2010年01月12日

南の島から来た手紙

NEC_0077.jpg加計呂麻島の民宿「はまゆう」から、便りが届いた。
今から2ヵ月前、11月のことである。

「はまゆう」は、10月中旬の夏休みに出かけた自転車旅行で泊まった宿。加計呂麻島の西海岸に面した西阿室という夕日の美しい集落にあり、90歳のおばあちゃんが切り盛りしている。このおばあちゃんと宿を手伝う息子さんと過ごす時間が楽しく、私は島に滞在した4日間、3泊すべてをこの民宿にお世話になった。

10月の終わり、私はおばあちゃんにささやかな贈り物をした。和歌をたしなむおばあちゃんは、着想が浮かぶと自分で墨をすり、毛筆でノートに歌を書き付けていた。「筆先が広がって小さい字が書きにくいの」と、自作の歌帳を見せながら、おばあちゃんは言った。旅から帰った私は銀座の鳩居堂に行き、和紙で綴った帳面と、狸の毛で作られた国産の小筆を選んで、旅先でお世話になったお礼の意味を込めて送ったのだった。

手紙には、贈り物への謝辞や島で過ごした際の思い出などが、一つ一つ力強いしっかりした字で綴られている。漢字のとめはねから送り仮名の使い方まで、その筆致は私の祖母の手紙にあまりに似ていてびっくりした。時々みかんを送ってくれる父方の祖母は93歳。愛媛県で元気に暮らしている。肉筆は人柄を表すというが、同じ時代を生きてきたこの2人の女性、字が似ているというのは、わかるような気がする。

おばあちゃんの手紙は、やはり短歌で締めくくられていた。「まづい歌ですが」という断り書きの後に、1行あけて、次の2首。

一 つわぶきの 黄色き花の 風にゆれ
  秋深み行く 野辺にたたずむ

一 幼な日の 磯辺に立ちて 遠き日の
  友思いつつ 岩をなづるも

まぶしい空と、静かな海辺の西阿室。遠い島で見た晩夏の情景が、鮮やかによみがえる。地に根を下ろして生きる人の歌だからこそ、伝わってくるものがある。島で過ごしたかけがえのない時間を、私はずっと忘れないだろう。

形のない、すてきな贈り物。
おばあちゃん、ありがとうございました。
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2009年10月30日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇N

番外編 日々の暮らしに温泉を

R0011372.JPG

9月15日。夏休み最終日。奄美から鹿児島に飛び、半日を過ごすことにした。貴重な休み、簡単には終わらせない。

鹿児島は温泉の街だ。活火山・桜島を間近に控えるこの街は、いたるところにお湯が湧いている。全国の県庁所在地の中で温泉の数が最も多いのは、この鹿児島である。なにしろ、街中のその辺にある銭湯も、そのほとんどが温泉なのだ。市内で組合(県公衆浴場業生活衛生同業組合)に加盟する56軒のうち、53軒が温泉銭湯だという。

鹿児島空港からバスに乗り、5日前と同じルートで再び鹿児島中央駅前に着いた私は、さっそく1軒の温泉銭湯に向かった。線路を跨いで駅の裏口に回り、大通りを西へ走ること5分。右手に見えてきたのは「太陽ヘルスセンター」である。初めて来たのは2年ほど前。「鹿児島の銭湯は全部温泉だ」と会社の後輩が言うのを聞いて、それをこの目で確かめ、また体験してみようと、日帰りでこの街を訪れたのだった。その時彼が勧めてくれたのがこの「太陽ヘルスセンター」。学生時代の貧乏旅行で、ここの仮眠室に泊まって宿代を浮かしたのだという。街の真ん中、ビルの2階にあって、設備は古くて狭いけれど、それがまた昭和の香りを漂わせていて、なかなかいいのだと彼は言っていたが、入ってみると確かにその通りで、値段も格安、客は近所の人たちばかりで、雰囲気は悪くなかった。街の暮らしに根づいている温泉、というのが新鮮で面白かった。

でもきょうは、ここには入らない。とりあえず健在であることを確認して安心してから、別の温泉銭湯に向かう。Uターンして来た道を少し戻ると、反対側にその銭湯はあった。「天然温泉・みょうばんの湯」。ここも街中のビルで、外観はさらに古めかしく、昭和は昭和でも「太陽ヘルスセンター」より30年ぐらいさかのぼった時代の雰囲気を醸し出している。2年前に来た時、気になったけれど時間がなくて素通りしたのが心残りだった。きょうは、この湯に入りに来た。

趣のある(薄汚れた)ビルの建物は意外と奥行きがあり、両側に下駄箱が並ぶ入り口を抜けると、一番突き当たりに番台があった。50代前半とおぼしきおばちゃんが、杖をついたおばあさんと立ち話をしている。「入りたいんですが」と言うと、料金とか、脱衣所の場所とか、丁寧に教えてくれた。明らかに旅行者の来る雰囲気ではない。場違いな私のなりを見て、初めての客だと察してくれたのだろう。

小学校の教室の後ろにあるような、むきだしの木のロッカーには当然、鍵もなく、カゴが置いてあるだけ。入る時に、「貴重品あったら預かるよ」と言うおばちゃんに財布を預けたので、心配はない。そそくさと服を脱ぎ、浴室へ。入ってびっくり。狭い。小学校の教室より小さな浴室。洗い場には裸の(あたりまえだが)おじいさんがずらり。部屋の中央に、5人も入れば満杯の浴槽が3つ、段々に並んでいる。体を洗ってから一番上の浴槽に入ろうと足をつけたとたん、飛び上がって声を上げそうになった。

ものすごく熱い! 

足だけでも到底無理なので、一番下の浴槽に行く。と、ここはそれほどでもない。熱めではあるが無理なく浸かることができた。段々の意味、それは一番上に湯の噴出し口があって、下の浴槽に流れるにつれて温度が下がっていく、ということだったのだ。それにしても、あんなに熱い一番上の浴槽に平気な顔で浸かっている人が何人かいる。いくら老人は熱いのを好むといっても、ちょっと度を越している感じがした。さすがは薩摩隼人、気合の入り方が違う。

上がって再び脱衣所へ。冷房もなく1台だけの扇風機も薩摩隼人のじいさんに占拠されているので、涼むこともできず、汗がなかなか引かなかった。少し湿ったまま服を着てから脱衣所を出て、番台で預けておいた財布を受け取り、コーヒー牛乳を買う。森永のビンのやつだ。いつものことだが「うまいんだなこれが」。腰に手を当ててぐいぐい飲みほすクレヨンしんちゃんを思い出す。このフレーズっていつのCMだったか。たしか和久井映見だったなあ。

ベンチに座って飲んでいると、つぎつぎに客が入ってくる。50代より下の人はまずいない。ほとんどがおばあさん。みんな顔なじみのようで、誰かが来るたびに、番台のおばちゃんは「あら○○さん、今日は早いのね」などと声を掛けている。そうするうちにも今度は風呂から上がったおばあちゃんも続々と出てきて話し込むので、ベンチを占領しているのも悪いと思い、もう少し見ていたかったけれど、帰ることにした。こういうところで友達同士、楽しそうなのは断然、女性であるおばあちゃんたちだ。おじいちゃんやおじさんは、風呂を出たらそそくさと帰っていく。鹿児島でもやっぱり、人生を楽しんでいるのは女性の方みたいだった。

R0011362.JPGその後私は、桜島に渡り、フェリー港近くの国民宿舎併設「マグマ温泉」に入ったり、長渕剛オールナイトコンサート跡地の「叫びの像(だったか?)」を見たり(コンサート会場が公園に整備され、観光名所になっている。長渕は鹿児島では英雄なのだ)してから、おもむろに携帯電話を取り出し、ANAのサイトで鹿児島19時5分発のANA630便を予約。暗くなるまでこの南国の都会をゆうゆうと走り回ってから、鹿児島を後にしたのだった。


羽田着20時50分。東京駅22時4分発の最終のあさまに乗って長野には23時52分に到着した。休みを余すところなく有効活用する、という旅の哲学を貫くことができたことにひそかな自負を感じつつ、この2009年夏の長旅を終えたのである。

R0011360.JPG→おまけ:古仁屋で見た少年相撲の練習風景。港近くにある土俵で午後6時半。









「南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇」おわり
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2009年10月29日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇M

海峡の光

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9月14日、曇り。朝から蒸し暑い。
島を去る日が来た。休暇は今日を入れて残り2日。どうしても今日、出発しなければならない。「明日でもいいのでは」。心のどこかに、そんな思いもある。たしかに明日、朝一番の船に乗れば、長野までだって帰れないわけではない。でも、それではいけない気がした。そうやって一度延ばしてしまったら、このままずるずると、いつまでも出発できなくなってしまいそうだった。

「落ち着きなさい。われわれはここに住み着く運命なのだ。いつでもチェックアウトはできるが、ここを立ち去ることはできはしない」

カリフォルニアの夢の跡に建つホテルの夜警はこう言ったらしいが、この民宿「はまゆう」にいても、耳をすませばそのようなささやきはどこからか聞こえてくるようだった。これはもう、ぐずぐずしてはいられない。下手をすると、自分もまた出口を見失ってしまうかもしれない。

時間を確かめると、西阿室午後5時20分発の最終のバスに乗っても、8時には名瀬に着くことがわかった。まあいいや、それまでゆっくりするとしよう。

朝食後しばらく部屋でごろごろしてから外に出て、集落にただ1軒の商店に行く。おばあちゃんにさんざんごちそうになった奄美産の黒砂糖を、実家に送ってやろうと思う。われながらいいアイディアだ。「ごめんください」と2回声をかけてやっと奥から出てきた店のおばちゃんから、黒砂糖と島名産の「さんご塩」を買って、その足で郵便局へ。小さな郵便局には40代後半ぐらいの女性職員が1人だけいて、メール便で送るように勧めてくれた。

1時間ほど海辺を散歩して帰ると、もう昼だった。「お世話になりました」と、おばあちゃんに3泊分の料金を渡す。消費税込み17000円也。夕方発つと言うと、それまでお腹が空くでしょうと、温かいソーメンを作ってくれた。

食事の後、おばあちゃんの部屋でしばらく話していたら、外に何やら大きな声で放送が流れた。「西阿室夏祭り」の録画をこれからCATVで流すと言う。さっそくテレビをつけると、8月末に行われた祭りのカラオケ大会の様子が映し出された。「あれは外から来た人」とか、「あの人は昔住んでいた人」とか、おばあちゃんが説明してくれる。テレビの中では入れ代り立ち代り、いろんな人が次々に登場して、自慢のノドを披露している。何人かの後で、若い女性がステージに上った。隣のIターンのお母さんだ。曲は「涙そうそう」。少し固い表情で、おずおずと、控えめながらもしっかりした声で歌い切ると、会場の人たちはひときわ大きな拍手で称えていた。「私も歌ったんですよ」と、いつの間にか部屋に来たショーミツさんが言ったが、結局最後まで登場しなかった。

夏祭りの放送が終わると、テレビは大相撲中継になった。十両の取り組みが終わり中入り後の、土俵入りだ。とにかく奄美の人は相撲が好きである。おばあちゃんも例外ではなく、テレビはあまり見ないけれど、相撲だけは欠かさず見るという。九州出身ということで、魁皇のファン。朝青龍はあまり好きではない。「勝った時の態度がね」とおばあちゃんは言う。その点まだ白鵬は横綱らしくてよい。本当によく見ている。奄美も昔は、先代の朝潮(徳之島出身)とか、横綱を輩出したが、最近は目立った力士もいないらしい。

午後5時10分。宿を出る。いよいよお別れだ。「また会う機会があったら」とショーミツさん。いい言葉だなあ。「さようなら」でもなければ「また来いよ」でもない。控えめな優しさとあたたかさがにじみ出るような、別れの言葉。本当にぼくは、またいつか、ここに来ることができるのだろうか。

「本当にお世話になりました。ありがとうございました」

古仁屋に渡るフェリーの上から、赤みが差した空が見えた。稜線の上の部分だけ雲が切れて、黒い島影を浮かび上がらせている。あの山の向こうは、きょうも夕焼けだ。「さらば、わがホテル・カリフォルニア」。ジョー・ウォルシュとドン・フェルダーの絡み合うようなギターのリフレインが頭の中を駆けめぐり、いつまでも離れなかった。

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2009年10月27日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇L

ガジュマルの木の下で

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9月13日、晴れ。
午前中、だらだら過ごす。昨日の疲れからか、眠い。朝食の後、海辺を散歩する。きょうも静かな西阿室。雲の切れ間から強い日差しが降り注いでいる。緑色に輝く海をしばらく見ていたら、じっとしているのがもったいなく思われた。また走ってみるか。

西阿室の北隣にある嘉入(かにゅう)という集落に行ってみることにする。11時40分、出発。おばあちゃんがおにぎりを持たせて送り出してくれた。まったく、いちげんさんの宿泊客に、どうしてここまでしてくれるのだろう。いっそこの家の孫になってしまおうか。なんだか元気が湧いてきた。気合を入れて、瀬相に向かう峠道を再び上り始める。半分ほど上った途中に、左に分岐する道があり、消えそうな字で「←嘉入」と書かれた標識があった。この島の道は県道以外、ことごとくこんな感じなのだ。ここもまた壁のような上りと、道端の草木が生いR0011298.JPG茂る厳しい道。いちおう舗装されているが、今にも雑草にのみ込まれそうで、ほとんどけもの道の様相を呈している。いつハブが出てきても不思議ではない。こんなになるまで放置してよいものだろうか。人はもちろん車さえ何年も通った形跡がない。西阿室から嘉入に行く人は、それほどいないということなのだろう。こんな道の途中でパンクでもしたら遭難してしまいそうだ。誰も通らないし携帯電話も通じない。それでも我慢して40分ほど上ると、眺望が開けた。一気に空が広くなった。はるか向こうの方まで海が見渡せる。そこからは一気の下り。散乱する土砂や枯れ枝に注意しながら、曲がりくねった道を下っていく。

12時40分、嘉入着。西阿室から9.8キロ。浜辺に沿って10軒ほどの家が点在する。人影はほとんどない。大きな木の下に橋があって、そのたもとにバス停があった。宮崎駿が好んで描きそうな風景だ。路地に入ると1軒の商店があり、屋号がぼくの姓と同じだった。「あんたの名字、この島にも多いよ」とおばあちゃんが言っていたのを思い出す。写真を撮っていたら背後から声を掛けられた。「暑いね、にいちゃん」という声の主は50歳くらいのおじさん。麦わら帽子に作業着姿。日焼けした顔に白い歯が印象的だ。「島の人?」「いえ旅の者です」「がんばるねえ」「いえいえ」。浜辺に木陰を見つけて、さっそく昼飯にする。おばあちゃんが作ってくれたおにぎり。人の手が握ったおにぎりを食べるのは何年ぶりだろう。海からの風が心地よい。服を脱いでしばらくくつろいでいたら、眠ってしまいそうになった。

13時10分。嘉入発。俵(ひょう)という集落への峠道の途中に、「嘉入の滝」があった。落差15メートル。深さ2メートルの滝壺には滝の主の大ウナギがいるらしい。そういう言い伝えがあると案内板に書いてある。

厳しい上りがまた続く。坂を楽に上るには、ジグザグに進めばいい。足だけでなく上半身も使って、全身の力をうまく配分して、推進力を作り出す。だんだんコツが分かってきた。

13時50分、俵。ここには中学校がある。西阿室の子どもたちは、小学校を出るとここまで通うそうだ。瀬相と結ぶ今の道が通じたのが昭和40年代。バスが通ったのは50年。それ以前、西阿室の中学生は、ここ俵の中学校まで山道を1時間以上かけて歩いて通ったそうである。昔歩いた山の道はまだあって、つい最近、同級生たちとその道を歩いたと、40代後半のバスの運転手のおじさんが言っていた。通学途中の山道で、木の実を食べたり、その木の実を食べる順番にも先輩後輩の序列があって、そういうことが楽しい思い出として残っているという。大島海峡に面した集落の子がおとなしいのに対して、漁師町の西阿室の子は体も大きく、けんかも強かったそうだ。

海を左に見て、また昨日と同じ県道を行く。瀬相を過ぎて左に曲がり、加計呂麻トンネルを抜けて、14時25分、於斎(おさい)着。走行距離24キロ。海に沿って大きなガジュマルの並木がある。昨日の諸鈍のデイゴ並木と同じような風景だ。

ガジュマルの巨木の下にベンチがあり、おばさんたちが並んで話をしていた。写真を撮る間、会話に耳を澄ませたが、さっぱりわからない。

R0011316.JPG「こっちの道はどこに行きますか」と声を掛けてみた。
「ケドミ(花富)。でも農道だから、通れないかもしれないよ」

きれいな標準語である。なぜなのだろう。おばあちゃんもそうだった。外部の人と話す時、この島の人たちは東京と同じ言葉になる。沖縄や九州あたりなら訛りがあるのに、この島の人には、それもない。

あとで調べてみて、ひとつ分かったことがあった。奄美の島々では、戦後、急速に方言が廃れたという。日本復帰に伴って、奄美では共通語教育が徹底された。沖縄より一足早く、1953年に米国統治下から返還された奄美は、高度成長期、多くの子どもたちを集団就職で本土に送り出した。内地で就職した若者が困らないように、差別されないように、という配慮のもと、奄美の教育界では「言葉の本土化」が急がれたのだという。そこには長年の薩摩支配の中で植えつけられた観念、つまり奄美の文化はヤマトの文化より遅れたもの、という意識も働いていたのではないか、という見方もある。もともと琉球弧といわれる文化圏にありながら、琉球王国から割譲され、薩摩の支配を受けた奄美。その複雑な歴史が、こんなところにも影を落としているのかもしれない。

「にいちゃん、どこから来たの」
「長野です」
「長野か。あそこのほら、○○さんのお姉さん、長野にいるなあ」
「そうだったなあ」
おばちゃん同士で、誰だか共通の知り合いの話になった。その話題でしばらく会話が続く。どこからともなく、ふと現れた自転車男。島の人からすれば得体の知れないそんなぼくのために話を続けてくれようとするおばちゃんたち。本当にありがたいことだ。

「とにかく行ってみます」
「気をつけて」という声に送られて、花富への道を行く。地図では花富を経由して、この道は西阿室まで続いていることになっている。

16時55分。切れそうになる心を何とかつなぎとめ、やっと登った峠の頂から、陽光に輝く西阿室の集落が見えた。「こんなに登ったのか」。思わずため息が出るほどの眺望。きょう何度目だろう。展望台があり、切り株のベンチが置いてあった。雲間から差す薄日が海に反射して眩しい。光と影が織りなす風景はほとんどモノクロの世界だ。熱した体をクール・ダウンさせるべく、海から吹き上げる風に吹かれていたら、その風に乗って、赤いトンボの群れが舞って来た。この南の島にも、そこはかとなく秋の気配が漂っている。季節の歩みは誰にも止められない。人間なんて、無力なものだ。

17時30分。西阿室に戻ってきた。本日の走行距離39.4キロ。消費カロリーの表示は432.3kcal。「うそやー」と思わず声が出た。まあそれもそのはず。無理もない。メーターが感知するのは距離と速度だけ。そこから計算した数値に坂道の勾配までは考慮されていないのだから。

参考:『島唄の風景』南日本新聞社、2003年刊
この本は南日本新聞の奄美復帰50年企画をまとめたもので、島唄をはじめ奄美の島々の歴史がコンパクトにまとめられ、勉強になります。ちなみに「はまゆう」のおばあちゃんも写真付きで登場します。


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2009年10月24日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇K

「11番目の孫」志願

「あんたはどちらから? はあ長野県。知ってるよ。中部地方だね。岐阜県のとなり・・・富山県も近くだね。学校の時分、地理は好きだったから。高等科で習ったね。高等科まで行く子は昔はあまりいなかったよ。クラスで2人だけ。西阿室小学校ね、ほらあそこの、あんたも見たでしょ。あそこに通っていたの。みんなもう昔はね、小学校出たら働きに出たよ。島は貧しかったから。親元離れて都会に行くの。わたしも高等科出てからすぐ、大阪に行ったよ。15歳の時だったかな。大阪の高島屋でね、レジ打ちの仕事。最初はね、天満の工場で紡績の女工してたのだけど、そこの事務所の人の紹介でね、計算得意だったから、見込まれたっていうかまあ、そういう縁でね」

8畳ほどの部屋の真ん中に置かれた安楽椅子に、90歳のタマヨおばあちゃんが、ちょこんと座っている。テーブルの上にはワイングラスが2つ。紅色のお酒が入っている。

ここは民宿「はまゆう」の居間。宿泊客のスペースではなく、おばあちゃんが寝起きする部屋である。夕食の後、ぼくはここにお邪魔して、話を聞いている。用意してくれた座布団に座って、椅子のおばあちゃんを少し見上げる格好で、向かい合っている。「わたしだけ椅子に座って悪いわねえ」。いえいえとんでもない。ぼくが勝手に来たんですから。そんな気の遣い方をする人なのだ、このおばあちゃんは。自家製だというスモモのワインをいただきながら、つれづれに語られるおばあちゃんの話に耳を傾ける。壁一面に飾ってあるのは家族のスナップ写真だ。おばあちゃんの家族。いろんな人がいる。おじさん、おばさん、男の子、女の子。普段着だったり正装していたり。向かいの壁際には背丈ほどの書棚があって、洋裁と料理の本がずらり並んでいる。

「本を読むのは好き。ほんとは洋裁学校に行きたかったの。でも家が貧しかったから、働かなければいけなかった。昔はみんなそうだった。縫い物はね、いまでもほら、この財布なんかも、こうやって昔の着物の布でね、縫っているのよ。それから時々、字のけいこなんかもね。これは般若心経の写経。小さい筆は難しくてね。あとは短歌。始めたのは5年生の時かな。考えたことを歌にするの。作ろうと思って作るんじゃなくて、ときどきね、テレビとか新聞とか見てたりするとき、ふとね、できたりする。これも筆で書くのよ。この短歌帳に。これはね、ほら、なんていったかな、東京の銀座の有名な文具の店・・・そうそう、鳩居堂ね、そこで知り合いが買って送ってくれたもの」

「もちろん全部独学ですよ。学校に行けるっていうのは幸せなことね。あんたは大学行った? そう、親御さんに感謝しなければね。わたしも子どもたちだけは学校に行かせようと思ってね。それは苦労しましたよ。おかげでみんな島を出て行ってしまったけど。3人の娘はお嫁に行って九州にいるね。長男は鹿児島。孫は10人います。ほら、あの写真、その男の子はね、この前就職したの。背広着てるでしょ。ことし24歳。あんたも若いね。あの子と同じくらいの年? そっちの制服の女の子はね、4月に長崎の高校に合格したの。入学式の時の写真ね。右側がわたしの娘。ときどき手紙くれたり電話もね。みんないい子よ。あ、その赤ちゃんはね、曾孫。曾孫も3人いますよ。この前ここにもね、夏休みに顔見せに来てくれたの」

「ショーミツ? あれは次男。船乗ってたの。遠洋漁業ね。鹿児島の高校出てから東京の船の会社に就職したのよ。いろんな国を回ってね。ほら部屋にあったでしょ。大きな帽子とか動物の剥製とか。あれ全部、どこかの国で買ってきたお土産。10年ぐらい前に島に帰ってきてね。心配してくれてるのかな。宿の仕事? しないしない。仕事はわたしが全部やってますよ。ときどき宿に出す料理の魚を釣ってきたりするけどね。あれで60歳。嫁ももらわないでね。あんた結婚は? そう、はやくお嫁さんもらったほうがいいね。ほんとにねえ、煙草ばっかり吸って身体に悪いって言っても聞かない。あんたも煙草吸ってるね。1日10本くらい? 煙草はやめなさい。いいことないから。健康が第一よ」

「この宿を始めたのはね、30年ぐらい前だったかな。主人と一緒にね。去年亡くなったのだけど。知り合ったのは戦時中でね、大阪で働いていた時。島人同士の集まりがあったのね。安脚場の人よ。わたしはここで生まれて、育ったの。ここにはもともとわたしの家があったのだけど、戦争で焼けてしまった。こんな島にも空襲があったのよ。亡くなった人もいた。戦争が終わってからは古仁屋で洋裁の店をやってましたよ。夫婦で。瀬戸内の学校の制服を縫っていた。手縫いでね。でもだんだん、商売が難しくなってきた。内地から既製品が入るようになったのね。それで見切りをつけて商売はやめたの。あの時すぐやめてよかったね。そういう勘は鋭いの。民宿をやろうと思ったのは料理が好きだったから。「はまゆう」という名前を付けたのはわたし。いい名前? ありがとうね。今はもう1人になったからね、年も年だから、ぼちぼち、無理しないで、できる範囲でね、やらせてもらってます。あんまりお客さん多いと料理も作れないから、素泊まりでってお願いしていますね。でもあんた1人ぐらいならいいのよ」

話を聞きながらぼくは、いたたまれなくなった。予約もせず当日の昼にいきなり電話をして押しかけたのは昨日のことだった。2日目のきょうも、泊まることを告げたのは朝起きてから。後で聞いて知ったのだが、おばあちゃんは古仁屋まで食材を買いに行ってくれたのだった。バスで峠を越えて、船で海を渡って別の島まで。朝、出かけると言っていたのはそれだったのか・・・。この島には市場もスーパーもない。それは知っていた。そんな島の民宿が、宿泊客の食事の材料をどうやって準備するのか。少し考えればわかるはずだ。そんなことを気に留めることもなく、おのれのことしか頭にない、旅人気取りの自分。見聞を広めるとか出会いを求めるとかそれによって成長したいとか、いろいろ勿体つけても、結局は人の世話になりっぱなしではないか。あるいは旅とは、本質的にはそういうものなのだろうか。旅先で受ける親切に対して、旅人はほとんどの場合、報いることはできない。このことだけはせめて、忘れないように肝に銘じておこう。

最近越してきた隣の親子。母親と子ども3人で、関東地方から来たのだという。都会から島へのIターンは、最近増えているらしい。過疎化が進む集落には空家が多い。Iターンの人たちはそういう家を安く借りて住んでいる。隣の家の持ち主はいま鹿児島にいて、月1万5000円の家賃で親子に貸しているのだそうだ。

「島に人が増えるのはいいことね。子どもの声が聞こえるのは何よりうれしいものよ。昔は学校もにぎやかでね。楽しかった。わたしも年とってしまって、今では同級生も1人だけ。その子も認知症になって寝たきりでね、話もできなくなった。わたしはね、尊厳死協会に入ってるの。この前名瀬まで会合に出かけたけれど、この島からは1人だけだった。あの世に行く準備はしておかなければね。遺言も書いたし、お棺に入れる着物も遺影もちゃんと用意してあります。でもおかげさまで長生きさせてもらって、ありがたいこと。子どもたちは一緒に暮らそうと言ってくれるけれど、こうやって動けるうちはね、ここで宿の仕事を続けたい。あまり無理しないでね。この民宿もわたしの代で終わりだけれど」

おばあちゃん、島唄歌えるんですか。聞いてみたいな。だめ? 歌えと言われて歌えるものじゃない? まあ、そりゃそうだね。初対面の人間に、そんなのいやだよね。島唄というのは人のために歌うのではない。自分のために歌うものだと、おばあちゃんは言う。興が乗るというか、自分の体の中から、何か湧き上がってくるものがあって、そういう時に、思わず歌が口をついて出てくる。そういうものらしい。

この日は聞くことができなかったが、翌日、「はまゆう」で過ごす最後の晩に、おばあちゃんは歌ってくれた。

いきゅんにゃかにゃ
わきゃくぅとぅわすれて
いきゅんにゃかにゃ
うったちゃうったわんばいきくるしゃ
それーいきくるしゃ

「いきゅ」は「行く」、「かにゃ」は「加那」で、女の子の意。「わきゃくぅとぅわすれて」は「吾が事忘れて」で、「うったっちゃ」は「打っ発っちゃ」。訳すと次のようになる。

行ってしまうのですか、愛しい人
私の事を忘れていってしまうんですか、愛しい人
発とう発とうとして行きづらいのです

これは「行きゅんにゃ加那節」という歌で、奄美北部ではもっともポピュラーな島唄の一つなのだそうだ。といってもそれは後で調べて知ったこと。聞いていたときはもちろん、わからなかった。問うてみたけれど、おばあちゃんも細かい意味までは判然としないということだった。ただこれが男女の別れを歌ったものだということは、はっきりわかった。

ぼくと話すときにはきれいな標準語を使っていたおばあちゃん。歌う時には島の言葉になった。人のためでなく、自分のために歌う、島の唄。おばあちゃんのサービスには違いなかったけれど、島の人の心に少し触れることができた気がした。こういう瞬間に立ち会うことができる幸せ。旅人の特権だ。旅に出てよかったと思った。お返しができないのが、ちょっともどかしいけれど。せめて冬になったら、リンゴでも送ってあげよう。


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2009年10月21日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇J

■シマからシマ、坂から坂

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13時10分、島尾敏雄文学碑公園を出る。これから加計呂麻島の主な観光スポットをひと通り回ってしまおうと思う。まず向かうのは島の東端の安脚場(あんきゃば)という所にある戦跡公園。それを見てから、今度は島の西側に出て、島最大の集落である諸鈍(しょどん)のデイゴ並木へ。樹齢300年以上といわれる巨木が85本も並び、町の文化財に指定されているそうだ。映画「男はつらいよ」最終作の舞台にもなり、ヒロインのリリーの家が残されているという。諸鈍までは約25キロほど、そこから西阿室まで帰るとして、全行程60キロほど走ることになる。



道は島を縦断する県道ほぼ1本なので、迷う心配はない。ゆっくり走っても余裕で行って帰って来れるだろう。そんなふうに漠然と考えていた。いま振り返ってみると、その見通しは甘すぎたと言わざるを得ない。まず第一に、体力を過信していた。島の複雑な海岸線に沿う道の険しいこと。それは、地図ではわからない、はるかに想像を超えるものだった。それから第二に、天候というものをまったく考慮に入れていなかった。なにしろ朝はあんなに晴れていたのだ。まさか雨など降らないだろう。しかしそれは、島の自然を知らない者の勝手な思い込みにすぎなかった。

島の南部の玄関口である生間(いけんま)に着くころには、足だけでなく、体全体に疲労を感じ始めていた。呑之浦から12キロ。驚くべきことに、その短い間に、5つの峠があった。どの坂も、それほど長くはない。上り下りともそれぞれ1〜2キロほどである。ところがその勾配が半端ではないのだ。どの峠も確実に10%を超える急坂。立ち漕ぎで気合を入れて自転車を進め、止まりそうになりながらも我慢して、やっとの思いで登り切る。時速40キロほどで下り、乱れた息がやっと整い始めたと思ったら、前方に、またさっきと同じような上り坂が見えてくる。この繰り返し。陸地が海に突き出た岬の付け根部分を通過する時に、道は必ず急勾配の坂になるようだ。短いアップダウンの繰り返しが、確実に体力を奪っていく。

坂を下りるたびに左手に近づいてくる海は、ある時は灰色、またある時は深緑色、というふうに、日の光の具合によって、海の色がめまぐるしく変化する。海はやっぱり太陽に照らされてこそ美しいのだな、などと思いながら見上げれば、朝あんなに青かった空はいつの間にかその大半を灰色の雲に占領され、どんよりと、なにやら不穏な感じを漂わせていた。

「おい、にいさん」
生間港でしばらく休憩した後、出発しようとしたら、呼び止められた気がした。声が聞こえた方を見ると、路地を入って奥まった所にある休業中のガソリンスタンドの片隅に、子どもたちが10人ほど集まって、こっちを見ている。どうやらこちらにあいさつしているらしい。中学生から低学年くらいまで、男の子も女の子もいる。声を掛けてきたのは年長の女の子のようだった。自転車に乗ったまま、右手を挙げて「こんにちは」と言ったら、今度は子どもたちみんなで「こんにちは」と返してくれた。

14時、生間出発。それにしても気になるのは空模様である。すっかり灰色になってしまった空。海の向こうの方から風に乗って、雷鳴のような音がかすかに聞こえてくる。安脚場までは約5キロ。途中また峠道だとすると、30分はかかるだろう。自転車はカーボンフレームである。雷となるとちょっと危険だ。とはいえここにいつまでいても仕方がない。とにかく先を急ぐしかない。

安脚場への峠を登っている時、とうとう雨が降りだした。ぽつりぽつりと、深い木々が傘になって、山道まではそれほど雨粒は落ちてこない。かまわず走っていると、今度は薄暗い山道に、光が走った。とうとう来たか稲光。ピカッと光ってから10秒後ぐらいに、低く、長く、地面から這い上がってくるような雷鳴が響いてくる。

14時20分、安脚場の集落に着いたと思ったら突然、雨が滝のようになって襲いかかってきた。集落といっても、開けた土地に、人が住んでいるのか定かでない家が10軒ほど点在するだけで、雨宿りのしようがない。まったくの無防備になすすべもなく、あっという間に濡れねずみになってしまった。もうこうなるとやぶれかぶれ、濡れるのは構わなかったが、荷物がいささか心配だった。リュックにはデジカメが入っている。たまたま目の前にあった家の敷地に大きめの庭木があったので、その下に入り、とりあえずこのシャワーのような雨の攻撃を避けることにした。

庭には花が植えられ、園芸の道具などが無造作に置かれている。この家、誰か住んでいるのだろうか。平屋の建物は雨戸が閉まり、人の気配は感じられなかった。リュックを開けて中身を確認する。すでに荷物は水浸しだった。ノートやガイドブックはシワシワになっていたが、幸いカメラは動くようだ。集落を取り囲む山はかすんでしまって、上の方が見えない。「どうしたらいい?」。自分に問いかけるが、答えは見つからない。

10分ほど佇んでいるうちに、小降りになった。15分後に、雨はやんだ。話に聞くスコールというのはこういうものなのか。木陰から出て見上げたら、空も何だかさっきより明るくなってきたようだ。何だったんだ、さっきのは。

R0011234.JPG戦跡公園は、集落から1キロほど急坂を上がったところにあった。舗装された1本道を登るうちに空が開け、登り切ったところが立派な駐車場になっていたが、ここにも車は1台もなかった。雨はやんでも雷は依然、どこかで鳴り続けている。案内に従って、弾薬庫、砲台跡、指揮所などの遺構を見てまわる。ここは島の東の端、その岬の頂に築かれた建物からは、大島海峡が一望のもとに見渡せた。海の風がまともに吹きつける断崖絶壁。海に向かってトーチカが築かれている。窓枠の形に四角い穴を穿たれたコンクリート造りの指揮所の内部には、畳敷きの和室が残されていた。六十数年前、何ヶ月か、あるいは何年かの日々をここで過ごした将校や兵士たちがいた。公園として整備された遺構ではあるけれど、ここにはそうした人々の気配が、時間を超えて濃厚に残っているように感じられた。彼らはこの断崖からの景色を見ながら、何を思って毎日過ごしていたのだろう。海を見ながらそんな思いにふけっているうちに、また雨が降り出す。雷はまだおさまらない。時折、思い出したようにゴロゴロ鳴る。

R0011249.JPG15時30分。安脚場戦跡公園発。滞在40分ほどの間、誰にも会わなかった。そうこうしているうちに、もう夕方である。諸鈍への道を急ぐ。「→諸鈍」と消えかけた文字で書かれた木の道標を頼りに、また山を登る。だんだん山が深くなる。使われなくなった旧道のような道。草に侵食され自然に還りつつあるこんな道にも、時々軽乗用車が登ってくる。なんだかホッとする。

諸鈍の集落に入ると、ようやく現世に帰ってきた気がした。西阿室から34キロ、16時である。海岸沿いのデイゴ並木が鮮やかな赤い花で彩られるのは5〜6月。シーズンではないが、樹齢300年という木々の一直線に並ぶさまは、さすがに壮観だった。並木に沿って家がある。犬を連れた高校生くらいの兄ちゃんと目が合ったので、「こんにちは」と言ったら、「こんにちは」と返してくれた。あいさつというのは気持ちがいいものだ、と思う。心が通じた感じがする。普段の暮らしの中で、こういうちょっとしたことが、どうしてできないのだろう。

リリーの家を探したが、わからなかった。並木に沿った家の1軒がそうだとガイドブックには書いてある。塀には「ロケ記念地」というレリーフがあって、すぐ分かるはずなのだが、いくら探しても見つからない。あきらめて引き返すと、並木から少し離れた広場の隅に、記念碑のようなものが見えた。近づいて見たら、やっぱりそうだ。ガイドブックの写真で見た「ロケ記念地」のレリーフだった。「リリーの家」とあるが、背後は海。ロケで使われた家は、どうやらなくなってしまったらしい。レリーフだけが独立して、ここに移転してきたようだった。

「男はつらいよ」最終作「寅次郎紅の花」は、寅さんというよりも、甥の満男の話である。恋に破れた失意の満男がたまたま訪れた加計呂麻島で、この島に移住していた寅次郎の元恋人リリーに拾われ、厄介になる。連れて行かれたリリーの家にはもうすでに居候がいて、それが寅さんだった。南の島で偶然出会った甥に、寅さんは恋人に思いをはっきり伝えるよう、アドバイスする・・・とまあ、こんなような話だ。この作品で寅さんは、満男の恋の成就を見届けた後、リリーのもとを去り、どこかへ消えてしまう。三十数年続いたシリーズは、そのようにして幕を閉じることになる。

ここでの渥美清の演技には、不思議な美しさがある。病をおして臨んだ撮影、相当な無理をしていたと聞く。動きは少なく、表情もほとんど変わらない。でもそのことが、見る者に違和感を感じさせないのはなぜだろう。それはたぶん、このシリーズが何十年もかけて培ってきた「車寅次郎」像が、この最終作において、様式美の領域にまで高められているからではないだろうか。新たな試みとか実験とか、そういう要素を排除して、長い時間をかけてつくられてきた形式にただ忠実であろうとするところに生まれる美しさ。伝統芸能や小津安二郎に通じるような美の世界。そういう世界に、そこはかとなく漂う滅びの気配が、このシリーズの、ひいては俳優自身の幕引きという状況と重なって、この作品に独特な美しさを与えているように思える。

この島には「ニライ・カナイ」の信仰がある。海の彼方にあるという理想郷。それは16〜17世紀に編まれた琉球の古歌を集めた「おもろさうし」にも記されているという。満男の幸せを見届けた寅さんは、この世に思い残すことなく、あるいはそのような理想郷に旅立ったのかもしれない。最後くらい、もっとカッコ悪く、この世でじたばたしてもよかった気もするけれど。

「リリーの家」のレリーフの向こうに、黄色く染まった雲が見えた。いつの間にか薄日が差している。沈んでいた海の色が、心なしか明るくなった気がした。
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2009年10月10日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇I

■入江にて

R0011177.JPG

呑の浦(のみのうら)の入江は、西阿室の集落から峠を2つ越えたところにあった。「かごしまロマン街道 島尾敏雄文学碑公園」と書かれた看板に従って県道を左に折れると間もなく、20台ほどが止められる駐車場があり、その奥が公園になっている。駐車場に車はなかった。

駐車場の奥の砂利道を自転車を押してしばらく歩くと、右手になだらかな階段があり、それを上りきったあたりに石碑が建っていた。丸い形をくり抜いた高さ1,5メートルほどの正方形の白い石碑の周りを、島尾の代表作の一節を記したいくつかの黒い御影石がぐるりと取り囲み、それらが一体となって、モニュメントを形成していた。

「建立趣旨」によれば、このモニュメントは1988年、島尾の3回忌を期して、その業績をたたえるために建てられた。建立にあたっては、全国の文学愛好家、郷土出身者、震洋隊関係者、そして瀬戸内町のほぼ全戸から寄付が寄せられたという。その後、町が周辺を整備し、震洋隊基地跡を含めた一帯が、文学碑記念公園となった。

御影石に記されていたのは、「島の果て」「はまべのうた」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「国破れて」より抜粋された文章。いずれもこの地を舞台にした作品だ。白い文字で彫られた文章を身をかがめて読もうとするが、光が反射してなかなか判読できない。磨き上げられた黒い石にくっきりと、空の光と木々の影が映っているのだった。黒い石肌に、白い雲や空の青まで再現されているのが不思議である。

R0011180.JPG階段を下りてさっきの砂利道に戻る。奥の方にまだ道があった。人ひとり通れるほどの小道が、入江に沿って続いている。波もほとんどない入江は、山に囲まれ、どう見ても湖にしか見えない。その入江を左に見て、右側の崖からはみ出してくる木々に注意しながら、そろそろと自転車を進める。100メートルも行くと、右手の藪の間から、崖にぽっかり口を開けた穴が見えた。1メートルほどの半円がコンクリートで固められ、トンネルの入り口のようである。

これが震洋の格納壕か、と思いながらさらに進んでいくと、今度はその震洋艇が本当に格納された壕があった。もちろんこれは模型である。小栗康平監督の映画「死の棘」の撮影で使われたセットがそのまま保管されているのだそうだ。原寸だという模型は思ったよりも小さく、深緑の船体の下部を赤く塗られていた。「181」と記された数字はおそらく、第十八部隊の1番艇という意味だろう。傍らに案内板があり、震洋についての詳しい説明があった。

R0011182.JPG穴の中はどうなっているのだろうか。小さな壕の入り口は船でふさがれ、内部がよく見えないから、余計に気になった。のぞきこむと、かなり奥まで続いているようだ。壁と船体の隙間は20cmほど。頑張れば通れそうである。リュックを船の甲板部分に置いて、横向きになって両手を上に上げ、体を滑り込ませる。そのようにして何とか入り込むと、震洋の模型が張りぼてでなく、ちゃんと後部まで造り込まれていることがわかった。穴の深さは20メートルほどだろうか。中はひんやりしているが、それ以上にじめじめしていて、一刻も早く出たかった。ハブも恐いので、それ以上奥まで行くことはできなかった。

海沿いの小道はまだ続いており、その先にもいくつかの壕があった。深いのもあれば、埋められて入り口だけのものもある。全部で12本あるそうだが、確認できたのは4つだけだった。奥に行くほど道端に生い茂る木々と草の勢いが増し、クモの巣が煩わしい。最近は通る人もいないのだろうか。人が通らない道は、やがてこうして侵食され、自然に返っていく。適当な所で引き返すことにした。

相変わらず人影はない。時刻は午後0時半。日が照ったり陰ったりするのは、風が出てきたせいだろう。見上げると、綿のような雲がめまぐるしく流れて行く。ときどきその風が、ゴォーという地鳴りのような音をたてて通り過ぎていく。葉擦れの音とも言い切れない、風そのものの音。そんな音があるのを知らなかった。島尾隊長以下、震洋隊の隊員たちも、いつ訪れるかも知れない出撃命令を待ちながら、時にはこのような音に耳を澄ませたのだろうか。戦争末期、不利な戦局が誰の目にも明らかになってから、自爆することを目的に集められた兵士たち。30代40代の補充兵が多かったという。戦火から遠く離れたこの島で、彼らは生きることも死ぬことも許されず、9ヶ月間を過ごした。それはけっして安息の時間ではなかっただろうが、かといって絶望だけが支配する日々だったとも言えない気がする。

文学碑の前に再び立つと、裏側に階段が続いているのに気がついた。上ると石の墓標のようなものが立っていた。「島尾敏雄、ミホ、マヤ、この地に眠る」。はて、島尾敏雄の墓は福島にあると聞いていたが。あるいはここは家族の墓なのかもしれない。「この地に眠る」とあるのだから、墓には違いないのだろう。でもそんなことは、どうでもいい気もした。戦争の時代に、1人の男と1人の女がこの島で出会い、結ばれ、そうして「死の棘」の物語が生まれた。墓標の前で手を合わせたまま、運命ということについて、しばらく考えていた。
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2009年10月06日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇H

65年前の風景を探しに

R0011283.JPG目覚めた時、ここはどこかとしばらく考えた。やわらかな光に包まれた畳の部屋。風に揺れるレースのカーテン。規則正しいリズムを刻んで聞こえてくるのは、何かの鳥の鳴き声か。

ここは加計呂麻、西阿室・・・意識がはっきりするにつれて、昨日の記憶がゆっくりと蘇ってきた。奄美大島を走り、船で渡って来たこの島で夕日を眺め、豪華な食事をした後、屋上で星を見て・・・。これだけ思い出すのに、少しばかり時間を要した。それほど、昨日はいろいろなことがあったのだ。目覚まし代わりの携帯アラームは、まだ鳴っていないようだった。確か7時半に設定していたはずだが、と思いながら確かめる。案の定、時刻はまだ6時50分。魚を焼いているのだろうか。台所の方からかすかに、香ばしい匂いが漂ってくる。

9月12日。旅の3日目は、こうして始まった。

朝食後散歩に出ると、あふれる光と音にくらくらした。南の島の太陽は、朝だからといって容赦しない。三方の山からは、いろいろな種類のセミの声がたたみかけるように聞こえてくる。
「おはようございます」
浜に向かって歩いていると、声を掛けられた。
「あっどうも、おはようございます」
あわててあいさつを返す。不意を突かれて戸惑った。民宿の隣の家に住む、3人の子どものお母さんだ。長袖長ズボンの作業着に帽子を目深にかぶり、庭の手入れをしていた。関東からIターンしてきたという親子。子どもの年齢からすると、おそらく彼女は30代。どんな思いでこの島にやってきたのだろう。訊いてみたい気もした。

さて。きょうは何をしようか。
浜の外れの突堤で仰向けになる。水平線の方から、見上げるにつれて深くなる空。綿毛のような雲のすき間に、半分欠けた月がぽつんと見えた。時間はたっぷりある。急ぐ必要は何もない。きょうを含めてあと3日はこの島にいられるのだ。

どうしても見ておきたい場所があった。
島尾敏雄文学碑。
それは呑之浦(のみのうら)という大島海峡に面した入江にある。

昭和19年11月。海軍少尉島尾敏雄は、第十八震洋隊隊長として、183名の隊員を率いてこの加計呂麻島に上陸した。震洋は、太平洋戦争末期、戦局打開のため軍令部が提案した9の特殊兵器のうちの一つである。舳先に爆薬を搭載、敵艦船に突っ込み自爆しようとするモーターボートで、「人間魚雷」回天とともに実用化された。主機関に自動車のエンジンを使い、量産されたという。横須賀などで訓練を終えたいくつかの部隊が昭和19年8月以降、各地に実戦配備された。加計呂麻に送られた島尾部隊は、呑之浦という入江に基地を設営、出撃を待った。

「心にもからだにも死装束をまとったが、発進の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみをしていたから、近づいて来た死は、はたとその歩みを止めた」(「出発は遂に訪れず」)

いつ発令されるとも知れない出撃命令を待ちながら、自らの死への準備にいそしむ日々。悪化する戦況とは無縁の島で繰り広げられた特攻隊員の奇妙な日常の風景は、「特攻三部作」(「出発は遂に訪れず」「出孤島記」「その夏の今は」ともに講談社文芸文庫所収)として作品化されている。この呑之浦で、島尾は1人の女性と運命的な出会いをする。女性の名は大平ミホ。岬ひとつ隔てた押角(おしかく)という集落の有力者の娘で、国民学校の教師をしていた。間もなく恋に落ちた2人は、隊員や村人の目をかいくぐり、真夜中、岬のがけ下で逢瀬を重ねたという。

絶望のなかに、ふと灯った生の輝き。特攻出撃とともに散るはずであった男と女は、思いがけなく戦争を生きのびることになる。出撃することなく終戦を迎えた島尾敏雄は、昭和21年、ミホと結婚。滅びることを前提として燃え上がった愛は、熾火のように静かに持続することになった。そしてその31年後、持続する愛をテーマにした作品「死の棘」は完成するのである。幾重にも重なり合う偶然はしかし、こうしてみると周到に計算された道筋だったのかとも思えてくる。島尾敏雄という作家は、やはりこの島に来るように運命づけられていたのだと思う。

作家の原点とはどんな場所なのだろう。呑之浦には、震洋の格納壕がそのまま残されているという(小栗康平の映画『死の棘』の撮影でも使われた)。それは65年前に作家が見ていたのと、ほぼ違わない風景であるはずだ。そのような風景を前にして、何を感じるのだろうか。一度でも「死の棘」を読んだ者なら、気にならないはずがなかった。
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2009年10月03日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇G

Such a lovely place (such a lovely face)

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西阿室(にしあむろ)には、70世帯、100人ほどが暮らしている。これでも加計呂麻島では諸鈍(しょどん)に次いで大きな集落で、民家の他には、郵便局と、小学校と、商店が1軒、それに、小さなカトリック教会があった。
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海に面していない側の三方は、いずれも山である。隣の集落に行くにも、傾斜の急な山道を越えて行かなければならない。その山道とて、車1台通るのがやっとの小径で、舗装はされているものの整備が行き届かず、繁茂する路傍の草に今にも侵食されるのではないかとはらはらするような、細くて頼りない道だ。

そのように周囲と隔絶した環境の中で、住民たちは自足して暮らしているようだった。

車を持つ人は少ない。1日4本のバスも、乗客はわずかである。集落の外へ通勤する人もあまりいないみたいだ。「みんな仕事はどうしているんですか」と、「はまゆう」の息子ショーミツさんに訊いてみた。いまいち要領を得ない答えだったが、学校と郵便局で何人かの若い人が働いているということがわかった。ショーミツさん自身は、僕の見たかぎり、宿の仕事はほとんどせず、早朝から釣りに行ったり、夜は「祭りの打ち合わせ」と称して飲みに行ったりして、毎日を過ごしているようだった。

ショーミツさんは小さな船を持っている。集落にはけっこう立派な港があって、20隻ほどの小型の漁船が泊めてあった。西阿室には漁師が多いのだろうか。
「プロの漁師は今たしか・・・1人かな。おじさんらが子どものころは多かったけどね」
ショーミツさんによれば、港にある船はほとんどが、楽しみで釣りをする人たちのものだという。
「ここの人はみんな、船持ってるよ」と彼は言う。
「なんでですか」
「ここには楽しみが何もないからね。島にはパチンコもないし。釣りでもするしかないよ」
船はパチンコの代わりなのか、なるほど・・・。この集落に暮らすとはどういうことか、やはり住んでみないとわからないのだろう。

ショーミツさんはタマヨおばあちゃんの3番目の息子で60歳。独身である。鹿児島の水産高校を卒業後、上京し、遠洋漁業の船に乗っていたのだという。20年ほど前に島に帰り、以来民宿を手伝っている。宿はおばあちゃんが切り盛りしており、ショーミツさんは時々船で海に出て、料理に出す魚を釣ってくるくらい。昼は釣具の手入れをし、日暮れになると海辺で夕日を眺め、夜は酒を飲みに出かける。そして酔っぱらって帰って来ると屋上に上がって寝てしまう(冬はさすがに寒いので、別棟の自分の部屋で寝る)。おばあちゃんにたしなめられながら、1日に煙草を2箱吸う。だいたいそんな生活だ。おばあちゃんの5人の子どものうち、4人は島を出ている。ショーミツさんはなぜ島に帰ってきたのか。本人は語らなかったが、そんな家族の状況が帰郷という選択につながったのかもしれなかった。

R0011346.JPG西阿室には、土俵があった。集落のほぼ中心、郵便局の隣に広場があり、土俵の周りに人が集まることができるようになっていた。奄美では相撲が盛んで、どの集落も自分たちの土俵を持っているらしい、ということは知っていた。実際に見ると、その土俵は想像以上に立派で、神社のような屋根もついている。ここ西阿室では、毎年9月末に行われる集落ごとの豊年祭で奉納相撲が行われるのだという。その豊年祭の「打ち合わせ」のために、ショーミツさんは夜な夜な出かけていくのであった。「こういう大事なことは、ちょっとずつ決めないとね」と自分からわざわざ言って、彼は今夜も出かけていくのだった。

西阿室では、携帯電話を持っている人を、ひとりも見かけなかった。それはまあ、当然といえば当然のことで、ここには電波が届いていないのだった。でもそれが不満だとか、NTTドコモはけしからんとか、そういう話は誰からも聞かなかった。

日が傾き始めると、商店の前に置かれたベンチや、例の海の見える木陰の護岸に、どこからともなく人が集まってくる。老人たち、子どもを連れたお母さん、おじさんおばさん、老若男女がめいめいに集まり、語らいながら同じ時間を過ごす。日が暮れて夜になると、アルコールが入り、三線を伴奏に歌ったりすることもある。そういうひとときを、ここの人たちはとても大切にしているように見えた。

郵便局から、瀬相に向かう道を200メートルほど行ったところに、小学校がある。西阿室小学校は1880年創立の古い学校。現在ここには3人の生徒が通っている。2人の1年生がいて、そのうち1人は地元の子、もう1人は関東からIターンしてきた一家の子なのだそうだ。今年の6月、学期途中で引っ越して来たその子のために、西阿室の人々は2回目の入学式を開き、住民総出で新入生の門出を祝ったという。入学式以外にも、運動会や学芸会などの学校行事には、親であろうがなかろうが、集落のみんなが参加する。そうやってここの住民は、自分たちの学校を支えている。

郵便局と小学校と商店と教会があれば、それでいい。

諦念でもなく、開き直りでもない。ごくごく自然な形で、この集落の人々の間には、このような思いが共有されているのではないか。旅人の偏見かもしれないが、そう思う。

奄美では古来、集落のことをシマと言った。たとえば「島唄」という言葉があるが、これは島の民謡というよりは、集落の唄、つまり「シマの唄」というニュアンスである。集落の人々が、自分たちの生活圏内で、自分たちのために歌い継いできた唄。それを奄美では「シマウタ」と言っている。だから奄美にはシマの数だけ唄がある、といわれる。険しい山々によって陸路を阻まれた各集落では、そういう地理的条件から、独自の文化が形成されてきた。奄美の集落のあり方が、こういう言葉にもよく表れている。

もちろん今では、各集落は舗装路で結ばれ、昔に比べれば人の往来も盛んになった。それでもやはり、奄美の集落にしばらくいると、ここには「シマの時間」が、今でも濃厚に漂っているなあと感じるときがある。ここにしかない、ここだけの時間がある、という感覚。それは、携帯電話の電波が届かないという象徴的な事実によって、いくぶん増幅された感覚だったかもしれない。「どこにいても同じ時間」を共有することを強いる携帯電話。良くも悪くも現代的なこのツールを手放してみたら、「ここにしかない時間」の中にいることが、何物にも代えがたいほど貴重なことのように思えてきた。

「ここにいること」をないがしろにしてはいけない。いまのこの時間は、二度と戻ってこない。こう言ってしまうと月並みだけど、素直にそう思ったのだから仕方ない。
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2009年10月01日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇F

Welcome to the Hotel HAMAYU

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民宿「はまゆう」はこの地方独特の屋根の低い木造平屋の建物で、間取りは6〜8畳の部屋が4つ、座敷を囲むように配置されていた。家人の生活空間と客の宿泊スペースの区別があいまいなのは、沖縄辺りの民宿と同じである。建物は古いけれど掃除は行き届いていた。畳の部屋には扇風機が1台と、コイン式のエアコン。テレビはなかった。部屋に荷物を置くと家の真ん中にある座敷に通され、麦茶と黒糖のもてなしを受けた。

宿帳もつけないうちに、夕食になった。これが食べ切れないほどの豪華版で、キンメダイの煮付けをメインに、数々の海山の幸が並んだ。そしてこれらはすべて、おばあちゃんの手作りだった。

R0011167.JPGタマヨおばあちゃんは、大正9年生まれの90歳。お膳を運ぶきびきびとした動きを見て、てっきり70代半ばぐらいの人だろうと思っていたが、とんでもない誤解だった。身長は僕の肩ほどだが、背中はピンと伸びていて、すたすた歩いた。肌つやのよい顔にはシワがほとんど見えない。笑うとなくなる細い目は、ショーミツさんと同じ。黒い髪を引っ詰めにしていて、広いおでこが愛らしかった。大きな眼鏡を掛け、新聞を読めば縫い物もする。「裁縫が好きなの」と言って、食べている僕に縫いかけの財布を見せてくれた。服も自分で作ってしまうのだという。

そのように元気なおばあちゃんだが、あけすけな感じは少しもなかった。どちらかといえば奥床しくて、自分からはあまりしゃべらない。その代わり、こちらから話し掛ければ饒舌になって、いくらでも応えてくれた。

勧められるままにご飯を4杯もお代わりして、食事を終えると、ショーミツさんが、屋上に来いという。「風が吹いて涼しいよ」と言うのでついて行ってみたら、デッキチェアが用意されていた。海沿いの道に面した屋根が平らになっており、上がるとバルコニーのような空間が広がっている。「ほら、あそこ座ってください」。言われるままに、海の方を向いて座る。確かに涼しい。クーラーのない家の中に戻りたくなくなるほど、山の方から吹いてくる風が心地よかった。

「夏はいっつもここで寝る。家の中は暑い」
見るとショーミツさんは、布団マットを広げて、もう横たわっていた。「明け方は寒くなるからほら、掛け布団も」と言ってタオルケットを持っている。それにしてもここは、なんと静かな場所なのだろう。一番大きな音は波のざわめき。その次が風。目の前のデイゴ並木の葉を揺らして、時々さわさわと通り過ぎる。さらに耳をすませば、どこかの家族の団欒の声も、風に乗って聞こえてくる。隣の家には子どもがいるらしい。まだ9時前である。

背後の山の稜線の上に、大きな月がまぶしいくらいに輝いていた。漆黒の空には、たくさんの星が出ていた。目を凝らすとたくさんの星座を判別できたが、それほどでもないな、とも思った。何年か前に見た鳩間島ほど、圧倒的な星空ではなかった。なにしろあの時は、流れ星を立て続けに4つも見たのだ。天の川だって紫色に見えた。あのような空はやはり、沖縄特有なのだろうか。屋上といえば、去年の今ごろ行ったインドのヴァラナシの安宿のことも思い出された。同じようにこうして夜、屋上に上って空を眺めていたっけ。あの時並んで座って話をした、病み上がりの学生君は今ごろどうしているだろう。2人旅の途中の宿で寝込んでしまって相方に迷惑をかけたと、しきりに気にしていたが・・・

波や風の音に混じって何か変な音がすると思ったら、ショーミツさんがいびきをかいていたのだった。あまりに気持ちがいいので、こちらもこのまま寝てしまおうかと思ったが、まだ風呂に入っていなかった。汗を流してすっきりしてから、またここに来ることにしよう。

下に下りてシャワーを浴びているときに、ふと気がついた。
そういえば宿帳、書かないままだった。

この宿の人たちに僕は名前も、まだ言っていないのだった。




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2009年09月29日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇E

■夕日が落ちてからが美しい

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瀬相の港が近づくと、岸壁にずらりとバスが並んでいるのが見えた。

加計呂麻島唯一の公共交通機関であるバスは、全部で9系統。フェリーの発着に合わせて、港と各集落を結んでいる。

R0011104.JPG輪行袋を担いで船を下りる。ここから宿のある西阿室までは、5キロほど。自転車で行ける距離だが、なかなか大変な道のりらしい。下調べしたネットの情報では、かなりの坂道で、しかも悪路だという。行き方もよくわからない。現在の時刻は17時55分。ちょっと自信がなかった。このままバスに乗ってしまおう。

「西阿室」行きのバスも、他の3台と同じく、小さな車両だった。ためらいながら中をうかがっていると、「ここに置いていいよ」と、運転手が言ってくれた。運転席のすぐ後ろに、うまい具合に自転車1台分ほどの荷物スペースがあった。

自転車と一緒に乗り込むとすぐに扉が閉まり、バスは発車した。振り返ると車内には4、5人ほどの乗客。いつの間に乗ったのだろう。いずれも老人である。待たせてしまったようで、恐縮である。

海沿いの道を200メートルほど走ったところで、バスは突然、右折した。どこで曲がったのだろう。注意していたが、標識らしきものは見えなかった。と思っているうちに、今度はとんでもない坂を上り出す。車1台すれ違うのも大変そうな細い道である。右に左に、数秒ごとに体が振られる。180度ヘアピンカーブの連続である。道端の木々が覆いかぶさるようにうっそうと生い茂って、薄暗い。こりゃまた厳しい道だねえ。バスに乗って正解だった。またそう思った。きょう2度目である。

10分ほどで頂上に達した。下り始めて間もなく、バスの車窓がぱっと明るくなった。木々の隙間から、橙色の光が漏れ、車内を照らす。夕焼け空が、一面に広がった。高度を下げるにつれて、輝く海と、家並みも見え出した。あれが西阿室なのか・・・

集落の入り口で、バスが初めて止まった。運転手が荷物を持って下りていく。何か食料品の入ったダンボールの箱のようだ。運転手は軽やかな足取りで、待っていたおばさんにその荷物を渡すと、また乗り込んだ。おばさんと運転手が一言二言、言葉を交わして、バスはまた動き出した。このバス、荷物の配送もやっているらしい。

6時20分、西阿室着。バスは近所の公園みたいな広場の片隅に止まると、エンジンを止めた。 乗客たちは「ありがとう」と運転手に言葉をかけながら、次々に下りていく。とにかくここで下りなければいけないようだ。みんなの後から下りて、自転車を引きずり出した。

「どこやねん」。あたりを見回してみたが、家々があるばかりで、とりとめのない風景である。「あのお、はまゆうという民宿はどの辺になりますか」。バスの中を覗き込んでおずおずと訊ねると、運転手はだまって、頭越しに、僕の背後の方を指さした。

1人の男が近づいてきて、ドアの近くまで来ると、そのままバスに半身を入れ、運転手となにやら話し始めた。友人なのだろう。こういう狭い集落ではみんな知り合いなのだ。そう思いながら、自転車を担いで、運転手が示した方へ歩き出した。まあ、行ってみれば何かあるだろう。なんとかなる。旅先ではいつもそうやって、何も決めずに歩く。自分なりの流儀だ。

「荷物持ちましょう」。背後から声がした。振り向くと、さっきの男である。年齢はおそらく50代後半、エメラルドグリーンのTシャツにダボダボの白いズボン、サンダルばきである。小柄な痩身が、シャツのサイズに合わず、肩の部分がずり下がっている。よく日に焼けた首周りと二の腕が、枯れかけた木の幹のように筋張っている。白髪交じりの灰色の髪をオールバックにしているせいで、広い額が丸顔をいっそう強調している。両側に垂れた立派な眉の下に眼窩が落ちくぼみ、黒目がちの小さな目が、申し訳なさそうにのぞいている。全体的に小動物のような印象を与える人だ。

この人が民宿「はまゆう」のおばあちゃんの息子、ショーミツさんなのだった。戸惑っている僕から輪行袋を奪うと、先に立ってどんどん歩き始めた。「あっのど渇いてますか。麦茶用意してありますから」などと言って振り向きながら、わりと軽々と、自転車を担いでいる。なんだか早口で落ち着かない口調だ。小さい目のせいか、表情が読めない。でも、とにかく着いたのだ。今日の宿にやっと。

50メートルも行くと、海沿いの並木道に出た。これがデイゴの木だろうか。右手に「はまゆう」と看板があり、おばあちゃんが迎えてくれた。「お世話になります」と言うひまもなく「これ、部屋に置いときますから」とショーミツさん。ついて行こうとすると、「夕日、夕日」と言う。夕日を見ろということらしい。「いま沈むとこだから」と、海岸に行くよう促す。「あとで麦茶、用意してますから」

「はまゆう」のすぐ前、デイゴ並木の下が石造りの低い護岸になって
いる。そこまで行って海の方を見ると、今まさに、日が沈まんとしているところだった。

圧倒的な風景だった。

右斜め前の方角、突き出た岬の上すれすれにある太陽は、まんまるの輪郭までくっきりと見える。海面には光の帯がこちらに向かってまっすぐ延びている。黄色い太陽の周りから徐々に濃くなる空の色。鮮やかなグラデーションである。雲はほとんどない。

「こんないい天気、めったにないよ」。いつの間にかショーミツさんが、隣に来て座っている。「グッドタイミングですね」と言う僕に答えず、おじさんは空を眺めている。「あ〜きれいだ」と、とくに誰にというわけでもなく、言う。彼なりの感嘆の声なのだろう。かなりマイペースな人のようである。気がつくと、石の護岸の向こうの方にもあちこちに、座っている人がいた。おしゃべりしながら、缶ビールなど飲んでいる人たちもいた。この集落の住民はいつもここでこうやって、夕涼みするのだろうか。

18時27分、日没。太陽が岬のかげに隠れるのを見届けた。「沈みましたね」と言って宿に向かおうとすると、ショーミツさん、もっとここにいろという。「まだまだきれいですよ、もっとゆっくりしてってください」。ああそうか、と思って座り直す。「急ぐことないです、ご飯、あとでもいいでしょ」

確かにそうだった。何も急ぐことはないのだ。「夕日を見る」ということは、なんとなく日没で終わりだと思っていた。でも考えてみれば、日が落ちた後もしばらくは明るいわけで、すぐ夜になるわけではない。夕方とも夜ともつかぬ、あわいの時間。そういうひとときを、ゆったり過ごして楽しむことを含めて、「夕日を見る」ということなのではないか。日没というドラマが終わった後の余韻を、ゆっくり楽しみながら・・・

煙草をふかしたりしていたが、初対面のおじさんと2人、どうも間がもたないので、右手の方にある砂浜に行ってみることにした。「ちょっと行ってきます」と言ったら、ショーミツさんは何も答えなかった。かすかに頷いたように見えた。あっちには何があるとか、気をつけてとか、早く戻れとか、そういうことは何も言わない。どこのだれかもわからぬ初対面の客である僕のことを、どんなふうに思っているのだろうか。

砂浜は沖縄のような白い砂ではないけれど、きれいだった。おだやかに打ち寄せる波の音に、全身が包まれるようだ。ふだん耳にしていないはずなのに、ずっと昔から聞き慣れた音のような気がする。ここはたぶん海水浴場なのだろう。水着は持ってきた。明日にでも、ひさしぶりに泳いでみるか。

向こうの端まで歩いて戻ってくるころには、周りが見えなくなるほど、暗くなっていた。光の世界から闇の世界へと、今日もつつがなく移行がなされたようだった。

デイゴの木陰の護岸に、ショーミツさんは、もういなかった。
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2009年09月28日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇D

■瀬戸は日暮れて夕波小波

R0011091.JPG奄美空港に着いた途端、雨が降り出した。
次の古仁屋行きバスは13時35分。まだ45分ある。ちょうどいい時間だ。空港の軒下で自転車を解体しているうちに、雨音が激しさを増し、スコールのようになった。

本日の走行距離73.78キロ。消費カロリー1179.8kcal。

きょうはここで自転車は終わり。これからバスに自転車を積み込み、古仁屋に向かう。2時間30分の行程だ。古仁屋からフェリーに乗り、いよいよ加計呂麻に渡る。

ほどなく入ってきたのは、普通の路線バスだった。リムジンバスのような床下の荷物室はない。ちょっと心配だったが、自転車を担いでなんとか乗ることができた。最後部の5人掛け座席の半分に、自転車の袋を置く。置いてみるとこの自転車というやつは、たたんでも2人分R0011087.JPGの座席を占領している。人間よりスペースを取っている。そういえば3年前の北海道ツーリングの時は、北斗星の2人用個室に自転車を持ち込んだ。向かいの寝台に自転車が「座っている」のが、なんだかおかしかった。「旅の相棒」という言葉が浮かんだ。

座って出発を待っていたら、飛行機が到着したらしく、空港の出口から大きな荷物を持った人々が続々と出てきた。そのうちバスに乗り込んできたのは5〜6人。ほとんどがタクシーや宿の出迎えの車に乗っていた。

定刻の13時35分、出発。いくつもの奄美の観光施設に寄りながら、雨の中、バスは走る。時速40キロくらい。だいぶ年季が入った車両で、シートの布がところどころ破れていたりする。「奄美パーク」「田中一村記念美術館」「奄美民族村」「大島紬村」・・・どれもあまり賑わってはいないようだった。乗降客はほとんどいない。「奄美パーク」からビジネスマンらしい2人組が乗り込んできて、僕のすぐ前の席に、通路を挟んで座った。この微妙な距離感、上司と部下だろうか。50代前半と30代くらいで、2人とも濃いグレーのスーツを着ている。観光施設を視察に来た東京のリゾート開発業者といった佇まいだ。南の島のローカルバスに、なんだかそぐわない。

14時。龍郷町役場通過。ときどき日が差すようになった。雨はやんではいない。まもなく国道58号に合流。午前中に通ってきた道だ。前に座ったディベロッパー2人組の若い方が、携帯電話で話し始めた。何度も掛かってくるようだ。ひそひそ声で話した後、上司になにやら報告している。おそらく僕と同年代だろう。電話の合間に、革のカバンからA4の書類の束を取り出し、熱心に読んでいる。ワープロで書かれたプレゼン資料のように見える。彼が僕と同じ30代だとして、いったいどちらの生き方が正しいのだろう。南の島で、1人は自転車でふらふら、1人はこの暑い中、背広姿で上司と出張。まあ、別にどうでもいいや。生き方に正しいも何もない、好きなように生きていけばいいのだ・・・。

名瀬中心部に入るころには、本格的に晴れてきた。南国の天気はよくわからない。14時35分「ホテルウエストコート前」着。ここでディベロッパー2人組は降りていった。いかにもビジネスマンが会社の金で泊まりそうなホテルである。名瀬の街にはこんなホテルもある。アーケードの商店街もある。裁判所も法務局も、A新聞の支局もあった。人通りも多い。老人ばかりでなく若者も歩いている。賑やかな都会である。市街地を抜けるころには大半が降り、車内は静かになった。乗客は僕以外に、おばちゃん1人、男子中学生とその母親、計4人である。

名瀬を抜けると、山道に入った。国道58号の山越えが始まったのである。トンネルを1つ越えると、傾斜がみるみるきつくなり、バスはローギアでうなりながら登っていく。時速30キロも出ていない。なにしろ古い車両である。これ以上速く走れないのだろう。

窓から入ってくる昼下がりの日差しが気持ちよく、ついウトウトしてしまった。気がついた時、バスはまだ登り続けていた。時計に目をやると、15時20分。左に右に大きな車体を揺らしながら、羊腸の山道を、バスはあえぎながら、のろのろ進んでいく。がんばれがんばれ。

15時30分、奄美市から瀬戸内町に入るころ、車窓から下界が見えた。重なり合う山並みの色が、本土よりも濃い。まだ登っている。どれだけの坂道なのか。自転車で来なくてよかった。と思っているうちに、ふとエンジン音がやんだ。15時33分、やっと、山頂に達したのだった。

網の子峠というそうだ。こんどはエンジンブレーキで間に合わないほどの下りである。道沿いの展望所のようなところに、「早期のトンネル実現を」というスローガンを大書した看板が立っていた。

15時50分、阿木名という海沿いの集落に着く。やっと山が終わった。16時、古仁屋の市街地に入る。「小学校前」で3人降り、僕1人になった。「どこまで行くの」と運転手。「フェリーに乗る」「じゃあ終点だね」。ほどなくその終点「海の駅」に着いた。定刻から10分遅れ、16時1分である。

加計呂麻の瀬相(せそう)行きフェリーは、17時30分ということだった。「瀬相」と「生間(いけんま)」という2つの行き先がある。きょう泊まることになっている西阿室の集落は、瀬相からバスで20分ほどということだ。これもまた島を横断するので、ものすごい坂を越えるのだと、ネットで調べて知っていた。自転車はそのまま載せると料金がかかるが、たたんで手荷物にすると無料だという。もう自転車はたたんであったが、時間があるので、もう一度組み立てて、少し古仁屋の街を走ってみた。

奄美で名瀬に次いで大きな町だということで、コンビニや銀行の支店もある。コンビニ「every one」で「南海日日新聞」を買ってみた。10ページほどの新聞で、全国ニュースもちゃんと載っている。龍郷町長選が迫っているらしい。ベタ見出しの本数がそろっていないのが微笑ましい。もっとこうすればいいのに、と思うレイアウトも多かった。そんな所に目が行ってしまう自分が、病んでいるような気がした。

海の駅に戻ると、待合所の前に瀬戸内町の観光地図を示す看板があった。こんなところに「瀬戸内」があるなんて、意外である。瀬戸内海地方で生まれた身としては、なんだか親近感がわいてくる。古仁屋から東にある「嘉徳」という集落は、元ちとせの故郷だそうだ。最近はボディボードの聖地として知られるようになっているらしい。元ちとせはこの奄美では、ほとんど英雄扱いである。帰ったらレコード買ってちゃんと聴いてみよう。

道の駅の土産物屋で「黒糖かりんとう」と「さんご塩」を買う。おばちゃんに「島みかん」を試食させてもらった。もう店じまいなので全部食べてという。小さく切ったミカンは甘くも酸っぱくもなく、すっきりした味。1個分くらい食べてしまった。おばちゃんによると、奄美にはタンカンという名産のミカンがあって、これがもう、大変に甘くておいしいという。シーズンは2月ごろなので、今はない。「冬になったら食べに来てください」と言って、おばちゃんは笑った。

加計呂麻島の瀬相行きフェリーは、17時30分の便が最終だった。これから20分ほどの航海である。20〜30人ほどが乗り込んだが、観光客らしき人はいなかった。加計呂麻島も全域が瀬戸内町に属している。古仁屋とは海を挟んで同じ町内、地元の人の行き来も盛んなのだろう。後部甲板のベンチに座って、黒糖かりんとうをかじりながら、風に吹かれていた。日の光がだいぶ赤みを帯びてきた。逆光になって、加計呂麻島の稜線がくっきりと見える。輝く水面がまぶしい。天気は回復したみたいだ。このぶんだと、西阿室の夕日を拝むことができるかもしれない。なにしろ夕日を見るために、泊まることにしたのだ。南の島の海辺で見る夕日とは、どんなものだろう。高まる期待に胸がふくらんだ。
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2009年09月27日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇C

■大島半周、岬めぐり

R0011053.JPG奄美大島は、想像していたよりも大きな島だった。
周囲461キロ、面積719.88平方キロ。日本の離島のなかでは、佐渡に次いで2番目に大きいそうだ(北方領土を除く)。経済・文化の中心は奄美市。2006年に名瀬市と周辺町村が合併してできた。現在、奄美市のほかに2町2村があり、約7万人が暮らしている。

ちなみに、離島とは何か。特に定義はないらしいが、一般的には、本土4島と沖縄本島を除くすべての島を指すという。日本の国土は6852の島(周囲100m以上・無人島含む―海上保安庁調査)で構成されていて、ここから5島を除いた6847の島が、離島ということになる。(参考:財団法人日本離島センターHP)

このように大きな島を、どのように走ればいいのだろう。

名瀬のフェリー発着所前で自転車を組み立てながら、まだ決めかねていた。大まかなプランは2つあった。ひとつは、このまま加計呂麻への船が出る古仁屋(こにや)に向かうというもの。今回の旅の目的地は加計呂麻島である。できれば今日中に渡りたい。名瀬から古仁屋までは国道58号の一本道で、距離は40キロほど。ところがこの道、地図をよく見ると、かなり険しい峠道なのである。うねうねと曲がりくねり、トンネルがいくつもある。標高は450メートルくらい。山道には集落もない。経験に照らして、このような峠越えには、相当な困難が予想された。

もうひとつのプランは、島の北部を周遊した後、古仁屋にはバスで行くというものだ。バスは、奄美空港から名瀬経由で古仁屋まで、頻繁に出ている。空港は島の東端にあるから、たとえばそこまで走って空港でバスに乗り、名瀬まで戻って古仁屋に向かえば、島の東半分を見たことになる。バスは所要2時間半だから、空港で14時ごろのバスに乗れば、夕方に古仁屋に着くことができる。名瀬から空港もまた40キロくらいだが、海沿いの道で、それほど険しくはなさそうだ。昼過ぎまでに着けばいいのだから、寄り道することもできるだろう。

どちらにするか。
峠越えは嫌いではない。「やってやろうじゃないか」とも思う。あれだけの厳しい峠を越えれば達成感もひとしおだろう。
他方で、旅を楽しみたいという気持ちもあった。奄美大島の旅を、ただ「登るだけ」で終わらせてしまってよいものか。短い滞在時間、いろいろなものを見たほうが、旅は充実したものになるのではないか。

当日の気分に任せようと思っていた。そして今日、僕はやっぱり後者にしようと思う。奄美大島には「鶏飯(けいはん)」という料理があるということを、船の中で知った。その元祖の店が空港近くにある。せっかくだから、ぜひとも食べたい。旅に出たらその土地のものを食べるのは、鉄則である。

奄美大島の旅のハイライトは鶏飯。そう決めた。6時半である。走り出すと、ほのかに朝の冷気が感じられて、気持ちよい。

名瀬の町中を走る。商店街のシャッターはまだ閉まっている。散歩する老人がいる。コンビニがある。TUTAYAがある。中心部を抜けるとヤマダ電器があり、ダイエーがある。見慣れた都市の風景だ。20分ほどで、国道58号に入る。建物がまばらになり、クルマが増えてきた。トラックが多い。さすがは奄美大島の動脈である。

郊外に行くほど交通量が増えてきた。通勤のクルマだろうか、名瀬に向かう反対車線が多いが、こちらの車線でも時々、3、4台が連なって追い抜いていく。町中では車道を走っていたが、郊外の山道に入ると路側帯は狭くなり、やむなく歩道を走ることが多くなった。それでも歩道は広いので、さほどのペースダウンにはならない。

それほど暑くはないが、30分も走ると汗ばんできた。着替えようかと思う。フレッドペリーのポロシャツとリン・プロジェクトの7分丈サイクリングパンツという町乗りスタイルでこれまで旅してきたのだが、さすがにこの格好では無理なようだ。町中でも歩ける服は、これ以外持ってきていない。この服を汗だくにしてしまっては、これから先の移動の際、着るものがなくなってしまう。レーパン姿で飛行機や船に乗るわけにはいかない。郊外にあるパチンコ店の広大な駐車場の片隅で、ピチピチのレースパンツとサイクリングジャージに着替える。

長距離ツーリングのコツは、何と言っても、身に着ける荷物を少なくすることだ。今回の旅の荷物はドイターのバックパック1つと、自転車のサドルバッグに入れた工具類、それと自転車のフレームに巻きつけている輪行袋。自転車にキャリヤーでも付けられれば、だいぶ楽になるのだが、このカーボンフレームのロードレーサーには、しっかりした旅用のキャリヤーは取り付けられない。大半の荷物は背負っていかなければならない。バックパックに、脱いだ「よそ行きの服」を押し込んだら、パンパンになってしまった。荷物、少なくしてきたつもりなんだけどなあ・・・。きのう鹿児島で買ったさつまあげの10個入りパックが、ここにきて存在感を増している。手のひらに乗せてみたけど、軽いもんだ。でもこんなもの1つでも、荷物の重量感はぐっと増すのである。こんなことなら、きのうの夜食べておけばよかった。「捨ててしまおうか・・・」。一瞬、頭をよぎったけど、とてもそんなことはできない。売店のおばあちゃんの顔が浮かんだ。捨てるくらいなら、ヒーヒー言いながら背負っていった方がいい。別に死ぬわけじゃなし。バッグの背中側の圧力がかからない所に、注意深く入れ直した。

まもなく1000メートルほどのトンネルに入った。その中で、奄美市が終わり、龍郷町に入る。時刻は7時30分。トンネルを出た途端、なんだか騒がしくなった。山の中の一本道に、虫の声があふれている。「ギャースカギャースカ」。セミだろうとは思うが、なんだか聞いたことのない鳴き声である。坂を下るとひらけた場所に出て、左手に海が見えた。通り沿いに民家が増え、町中に入ったことがわかった。立派な建物の中学校があり、制服姿の生徒がぽつぽつ、歩道を歩いている。

笠利町に入ったあたりで、二の腕とふくらはぎがヒリヒリしだした。日差しがずいぶん強くなってきた。砂浜にある公園で日陰を探し、小休止。地図で確かめると、この国道58号はこの辺からずっと海岸沿いを走ることになっている。ここまで走行距離は26.9キロ。8時10分である。まあ順調なペースだろう。背負う荷物の重さもそれほど感じない。自転車も異常なし。タイヤを替えておいてよかった。しっかり蒔かれたハンドルのバーテープの握り心地も、すこぶる良い。

お目当ての鶏飯の店「みなとや」には、8時半に着いてしまった。店は11時からである。あと2時間半もある。赤木名というこの集落まで、走行距離33キロ。案外楽な道のりだった。まだまだ走れそうである。

国道58号はこの集落で2つの県道に分岐して、終わる。右が県道601号で、左が602号。この2本は半島の海沿いをぐるりと回って結局つながっている。つまりどちらを行っても、ここに帰って来るようになっているのだ。そのぐるり沿いには、観光名所の「あやまる岬」がある。少し足を延ばせば、島の北端の笠利崎にも行ける。ぐるりと回っても20キロほどだから、ちょうど帰ってきたころ、お昼になる。ここにいても仕方ないので、回ってくることにした。

R0011045.JPG県道に入ると、景色が一変した。空が広くなり、あたり一面、サトウキビ畑である。集落と集落の間が長くなり、道がまっすぐになった。時々現れる集落では、道端の軒下におばあちゃんが座っている。日陰は涼しそうだ。

20分ほどで「あやまる岬」着。この島の東端まで、名瀬から40.2キロの道のりを走ってきた。公園に整備され、観光地らしい観光地である。岬に登ると眺望がひらけ、眼下にサンゴの海が広がっていた。空の色が深みを増している。日がだいぶ高くなり、本格的に暑くなってきた。モニュメントに自転車を立て掛けて写真を撮る。地形がこんもり丸く、昔の遊具「あや織りの毬」に似ていることから「あやまる」の名がついたのだという。そう説明書きがあった。しばらく海を眺めていたかったが、日陰がないのでやめた。太陽ににさらされているのがつらい。

それにしても、だれもいない。笠利崎に向かう道でも、ほとんど人に会うことがなかった。それはそうと、だんだん険しくなる道と、強くなる日差しが耐え難いほどになってきた。途中、犬を後ろに乗せた3輪バイクのおっさんが、追い抜きざま、クラクションを鳴らしていった。あいさつのつもりだったらしいが、応える余裕もあまりなかった。笠利崎灯台着9時40分。走行距離49キロ。

東岸の笠利崎から西岸に至る、ちょうどぐるりの上の部分に当たる道は、さらにきついものだった。坂道の距離は短いが、斜度が半端ではない。細長いこの島の、背骨の部分が山脈になっているのだ。だからこの島ではどこでも、横断方向の移動が困難になる。

10時40分。赤木名に戻ってきた。メーターの表示をみると62.6キロ。けっこういい距離だ。笠利崎からここまで来る途中、ちょっと過ごしやすくなったと思ったら、雲が空を覆い始めていたのだった。いまではいつ降ってもおかしくないほど、雲は厚くなっている。

R0011084.JPG「鶏飯」は、ご飯に刻んだ鶏肉と薬味を乗せ、熱々の鶏ガラスープをかけて食べる。食べ方としては、名古屋のひつまぶしに似ていた。薩摩藩の役人に出した歓待料理が始まりだそうだ。もとは炊き込みご飯だったものを、この「みなとや」の先代が現在の形に改良したのだという。だから奄美に鶏飯の店はたくさんあるけども、この赤木名の「みなとや」が「元祖」を名乗っている。この店には現・天皇陛下もいらっしゃったそうだ。ごはんはお代わり自由。いくらでも食べられた。

昼時にはお客が増えたものの、のんびりくつろぐことができた。時刻は12時半になっていた。今日は加計呂麻まで行く予定だ。そろそろ宿を取らなければいけない。ピックアップしておいたリストを取り出し、電話してみる。1軒目の「きゅら島」、何度か掛け直してつながった末に、断られた。実久という北端の集落にある浜辺の宿だったが、40代くらいの女性の声で「いまお休みしてる」とのことだった。加計呂麻には家族経営の民宿とペンションしかない。シーズンオフになれば営業をやめてしまうところもあるのだろう。

2軒目「はまゆう」。西阿室という夕日の美しい静かな集落にある昔ながらの民宿で、おばあちゃんがやっているという。電話するとすぐに出た。果たしておばあちゃんの声だ。「食事はどうしますか」と言う。下調べの時には素泊まりの宿とあったので、食事だけが気がかりだった。
「できればお願いしたいんですけど・・・」
「はい、いいですよ」
この一言で決めた。
おばあちゃんの宿で、食事が付いていれば、何も言うことはない。
電話のおばあちゃんは、それ以上は何も訊いてこなかった。
名前とか電話番号とか、到着時間とか。行くか行かないかわからないお客のために、食事を作るのだろうか。こちらが不安になって、一方的に名乗り、夕方ごろ着くと思うと告げた。
「お待ちしてますよ」
電話が切れた。
これはもう、いい宿にちがいない。
そんな予感があった。
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2009年09月26日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇B

■海の上のサイクリスト

那覇行きフェリー「あけぼの」が奄美大島に着岸したのは、ほぼ定刻通りの午前5時すぎだった。名瀬はまだ夜である。港に下り立つと、深い闇の底にたまった暑さが、まとわりついてきた。夜明けの気配すら感じられない。下船したのは100人ほど。鹿児島で乗った客の3分の1ぐらいだろうか。発着所に向かう通路の途中で、船の写真を撮ろうと振り返ったが、とうていフレームに収まりそうになかった。こんなに大きな船に乗ったのは初めてかもしれない。

船の旅は思いのほか快適だった。

R0011028.JPG鹿児島を出航する時、ボーという汽笛とともに、音楽が流れた。「蛍の光」ではなく、コブクロの歌。岸壁には見送りの人々が、それでも10人ほどいて、離れていく船上の誰かに向かって一生懸命、手を振っていた。コブクロを聞きながら、中島みゆきの「時代」が思い出された。

めぐるめぐるよ時代は巡る
別れと出逢いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩きだすよ

どこにでもあるけど、なかなか目にすることがない、人生の一場面。それを象徴的な形で表わすのが、船の出港風景だったりするのだろう。何より、クルマや列車や飛行機と違って、ゆっくりである。別れや出会いには、余韻があった方がいいに決まっている。

鹿児島を出て間もなく、食堂営業の案内があったので、部屋に荷物を置いてからさっそく出かけてみた。バイキング方式のメニューから選んだカツカレーの味は、なかなかのものだった。テレビのローカルニュースで、例の流木事件について報じていたが、それがどこから流れてきたものなのか、まだ明らかではないらしい。

食後はデッキの風に吹かれながら、暮れていく水平線を眺めていた。錦江湾でイルカが見えるかもしれない。「茶輪子」のおじさんがそんなことを言っていた。おじさんは初めてこの船に乗った時、トビウオの群れをイルカと見間違えたのだという。目を凝らしてみたが、イルカもトビウオも、今日はいないようだった。

船内はまるでホテルのようだ。キャビンはなんと、6階建て。乗船時はエスカレーターで上がってきた。吹き抜けの階段を上ったり下りたり、思わずあちこち探検してしまった。吹き抜けの2階ロビーを中心に、前後に延びた通路に沿って、個室の扉が並んでいる。割り当てられた「2等洋室」は2段ベッド3つの個室で、3階にあった。ほかに「2等和室」というのもあり、それら個室が並ぶ通路の一番奥に「2等」の大部屋がある。「1等」はやはり上の方の階だ。客層は幅広く、いろいろな人がいる。若者から年配の人まで、やはりグループが多いが、夫婦だったり、1人でいる人も少なくない。それらの人たちがロビーや食堂のベンチに座ったりしながら、互いに干渉し合うことなく、思い思いの時間を過ごしている。

そんな船内で、快適な一夜を過ごした。

「あけぼの」到着からしばらくして、下船した人々が去ると、発着所は静かになった。コンクリートの薄暗い部屋のベンチに、朝の便を待つ人たちのまばらな影。冷房は効いていなかった。起き抜けの身に、粘りつくような暑さがこたえる。とにかく自分はいま、南国の島に来ている。「おれはここにいる」という、この、やけに確かな現実感は何だろう。

すぐにも出発したかったが、未知の土地でこう真っ暗では、身動きが取れない。それにしても、あれだけいた「あけぼの」の下船客たちは、この暗闇の中、どこへ消えてしまったのか。とりあえずベンチに座ってみたが、いかにも手持ち無沙汰である。あちこち視線をめぐらしていると、ふと、食堂の看板が目に入った。ひっそりしているが、ネオンサインがついていて、「営業中」とある。朝飯には早かったが、入ってみることにした。

店には誰もいないようだった。敷居をまたぐとセンサー音が鳴り響き、しばらく間を置いて、どこからか、黄色いアロハシャツを着たおやじが現れた。「いらっしゃい」と言うので一応営業はしているらしい。「奄美ラーメン」というのを気にしつつ、「モーニングセット」を頼む。注文を取るとアロハおやじは、おもむろに冷房のスイッチを入れた。ひんやりとした風が流れてきて、少しホッとした。

店にはアロハおやじと2人きり。新たな客は来そうにない。料理を終えたおやじは暇になるはずだ。話しかけてきたらどうしよう。奄美の人気スポットでも訊いてみたら旅の参考になるかもしれない。モーニングセットを待ちながら、そんなことも考えていたが、すべては杞憂に終わった。

トーストと卵焼きを置いていったおやじは、テレビを見始めたのである。熱心に見つめているのは薄型大画面テレビ。客のためではなく、明らかに自分が見るためにつけた感じだ。映っているのはなにやら深刻そうなアメリカの連続ドラマ。「24」かと思ったが、よくわからない。爆発したり銃を撃ったりするたびに、テーブルが揺れるほどの重低音が、店に響きわたる。CSだろうか。それともDVDかブルーレイか。判然としなかったが、とにかくこの最新型のオーディオセットが、この店でこの時間に機能していることが何ともおかしく、アロハおやじに付き合って最後まで見てしまった。

ドラマが終わると、窓の外が明るくなっていた。時計を見ると6時10分、すっかり朝である。天気はいいようだ。島の初日、暑かろうが何だろうが、もう後戻りはできない。走るしかない。



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2009年09月25日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇A

■鹿児島で職人の技を見る

R0011023.JPG空港の建物を出た途端、もわっとした熱気に包まれた。南国の夏はまだまだ終わっていないようだ。少しホッとした。そういえばいつだったか、初めて鹿児島に来た時、10月なのにセミが鳴いていて驚いた。そんなこともあった。遠い昔のことだ。

空港で受け取った輪行袋をそのままリムジンバスに乗せ、鹿児島市内に向かう。鹿児島空港から市街までは、高速道経由で1時間ほど。かなり遠いので自転車で行くのはやめる。ちなみにこのリムジンバス、市街から空港へ向かう場合は気をつけなければならない。夕方になると渋滞に巻き込まれ、必ず遅れるのだ。これも昔の話だが、飛行機で帰ろうとしてバスに乗ったら1時間遅れ、空港到着は飛行機出発の10分前、というようなこともあった。

14時30分、鹿児島中央駅前。ポップな造りの駅舎は、西鹿児島駅と呼ばれていたころから変わらない。見上げると名物の赤い観覧車が、夏の空をバックに輝いていた。

自転車を組み立てるべく、目立たない場所を探す。ここでひとつ気がかりなことがあった。自転車のタイヤである。朝、長野で分解している時、ところどころひび割れていることに気がついた。交換したのはずいぶん前。この1年で5000キロ以上走っているから、耐用期限を過ぎているかもしれない。これから予想される厳しい走行条件を考えると、不安だった。替えのタイヤを持ってこなかったのが悔やまれたが、いまさらどうしようもなかった。来る途中で考えたのは、現地のショップで交換してしまうこと。鹿児島は大きな街だからロードレーサーを扱う店があるだろうと、空港のインターネット端末で探したら、幸いなことに市内に1軒見つかった。地図をメモしておいた。

袋から出して組み立てる。変速機をはじめ飛行機輪行の悪影響はないようだったが、やはりタイヤは替えたほうがよさそうだった。これから乗る予定の奄美へのフェリーは18時発。まだ時間はある。ショップを探すことにした。

チェックした店「茶輪子(ちゃりんこ)」は、地図で見たとおり、鹿児島大学正門の前にあった。店の前に自転車を止めると、女性が出てきて迎えてくれた。「いらっしゃい」。40代くらいだろうか。Tシャツにジーンズ姿、さばけた口調で飾らない感じの人だ。「タイヤを替えたいんですけど」と言うと「まあどうぞ」と中へ招じ入れてくれる。店の主人は50代だろうか、ひょうひょうとしていて、こちらも感じのいい人である。

店内にあったいくつかの種類の中から、「これが丈夫だよ」と勧めてくれたものに決めて、交換までやってもらうことにした。「どうする? 自分で替える?」と訊かれたが、自分で交換すると、1時間以上時間かかってしまう。「正しくやれば10分でできるよ」と言いながらおじさんは、おもむろにホイールからタイヤを外し始めた。25ミリ幅に高い気圧をかけるロード用のタイヤである。ぴったりの寸法で造りに余裕がない。素人にとっては、外すだけでもひと苦労だ。

にもかかわらずこの主人、空気を抜いたタイヤを何やら揉むような仕草を始めたかと思うと、あっという間に外してしまった。その間、約30秒。素手で、タイヤバーも使わずにである。唖然とする僕に、「こうやって一度チューブを真ん中に寄せると楽に外せる」と、おじさんは実演を交えて丁寧に解説してくれた。タイヤをはめる時は、ブランドロゴがバルブの上に来るようにするとよい。そうすればパンク時、チューブにあいた穴の位置を探しやすくなる。タイヤは片側を全部はめてからチューブを入れる。後輪はギアの反対側から入れると、チューブにオイルが付着しない・・・

初めて聞くことばかりだった。何気なくやっている作業でも、そのひとつひとつに、ちゃんと理由がある。こうやって筋道立てて説明してもらって初めて、よくわかった。こういうことは自己流ではなかなか気づかないと思う。いろんなショップに行ったけれど、ここまで丁寧に教えてくれた店はなかった。こんな店なら一生付き合いたい。自分の住む街にこのような店がないのが、つくづく残念だった。

タイヤ交換の後、ついでにハンドルのバーテープも新しく巻いてもらった。その間1時間余り、話好きらしい2人との会話が弾んだ。奄美はサイクリストの間でも人気があり、島を1周するイベントなどもあるらしい。店が主催したツーリングの写真も見せてくれた。

時間を忘れて話をしていたら、店内に流れるラジオで4時の時報が鳴り、ニュースが始まった。そこで何気なく耳に入ってきたのが「流木」という言葉。流木? 何のことだろう。聴いていると、数日前から鹿児島近海に5000本の流木が流れてきて、離島航路の運航に影響が出ているという。鹿児島と種子島・屋久島を結ぶ高速船の運休が決まった。種子島ではあすH2Bロケットの打ち上げが予定されており、それを見物する観光客が足止めをくらっている。ラジオのニュースはそうした観光客の困惑する声も伝えていた。

おじさんによれば、鹿児島近海にはしばしば、このような騒ぎがあるらしい。2年ほど前にも高速船が何かにぶつかり、けが人が出たという。今回の流木については、台風被害の台湾から流れてきたとか、貨物船の沈没によるものとか、いろいろ言われているが、正確な原因はわかっていない。「僕は船が沈んだとみているね」と、おじさんは言う。妙に自信たっぷりに言うなと思ったら、おじさんは昔、港湾のアルバイトで貨物を扱った経験があって、船に積む材木の特性に詳しいとのことだった。シンクとかなんとか、木の浮き方の特性など、熱心に教えてくれたが、こちらは奄美航路への影響が心配だった。ニュースは奄美行きの船については何も言っていなかったが。

奥さんがわざわざネットで調べてくれたりした結果、運休は種子島・屋久島(こちらではまとめて「タネヤク」というらしい)航路の高速船だけで、奄美航路はたぶん大丈夫だろう、ということになった。時刻は4時半、「そろそろ行ったほうがいいね」と言われ、かれこれ2時間ほどいたこの店を辞することにした。「行きます」という僕に、おじさんは港への道順を教えてくれた。

何から何まで世話になってしまった。旅というのは結局のところ、人に何かをしてもらうことで成り立つものだ。旅で受ける親切は、何物にも代え難い。この感謝の気持ちを、どう伝えたらいいのだろう。そんなことを思いながら、鹿児島新港への道を急いだ。

これから乗るマルエーフェリー「あけぼの」は、奄美大島の名瀬を経由して、那覇まで25時間かけていく船だ。名瀬着はあすの午前5時。乗り場には大勢の若者たちが待っていた。自転車はそのまま乗せると航送料金がかかるが、たたんで客室に持ち込むこともできるという。こうすれば手荷物料金500円で済むらしい。その方が安心なので、面倒でもまた解体して袋詰めすることにした。切符は2段ベッドの「2等洋室」を取ることができた。最安の「2等」はおそらく、あの若者集団に占領される。その中にひとりで過ごすのは避けたい。それに昨晩はろくに寝ていない。きょうはきちんと睡眠を取らなければ、あすのツーリングに差し支える。そう考えて寝台の「2等洋室」に決めた。

フェリー乗り場の売店でさつまあげを買ったら、店のおばあちゃんにいろいろ訊かれた。あの大きな袋には何が入っているのか。どこから来たのか。旅行か。これからどこへ行くのか。学生か。まだ学生に見られるのが、なんだかうれしかった。「これはすぐ傷むから、開けたらすぐ食べないかんよ」と、何度も諭された。「気をつけてね」「行って来ます」。ここでもまた励まされた。
posted by Dandelion at 08:34| Comment(1) | 加計呂麻島自転車旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

南海自転車奮闘記〜加計呂麻島篇@

■間に合うかもしれない

9月中旬、7連休をもらえることになった。遅い夏休みである。「今年は南の島に行こう」。かなり前からそう決めていた。思えば選挙に忙殺された8月、気がついたら夏は終わっていた。深夜勤務が続く昼夜逆転の生活で、ろくに太陽も見なかった。真っ黒になるまで、思いっきり日差しを浴びたい。それには自転車の旅がいい。そう思って行き先を探した。

天気予報では九州南部から沖縄あたりはまだ、気温30度を上回る日が続いているようだ。行くとすればその方面、島といえば沖縄か奄美。沖縄は何度か行ったことがある。白い砂と青い海、宝石をちりばめたような満天の星。3年前の夏、鳩間島で見た風景は今も忘れられない。思い出すとたまらなく懐かしくなった。また沖縄に行くのもいいなと思った。

実際、9月に入ってもそのつもりでいた。でもいろいろ調べてみて、やっぱり沖縄はよすことにした。沖縄には自転車で走って面白そうな島があまりない。離島は平坦で、小さな島がほとんど。かといって車の多い沖縄本島を走るのも気が進まない。

というわけで残ったのが奄美諸島。こちらは一度も行ったことがない。鹿児島から奄美大島までフェリーで11時間。自転車を連れて船の旅なんてのも、なかなかいい。いざとなれば飛行機もある。それに何といっても起伏のある地形で、いかにも走りがいがありそうだ。

奄美諸島はいくつかの島から成る。そのうち加計呂麻島は、本土から見ると奄美大島の裏側に当たる位置にある東西に細長い島である。この島には戦争末期、島尾敏雄が隊長を務めた震洋部隊の基地が置かれていた。島尾はここでミホ夫人と出会っている。いわば「死の棘」の原点となった島。どんな風景が広がっているのだろう。昔から見てみたかった。調べたら奄美大島から船で20分とのこと。この際だから行ってみることにした。旅の目的地を、この加計呂麻島に定めた。

2009年9月10日午前5時50分、長野駅。
これから6時9分発の「しなの」で名古屋に向かい、中部国際空港から鹿児島に飛ぶ。自転車は車輪を外し袋詰めして乗せていく(これを輪行という)。駅前で自転車を解体していると、おじさんが声を掛けてきた。散歩の途中、60代半ばといったところか。「自転車ですか」「どちらまで」と興味津々の様子。聞けばこのおじさん、最近、四国まで自転車で旅をしたという。輪行は未経験だが、一度してみたいと思っているそうだ。

「ほほう、簡単なもんですなあ」などといちいち感心しながら作業する手元を覗き込むので、どうもやりにくい。四国は善通寺がよかった、寺の遺構に興味がある、クルマが道を譲ってくれて優しかった・・・こちらも話をしたいところだが、列車の時間が迫っている。おざなりの受け答えに申し訳なく思いながら、10分ほどで作業完了。詰め終えた袋を担ぎ「それじゃ、行ってきます」と言って歩き出したら「お気をつけて」と見送ってくれた。駅の建物の向こう側から朝日が射してくる。目を開けていられないほど、視界が光でいっぱいになった。ひさびさの長旅、上々の幕開けだ。

名古屋駅から名鉄の特急で30分、中部国際空港に着く。カウンターで自転車の入った袋を、手荷物として預ける。「十分注意しますが、万一のときはご了承ください」と、免責条項を記した紙にサインするよう言われる。料金はかからない。搭乗手続きを済ませてから、空港内をぶらぶら歩いてみた。和洋中さまざまのレストラン、ユニクロやスーツの店まであって、飽きさせない。何でも揃うという感じだ。しばらく散策した後、入念な保安検査を受けてから乗り込んだJEX3293便は定刻11時45分、鹿児島に向けて出発した。
posted by Dandelion at 07:01| Comment(0) | 加計呂麻島自転車旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする