2017年06月24日

小泊の「たけ」、再会の地で 〜「津軽」をめぐる旅

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人生において大切な人と、数十年ぶりに再会するということがあったとして、自分はその時、どんなふうに振る舞うだろう。太宰治の小説「津軽」を読むたびに、そんなことを考える。1944年の5月12日から6月5日にかけて、35歳の太宰はこの作品を書くために帰郷し、「忘れ得ぬ人」たちを訪ねて歩いた。風土を描くことはすなわち、「人の心と人の心の触れ合いを研究する」ことだと言う太宰は、旅の体験を踏まえつつ、主人公である「私」と、久しぶりに会った旧知の人々との間に生じる距離感や心の動きを、慎重に、客観的に描き出している。この作品は、太宰が故郷を懐かしんで書いた個人的な記録ではなく、誰の人生にもある「再会」の意味をあらためて、冷静に問い直す小説である。だから読者は主人公の「私」に自分を投影しながら、越し方行く末の「再会」について思いを馳せることができるのだろう。

◆ ◆ ◆

鏡のような水田の平野を過ぎ、山深い峠道を越えると、車窓に海が広がった。津軽中里を出たバスは、車体が古いのか道が悪いのか、上下左右に激しく揺れながら、かれこれ1時間以上も走り続けている。薄曇の下の白波を眺めながら、太宰の言う通りだ、と私は思う。「人の肌の匂いが無い」北津軽の風景。同じ津軽半島でも、金木や中里あたりの内陸部と違って、西海岸まで来ると自然が前面に出てきて、親しみよりも厳しさが勝る。確かにそんな感じがある。小泊までバスで約2時間、と太宰は書いた。73年後の現在は、1時間半。小泊は昔も今も、遠い町なのだ。

「小泊小学校」というバス停で下り、「小説『津軽』の像記念館」に向かった。「津軽」のクライマックス、「私」が子守の「たけ」と30年ぶりに会ったのが、この小泊だ。小学校の裏手の小高い丘の上には、その再会の場面を再現した銅像が建てられている。

太宰は3歳から8歳まで、実家の津島家の奉公人だった越野タケに見守られて育った。タケが小泊に嫁いだ後、一度も会っていなかったという太宰は、「故郷といえば、たけを思い出す」ほど再会を願ったと書いている。人に聞きまわって家を探し当てたものの留守で、あきらめかけた時に偶然「たけ」の娘と会い、運動会が行われていた学校に案内されて、やっとのことで再会を果たす。そんな劇的な場面が、「津軽」の最後に展開する。

 「修治だ」私は笑って帽子をとった。
 「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、 さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小 屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと 正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私に は何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中 に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。 平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を 体験したと言ってもよい。・・・・・・

正座した「たけ」の隣に、足を投げ出してくつろいだ「私」。2人が並んだ銅像は、確かに、学校のグラウンドを見下ろすように建てられていた。耳を澄ますと、会話が聞こえてきそうな2人の態勢。そして距離感。良くできている。これを造った人は、きっと「津軽」を穴の開くほど読んで、研究したのだろう。いろんな角度から見たり、写真を撮ったりしていると、「どちらからいらしたんですか」と声を掛けられた。紺の羽織を着た年配の女性。記念館の人だろうか。長野です、と答えると、「まあ、遠くから」とその人は感心した様子で、にっこり笑った。

「今日ちょうど、運動会だったんですよ」
小学校のグラウンドを指差して、女性が教えてくれる。太宰が小泊に来たのは1944年の5月27日。土曜日だったそうだ。今日は2017年の5月28日、日曜日。グラウンドには誰もいなかったけれど、よく見ればその一角に、白いテントの屋根や骨組みの鉄骨が置かれている。太宰が「悲しいほど美しく賑やかな祭礼」と書いた戦時中の運動会。筵の掛小屋が立ち並び、たくさんの家族が見物したというが、果たして今はどうなのだろう。「もしよかったら、朗読聞いていきませんか」と女性が言う。記念館で「津軽」の読み聞かせをしているのだという。

入館料200円を払って記念館に入ると、左手にガラス張りのテラスがあった。勧められるままに椅子に座ると、正面に銅像が見える。銅像と記念館は一体の施設で、この二つを合わせて「再会公園」というらしい。記念館にはタケの写真や映像、太宰との再会のエピソードを紹介するパネル展示などがある。タケは戦後もずっと小泊で暮らし、1983年に85歳で亡くなった。生前には、直接家を訪ねてくる太宰ファンもいたそうだ。

女性は私と斜向かいに座ると、手提げ袋から新潮文庫版の『津軽』を取り出し、背筋を正してひと息ついてから、ゆっくりと読み始めた。

「津軽。ある年の春、私は、生まれて初めて本州北端、津軽半島を・・・」
語りかけるような津軽弁を聞いて、なるほどそういうことか、と私は納得した。女性はこの訛りを聞かせたいのだ。方言のリズムに乗って、言葉から情景が立ち上がってくる。おばあちゃんが語る昔話を聞いているように、私は物語の中に引き込まれていった。女性は要所を抜粋して読み進めていく。「美しく賑やかな祭礼」の一節を聞いて、「津軽」って言葉遣いが面白いんだな、と思った。太宰の言葉には、聞く人の気持ちを解きほぐすような響きがある。今まであまり意識しなかったけれど。

小泊での再会の場面になると、女性は本を伏せ、目を閉じた。「たけ」の言葉は特に感情を込めて語っているのが分かった。たとえば「子供は、幾人」を「わらしこは、何人」とするなど、アレンジを加えている。朗読というよりも、演技に近い。実際のタケさんもこんな風に穏やかな話し方をする人だったのだろう。語り続ける女性の横顔が、モノクロ写真の優しげな面差しに重なって見えた。

「すごいですね。演劇でもやってらしたんですか」
朗読が終わると、私は聞かずにはいられなかった。女性は片付けの手を休めて、経験を話してくれた。2005年に青森県立美術館の開館プレイベントとして県民参加の演劇「津軽」が上演され、女性はそこで初めて「たけ」を演じた。それ以後、何度か再演された舞台でもオーディションを受けて、「たけ」役を続けたという。

なぜ朗読の活動をしているのか、という質問に、女性は「自分には責任があるから」と答えた。女性はTさんといい、元役場職員。旧小泊村役場の観光担当の部署にいた30年ほど前、村の振興策として「津軽」の銅像の設置を発案したのだという。1989年に銅像が建てられた後は、掃除したり、訪れる人に説明したり、7年後に記念館ができるまで、自主的に管理を続けた。その発案者としての責任感が、今の活動の原動力になっている、ということだった。朗読は太宰の生誕100年の2009年に始め、現在は月2回のペースで続けているという。

Tさんの話を聞き、展示を一通り見て戻ってくると、テラスに夕日が差し込んでいた。閉館時間が迫っている。私には、小泊でもう一ヵ所、気になる場所があった。運動会を見た後、「たけ」が一緒に行こうと「私」を誘う「竜神様の森」。八重桜が咲く小道で、「たけ」は堰を切ったように能弁になり、心の内を語りだす。聞いてみると、森は20年ほど前に伐採されたが、道は残っていて、そこに建て替えられた竜神様があるという。「一緒に行きましょうか」とTさんが案内を申し出てくれた。

記念館を出ると、青い空が広がっていた。手提げ袋と上着を持って出てきたTさん、右手で杖を突いている。脚が悪いのだろうか、と思いながら聞けないでいると、片脚が義足なのだと教えてくれた。10年ほど前に骨の病気で手術をして、膝から下を切断したのだという。
「近くだから大丈夫ですよ。ゆっくり行きましょう」
竜神様はここからさらに丘を上ったところにあるという。私は心苦しくて、荷物を持ちましょうと提案したが、女性は「大丈夫ですよ」と笑顔で固辞した。

振り返ると、家々の屋根が、日の光を受けて輝いている。小泊は思ったより大きな街だ。ここで生まれ育ったというTさんは、「太宰の書くことが他人事とは思えない」と言う。太宰は津軽の人たちを正確に描いている。たとえば「たけ」が30年ぶりに会った「私」に、「子供は、幾人」と尋ねるのはなぜか。親戚関係を重んじるこの地の人たちにとって、子どもの数を尋ねることは近況を知るよすがになる。津軽人の感覚として、そういう会話がよくわかる、という。

10分ほど歩くと灌木の茂みにぶつかった。「ああ、ここにあった」とTさんが、「太宰とたけ再会の道」と書かれた石碑を指し示す。「津軽」の再会の場面の一節が彫ってある。「津軽」の文学碑はここを含めて小泊に六つあり、それらは最近、地域の観光振興のために建てられたということだった。

茂みの切れ目から入っていくと、一本道に出た。両側に緑の灌木。頭上は青い空。さらさらと風が吹き抜ける音がした。明るくて気持ちのいい道だ。昔はここは木に覆われていてね、とTさんは足を止め、空を仰いだ。「もちろん八重桜もあって、花見に来る人もたくさんいたんですよ」
「Tさんもよく来られたんですか」
「はい。竜神様にも通ってお参りしました」
建て替えられたという竜神様は、なかなか立派な建物だった。赤い鳥居と、赤い柱の社殿が、灌木の緑に映えている。Tさんは竜神様にどんなことを祈願していたのだろうか。少し気になったが、訊くのはやめた。

「もし宝くじが当たったらね」と、帰り道、Tさんが唐突に言った。家も同じ方向だから、バス停まで送ってくれるというのである。「ここにもう1回木を植えて」と、Tさんは続けた。「竜神様の森を昔の姿に戻したいんです。土地を買い取ってね。それが私の夢」

小学校近くのバス停まで歩きながら、Tさんは「津軽のむかしこ聞きますか」と言って、「松毬(まつかさ)と姉妹」を津軽弁で語った。「むかしこ」とは昔話のこと。同じ分量の松笠でごはんを作れと言われ、ケチで用心深い妹が松笠を少しずつ燃やしたためにうまく米を炊けなかったのに対し、おっとりした姉の方は気前よく燃やしたために楽に多くの米を炊くことができた、という粗筋で、「津軽」にも出てくる話だ。津軽には「むかしこ語り」の文化があり、だからこそ太宰は古典や民話を題材にした作品をたくさん書いたのではないか、とTさんは批評家のような分析をして、私を驚かせた。

無理をして歩かせてしまったけれど、Tさんは生き生きしているので、私の気持ちは少し軽くなった。灌木の道に、人影が長く延びていた。二つ並ぶその影を見て、祖母と孫のようだと私は思った。

「今度はゆっくり来ようと思います」別れの言葉を言い終わらぬうちに扉が閉まり、最終便は発車した。バス停で見送るTさんが、遠ざかっていく。手を振りながら、私は彼女の「責任感」という言葉を思い浮かべた。「津軽」が再演されるとしたら、Tさんはきっとまた「たけ」を演じるだろう。その時はぜひ見に行こうと思った。Tさんは、私にとっての「忘れ得ぬ人」である。再び会うとしたら、その時は何と言おう。どう振る舞おう。どんな顔をしよう。夕日に染まった海を眺めながら、もうそんなことを考えていた。
 



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2016年06月21日

太宰治、もうひとつの家

太宰治は終戦間際の昭和20年7月、妻子を連れて故郷の金木に帰った。三鷹の家と、甲府の妻の実家が続けて空襲に遭い、津軽の生家を頼ったのであった。長兄が後を継いでいた津島家で、太宰と妻子が1年余りの疎開生活を過ごしたのが、母屋(いわゆる「斜陽館」)の離れであった「新座敷」。その建物は現在、斜陽館から100メートルほど離れた場所にあり、「太宰治疎開の家」として一般公開されている。

「まず、これを見てください。この中に太宰がいます。どれか分かりますか」
入館料500円を払うと、男性がモノクロの写真を見せてくれた。洋間の長椅子に座る5人を正面からとらえたショット。左端に、赤ん坊を抱いた学生服の少年がいる。指差すと、「その通り。さすがですね」。写真の太宰は16歳で、一緒に写っているのは三番目の兄と、弟、それに幼い姪2人。この新座敷で撮られ、平成21年に初公開された写真という。「洋間は当時のまま残っています。今からご案内しますね」

受け付けから靴を脱いで奥に入ると、「ここからが新座敷です」との案内板。建物はつながっているが、別棟らしい。男性の後について新座敷に入ると、廊下がキュッキュッと鳴った。鴬張りだそうである。離れの部屋は五つ。洋間は、コの字形の建物の真ん中にあった。白壁で、造りつけのソファがあり、その上の大きな装飾窓から陽光が差し込んでいる。「これ、写真の背景に写っていましたね」と示されたのは、壁に造り付けの木の扉。開けると、中は棚である。ここに洋酒の瓶をずらりと並べていたそうだ。よく見ると扉には、ハートの形の細かい彫刻が施されている。新座敷は、太宰が13歳の時、長兄文治の新婚生活のために建てられたのだという。「凝っているでしょう。まだ新築のころ、少年の太宰はこの部屋にいたお嫁さんをそっと覗いて、母屋の人たちにその様子を報告したそうです」

次に案内されたのは、太宰が書斎にしていたという六畳間。真ん中に文机と座布団が置いてある。「座ってみてください」と勧められ、腰を下ろしてみた。床の間、ふすま、梁、天井・・・年月を経た部屋にはまだ生活感が漂っているようで、懐かしい感じがする。なんだか知り合いの家に遊びに来たような気分だ。太宰はここで、「トカトントン」や「庭」など23作品を執筆したそうだ。

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続きの部屋は、太宰の母が病室に使っていたという十畳間。疎開の3年前、太宰は病床の母を見舞うため、初めて妻子を連れて帰郷した。その時のことを「故郷」という作品に書いている。
「母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた」
母に妻を紹介し、わが子の手を握らせた後、ひとり洋間に退き、涙をこらえる。作品には、そんな情景が描かれている。
「いろいろあって、太宰はその前の年まで10年間故郷に帰れませんでした。実家に対しては複雑な思いがあったでしょう。お母さんの姿を見てどんな気持ちだったか、この部屋で想像してみてください」
男性は、手に持った家の間取り図と、新潮文庫のページを示しながら、語りかけるように説明を続ける。静かな口調に説得力があって、話を聞いていると、ここで暮らしていた津島家の人々の姿が立ち上がってくるようだ。

男性は白川さんといって、この建物の現在の所有者ということだった。新座敷は戦後、母屋を売却して青森に移った津島家が、金木の居宅として残し、現在地に移された。その後、人手に渡り、昭和39年に買い取ったのが、隣の敷地で呉服店を営んでいた白川さんの父親。ずっと使われていなかったが、家業を継いだ白川さんが39歳の時、諸々の事情で店を閉めることにしたのを機に、貴重な建物の存在を多くの人に知ってほしいと公開を始めたそうだ。

訪れる太宰ファンに正しい説明ができるようにと、作品や資料を読み込んで勉強したという白川さん。平成19年の公開当初は知る人ぞ知る「疎開の家」だったが、そのうちに雑誌などでも紹介されるようになり、少しずつ存在が知られてきたという。「説明、うまいですね」と言うと、「いえいえ、まだまだです」とほほ笑む。「店をやっている時は接客が下手で、商売は向いてないとよく言われたものです」。謙虚な言葉のうちに感じられる強い意志。この人の人生についての話も、ゆっくり聞いてみたいと思った。

帰りしな、受け付けの隣にある販売スペースで、「太宰トートバッグ」と「走れメロスTシャツ」を買った。「疎開の家」オリジナルである。これらのグッズは白川さん自ら企画したもので、インターネットのサイトやイベント出展などでもPRして、販路を開拓しているということだ。「最近やっと軌道に乗ってきたかな、という感じです」。施設の運営から建物の手入れまで、行政などの補助は受けず、個人で続けているとのこと。所有者とはいえ、その苦労とはいかばかりのものであろうか。

疎開の前年、35歳の太宰は津軽地方を巡る旅に出て、「津軽」を著した。その中で「大人とは、裏切られた青年の姿である」と書いているが、彼は大人になることで初めて、故郷と素直に向き合えたのではないか。年齢を重ねて、親や兄弟、親戚、友人たちと「大人の関係」を結ぶ術を身に着けた彼は、やっと故郷に居場所を見つけた。新座敷にたたずんでいると、ここがその「居場所」であったのかもしれないと思えてくるのだ。

パーソナルな作家のありようを、時を経てもなお、パーソナルなままに感じられる場。それを支えているのは、一市民のパーソナルな志であった。太宰が故郷と向き合った居場所は今、その作品を愛するすべての人の居場所として、開かれている。

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2011年11月27日

君のひとみは10000ボルト@

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下北半島の薬研温泉にて。

出発の朝、旅館近くのバス停で待っている私に向かって、一目散に駆け寄ってかけ寄って来た。
見るものすべてが物珍しいといった態で、鼻息荒く、片時もじっとしていない。散歩がよほどうれしかったのだろう。道の向こうで、飼い主のおじさんがこちらを見守っていた。

(2007年8月20日)
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2011年06月29日

風街彷徨

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 水をたたえた田んぼに、ちぎれ雲を浮かべた空が映りこんでいる。畑は起こされたばかりのようで、土が黒々として瑞々しい。大地は芽生えの予感に満ちて、輝いていた。何枚もの田畑と幾筋もの川を越えながら、米沢行きのディーゼルカーは1両きりで、淡々とペースを刻んでいく。

 流れ行く風景に、曲のリズムがシンクロする。昨日転送したばかりのフェアーグラウンド・アトラクションのアルバム「ファースト・キッス」。こうして外で聴いてみると、あらためてエディ・リーダーの声はいいなあと思う。無造作だけど品のよい色香がそこはかとなく耳に残る。SENNHEISERの開放型ポータブルヘッドフォンの装着感も抜群で、何時間聴いていても耳が痛くならない。このアルバムに収められている「パーフェクト」という曲は、1988年に発表され世界的に大ヒットした。それを知ったのはつい最近のことだ。職場のT先輩が教えてくれた。70年代の曲だと思い込んでいた私は、先輩の言葉をそのまま信じることができず、CDを買いに走った。そうして自分の目で確かめてから、ようやく納得したのだった。

 山並みは青くかすんだままで、一向に近づいてくる気配がない。そろそろ山形県に入るころだが、まだしばらくは平野の風景が続きそうだ。昼下がりの車内は乗客もまばらで、時間が止まったようである。ボックスシートのひだまりに、エディの声が吸い込まれていく。
 80年代の後半になぜこの曲が受けたのか。聴くたびに気になって、考えてしまう。ノスタルジーをフィクションとして再構成するという戦略が斬新だったのか。あるいは、バブルに踊り疲れた人々が、そこに癒やしを求めたのかもしれない。「んなこと、どうでもいいじゃん」と、T先輩は言う。たしかにそのとおりだ。音楽を理屈でとらえるのは悪いことではないが、そうすることで結局、自分は損をしているのではないかと時々思うことがある。

 心をさらけだせ。頭を空っぽにせよ。そのように自分に言い聞かせなければならないのは情けないことだ。いまは考えるべきではない、という時が人生には確かにある。そういう大事な瞬間を、振り返ってみれば自分はいつもないがしろにしてきた気がする。
 T先輩はいい人だと思う。最近では奥さんや子どもが寝静まった後に、レディオヘッドの新譜を聴いているらしい。元オアシスのリアムが結成したビーディ・アイのファーストアルバムを、小遣いをやりくりして買ったと言っていた。そんな42歳である。悪い人のわけがない。音楽を頭でなく、心で感じている。そんな大人に、自分もなれるだろうか・・・

 とりとめなく去来するよしなしごとに、寝不足の思考回路が耐えられなかったらしい。目が覚めたのは今泉駅に着く直前だった。アルバムの再生を終えたウォークマンのディスプレイが待機モードになっている。心なしか乗客が増えて車内が活気づいていた。
 14時57分、今泉着。ホームに降りた途端、起き抜けの体がよろめいた。風が吹いている。飛ばされそうな勢いだ。寒さは感じないが、少しひんやりして心が引き締まった。接続駅らしく、ここで下車する人は少なくない。跨線橋からは周辺の様子を見渡すことができた。一面の畑である。山並みは相変わらず遠くにある。風をさえぎるものは見当たらない。隣のホームでは、山形鉄道の車両が静かに発車を待っていた。
 

 「時は止っていたが汽車は走っていた」 


 昭和20年8月15日、作家の宮脇俊三は、この今泉駅で終戦の詔勅を聞いた。当時19歳、新潟県の村上で疎開生活を送っていた宮脇は、数日前から、父とともに汽車の旅に出ていた。大石田で所用を済ませた帰途、奥羽本線から長井線(現在の山形鉄道)を経て、今泉で米坂線に乗り継ぐところで、正午を迎えたのである。
 駅前広場に整列し、ラジオに耳を傾ける人々。放送が終わっても人々は立ち尽くしたままで、動かない。真夏の日差しの中、蝉しぐれだけが響いている。そんな不思議な時間の流れを断ち切るように、改札係が汽車の到着を告げる。まもなく、いつもと同じ蒸気機関車が、入線してきた。機関士も助士も、何事もなかったかのように業務をこなしている。
 汽車が平然と動いているのを見て、自分の中で一度止まった時間が再び動き始めた、と宮脇は言う。過酷な状況のなかで「いつも通り」であることの有難さ。非日常のなかに息づく日常を見て、人は心強く思う。戦争に負けた。でもそれで世界が終わったわけではない。その確信が生きる希望につながった。宮脇はおそらく、そういう体験を踏まえた上でこの1行を綴ったのだ。


 駅前の広場に人影はなかった。バスやタクシーも見当たらない。広い空に風が舞っている。切妻屋根の駅舎は古くもなく、新しくもなく、これといって特徴のない建物だ。周辺に民家はないが、広場に面して旅館が2軒、向かい合うようにして建っている。いずれも風格ある門構えの、立派な木造の建物だ。66年前に建っていたとしてもおかしくはない。

 電線がビュンビュン音をたてながら、激しく揺れ動く。駅前から延びる一本道をしばらく歩くと、ぽつぽつと民家が現れ、だいぶ街らしくなった。丁字路を右に曲がってみる。ゆるやかにカーブする狭い道の両側に、木造の家屋が並んでいる。昔の街道なのかもしれない。
 この辺りは長井市というらしい。歩道のない道を、軽自動車が結構なスピードで走り抜けていく。歩いている人はいない。家の中に息をひそめて、人々は生活しているのだろうか。外はこんなに日が降り注いでいるというのに。

 「パーフェクト」は春の曲だと思う、と彼女は言った。あちこちの軒先で子育てをするツバメを見ていると、そんな聞き覚えのある声がふっと、よみがえったりする。思い出は美しすぎて、もう手が届かない。記憶のスクリーンの真ん中で立ち尽くしているのは、心をさらけ出せないでいる自分だ。このままでいいことも、このままじゃ困ることと同じように、長くは続かない。つかの間の幸福を体いっぱいに表現するツバメたちは、そのことを知っているだろうか。

 民家が途切れ、視界が開けてきたなと思ったら、広い国道に出た。いくつもの車線をひっきりなしに車が流れている。道の両側には茶色い畑が一面に広がり、それはまっすぐに延びる細い道路で区切られていた。起伏のない土地である。連綿と続く畑の向こうがかすんでいる。点のように見えるのはトラクターだろうか。スケール感のある風景が、北海道の道東あたりを彷彿とさせる。
 何を植えるのだろう。知りたいけれど、近くに人の姿が見当たらず、訊くこともできない。山形鉄道はフラワー長井線というぐらいだから、あるいは何かの花かもしれない。道端に所々、白い水仙が咲いている。これは畑の作物ではないのだろうと思いながら、しゃがんで写真を撮っていると、短い雑草に混じって細い枝のようなものが見えた。
 ツクシである。10センチほどのかわいらしいのが草の間から、注意して見るとあちこちに顔を出している。これほど間近に見るのは初めてかもしれない。疑いようのない、春の証し。控え目な命の営みが、いとおしく感じられた。道端にしばらくの間たたずんで、ツクシの子たちの健気な姿を見守った。

 国道沿いに点在する建物の中には食事のできそうな店も何軒かあった。来るときに目星をつけておいたそれらの店で軽く何か食べたいと思うのたが、近づいてみると、どの店もことごとく営業しておらず、いくぶん歩き疲れた身に、この落胆はこたえた。ラーメン屋にしろハンバーグ専門店にしろ、道の向こうだったりこっちだったり、それぞれ離れているから、店にたどり着くのが一苦労なのだ。やってないのは許せるけれど、やってないと明示しないのは許せない。
 仕方なく1軒だけ見つけたコンビニ、セーブオンでおにぎりを選び会計をしようとした、その時のことである。
「おにぎりあたためますか」
「?」
一瞬、耳を疑った。思いもかけない疑問文。
「おにぎり、あたためますか」
答えるタイミングを逃した私に、レジのお姉さんは、同じ言葉を繰り返した。口調がいくぶん、荒い。
「あ、はい。そうします」
髪を茶色に染め、どことなく昔の工藤静香を思わせるそのお姉さんは、表情ひとつ変えることなく、奥のレンジの扉を開け、鮭ハラミとおかかのおにぎりをその中に入れた。
 台湾のコンビニで弁当を買った時のことを思い出した。コンビニだから会話することもないだろうという無意識の思いこみがあるだけに、これがたとえば屋台なら、わからない中国語でも心の準備があるから対応できるのだが、コンビニの場合のように不意打ちで話しかけられると、とっさに推測するほかなく、そういう臨機応変な対処は自分がもっとも不得手とするところなので、そこで絶句してしまい、途方に暮れながら相手の目を見てほほえむしかなかったのである。
 日本語は理解できるけれども、状況と言葉の関係がつかめないという点で、山形のセーブオンにおけるやりとりは台湾のそれと通じるものがあった。北海道テレビ(HTB)に「おにぎりあたためますか」という名の番組があるが、あれはひねりではなかったのだ。少なくともこの山形では。
 今泉の駅に戻ると、駅前広場にタクシーが1台停まっていた。駅舎を出入りする高校生の姿がちらほら見える。夕方を迎えて駅はだいぶ賑やかになっていた。


 「今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。
 正午が近づくと、人びとが黙々と集まってきて、ラジオを円形に囲んだ。父がまた、『いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ』と耳もとでささやき、私の腕をぐっと握った。」


 宮脇俊三が見た光景を、自分も見てみたいと思った。人々のざわめきを、服の色合いを、空気のにおいを、感じてみたいと思った。彼はどの辺に立っていたのだろう。机が置かれた位置は。ラジオの大きさは。思い描いたロケーションを、目の前の風景に重ねてみる。広場の真ん中に立って何度か試してみたけれど、うまくいかなかった。想像の翼は飛び立つのだが、すぐに風に流されて見えなくなってしまう。風のせいばかりではないと思う。66年の懸隔。イメージの力で飛び越えるには、やはり遠すぎるのかもしれなかった。
 米沢には行かずに、山形鉄道で赤湯に向かうことにした。考えることと感じること、両方とも大事だが、これからは理性と感性をうまく使い分けられるようにならなければ。さしあたっての課題は、感性の方を鍛えることだ。ゆっくり温泉にでも浸かって、心と体を解きほぐしてみよう。
 リュックの中から取り出したおにぎりは、まだ温かかった。ありふれたコンビニのおにぎりだけど、食べるとちょっと元気が出た。


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   引用は宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫)から
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2009年06月14日

そうだ、会津行こう

「会津」にはどこか凛とした響きがあって、なにかこう、気軽に行ってはいけない気がする。来るなら背筋をしゃんと伸ばして、覚悟を決めてから来るべし。ふにゃふにゃした西国生まれの自分は、会津人からそう言われそうな感じがしたので、新幹線経由ではなく、只見線で行くことにした。

只見線は上越線の小出と会津若松を結ぶ全長135.2キロのローカル線で、1日3往復しかない直通列車は、この長い道のりを4〜5時間かけて走る。沿線の駅からはバスも出ておらず、乗客は否応なしに4〜5時間只見線だけと付き合うことになる。列車と乗客の真剣勝負。これなら会津人も文句は言うまい。

小出発5時32分。早朝の淡い光の中、2両編成の気動車は、広い構内の一番奥のホームの端から遠慮がちに出発した。次の列車は13時17分。会津若松着はほとんど夜である。だからどうしてもこの早朝便に乗る必要がある。そのために前日の夜、小出駅前のビジネスホテルに泊まったのだった。

30分ほど走ると、両側から次第に山が迫り、どこからともなく寄り添ってきた只見川の流れが、ローカル線らしい趣きを加える。と、次の大白川で26分停車とのアナウンス。まだ40分しか走っていない。のんびりしたものだ。

6時18分、大白川着。ホームに降りて深呼吸する。すぐ下に清冽な川の流れがあり、絶え間ないせせらぎと山間の冷気がなんともすがすがしくて、心地よい。
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駅舎の2階にはそば屋があった。「都合により6月中は休みます」。まだ5月なので昼間は営業しているのだろう。2階には観光案内所のようなスペースがあり、近郊の観光地を紹介するボードが置いてあった。近くにはスキー場や温泉があるらしい。ただしこれはもうボロボロで、もう随分前から使われていないようだ。過日の賑わいが想起されるだけ、観光地としての現在の衰退ぶりが強調され、なんとも悲哀に満ちた光景である。

大白川発6時44分。並行する川の流れがだんだんゆるやかになり、川幅も増してきたと思うと、ぱっと視界が開けた。田子倉ダムだ。湖面は瑪瑙のような深い色。スノーシェードとトンネルが連続し、なかでもひときわ長い「六十里越トンネル」を抜けると、そこが只見だった。

朝から何も食べてなかったので期待していたのだが、駅に店らしきものは見当たらず、がっかりしながら7時23分、只見発。このあたり、小さな集落が続く。田植えを終えたばかりの水をたたえた田圃が稜線を映して、薄曇でもその美しさに目を奪われる。そんな田圃の広がるなかにところどころ立ち木の固まりがあって、赤い建物が垣間見える。よく見るとそれは神社の鳥居なのだった。集落の人たちの心の拠り所として、何百年も前からそこに建っているのだろう。

只見の次が会津蒲生。ここから「会津」を冠した駅名が続くようになる。越後から会津の国に入ったのだ。ちょっと感慨深い。徒歩で「六十里越」した昔の人の思いはどんなだったろう。

田圃と集落の風景が延々と続く。いつまで見ていても飽きない。農作業する大人に交じって子どもたちの姿もあり、時々こっちに手を振ったりしている。誘われて窓を開け、身を乗り出してみると、すごい風。考えてみたら列車の窓を開けたのなんて何年ぶりだろう。窓の開かない車両ばかりになった現代の旅。乗客は密閉された空間で運ばれるだけ。おれたちはこんな風圧を受けて走っているんだぞ。年老いた旧型車両の、そんなつぶやきが聞こえた気がした。

どれだけ走ったろう。しばらくうとうとして目が覚めたら9時半。長いと思った只見線の旅も、もう残り1時間だ。いつの間にか車内に人が増えている。中高年の観光客が多い。外を見れば線路沿いにも人がちらほら。なにやら三脚にカメラを構えている。なんだろう。只見線はそんなに絵になるのだろうか。そこまで考えて、ハッと気がついた。急いで時刻表を開く。やっぱりそうだった。「SL会津只見新緑号」5月23・24日運転とある。その逆方向の会津から来る列車と、この先の会津坂下(ばんげ)ですれ違うことになっている。線路沿いに集まった人々の狙いは、この臨時運行のSLだったのだ。

会津坂下に近づくにつれて、線路沿いの見物人は増え、人垣ができるほどになった。車内もなにかそわそわと落ち着かない。主役の登場を待つ劇場のような高揚感。なにか連帯感のような雰囲気が車内にも感じられる。SLというのは、これほどまでに人の心をとらえるのだ。

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みんなの期待を乗せた列車は、満を持して9時57分、会津坂下着。煙を吐く機関車C−11の周りは、人、人、人。ホームで記念写真を撮ったり、乗る人も乗らない人も、子どもも大人も、みんな笑顔だ。なんとすばらしい風景だろう。どんなに美しい自然も、この車窓風景には及ばない。そんな風景を見せてくれた只見線に感謝したいと、今でも思う。

そんなに用事はなかったけれど、会津に行ってみてよかった。
posted by Dandelion at 06:31| Comment(1) | 東北の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

風光る五月

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半袖の腕に、やわらかな日差しが触れた気がした。仰いでみれば雲間から、ところどころ薄い青が覗いている。向こうの山の輪郭が、さっきよりはっきりしてきた。風はまだ強いけれども、もう雨が降る心配はなさそうだ。

2009年5月忘日、秋田内陸縦貫鉄道に乗った。奥羽本線の鷹巣と田沢湖線(秋田新幹線)の角館を結ぶ94.2キロのこの三セク線は、ことし開業20周年だそうだ。この長大路線の中ほどにある「阿仁マタギ」という駅の名が、ずっと気になっていた。何があるのだろう。いや、きっと何もないだろう。でも行ってみたい。何かがあるからとか、ないからという理由ではなく、ただ行って、見てみたい。そうこうしているうちに、10年以上の歳月が流れていた。

時刻表を眺めていると、長野から比較的アクセスが容易なことに気がついた。直江津発23時56分の寝台特急「日本海」に乗れば、鷹ノ巣着6時56分。なんと1本で行けるのだ。2連休の1日目、寝坊した私は、昼過ぎにこのことを発見し、その日の夜、22時24分長野発の信越本線直江津行き最終列車で出発することにしたのだった。

秋田内陸縦貫鉄道には「もりよし」という急行列車が走っており、これはある種の観光列車的な性格を付与された急行で、パノラマ展望車両を使用し、女性車掌が沿線の案内などもしてくれる。鷹巣発14時1分の「もりよし3号」の車内で私は、そのことを初めて知った(ちなみにJRの駅は「鷹ノ巣」だが、内陸線の駅は「鷹巣」と表記される)。2両編成の先頭車両に座る。乗客は4、5人といったところ。急行料金がかかるせいか、地元住民らしき人はあまりいない。運転席の後ろはガラス張りで、前方の視界も広い。

数分走ると、車窓が明らかに変わってきた。家が立ち並ぶ街の風景がいつのまにか途切れ、まっすぐに延びる線路沿いのずっと向こうまで、並木のように杉が整然と植えられている。針葉樹の原生林を豪快に切り開いて進んでいくような感覚は、まさに「縦貫」という語感がふさわしい。モーゼが眼前の海を2つに割っている光景が浮かんだ。(見たことはないが)

2両しかないけれども、後ろの車両も見てみようと、ごみを捨てに行くついでにぶらぶら歩いて行くと、車両の連結部のところに観光マップが置いてあった。ぱらぱらとめくっていてわかったのは、沿線に温泉がたくさんあること。駅から徒歩で行ける日帰り入浴施設もいくつかある。そのうちのひとつがなんと、「阿仁マタギ」駅にあるではないか。その名も「マタギの湯」。これで目的地は決まった。目的ができると、旅にメリハリがつく。最後まで目的が見つからず、曖昧でふわふわしたまま終わってしまう旅も、それはそれでいいのだが。

よそ見をしているうちに、車窓はまた変化をみせた。山林が後景に退き、前景には田んぼが広がっている。あぜで区切られた田には水がいっぱいに張られ、ところどころに人影が見える。そうなのだ、まさに今、田植えの季節なのだった。この辺り、みな手で植えている。コンバインは使わないのだろうか。うす曇りにもかかわらず、鏡となって空と向こうの山をそのまま映し出す水田からは、光があふれ、まばゆいばかりだ。山里とはこんなに色彩豊かな風景だったのかと思う。とりわけ鮮やかなのは、緑のコントラスト。あぜ道の下草、広葉樹、針葉樹、それぞれの緑の諧調が無限の組み合わさり、それは複雑だけど全体としては調和していて、見るものになんともいえない安心感を与える。

14時48分、中心駅「阿仁合」に着く。ここで14分停車ということで、ホームに降りてみる。写真でも撮ろうと車両の先頭の方に行こうとすると、どこから乗ってきたのか、鉄道マニアらしき人が何人かカメラを構えていた。駅舎で「蒸しきんつば」と「あきたこまちプリン」、缶コーヒーを買う。早朝秋田駅のロッテリア以来、何も食べていない。なぜ秋田駅で降りているのかというと、じつはこの日、午前中は男鹿半島に行っていたのだ。寝台特急「日本海」が1時間遅れたほどの強風が朝になっても続き、おまけに雨も降ってきて、そんな中男鹿駅からバスで1時間かけて行ってみた男鹿温泉郷には入れる湯がなく、その日の前半は、かなりみじめな気持ちで、すごすごと引き返してきたのだった。

列車が「阿仁合」を出るころには天気もだいぶ回復したようで、薄曇の中に時折太陽がのぞくようになった。太陽の光を加えた田園風景は、いっそう深みを増した色彩世界を展開し、それはほとんどドラマチックでさえある。日の光が加わり暖かくなった車内に、レールの継ぎ目の音が規則正しい響きを立てている。眠ったらもったいない。眠気に負けないよう、目を凝らして車内を観察しよう。運転席の真後ろ、すなわち私の前方にいつの間にか陣取った鉄道マニア2人組は、プリンを食べながら鉄道談義に花を咲かせている。ひとりは40代くらいで、もうひとりはおそらく20代。ビートルズが世代を超えるというのと同じ意味で、「鉄道」は世代を超えるのだ。さらに観察を続けたが、この車両の乗客はほかには見当たらなかった。「阿仁合」から25分走って15時27分、「阿仁マタギ」に着く。

歩き始めて25分。目指す「打当温泉マタギの湯」がようやく見えてきた。これだけの道のりは寝不足の身体にはこたえるけれど、心は晴れやかだ。山里をゆるやかにカーブしながら延びる一本道は県道だが、車は少ない。鳥のさえずりや川のせせらぎが絶え間なく聞こえてくる。風に揺れる木々や草花の葉擦れの音まで。耳をすませば、それらが和音のように一体となって、身体にしみわたってゆくのがわかる。

午後4時になろうとしていた。これから温泉に寄って夜の新幹線に間に合わせるためには、急がなければいけない。日が傾いて赤みがさしてきた。いよいよ陰影を増す山里の田園風景。暮れ始めた日の光は、水田の鏡に反射して増幅され、きらきらと輝いている。そんな風景のなかを歩いていられるというのは、なんと幸せなことなのだろう。私はどうしても先を急ぐ気にはなれないのだった。
posted by Dandelion at 06:25| Comment(0) | 東北の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする