養塔や慰霊碑が多い。さらに進むと参道は狭くなり、杉林の中に入る。木漏れ日の中を歩いて行くと、今度は大名家の墓だ。「伊予久松家」や「筑前黒田家」の墓碑銘が目をひく。豊臣家の墓というのもあった。団体客がその前でガイドの説明を聞いたり写真を撮ったりしている。

パンフレットによれば、高野山真言宗の総本山である金剛峯寺は、明治2年に改称されるまでは青巌寺といい、もとは豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立した寺だということだ。

奥の院でお参りを済ませ外に出たとき、お坊さんの勤行に行き当たった。黄色い袈裟を着た僧侶が20人ほど3列に並んで、お経を唱えては移動し、また唱える。カメラを構えた外国人の観光客が、後に付いて歩きながら、僧侶たちの動きを見つめている。

観光客。旗を掲げたガイドの後にぞろぞろ続く団体さんもいれば、家族連れもいる。おばあちゃんやおじいちゃんが一緒の家族が多い。外国人の姿も目立つ。いつも思うのだが、欧米人観光客というのは若者も年配の人も、必ずといっていいほどカップルなのはなぜなのだろう。日本でも海外でも、ひとりで行動する欧米人旅行者を見たことがない。

奥の院の次に立ち寄ったのは苅萱堂。刈萱道心と石童丸親子の物語が回廊に掲げられた絵でたどれるようになっている。歌舞伎や浄瑠璃でおなじみの物語とあるが、あまりよく知らなかった。女人禁制にまつわる悲劇である。高野山の女人禁制というのは、明治5年まで続いたらしい。

金剛峯寺に着くころには、だいぶ日が傾いてきた。相変わらず雲ひとつない晴天だが、日陰に入ると風がひんやりして、あらためてここが標高850メートルの高地であることに気づかされる。

豊臣秀次自刃の間は、豪壮な襖絵に囲まれた部屋だった。秀吉に追われ高野山に来た秀次は、出家して生きていくことを願うが、容れられなかったのだという。いろんな意味で、この高野山の歴史というのは、権力をめぐるドラマに彩られているようだ。

新別殿という所で、お茶の接待があった。緑茶と麩菓子、それに金剛峯寺のパンフレットをもらう。前に行った四国の道後温泉本館を思い出した。「お接待」というのは何といい言葉なのだろう。大きな広間に自分も含め数人だけ。静かな時間が流れていく。

高野山入り口の女人堂まで、歩いて戻ることにする。考えてみればバスに乗ったのは、最初に駅から奥の院まで行ったときだけ。町の端から端まで、バスでも10分。ということは、十分歩ける距離なのだ。駅と女人堂の間が歩行者通行禁止になっているので、どうしてもバスに乗る必要はあるのだが、それにしても「1日乗車券」はもったいなかったかもしれない。

歩いていると、道端のあちらこちらに屋台が出て、何か売っているのが目についた。「高野槇」とある。秋篠宮さんの息子の、あれだ。見ると、葉っぱのついた枝みたいなものである。買ってどうするのか、よくわからなかった。

金剛峯寺から20分。最後に長い坂を上りきると、そこが女人堂だった。右に「高野山」、左に「金剛峯寺」と書かれた石造りの門があり、その傍らにお堂が建っていた。その昔、女性はこの門から先に行くことができなかったのだという。さっき知ったばかりの石童丸

やけにひっそりしていると思ったら、もう閉まっているのだった。時刻は16時40分。営業終了だ。まあ仕方がない。

静まり返った林の中、どこからかキツツキのドラミングが聞こえてくる。夕暮れが深まり、少し肌寒い。バス停には40代くらいの女性がひとり、ベンチに座っていた。そういえば、きょう来る時の列車のなかでも、一人でお参りに来ているとおぼしき女性がいた。女性に開かれた高野山、彼女たちは何を求めてやってくるのだろう。

少し離れた道端の石垣に腰掛けて、バスを待つ。山上にはもう夜の気配が漂っている。垂直にそびえる木々の上に広がる夕空を仰いでいると、さまざまな想念が頭の中を駆けめぐった。きょう1日のこと、ここ数ヵ月の出来事、将来の身の振り方…
とりとめがない。

これからどうしよう。
迷える36歳の春。


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2010年03月16日

笑いの殿堂

NEC_0341.jpg大阪の街を歩くのは楽しい。ある金曜日の昼下がり、難波をぶらついていると、何やらさかんに呼び込みをやっている場面に出くわした。

「新喜劇まもなく開演しま〜す。只今2000円で見れま〜す」

なんばグランド花月の前だった。
大きな劇場だが、外観が地味なので、気がつかなかった。アーケードの商店街の中に建物がとけこんでいる。見上げれば確かに、仁鶴さんのような芸人の姿を描いた大きな看板が、いくつも並んでかかっている。そういえばこの道、前にも通ったことがあったっけ。

聞けば平日の昼間、50分間の新喜劇だけ見ることができるチケットというのがあって、それを売っているという。吉本の興行がどういうシステムになっているのかよく知らないが、歌舞伎の幕見のようなものだろう。

時間があったので入ってみることにした。窓口で券を買い、エスカレーターで2階に上がると、ロビーはたくさんの人でにぎわっていた。弁当を売っている。いろんなお笑いコンビのグッズが売店に並んでいる。

さらに階段を上がって3階へ。劇場に入ると、2階席の後ろから3列目くらいの、舞台に向かって右の端に、自分の席があった。思ったより急な角度でステージを見下ろす形になる。ほぼ満席だ。2、3人で来ている人もいれば、1人で見ているおじさんもいる。修学旅行だろうか、制服姿の団体も見える。

午後1時。ブザーが鳴って幕が開いた。うどん屋のセットが組まれた舞台。何人かがテーブルに座って、話をしている。

30代の主人とその母が営むうどん屋。常連客やアルバイト、隣のクリーニング店夫婦など、いろんな人が出入りしている。30過ぎてまだ独身の主人がなぜ結婚できないのかという話になり、からかわれたり問い詰められた末に、その主人は、じつは自分には恋人がいるのだと白状する。その恋人が店に訪ねて来て、彼女が美人であることにみんなは驚く。主人には不釣合いだ。これはおかしい。何か事情があるに違いない。そこに警官がやって来て、結婚詐欺の被害が最近増えているから気をつけるように、との忠告。主人はだまされているのではないか。そういえば彼女の行動にはどこかあやしいところがある。みんなの疑惑はどんどん深まっていく―

と、だいたいこんな話だ。未知やすえと、島田珠代と、Mrオクレぐらいしか名前はわからないが、ベテランらしい芸人が登場するたびに観客は、大きな拍手と歓声で迎えていた。そういう芸人たちには必ず見せ場が用意されていて、お約束のギャグが披露されると、待ってましたとばかりに客席からどっと笑いが起こる。

たしかに面白い。気がつくと自分も声を出して笑っていた。前の席の30代ぐらいの女性2人組も、隣の席のおじさんも、笑うべきところで笑っている。じつに楽しそうである。笑いは伝染するというが、そういう観客同士の相乗効果というのが確かにあって、ホール全体が明るい、華やいだ空気に包まれている。

子どものころ京都に住んでいた私は、吉本新喜劇をテレビで見ていた。放送は土曜か日曜の昼下がり。あのころ、まだ若かった明石家さんまが出ていたのを覚えている。「さんまの駐在さん」というコントで、警官に扮したさんまが、車輪が四角い自転車に乗って、ふらふらと舞台を走っていた。

明石家さんまのことを、大阪のおばさんたちは「さんまちゃん」と言う。大阪人にとって吉本の芸人というのは、家族と友人に次ぐくらいの、親しい存在なのだ。

こうやって生で見てみると、そのことがよくわかる。新喜劇の観客の目線は、たとえば演劇の観客が役者を見る目線とは明らかに違う。昔から知っている人がいつものようにがんばっている姿を見て、安心する。ただ見ているのではなく、見守っている。そんな感じがある。

新喜劇の観客があんなにも笑うのは、損得勘定からではない。金を払ったのだから、そのぶん笑わなければ損だ、というのは大阪人の考え方ではないと思う。たぶん彼らは、一生懸命笑うことで、芸人を応援しようとしている。そうやって、自分たちの暮らしに根差した「芸」に対して、礼をつくしているのだ。

大阪の魅力は、人と人の距離が近いことだろう。だからこそ、街を歩いているだけで楽しい。生活が家の中だけに収まらず、街なかにあふれ出ている。食べたり飲んだり、喜んだり怒ったり悲しんだり、そうやって日々暮らしている人たちの姿が、旅行者にもよく見えるのだ。「暮らし」を家のなかに封じ込めてしまった東京などとは、ずいぶん異なる街の風景だ。

1時間ほどで、公演は終わった。これで2000円。高いような安いような。でもあんなに笑ったのはひさしぶりだった。それも声を出して。それは自分にとって日常の生活では、なかなかないことだ。笑うために金を払うというのも悪くないかもしれない。東京の落語とはまた違う笑い。テレビで見るお笑い番組とも違う。何かもっとあたたかな、生きている人の体温が伝わってくるような笑いが、ここにあった。いつでも笑いに行くことができる大阪人がうらやましくも思えた。
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2009年11月30日

ぶらり大阪 空の旅

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日本航空が撤退方針を表明した松本空港。定期路線消滅という事態を避けるため、県は静岡を拠点とするフジドリームエアラインズ(FDA)を引き受け先に、交渉を始めた。その結果、松本を発着する3路線のうち、札幌、福岡線については存続、大阪線は廃止となる見通しとなった。

松本発着路線の利用者は昨年度6万人。空港がジェット化された直後の1996年度の26万人をピークとして、この10年余りで4分の1以下に落ち込んでいる。利用者の減少に伴い日航はこれまで毎年のように運航態勢の見直しを進めてきた。現在ではジェット機はすべてプロペラ機に置き換えられ、大阪線を除く2路線は隔日運航となっている。それでも利用率(座席数に占める利用者数の割合)は伸びない。座席は余っている。減便による使い勝手の悪さが、さらに利用者を遠ざけているという指摘もある。

そもそも地方と地方を結ぶ路線にどれほどの存在価値があるのか。赤字を公費で補てんしてまで県民が乗らない飛行機を飛ばす意味は何なのか。FDAの新規参入という形でとりあえず路線存続の見通しがついたとしても、そのような根本的な部分の議論がなされなければ、松本空港の前途は決して明るいものにはならないだろう。

というわけで。

乗ってみることにした。百聞は一見に如かず。事件は現場で起こっているのだ。11月20日金曜日。翌日夕方の出勤まで1日半の休みを利用して、私は松本空港から大阪へ飛んだ。

松本空港に行く公共交通機関は、松本駅前バスターミナル発着の路線バスしかない。長野からだとまず松本まで高速バスで行き、松本で路線バスに乗り換えることになる。こうすればバス会社の乗り継ぎ割引が適用され、長野から空港まで1300円で行くことができる。

13時08分、長野駅前発。
どんより曇った昼下がり。街を行く人々はもうすっかり冬の装いだ。バスが動き始めてから、携帯でこれから乗る飛行機の予約をする。大阪行きの飛行機は日本エアコミューター(JAC)2276便。15時35分に松本を発ち、大阪伊丹着は16時30分である。運賃は23000円。「特割」や「早割」の設定はない。

高速道路を走るバスの窓から、色づく里山が見える。植えられたばかりの鏡のような田んぼを旅の車窓に見て感銘を受けたのはついこの間のことのような気がする。季節はなぜ、こんなにも早く移り変わってしまうのだろう。

14時25分、松本バスターミナル着。「空港・朝日線」の路線バスに乗り換え5分後、出発。乗客はほぼ満席でほとんどが高齢者である。まさか空港へ行くのではあるまい。バスの目的地は空港ではない。その先の地域の我が家に帰る人たちなのだろう。

停留所にこまめに停まりながら、バスはゆるゆる走る。走るうちに、道路沿いに立ち並ぶ建物がビルから住宅になり、その家々の間隔がだんだん開いてきて田畑とパチンコ店が目立ってくる。20分もすると、すっかり郊外の景色になった。

20分経ち30分経ちして、もうそろそろかと思いながら窓の外を見ているが、いっこうに空港があるような気配が感じられない。道路沿いの家並みが途切れるわけでもなく、開けた場所に出るわけでもない。「このバスほんとに空港に行くのか」と、不安になり始めたころ、「次は松本空港」のアナウンス。住宅地の向こう側から、いささか唐突な感じで、空港らしき白い建物が姿をあらわした。

15時05分、松本空港着。降りたのは私と、スーツ姿の30代くらいの男の2人だけだった。建物に入るといきなり、正面にカウンターが2つあり、左手には売店、すぐ右側に搭乗口へ向かう上りのエスカレーターが迫っていた。カウンターには制服の女性職員が1人。その前に荷物検査の大きな機械が置かれ、係員が2人立っていた。手続きをする乗客の姿はなく、手持ち無沙汰な感じである。

自動チェックイン機にカードを差し込み、手続き完了。チケットレスなので簡単なものだ。エスカレーターを上がると、レストランと売店が1軒ずつあった。「展望デッキ」という案内表示がフロアの隅の方にある入口を指し示している。保安検査場に並んでいる人はいない。ぎりぎりに入っても大丈夫そうなので、その展望デッキに行ってみることにした。

デッキには、小さな子を連れた夫婦と中年の女性が1人いて、広々とした空と滑走路を眺めていた。風が冷たい。コートの前を合わせ、ファスナーを上まで締める。柵のところまで行って見渡してみたが、どこにも飛行機の姿はなかった。半分かすんだような薄い青の山並みが、ぐるりと空港を取り囲んでいる。

ふと、草刈機のエンジン音のような軽い機械音がしたかと思うと、それは風に乗って途切れ途切れになりながら、だんだんはっきり聞こえてきた。見ると右手の空に、はじめごま粒ほどだった影が次第に近づいてきて、それが着陸しようとしている飛行機だということがわかった。ふわりと着地した飛行機は直線で減速しながら視界を横切り、左手の奥の方まで行くと、今度はこちら側に首を向け、ゆっくりと近づいて来て、すぐ目の前で止まった。

あれがこれから乗る飛行機だとは、ちょっと信じられなかった。なにしろ20分後にはもう出発なのである。列車の折り返しと変わらない。白い路面に降り立った乗客たちが、アリの行列のようにこちらの建物に向かって歩いて来るのが見えた。

搭乗口前にはそれなりに人がいて、ベンチに座って案内を待っていた。数えてみたら全部で28人、そのうち25人が、スーツ姿である。40代から50代くらいの2、3人連れが多く、ほとんどが男性。出張のビジネスマンなのだろう。モノトーン基調の集団の中で、カジュアルな自分の装いが浮いていた。

15時25分、搭乗開始。地面を歩いてタラップから乗り込む。「これがあのボンバル機か」。初めて見る噂の機体。正確にはボンバルディアDHC−8−400。立ち止まって携帯を取り出し、写真を撮る人も結構いる。これだけ間近に飛行機を見るというのは、ビジネスマンにも珍しいのだろう。それにしても近くで見れば見るほど、迫力が感じられない機体である。バスのようなスケール感で、これが空を飛ぶのだという実感がなかなか湧いてこない。

指定された9Aという座席は、前から9番目の左の窓際で、プロペラの真横だった。でも翼は胴体の上部についているので、景色は十分見えそうである。いつだったか、子どものころに乗ったYS11は、胴の下部に翼がついていたから、翼の真横の席に座ると外がよく見えなかった。あのころ京都に住んでいた家族は、帰省の折よく伊丹から松山への便を利用していた。当時はまだ80年代前半で、近距離といえばYS11という時代。「あー」と言うと声がふるえるのが面白く、飛行機に乗っている間、弟と一緒にずっと「あー」と声を出して遊んだりしたことを思い出す。そんなことも遠い昔の出来事になってしまった。客室は空席が目立つ。この機体の座席数は確か70ほどだが、半分ほどしか埋まっていない。各座席にはイヤホンもモニターもない。薄いぺらぺらのシートがちょっと頼りなく見えた。

いよいよ出発。滑走路に向かって徐行していると、フェンスの向こうに人がたくさんいるのが見えた。どうやら公園になっているらしい。ベンチに座ったりジョギングしている人がいる。こちらに手を振る親子の姿もあった。滑走路の端で息を整えるように一旦停止してから、飛行機は猛然と加速を始めた。後ろから押されるようなGの感覚は、ジェット機とあまり変わらない。

15時41分、離陸。ふわっと浮いた機体は首を斜め上に向け、ぐんぐん高度を上げていく。薄く雪化粧した南アルプスの山並みが近づいてくるのが見えた。モノクロの空は山の上の部分だけ雲が切れたように赤く染まり、稜線に沿って光の帯ができている。激しく揺れながら上昇する飛行機はしばらくすると、首を上げたまま、今度は右に急旋回を始めた。どの方向に飛んでいるのか、よくわからなくなった。

10分くらいして雲の上に出ると、急に揺れがおさまった。まもなくベルト着用サインが消え、飛行機は安定飛行に入ったようだ。雲の上は別世界だった。青い空に光が満ちて、まぶしい。下の方には綿を敷きつめたような白い雲がどこまでも広がっている。それが太陽の光を受けて陰影をつくり、まるで雪原の上にいるみたいだ。日の光は機体の左斜め前から差しているから、だいたい西に向かって飛んでいることがわかる。ときどき綿の繊維のような雲のすき間から、下界が透けて見える。山脈の上を飛んでいるらしい。所々白くなった頂が重なり合って、ずっと続いている。

アテンダントが来て、あめをくれた。カゴを持ち、配って歩いている。乗務しているのは2人。ベテランと若手だろうか、年の離れたコンビである。濃紺のスーツにピンクのスカーフが映えて、かわいらしい。客室乗務員というのはなぜこんなに美しく見えるのだろう。飛行機に乗るたびにそう思う。何度乗っても、飛行機というのはやっぱり心配な乗り物である。そんな乗り物のなかで、そこを日常の職場として当たり前のようにキビキビ働く彼女たちが、乗客の不安な気持ちをどれほど鎮めていることか。アテンダントがいなかったら、飛行機なんてたぶん恐くて乗ってられないだろうと思う。

JALの機内誌「SKYWARD」を手に取る。内容も充実していてデザインも美しく、けっこう好きな雑誌だ。今月号の特集記事として「ホーチミンの旅」という女性写真家のルポが載っていた。読んでいるうちに、2月に旅したベトナムの風景がよみがえってきた。北から南へ6日間で縦断するという旅のなかで、もっとも鮮烈な記憶として残っているのが、ハノイに着陸する直前に見た田園の風景だった。広大な平野一面に広がる田んぼは整然と四角に区切られ、一面に植えられた青い稲が、風を受けて波打っている。見渡すかぎりの「緑の海」に、私は息をのんだ。戦争とか社会主義とか、ありきたりの知識しかなかったベトナムのイメージが、ここで変わった。私の中でベトナムは何よりも、緑豊かな国ということになった。旅を続けるなかでいろんな景色を見たけれど、この国は確かに、どこへ行っても緑があふれていた。自分が最初に受けた印象が間違っていなかったことが証明されていくようだった。この国に来てよかったと思った。

「ホーチミンの旅」を読み終えないうちに、「これから降下に入ります」という案内が流れ、飛行機が減速を始めた。新幹線の減速時のようにガクッという軽い衝撃がある。雲の中に入ると、窓の外が真っ白になった。機体がまた細かく揺れ出す。時計を見ると、16時20分。30分ほどで、別世界とはお別れだ。

雲を抜けると、意外なほど下界は近く、くっきりと見えた。曇り空というのはやはり低いのだ。ここはどの辺だろう。ハノイで見た景色を黄色く塗り直したような田園風景が広がっていた。と思っていたら、少し目を離しているうちに、景色は一変してしまった。

地上はいつの間にか、建物で埋め尽くされていた。細かい点のような建物のひとつひとつが数え切れないほど密集し、網の目状になって、際限なく広がっている。おもちゃのブロックを並べたように、やけに立体的に見える都市のところどころに、穴が開いたように緑が点在する。公園だろうか。くねりながら流れる川筋もはっきり見える。やがてあちこちから、木が生えるみたいにして、高層ビルが姿を見せ始めた。

R0011587.JPG垂直に林立するビルの間隔がだんだん狭くなって、ここはたぶん大阪の中心部なのだろうと思っていたまさにその時、見覚えのある建物が目に入った。思わず身を乗り出して、窓にかじりつく。あれはもしかして…そう、大阪城なのであった。緑の区画の真ん中の小高い場所に、青緑色の屋根の天守閣がミニチュアみたいにちょこんと乗っかっている。周りの高層ビルに比べたら、なんともまあ、小さくてかわいらしい。でもそれはやっぱり、誰もが認める大阪のランドマークに違いないのだった。 

16時30分、定刻通り、飛行機は大阪国際空港に着陸した。きょうはちゃんと車輪が出たようだ。タラップで地上に降り立つ。ここでも地面を歩いて建物に向かう。建物はすぐそこにあった。到着ロビーへのエスカレーターに乗って見上げていると、スーツ姿のビジネスマンのほとんどが、紙袋を提げているのに気づいた。長野県の土産物なのだろう、「八幡屋磯五郎」などと書かれた紙袋を、みんな持っている。これから会社に帰り、上司に出張の成果を報告するのだろうか。がんばれ日本のビジネスマン。デフレにあえぐ日本経済の復活は、あなた方にかかっているのだ。

とりあえず設定した目的地の神戸三宮駅前に着いたのは、18時ちょうどだった。空港からリムジンバスで1時間。金曜の夕刻ということもあり、高速で渋滞に巻き込まれ、バスは20分遅れた。長野駅前を出発してから5時間。ここまで来るのに、列車に比べて早いか遅いか。調べてみたら、だいたい同じくらい。若干遅いかもしれない。参考までに列車の場合のルートを記しておく。

 長野駅1300発
  ↓
 しなの14号
  ↓
 名古屋駅1559着 
     1615発
  ↓ 
 のぞみ37号
  ↓
 新神戸駅1722着
  ↓
 地下鉄所要2分
  ↓
 三宮駅 1730頃   

長野から新神戸まで、乗車券は7350円、特急券は乗り継ぎ割引で4970円(自由席)、新神戸・三宮間の地下鉄200円を合わせて、11520円になる。航空券は23000円だから、だいたい半額ということになる。

長野県から大阪方面に行く人々が、ふつうに考えてどちらを選ぶかは明らかに思えるけれども、旅行者にとっては選択肢は多い方がいいに決まっている。短い間ではあるが飛行機の旅は、退屈な新幹線に乗っているよりは何倍も楽しいもののように感じられた。料金やアクセスなどが改善されれば、まだまだ松本空港を利用する価値はあるのではないだろうか。


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2009年09月19日

城のある町

R0010985.JPGその昔。
彦根藩2代当主、井伊直孝が狩りに出かけた。大雨が降り出したので大きな木の陰で雨宿りしていると、向こうの方に猫がいる。見ていると、おいでおいでと何やら、手招きしているようだ。何かと思って殿様は、猫の方に行ってみた。その直後、さっきまで雨宿りしていたその木に、雷が落ちた。以来、井伊家では代々、猫を大切にするようになった。

R0010987.JPG彦根市のキャラクター「ひこにゃん」は、このような背景をふまえて生み出された。この猫がかぶる赤い兜は、いわゆる「井伊の赤備え」で、これは徳川家康が、勇猛で知られた武田軍団にあやかって、家臣の井伊直政に、軍勢の甲冑を赤一色とするよう命じたことがはじまり。徳川家臣団最強の証しとして井伊家に受け継がれてきた伝統である。「ひこにゃん」の赤い兜には、藩主の象徴である金色の「天衝(てんつき)」もちゃんとついている。

これらのことを僕に教えてくれたのは、彦根城太鼓門櫓近くにある茶室「聴鐘庵」のHさん。彦根城は現在、市の所有になっており、お茶をふるまってくれるこの女性も、市教委の職員という身分で、訪れる客をもてなしながら、しっかりと観光案内してくれるのだ。

「暑かったでしょう。足元悪い中、お疲れさまでした」。汗だくになりながら天守近くまで急坂を歩いてきた身体に、クーラーの風が心地よい。「8月やゆうのに、最近、ほんま彦根も雨ばっかりで」。席に着いてしばらくすると、薄茶に「金亀」という茶菓子が付いてきた。作法などはよくわからないので、とりあえず両手で茶碗を持って3回ほど回して飲んでみる。さわやかな苦味が口の中に広がった。お接待を受けながら、歓談する。30年前に大阪から彦根に嫁いで来たというHさん。茶室だけに和服姿だが、近所のお母さんといった佇まいだ。でもさすがは観光案内のプロ。柔らかい関西弁でふんわりと、相手を引き込んでいく。歴史の豆知識ネタを絶妙なタイミングで繰り出し、聞く者を飽きさせない。思わずこちらからも質問したりして、会話が弾む。お客が僕ひとりだったこともあり、すっかり乗せられてしまい、思わぬ長居をすることになった。

「紀尾井町って知ってはります?」とHさんが訊く。「東京ですね」と僕。「漢字思い出してみてください。なんか気づきませんか」。「紀・尾・井・町」と思い浮かべてみる。気がつきかけたとき、すかさず「井は井伊家の井なんですよ」。「そうです、紀は紀伊で、尾は尾張、3つの家の頭文字を採って『紀尾井町』」。口をもぐもぐさせているうちに先を越されてしまった。古くから徳川に仕えた井伊家は、譜代筆頭の家柄。しばしば徳川御三家と並び称されたほど高い格式を誇った。紀尾井町には、御三家の2つと井伊家の藩邸があったのだという。

彦根藩が面白いと思うのは、江戸時代を通じて一度も国替えがなかったことだ。外様ならともかく、譜代大名としては珍しいのではないだろうか。井伊家といえば彦根、彦根といえば井伊家。その密接な関係は維新後も続き、井伊家の人々は今も彦根に住んでいるという。つい最近まで18代当主が市長を長く務めていたし、現在の当主は市役所勤めをしている。18代の奥さんは琉球王朝から嫁いだ人で、Hさんは彦根城博物館に勤めていたころ、何度かお宅に伺ったことがあるそうだ。いわく「ほんま、お姫様みたいな人で、上品な方ですわ」。

彦根城の観光客はこのところ、増えているという。それは積極的なキャンペーンの結果でもある。城はここ数年、お祝い続きだ。2007年に築城400年祭、そして現在は昨年から始まった「井伊直弼と開国150年祭」の期間中であり、これは来年3月まで続くという。街のいたるところにポスターが貼られ、アピールしていた。開国を決めた大老・井伊直弼の縁で、開港地の横浜と連携していろいろな企画が催されているらしい。(ちなみに横浜には直弼の銅像がある)

教科書で井伊といえば直弼であり、安政の大獄である。直弼の評価は今なお、定まっていない。国学の影響でもともと尊王だった直弼は、日米修好通商条約締結によって朝廷との関係を悪化させた。安政の大獄のあと、尊王攘夷派が実権を握った彦根藩は、直弼の側近だった者たちを容赦なく処罰した。鳥羽伏見の戦いでは官軍側に立って戦った。つまり朝廷の顔色をうかがいながら、井伊家は幕末を生き延びた。

このことが維新後の彦根城保存につながったといわれる。明治になって全国の城が無用の長物として次々と壊されていくなかで、彦根城は明治天皇直々の命により、保存されることになったのだという。全国に12しかない江戸時代から残る天守の一つは、このようにして現存している。

近年、井伊直弼を文化人として再評価しようという声が高まっているそうだ。表門近くにある彦根城博物館には、直弼の詠んだ和歌がたくさん展示されていた。直弼という人は14男として生まれ、もともと藩主を継ぐ立場にはなかった。紆余曲折あって藩主となったのは36歳の時。それまでは「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた城下の屋敷に住み、茶の湯を習得し、国学の研究に没頭していたという。

36歳の家督相続。埋もれ木として生きていた文化人が、ある日いきなり歴史の激動の中に放り込まれ、後世に残るもっとも重要な決断の立役者となった。劇的な人生である。

「そういえば、NHK大河ドラマの一番最初の作品は、何か知ってはります? まだお兄さん生まれてへんかもしれんけど」と、Hさんが訊く。朝の連続テレビ小説なら「おはなはん」で、それならドラマの舞台である愛媛の大洲にも行ったことがある。でも大河ドラマは知らなかった。大方想像はついたけども。答えは井伊直弼を描いた「花の生涯」。原作は舟橋聖一で、これも結構売れた小説らしい。このようにして彦根に関する僕の豆知識は増えていくのだった。

「ひこにゃん」は、火・木・土・日にお城周辺に出没するらしい。つい最近は、吉田松陰の故郷である萩を訪れたという新聞記事があった。歴史というのはなんとも不可解である。昨日の敵は今日の友。一昨日の悪人は明日の英雄、かもしれず。教科書の中の井伊直弼。「現存12天守」という知識しかなかった彦根城。そういう歴史上の存在が、少し身近になった。書物を通じてではなく、人と話すことで、そう感じられるようになったことがうれしい。

そろそろ失礼しなければ、と思っていたら突然、大きな音がして腰を抜かしそうになった。耳をつんざくような鋭い金属音。茶室のすぐ隣にある「時報鐘」が鳴ったのである。時刻は午後3時。この鐘は今も2時間ごとの定時に撞かれ、城下に時を知らせている。撞き方が悪いと「聞こえなかった」といって、町の人たちから苦情が来たりすることもあるそうだ。

彦根の人々の暮らしは、今も城とともにある。町のシンボルとして、この城は多くの人に愛されているようだ。小ぶりで端正な面構えの彦根城は、旅人にも身近で親しみやすい城だ。

茶室を出たら、雨は止んでいた。鐘撞き台の正面に見渡せる城下の町をしばらく眺めてから、帰路についた。

後記
彦根城保存の経緯については、木下直之『わたしの城下町 天守閣からみえる戦後の日本』(筑摩書房、2007年)を参考にしました。この本を読むと目から鱗が落ちます。「城」という、それこそ日本全国当たり前のようにあるものが、いかに当たり前でない物語を、それぞれに持っているか。「現存だから価値がある」とか「復元だから無価値だ」とか、そういう城の見方しかできなかった自分が、少し恥ずかしくなりました。城好きの方はぜひ一読を。
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2009年09月04日

上代の残り香〜最長路線バスの旅〜

R0010966.JPG奈良県橿原市にある近鉄大和八木駅と、和歌山県新宮市の新宮駅を結ぶ奈良交通のバスは、「日本最長の路線バス」として知られている。160キロ余りの道のりを6時間半かけて走る直通便は1日3往復。紀伊半島の山深い道を、「日本一広い村」として有名な十津川村や湯の峰温泉、熊野本宮などに寄りながら、のんびり走る。なかなか行き難いけれど、なんとも魅力的なルート。8月初めの連休を利用して、全行程乗車に挑戦した。

新宮駅に下り立った途端、クマゼミの強烈な鳴き声に圧倒された。朝8時54分、改札を出ると、雲ひとつない濃い青空とシュロの木。南の国の夏である。バスが出るのは10時4分。発着場の位置を確認してから、しばらく駅前を散策してみた。

昨夜は三重の松阪に泊まった。夕方に長野を出て、名古屋経由で近鉄に乗り、松阪着が23時12分。空いていた駅前のホテルに泊まり、今朝の松阪発5時22分の普通列車でそのまま新宮へ。松阪滞在6時間、ホテルの無料の朝食が食べられなかったのが悔やまれる。それはまあ、自業自得で、寝坊した自分が悪いのだ。連休2日目。休みはもう、今日しかない。

とにかく朝食を、と探したが、駅周辺に店は見つからなかった。朝9時というのはまだ開店には早いのだろうか。夜型の生活だから、よくわからない。唯一開いていたのが駅そば。かきあげうどん430円也。一緒に売っていた「めはり寿司」を買って、持っていくことにした。売店のおばさんによると、「めはり」とは高菜のことで、それをばってらのように巻いた「めはり寿司」とは熊野地方の名物らしい。昔の農家ではこれを持って田んぼに出かけ、それは2つ3つでおなかがいっぱいになるように大きいのをにぎったため、両手で持って口を大きく開け、目を見張らないと食べられなかった、というのが名の由来だそうだ。

何気なくながめていた観光案内所のポスターに、「熊野大学」とあった。期日は今週末の3日間。島田雅彦、重松清、東浩紀、中村文則、中上紀と、そうそうたる面々が講演やセミナーに参加するという。没後17年を経て、いまだ衰えない中上健次の影響力の大きさ。毎年夏に集まって、玄人素人関係なく3日間、合宿して語り合うという「熊野大学」は、中上ファンならずとも、ちょっと魅力的な催しだ。いつかは参加してみたいなあと思う。中上健次はちょっと読むのが大変だけど。

新宮という土地は様々な歴史的エピソードに彩られている。それは駅前をぶらぶらしているだけでもわかった。3分ほど歩いたところに中国風の、キンキラキンの門があって、中を窺っていると、背後から声を掛けられた。「観光の方ですか」。振り返るとここにも小さな観光案内所があり、職員のおじさんが「役に立つでしょう」と言って観光マップをくれた。この「徐福公園」はその昔、秦の時代の中国から派遣され熊野に来た「徐福」という医者を称揚してつくられたもので、中にはその功績を記した石碑や墓があった。こぢんまりした公園で、誰もいなかったけれど、墓のたもとには、きちんと供えられた線香の煙が漂っていた。

R0010954.JPG駅前広場には「鳩ぽっぽ」の歌碑があった。滝廉太郎作曲のこの童謡に詞をつけたのが、東くめという人で、新宮藩家老の娘として生まれ、維新後上京して作詞家になったのだという。ちょうどシュロの木陰にある歌碑の周りに、たくさんの鳩が集まって休んでいるのが、なんとも微笑ましかった。

10時4分。いよいよ出発である。車両は定員40人ほどの、ごく普通の路線バスだ。乗り込んだのは70歳ぐらいのおじいさんだけ。乗客2人を乗せ、バスは定刻に出発した。

市街地を抜けて数分、トンネルを抜けると、いきなり山岳の険しい風景が広がった。熊野川の流れを右手に見ながら、国道168号の曲がりくねった道を、時速40キロくらいでバスは進んでいく。白い広大な川原の向こうの方に、緑がかった水の流れが見える。鮎釣りだろうか、流れのなかに人影がちらほら。ときどき耳がつまったようになり、高度がだんだん上がっているのがわかる。登るにつれて水の色は鮮やかさを増してくるようだ。トンネルをいくつもくぐりながら、しばらく行くと「平忠度(ただのり)生誕の地」という看板が見えた。山と海と川に囲まれた新宮。中上健次がいうように、熊野は陸の孤島である。この道は昔から畿内と熊野を結ぶ唯一のルートであり、それは今も変わらない。この平家の武士も、この道を通って都を目指したりしたのだろうか。

11時。田辺市に入る。川湯・渡瀬・湯の峰の3つの温泉地を経由するため、バスはいったん168号を離れ、県道に入る。川湯温泉では3人連れのおじさんが乗り込んできた。最後部に陣取った彼らはいずれも60代半ばぐらい。服装からみて近場の観光客か。関西弁のおしゃべりが背後からよく聞こえてくる。あちこち旅したときの体験を自慢し合っているようだ。友人同士で老後の温泉旅行を楽しんでいるのだろうか。静かだった車内が、少し賑やかになった。

湯の峰温泉で乗ってきた5人は、2組の夫婦と1人の女性で、服装からみて山歩きをする人たちのようだった。温泉街の道は細く、信じられないような勾配とカーブを、バスは時々対向車をやり過ごしながら、這いつくばって進む。「小栗判官蘇生の地」という幟がいくつも翻っていた。歌舞伎や浄瑠璃で有名なこの人は、室町時代の伝説的な人物で、藤原氏の貴族とされる。配流先で照手姫という美女に惚れたことがきっかけで恨みをかって、田舎の侍に殺されたが、閻魔大王に許され、この温泉で49日湯治して現世に復活したという。そういう話が昔からさまざまに脚色され、今も演じられている。伝説に彩られた山間の静かな温泉。こういうところで泊まってのんびり過ごしてみたいけれども、残念ながら休みはきょうだけ。またの機会に。

11時31分、熊野本宮大社。山が急にひらけたと思ったら、巨大な鳥居があらわれた。まっすぐに延びた参道と平屋の建物。ギリシアの神殿を思わせる荘厳な眺めである。

11時40分、奈良県に入る。十津川村は奈良県の5分の1を占めるという広大な面積を誇る。車内に流れるテープの観光案内が、そう教えてくれた。観光センター前で10分間の休憩。ここで始発の新宮から乗ったおじいさんが下りた。温泉目的の観光客なのか、家に帰る地元の人なのか、風貌からは結局、よくわからなかった。自分も下りることにする。煙草を吸ってバスの写真を撮ったりしていると、おじさん3人組がカップめんにお湯を入れて車内に持ち込んでいた。「その手があったか」。食べたいと思ったが、もう遅かった。

動き出したバスの右手に見える十津川高校は、奈良県最古の学校で、平成26年に創立150年だという。前身とか含めてどの時点から数えるのかわからないが、とにかく伝統校らしい。「祝・ボート部全国大会出場」という垂れ幕が掛かっていた。12時40分、まだ十津川村は終わらない。村役場前で通学の女子生徒が10人ばかり乗り込んできた。部活の練習の帰りだろう。テニスのラケットを持った子もいる。と、役場を出てすぐのトンネルを出たと思ったら、彼女たちは1人、また1人と下りていってしまった。「トンネルで自転車は危ないから乗られへんのや」と、例の3人組の誰かが言う。このおじさんたち、バスに次々起こる状況の変化について、いちいち解説しなければ気がすまないようで、会話はそれをきっかけにして弾むので、途切れることがない。

中高生やおばあさんなど、十津川村では地元の人たちが入れかわり立ちかわりして、これはやはり生活に根ざした路線バスなのだなあと感じる。村の市街地を抜け、再び山岳の道に入る。寄り添う川は、いつの間にか「十津川」になっている。夏の日差しが照らす川面の緑は相変わらず鮮やかだ。巨大な風屋ダムの横を通り、「風屋」停留所あたりで、新宮行きのバスにすれ違った。12時56分。大和八木を9時15分に出て15時39分に新宮に着く逆ルートのバスだ。

川沿いの道が険しさを増すにつれ、工事箇所がやたら目につくようになった。道を維持するだけでも大変なのだろう。「国道168号の高規格化を!」という立看板が見える。鉄道もない紀伊半島の真ん中の住民にとって、交通の充実というのは今なお、切実な願いなのだろう。でも仮に立派な道路が通ったとして、この地域の人たちは、今より幸せになるのだろうか。

13時22分。「上野地」で20分停車。まだ十津川村である。ここには「谷瀬の吊り橋」という名所があり、日本一の高さを誇るつり橋らしい。街道沿いのこぢんまりした集落を歩くと、どこか華やいだ雰囲気。「きょうは夏祭りやって」と、3人組の誰かが言っていた。5分R0010967.JPGほど登った所にその橋はあり、観光客でけっこう賑わっていた。高さ54メートル、長さ297メートル。家族連れやカップルがはしゃぎながら、こわごわと渡るのに続いて、幅1メートルほどの板を渡した道を自分も歩いてみる。吹き付ける風の中、揺れる橋。たしかにスリリングだ。はるか下には、川で泳ぐキャンプの子どもたちが見える。「揺れ太鼓」という幟が、欄干部分にいくつも立っている。それがきょうの祭りで、夕方から始まるということだ。ポスターには、細い橋の上に並んで太鼓を打つ男たちが写っていた。どんな演奏なのだろう。

十津川村がいつ終わったのか、結局わからなかった。目が覚めると15時、バスは五條市の市街地を走っていた。どこにでもあるような郊外の国道沿いの風景である。「あの川原んとこまで道広げんねん」「前電器屋やったんが、100円ショップに変わったんや」。おじさんトリオはまだ乗っている。どうやらこの辺が地元らしい。JR五条駅近くには昔ながらの商店街があり、「智弁学園指定」の看板を掲げた服屋もあった。あの有名な智弁学園はこんなところにあったのだ。15時17分、五條バスセンター着。ここで3度目の休憩である。

16時26分に着いた高田市駅で、おじさん3人組は下りて行った。昔「俺たちの旅」というドラマがあって、それは「カースケ」「オメダ」「グズ六」という3人の若者が出てくる70年代の有名なドラマなのだが、きょうのおじさんトリオを見ていると、そのドラマが思い出されて仕方がなかった。中村雅俊演じる豪放磊落な「カースケ」、優しすぎて失敗ばかりする田中健の「オメダ」、軟派で優柔不断な秋野太作(当時は津坂匡章)の「グズ六」。この3人の青春群像は、大学卒業から社会へ巣立つ時期の揺れる心情をリアルに描いていて、ちょうど自分もそういう時期にテレビ東京の再放送を欠かさず見て、いちいち共感したりしていた。

ドラマ本放送から30年あまり。「俺たちの旅」の3人も齢を重ね、いまでは還暦ぐらいのはずだ。もしかしたら、きょうのバスのおじさんトリオのようになっているかもしれない。若い時の楽しかったこと苦しかったこと、そういう思い出を全部、お互いに知っていて、何でも話せる関係が、老境に達した今でも続いている。人生という旅をともに歩いて40年。きょうの3人組、そういう仲間だったらいいなあ、と思った。

16時45分。バスは10分ほど遅れて無事、終点の大和八木に着いた。駅前は夕刻のあわただしい日常の風景。通勤の人や買い物のおばさんたちが忙しそうに歩いている。1日がかりの大旅行を終えたバスは、その余韻を残すことなく、数人の客を下ろすとすぐに去っていった。「最長路線バス」に気を留める人は、だれもいないようだった。
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2009年08月27日

もうひとつの夏

R0010999.JPG日本文理の驚異の粘りを振り切って中京大中京が辛くも優勝した今年の甲子園。壮絶なドラマに日本中が湧いたその翌日、私は兵庫県の明石にいた。ちょうどこの日に開幕した全国高等学校軟式野球選手権大会を見るためだ。

主会場となる明石公園野球場は、城跡につくられた兵庫県立明石公園のなかにある。JR明石駅から徒歩1分。道ひとつ挟んでお堀と石垣があり、線路に平行に続いている。見上げる石垣の上を這うように築かれた白壁の塀が山の稜線のように、視界を上下に分けている。青い空の向こう側には真っ白な入道雲。今年はあまりお目にかかれなかった、夏の空である。

公園の中を野球場に向かっていると、サイレンが鳴った。時刻は午後1時10分。ちょうど第1試合が終わるころだ。第2試合の最初から見ることにしよう。

それにしても、気持ちのいい公園だ。芝生の広場で野球に興じる小さな子どもたち。木陰のベンチで語らう老人夫婦。にぎやかすぎず、さびしすぎず。時間がゆっくり流れる夏の午後だ。通り過ぎる風が優しく肌をなでる。日差しは強いけれど、歩いても汗だくにならない。なんとなく秋の気配が感じられる。

球場にチケット売場はなかった。それもそのはずで、入場無料、出入り自由なのだった。土に汚れたユニホーム姿の選手たちが、制服の女子生徒や父兄らと談笑している。試合を終えたばかりなのだろう。ここには周りを取り囲む報道陣もテレビカメラもない。体格もごく普通の選手たちが、ごく普通の高校生のようにふるまっている。

午後1時30分に始まった第2試合は、宮城の仙台商業と山口の大津高校という県立高同士の対戦。スタンドの座席は内野のみで、外野は芝生になっている。甲子園のアルプスにあたるところに各学校の応援団がいて、1塁側の仙台商は赤いTシャツを着た人たちが50人くらい。対して大津は100人ほど。父兄とおぼしき大人がほとんどで、生徒はユニホーム姿の野球部員くらいの仙台商に対し、大津は10人編成くらいのブラスバンドもいれば、制服の一般生徒も父兄もいて、にぎやかだ。全国大会とはいえ、やはり軟式。遠くの学校はちょっとかわいそうだ。甲子園ならこんなことはないだろう。見やすい席を探して、1塁側の応援席横、上段の方に陣取った。ここならネットに邪魔されず全体を俯瞰できる。両翼100メートル、センター120メートル。内野の土も外野の芝もよく手入れされた、美しい球場だ。観客は3割くらいの入りだろうか。硬式の地方大会より少ないのは間違いない。3塁側スタンドの向こうに、明石城の櫓が見えた。

先制点は2回表の大津だった。仙台商のエラーの間に1点。さらに3回に6点、4回にも1点と、大津は着々と加点していくのに対し、仙台商の方は全く打てない。それだけ大津のピッチャーの調子がいいようだった。でも目立ったのは、仙台商のエラーが多さ。しょっちゅうポロポロやって、つまらないミスで相手に点をやってしまう。送球や捕球という、ひとつひとつのプレーを正確にこなすのは大津の方で、そういう基礎の積み重ねの出来不出来が、勝敗を分けたようだった。

軟式野球に派手な打球は少ない。芯でとらえてもカキーンなどと響くのでなく、「シュポッ」というようなくすんだ音がする。基本的にボールは飛ばない。当たり損ねの回転がかかった打球がファウルなどでボールデッドにならずに、生きるので、内野安打が多い。守備位置はずいぶん前だ。前進守備のショートなどはピッチャーのすぐ後ろにいる。外野は半分より前が定位置で、ライトゴロなどというのもあった。派手なプレーはいらない感じだ。地味な分だけ、守備の基本的な部分が、より大事になるのかもしれない。

面白かったのは大津の応援。ブラスバンドがうまい。うますぎて野球の応援らしくない。演奏曲は「ルパン」「ウルトラセブン」「銀河鉄道999」「タッチ」「風になりたい(宮沢和史)」「はぐれ刑事」等々。それらのきれいめな曲をイントロ部分から、繊細なハーモニーをつくって演奏している。よく見てみたらブラスも含め、女子生徒が圧倒的に多かった。声援もなんだかかわいい。それでも学ランの男子応援団が前の方に、3人だけいたのがほほえましかった。こういう応援もなかなかいいものだ。

10対1で大津リードの7回、3塁側に移った。応援席の近くまでいくと、そろいのTシャツを着た年配の人たちがたくさんいた。ときどき女子生徒が来て、ジュースを配ったりしている。寄付がどうのこうのという会話が聞こえる。どうやら関西在住のOB・OGたちのようだった。関西弁とは違う地元の言葉を使って、この機会に旧交を温め合っているのだろう。尽きないおしゃべりに夢中である。

試合は11対1で大津の勝ち。校歌斉唱では、グラウンドに整列した選手たちと一緒に、OBのおじさんおばさんたちも立ち上がって、歌った。何十年立っても忘れずに歌える歌があるというのは、なんと幸せなことだろう。見ていてそんなふうに思える光景だった。時計を見ると午後4時25分。いつの間にか赤みを増した日の光が、目に染みた。帰ろうとして振り向いたら、どこから来たのか、後ろの座席にとんぼが一匹、とまっていた。惜しいけれども、季節は容赦なく巡っていくようだった。


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