2017年05月15日

そして誰もいなくなった 〜愛媛・新居浜の別子銅山遺構

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 対向車とすれ違うのも難しい山道を、マイクロバスはそろそろと進んでいく。カーブを折り返すごとに高度が上がり、山々の緑が鮮やさを増すようだ。新緑といっても一様ではなく、濃い緑もあれば黄緑もある。その濃淡が美しいのが四国の山の特徴だと、ガイドの女性が教えてくれた。しばらくすると、スギやヒノキの木立の間から、白い墓標のようなものが並ぶ山肌が見えた。植林をしているのだという。江戸時代、銅の精錬の影響でこのあたりは全部はげ山になってしまった。緑を取り戻すため、植林を続けてきたのは住友林業。これまでに植えた木の総数は1億2000万本に上るという。30分ほど上ると茂みが途切れ、頭上に空が広がった。古い石垣が道の両側に現れ、マイクロバスはその間を抜けて、広い駐車場に着いた。そこが東平(とうなる)だった。

 愛媛県新居浜市の別子銅山は、1691年から1973年の閉山までに約65万トンの銅を産出、坑道の総距離は約700キロに上る。後の住友財閥につながる住友家が採掘を始め、江戸時代には長崎貿易で世界に輸出された。明治以降、銅山から化学や機械、林業などの事業が派生し、住友金属鉱山や住友化学、住友林業などの住友グループが誕生、新居浜は住友の企業城下町として発展した。銅の採掘拠点があった山の中には多くの遺構があるが、中でも標高750メートルの山中に朽ち果てた施設群が残る東平地区は、その景観をペルーの遺跡になぞらえて「東洋のマチュピチュ」と呼ばれ、近年多くの人が訪れるようになった。

 バスを降りると、小雨が降っていた。ガイドの女性と運転手が、どこからかビニール傘の束を持ってきて、乗客たちに渡してくれる。マイクロバスは、銅山の歴史を伝える観光施設「マイントピア別子」が主催するツアーの参加者を乗せてきた。マイントピア発着で2時間ほどのツアーは予約なしで参加でき、市民ガイドが案内してくれる。

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 駐車場の一角に立つ案内板の前に集まって、ガイドの女性の説明を聞く。谷を挟んだ正面の山の中腹には明治時代、鉱山鉄道が走っていたという。そのルートがここから確認できるということだが、霧でよくわからなかった。晴れていれば、谷間の向こうに広がる新居浜の市街が一望できるらしい。

 駐車場の脇から、まっすぐに下りる階段があった。神社の参道のような石造りの階段は、200段以上。この斜面は、インクラインの跡だという。「インクライン、ご存知ですか。ケーブルカーのようなもので、斜面にレールを敷き、その上の台車に物を積んで運びました。全国で有名なのは、琵琶湖疏水のものですね。あそこには今も昔のまま残されています」

 ガイドの女性は、資料も見ずに説明する。琵琶湖疏水のインクラインは、京都の小学校に通っていた時、郷土学習で見学したからよく覚えている。でも京都や滋賀はともかく、全国的な知名度があるとはいえないだろう。女性は、雑談するようにざっくばらんに話すのだが、その内容は充実している。年配の人だが、相当勉強しているに違いない。

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 階段の下は草むした広場になっていて、れんが造りの重厚な建造物があった。所々傷んで、古い城の石垣のようだ。これが「東洋のマチュピチュ」のイメージのもとになった、索道基地と貯鉱庫の跡。みんなで見上げて写真を撮りながら、ガイドの女性の説明を聞く。れんがの積み方にはイギリス式とフランス式があり、東平の建物はイギリス式。フランスの援助で建てられた、たとえば群馬の富岡製糸場などはフランス式が採用された。ロープウェーのような索道で、ここから重い鉱石を下ろし、その重力の反動で軽い日用品を上げた。見てきたような語り口はさすが、物が運ばれる様子やそこで作業する人たちの姿が目に浮かぶようだ。

 東平には1916年から30年まで採鉱本部が置かれ、東平坑が廃止される68年までの間、多い時には約3800人が住んだ。社宅や小中学校、保育園、病院などはもちろん、2000人を収容する娯楽場もあり、映画や演劇がさかんに上演されていたという。

 索道基地の広場からさらに階段を下りた林の中に、それらの暮らしの跡は、ひっそりとあった。建物はなく、土台の石垣の傍らに、案内板が立っている。娯楽場から保育園へ、保育園から病院へ。上っていくと息が切れた。すべて坂道。当時はもちろん林ではなかったにしても、この急峻な地にどのように街が形づくられていたのか、想像するのが難しい。

 幹部は別として、一般社員の社宅は狭く、家族は川の字になって寝たという。便所や風呂、炊事場はすべて共同。家は寝るだけだから、別に狭くても構わなかったという。みんなが同じ夢を共有し、厳しい環境で助け合って生きる。そんな暮らしが、かつてここにあった。ひとしきり説明してから、ガイドの女性は、こんなことを言った。

「保育園には、プールがあったんですね。その土台が残っているんですけど、それは丸い形をしているんです。角があるとけがをするかもしれないでしょ。子どもたちが安全に遊べるようにと、ちゃんと考えてつくっているんです。この話を思い浮かべるたびに、私は、ここで暮らした人たちの慈愛というんですかね、気持ちの温かさを思って、胸が熱くなるんです」

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 年月が過ぎ、人はいなくなっても、人が抱いていた思いは、「かたち」としてその土地に残る。それこそが遺構なのだ。そう考えて保育園の跡地に立つと、ここにあった街の風景が垣間見える気がした。

◆ ◆ ◆

 新居浜は祖父母が暮らした地。東平の帰り、今はもうだれも住んでいない家を見に行くことにした。祖父は数年前に亡くなり、祖母はその後、広島の施設に入った。2人とも住友系の会社に勤め、社宅で子育てをした後、その家を建てた。共働きの夫婦。晩年まで、主に台所に立つのは祖父だった。社宅での暮らしは忙しかったが楽しかった、と2人はよく懐かしんだ。隣近所で助け合って子どもたちの面倒を見たり、地区の運動会や祭りにみんなで参加したり。若い頃のそんな思い出を、ことあるごとに聞かせてくれた。

 その家は、門が閉められ、庭は荒れ、電気のメーターが外されていた。門の外から覗くと、玄関先に自転車が2台、そのまま置かれているのが見えた。夏休みに訪れた時にはよく借りて、あちこち出かけた自転車。この家には、私の思い出もたくさん詰まっている。

 これもまた、ひとつの遺構なのだろうか。そこに、つい最近まであった日常は、いつの間にか失われていた。玄関先で見送ってくれた祖父母の姿、2人が話す伊予弁の響き、古い家の独特なにおい。見ることも聞くことも、感じることも、もうできないのだ。自分もそこに属していた家族の暮らしは、「かたち」だけを残して、静かに朽ちていくのを待っていた。

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2017年03月29日

城下町を走る 〜錦帯橋ロードレース大会

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山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋は、長さ193.3メートル。関ケ原の戦いの後、岩国を治めることになった吉川(きっかわ)家が、両岸につくられた城下町を結ぶために計画し、1673年に完成した。五つのアーチ橋から成る独特の形状は、流されない橋を造ろうと研究していた吉川広嘉という人が、中国から帰化した独立(どくりゅう)という僧から彼の故郷である杭州や西湖にある橋の話を聞き、「西湖遊覧誌」という書物の中の絵図を取り寄せて、それを参考に設計したという。創建の翌年に流され、その後は架け替えを繰り返しながら276年間維持されたが、1950年の台風で消失。3年後に再建され、2004年の架け替えを経て現在に至る。

そんな橋のたもとを走るレースに参加した背景には、ある出会いがあった。昨年2月の「出雲くにびきマラソン」で知り合ったランナーのおじさんが岩国の人で、出雲大社近くのそば屋で話をした時に、毎年3月に開かれるこのレースのことを教えてくれたのだった。

おじさんは60代だが、滅法速い。40代で走り始めて50代でサブスリーを達成、今でもハーフは1時間20分台で走ってしまう。今回の大会でもハーフ60歳以上の部で入賞していた。表彰式の後に声を掛けようと待っていたが、なぜか現れなかった。

そんなわけで、会うことはできなかったおじさん。後日くれたメールには「啓蟄の候です。電話頂いた時、びわこ毎日マラソンを見てまして、誠に失礼」とあった。ああ、そういえば、そんな感じの人だったな。おじさんの飄々とした人柄が思い出された。


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2015年12月02日

民生さん、新本拠地で完投

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広島市出身のミュージシャン奥田民生さん(50)が11月29日、同市で弾き語りライブ「ひとり股旅スペシャル@マツダスタジアム」を開いた。2009年に完成した同スタジアムで初の音楽イベントは、広島カープの熱狂的ファンである奥田さんが50歳を迎えるのを機に企画。今春のスタジアム開幕戦の始球式の後、本人が発表した。総天然芝の美しい球場に響き渡る力強いギターの音と歌声に、スタンドを埋めた約3万人が耳を傾けた。

「ひとり股旅」は、奥田さんがアコースティックギター1本で歌うライブで、これまで不定期に開かれてきた。ロックバンド「ユニコーン」を経てソロ活動を始めた奥田さんは、1998年の全国ツアーの日本武道館(東京都千代田区)公演で、観客に囲まれた広い空間の真ん中に1人座って演奏するというスタイルを確立。以来、2004年に広島市の旧市民球場、2011年には世界遺産の厳島神社(広島県廿日市市)でも開催し、全国を驚かせた。

午後3時、センターフェンスの扉から登場した赤いシャツ姿の奥田さんは、緑鮮やかな外野をゆっくり歩き、2塁後方に設けたステージへ。無言でギターを抱えていつもの職員室チェアに座ると、おもむろに「674」を弾き始め、そのまま立て続けに数曲を歌った。その後、今回から導入された回り舞台を活用して向きを変えながら、「イージュー★ライダー」や「さすらい」、「風は西から」などの代表曲のほか、ユニコーンの「雪が降る町」、カバー曲など計28曲を演奏。マイクを通す前のギターの生音がスタンドに届くほどの熱演で、観客は日暮れの寒さも忘れて聞き入った。

今季優勝を逃したカープや、球場の素晴らしさについて、ぽつぽつとつぶやく奥田さん。演奏の合間の演出もカープ愛にあふれ、「始球式」と銘打った時間には「マエケン」こと前田健太投手(27)と大瀬良大地投手(24)が登場するサプライズも。前田投手の球を大瀬良投手が受け、奥田さんがバットを振った。休憩時間には応援歌の合唱と風船飛ばしで盛り上がった観客たち。午後6時すぎのアンコール前には5周のウェーブと大歓声で奥田さんの再登場を待った。

長野市の会社員男性(41)は「11年前の市民球場でのライブに行けなかったのがずっと心残りだったので、宿願を果たした思い。こんなに広い球場で1人で演奏するなんて、冷静に考えるとあり得ないけれど、そんな独創的な思いつきをフィクションとして成立させ、もはや違和感のないイベントにまで高めてしまっているのがすごい。ゆるくとがってきた30代、つまり「E10」以降の民生さん。50代を迎え、これからどんな「自由」を体現していくのか、注目していきたい」と目を輝かせた。

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2015年05月30日

桃源郷に続く道

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瀬戸内の島々のパズルのような海岸線が、くっきり見えてきた。
中部国際空港を飛び立って約30分、松山行きの飛行機は早くも着陸態勢に入っている。プロペラ機だがそれほど揺れることもなかった。これなら預けた自転車も心配なさそうだ。旋回しながら降下を続ける機体が、街の上空にさしかかる。翼のエンジンの下から、車輪が出てくる。時刻は正午すぎ、いよいよ着陸だ。

「自転車組み立てるん。あっちに場所あるよ」
輪行袋の自転車を係員から受け取り、外に出たところで、声を掛けられた。
タクシー運転手のおじさんが、ターミナルビルの東端の方を指差している。
「あっこにな、専用の場所があるんよ」
「はあ、そうなんですか」
なんだか分からないが、久しぶりに耳にする伊予弁の響きが懐かしい。

「松山エアポートサイクルステーション」と表示された一角には、自転車を立てかけるスタンド2基と、ロードバイク用の空気入れが置いてあった。どちらもあまり自分には必要ないけれど、公共の場で堂々と自転車を組み立てたり、ばらしたりできるというのはありがたい。「輪行」が市民権を得たということか。それにしても松山空港、何年か前に来た時にはこんなものなかったはずだが。

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過去の新聞記事によれば、サイクルステーションは昨年8月、主に海外からしまなみ海道を訪れるサイクリストのために設置されたという。愛媛県はここ数年、自転車による地域振興に力を入れていて、県のホームページには、しまなみ海道を「サイクリストの聖地」として世界に情報発信し、県全体を「サイクリングパラダイス」と位置づけて自転車文化の浸透を図る、とある。「愛媛マルゴト自転車道」と銘打って県内各地にモデルコースを設定したり、自転車の安全な利用のための条例を制定したりと、かなり大掛かりな施策のようだ。

そういえば、去年の夏に見た「南風」という映画に、台湾から来た大勢のサイクリストがしまなみ海道を走るという場面があった。この映画で描かれた国際サイクリングイベントは去年の10月に実際に開かれ、8000人が参加したという。愛媛県の中村時広知事は2011年、台湾の自転車メーカー・ジャイアントの本社を直々に訪問してしまなみ海道への誘客に協力を取り付け、そこから交流が本格化したらしい。そういう一連の流れのなかで、サイクルステーションは設置されたのである。

輪行袋から出したフレームをスタンドに立てかけて、ホイールを取り付ける。タイヤの空気圧は十分。サイクルコンピュータもちゃんと作動する。リュックを背負い、ヘルメットをかぶって準備完了。さあ出発だ。

目的地は伊予市鵜崎(うのさき)。砥部町との境にまたがる集落で、砥部町側は「鵜ノ崎」と表記する。標高884.9メートルの障子山の山腹にあり、今では住む人も少なくなってしまったが、寂然と人煙を離れた山深い風景はさながら桃源郷、いま風にいうならば「となりのトトロ」の世界のようだという。そんな話を砥部の親戚に聞いて、一度訪れてみたいと思っていた。

空港の敷地を出て、まずは海沿いの県道22号を南下する。薄曇りだが、風はさらさらと気持ち良い。サイクリングをするなら5月だなあとつくづく思う。これで青い海が見られたら最高だったのだが。

ほどなく重信川を渡って伊予市に入る。15分ほど走って左折、伊予鉄郡中線の線路をまたぎ、国道56号へ。少し戻って今度は右折、県道23号を東に向かって2kmほど走るうちに街並みは切れ、のどかな田園風景になった。県道219号に分岐すると、山が正面に迫る。松山自動車道の高架をくぐると道も細くなり、いよいよ本格的なヒルクライムの始まりである。

道はカーブを繰り返し、ぐんぐん高度を上げていく。心拍が一気に速くなる。汗がじっとり、顔に垂れてくる。それほど息が苦しくないのは、ラントレの効果だろうか。上り始めて10分、砥部町に入ると、右手に大谷池の堰堤が見えてきた。緑の斜面は夏のゲレンデのよう。思ったよりでかい。

大谷池は、川をせき止めて造られたため池で、昭和の初め、干ばつに悩まされてきたこの地の村長が私財を投じて建設を始め、十数年の難工事の末に完成したという経緯が石碑に記されていた。一帯は「えひめ森林公園」というキャンプ場らしいが、人の姿はない。聞こえるのは、鳥の声と、風の音だけ。吸い込まれそうな静けさである。

ふと、生き物の気配を感じた。砂利の駐車場の真ん中に、10匹ほどの猫が集まっている。こんな山の中で何を食べて生きているのだろうか。気になるが、どの猫ものんきに寝そべったり、じゃれ合ったりして、幸せそうに見える。まあ、うまくやっているのだろう。

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猫たちに別れを告げ、ヒルクライムを再開する。道は狭く、木立は深く、舗装は荒い。緑のトンネルのような湖畔の道を過ぎると、途端に坂がきつくなった。この辺り、七折という地名の通り、うねうねとカーブが連続する。軽いギアで時々ダンシング(立ちこぎ)を入れ、リズムをつくりながら上っていく。

峠の頂上までは2キロくらい。10分ほどで上りきってしまい、多少拍子抜けする。これから下りが始まるという曲がり角にお宮があった。案外立派な造りで、石碑や石段もある。砥部の山間部と伊予市の郡中港を結ぶ昔からの往来。歩いて峠を越えた旅人は、ここでひと息つき、手を合わせてから下りていったのだろう。

下りに入ると道幅が広がり、舗装が新しくなった。ぽつぽつと田畑が現れる。相変わらず人はいないし車も通らないが、生活の気配を感じて、ほっとする。180度カーブの弧の先に「外山(とやま)」方面への分岐があった。ここで県道219号ともお別れだ。軽トラック1台が通れるほどの名もなき道、この先はほんとに通じているのかと不安になるが、とにかく進むしかない。

道の両側に広がるのは、梅園だろうか。そういえば砥部町は梅の産地でもある。ミカンやナシだけじゃなくてキウイとかレモンも栽培してるし、最近は「紅まどんな」っていう愛媛県独自のおしゃれな高級かんきつにも力入れよるんよ。とは砥部の伯父の言。

集落を過ぎると道は再び山中に入り、曲折が始まる。10分ほど上ったところで、視界がぱっと明るくなった。行く手は段々畑の中の一本道。農作業している人の姿も見える。

地図によると、ここは大角蔵(おおかぐら)という場所らしい。上りきった所は、おそごえ峠という不思議な名前が付いている。自転車を止めると、無音の世界が広がった。

道端に優しい色の花々が咲き、白や黄色のチョウがひらひらと舞っている。段々畑の向こうには、遠くいくつも重なり合う山々が霞んで見える。ここには独自の時間が流れているようだった。何代にもわたって営まれてきた土地の暮らしが、何事にも揺るがない穏やかな風景をつくってきたのだろう。ここはもう、桃源郷の一部なのだろうか。

獅子文六の小説『てんやわんや』の中に、こんな文章がある。
「それは、山々の屏風で、大切そうに囲われた、陽に輝く盆地であった。一筋の河が野の中を紆(めぐ)り、河下に二本の橋があり、その片側に、銀の鱗を列(なら)べたように、人家の屋根が連なっていた。いかにも、それは別天地であった。あの険しい、長い峠を防壁にして、安全と幸福を求める人々が、その昔、ここに居を卜(ぼく)した−そういう感じが、溢れていた」

終戦後、四国の山中に身を隠すというボスの密命を受けた主人公の犬丸順吉が、東京から苦難の旅をして、峠のバスから目指す山あいの町を眺望する場面である。終戦直後、公職追放の憂慮を抱えていた獅子文六は、宇和島近郊の妻の実家に疎開した。小説はこの時の体験を基に書かれたという。

この小説で、伊予は戦後の混乱とは無縁の、時間が止まった「桃源郷」として描かれる。興味深かったのは、生粋の都会人である獅子文六が、愛媛の言葉や風俗、気候や風土を細部まで正確に描いている点だった。驚きや発見を先入観なく素直な言葉にすることで、都市と地方の距離感を浮かび上がらせ、時代の空気をリアルに表現していると思った。

鵜崎の話を親戚に聞いた時、まず思い出したのが、この小説に描かれた桃源郷のイメージだった。それが今、まさに、おそごえ峠からの眺望と重なった気がしたのである。

おそごえ峠から外山の集落に下り、県道53号線へ。いよいよ最後の上りだ。
これまでの道と比べて周囲の木立は高く、深山の趣。フロントのギアをインナーにシフトし、臨戦態勢を整える。

カーブの度に、リヤのギアを一段、また一段と下げる。下腹部に力を入れ、体幹からペダルを回す。それでも回転のピッチは上がらない。呼吸が速く、浅くなる。息を深く吸い、肺に空気を送り込む。

もうこれ以上軽いギアはない。「あのカーブまで」と力を振り絞って頑張った先に、もっときつい坂が現れる。乗鞍、美ヶ原、ヤンバルの森、津別峠・・・苦しみながら乗り越えてきた峠の記憶がよみがえる。
「あきらめるのか、このくらいで」
「だからだめなんだ、おまえは」
「打ち克つのだ、自分に」
「試されているのは、おまえの生き方だ」

鵜崎に着いたのは夕方近く。峠を上りきった所が伊予市との境界で、そのすぐ先の横道を上った所にひっそりと、数軒の家が点在していた。どの家も瓦屋根の立派な造りである。

そのうちの1軒が知人の家で、訪ねると、江戸時代に建てられたという蔵や、中世に領主の姫君が喉を潤したという湧き水を見せてくれた。小さな沢に手を浸すと、骨にしみるほどの冷たさ。湧き出る水の量は、2001年の芸予地震を境にだいぶ減ったのだという。住む人が減った集落にはイノシシが頻繁に出没するとのことで、家の敷地の通路には、イノシシが通れないように、板が立てかけてある。

「お姫さんがおったお城はな、あの山の上にあったんよ」
北西の方角に見える白滝山、晴れていればその向こうに伊予灘が見渡せ、70年前の広島に原爆が投下された時には、きのこ雲が見えたという。

話は何百年もの歴史の流れを自在に行き来した。ここに根を下ろした人たちは、自分たちの暮らしを守りながら、移り変わる下界のありさまを俯瞰し、子々孫々に伝えてきたのだろう。気の遠くなるような長い時間をかけて蓄積された、土地の記憶。住む人がいなくなれば、それもやがて失われてしまうのだろうか。

伊予の山々に大切そうに囲われた桃源郷。その風景を目に焼き付けてから、山を下りた。





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2010年09月30日

ウミガメの帰る町

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 長い長いトンネルの先に光が見えた。足の裏が急に路面にかみ合った感じがして、歩けども歩けども針の先ほどにしか見えなかった明かりがみるみるうちに大きくなる。やがてそれは目の前いっぱいに広がったかと思うと、世界を真っ白に塗りつぶした−
 
 2日目の朝である。ここがどこなのか、思い出すのに時間がかかった。くすんだ天井板の木目が見える。古びた畳の匂い。鳥の声がする。夢とうつつのあわいでたゆたう意識のなかで、世界はネガからポジへゆっくり反転し、少しずつ色を取り戻した。
 枕元の携帯電話に手を伸ばす。8月6日金曜日5時20分。30分前に目覚ましが鳴った痕跡がある。ウミガメールの着信記録はない。
 来なかったのか…
 寝過ごしたのではなかった。少しほっとした。

 洗面所に出たついでに1階に下りると、フロントの奥に昨晩のごましお氏が座っていた。
 「来なかった、ですよね」
 念のため聞いてみると、
 「来んかったねえ」と快活な返事が返ってきた。寝ずの番をしていた人が言うのだから間違いない。こうしてあらためて確認すると、残念な気がする。「しょうがないですわ、こればっかりは」と、ごましお氏は運に恵まれない旅人を慰めてくれた。

 玄関から朝日が斜めに差し込んでいる。外に出ると、清楚な朝の冷気がそっと肌に触れた。もやのかかった浜辺に、散歩する人の影が見える。まだ赤みの残る新鮮な太陽が、水平線のすぐ上にあった。
 浜の入口の眺めのいい堤防に腰掛けて一服する。海から吹いてくる風がほのかに香った。いい朝だ。
 もう1泊してみるか…
 ふと、そう思った。休みは今日まで。明日は仕事だ。無謀な企てだろうか。でもこのまま帰ってしまうのはいかにも惜しい気がした。幸いなことに明日の出勤は夕方である。朝の飛行機に乗れば、帰れないことはないだろう。
 
 宿に連泊を申し出ると案外すんなり受け入れられた。部屋もそのまま使っていいという。重い荷物は置いて行こう。身の振り方が定まり、気持ちが軽くなった。
 日和佐は小さい街ながら、見どころはありそうだ。どこに行こうか。朝食の時間、ロビーにあった観光パンフレットを見ながら、今日の計画を立てる。
 日和佐町は、2006年に隣の由岐町と合併し、美波町になった。パンフレットの表紙には「美波町観光ガイド」とある。うみがめ荘も、合併に伴って町営だったのが民間に移管され、現在はもう国民宿舎ではないという。予約の時、国民宿舎にしてはずいぶん宿泊料が高いなあと感じたが、なるほどそういうことだったのか。やっと合点がいった。

 午前9時。外に出ると夏の一日はもう本格的に始まっていた。白い路上に軽金属のような陽光が輝き、クマゼミの輪唱が頭の中に反響する。最初の目的地は、宿から徒歩3分の「うみがめ博物館カレッタ」である。
 開館まもない閑散とした館内で、アカウミガメ産卵の一部始終をビデオで見る。後ろ脚をシャベルのように使って巧みに穴を掘る母カメの姿は録画で見ても心打たれるものがあった。ちなみにアカウミガメの学名は「カレッタカレッタ」といい、この博物館の名はそれにちなんでいる。2階に上がると日和佐のウミガメ保護活動の歴史を紹介するコーナーがあった。
 
 …戦後間もない昭和20年代前半、ひとりの中学生が海岸でウミガメの死骸を発見する。無残にも肉を取られ、そのまま打ち捨てられた死体。カメが好きだった生徒は心を痛めた。そして思った。「ウミガメを守るために、何かできないか」と。保護のためには、まずその生態を知る必要がある。そう考えた生徒は、学校で仲間を募り、ウミガメに調査研究を始める。
 これが日和佐におけるウミガメ保護活動の始まりだという。当時あまり知られていなかったアカウミガメの生態を解き明かし紹介する日和佐中の実践的研究は次第に注目されるようになり、町民の間にもそれを支援しようという動きが広がっていった。昭和42年、「大浜海岸のウミガメおよびその産卵地」が国の天然記念物指定を受けると、保護のための施策が町の条例で定められた。それ以降、日和佐は「ウミガメの町」として、官民一体で保護活動に取り組むとともに、それを地域の観光資源としても積極的にアピールしている…
 
 その当時の中学生たちが人工孵化させたというカメが、屋外のプールで飼育されていた。今年50歳024.JPGになるという「浜太郎」、国内最長寿と紹介されている。プールには人工飼育されている大人のカメが20頭ほど泳いでおり、それぞれ1頭ずつに名前が付いていたが、さすがに「浜太郎」の風格は他を圧倒していた。
 
 11時。うみがめ博物館を出て日和佐城に向かう。海に面した小高い山の頂上にぽつんと突き出した天守閣は、町のどこからでも仰ぎ見ることができ、街のシンボル的存在だ。中世の山城だった日和佐城にはもともと天守閣はなく、今の建物は昭和53年、勤労者野外活動施設として建てられたものだという。青い空に白亜の建物がよく映えている。
 漁港の脇から山道に入り、針葉樹の林の中をてくてく上っていく。視界の端の方に何か動く気配を感じるなあと思ったら、カニだった。つかみ取りなら5、6匹は取れそうな、赤くて小さいのが道路脇の側溝あたりにいっぱいいて、さわさわと歩いている。汗をふきふき10分も行くと城山の山頂に着いた。天守閣の内部にはちょっとした売店があったり、ウミガメの模型が置いてあったり、地元出身の写真家の作品が展示されていたりしたが、人の姿はない。気持ちのいい風が通り抜ける最上階からは、黒瓦の落ち着いた街並みが一望のもとに眺められた。広い空と深緑の山と輝く入江に囲まれて、日和佐の夏はどこまでも明るく、静かだった。
 
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 駅をまたいだ山側には、四国霊場二十三番札所の薬王寺がある。女厄坂33段、男厄坂42段、男女厄坂61段の3つの石段があり、一円玉を1つずつ置いて上るとご利益があるという。一円玉不足のためご利益を断念しつつ石段を上って本殿に詣でた後、ウェルかめミュージアムに向かった。

 案内板にしたがって街中を歩いて行くと、たどりついたのは学校だった。中庭を囲むようにして4階建ての立派な校舎が並ぶ敷地の門には「徳島県立日和佐高等学校」の文字。じつはこの日和佐高校、4年前に廃校になっているのだが、学校の建物はそのまま残され、その校舎の一部を利用してこの7月、「ウェルかめミュージアム」が開館したというわけなのだ。
 高校の統廃合もまた自治体合併の動きと無縁ではない。2004年、日和佐高、宍喰商高、海南高の海部郡内の3校が統合され、新たに海部高校が開校した。校舎は海陽町の海南高のものが引き継がれた。海南高校といえば、あのジャンボ・ジェットの尾崎兄弟や元阪急の上田利治監督を輩出した野球の名門だ。そんな由緒ある名前も、気づいてみたらいつの間にか消えていたのである。
 体育館の入口で、緑の帽子を被った中年の男性と目が合った。こちらですというように中から手招きしている。スリッパに履き替え、中に入る。木の床、高い舞台と大きな時計、バスケットのゴー052.JPGル、全部そのまま残っている。「暑いでしょう。これどうぞ」といって、男性がうちわを貸してくれた。首に下げた名札は、ボランティアガイドの身分証明書だった。
「高校の建物、本当にそのままなんですねえ」
 懐かしい眺めを前に感嘆を漏らすと、
「もしかして、OBの方ですか」と聞き返された。
 「ウェルかめ」には詳しくないが、ロケ写真や撮影のセットの展示の中を歩いていると、ほんの1年ほど前にこの静かな街がみせていた賑わいの様子がありありと目に浮かんでくる。視聴率はいまいちだったようだが、子カメの旅立ちを人生に見立てたモチーフは悪くないし、案外面白いドラマだったのかもしれないなと思った。
 ひと通り展示を見て、ガイドの男性にあいさつしてから、体育館を出る。海の方から、心地よい風が吹いてきた。真っ白な雲がわき立つ青空の下に、グラウンドが広がっている。野球部が使っていたネットも、サッカー部のゴールも、往時のままである。向こうの倉庫の陰から、今にもユニホームを着た高校生たちが走り出て来そうだった。

 牟岐線から阿佐海岸鉄道に乗り継ぎ、終着駅の甲浦まで往復2時間ほどの列車の旅を楽しんでから、夕暮れの大浜海岸に帰る。夕食と入浴の間に夜の帳が下りて、午後8時。いよいよ待機の時間だ。
 部屋に戻ってじっと座っているのもつまらないので、外出することにした。蒸し暑かった昨日の夜よりはだいぶ過ごしやすい。灯火管制で真っ暗な浜辺を懐中電灯をたよりに歩く。空は数え切れないほどの星で埋めつくされている。海岸の入口になっている鉄扉の前に、暗い浜辺をじっと眺めている人がいた。
 「監視員の方ですか」
 と、近づいて聞いてみたら、黙ってうなずいた。小柄でおとなしそうな人だ。グレーの作業服を着て、大きな懐中電灯を持っている。浜を巡回している同僚がもう少しで戻ってくるので、様子を見に来たという。せっかくなので、仕事の邪魔にならない程度に、話をうかがうことにした。
 
 …監視員は全部で6人いて、1晩に4人ずつ業務に当たっている。1時間ごとに1人ずつ、浜を端から端まで40分ほどかけて往復し、カメの足跡を探す。勤務は2勤1休。任期は1年で、毎年町の募集がある。本業というよりはアルバイトだが、採用されるのはそう簡単ではなく、何年も続けているベテランが多い。「団塊の世代」だというこの人は6人の中では若手で、唯一の新人だという。
 
 日和佐に生まれ育った男性にとって、カメはずっと身近な存在だった。子どものころは浜も出入り自由で、夏になるとよくみんなで集まって、キャンプなどしていたそうだ。
「夜中に目が覚めたら、たき火が消えてるでしょう。ふと周りを見たら、月明かりの浜に歩いてるんですよ、カメが。一晩で10頭くらいは来てたですね、あのころは」
 と、そんな思い出を懐かしそうに語ってくれた。カメが上がって来るかどうかは、迎える側の気持ち次第なのではないか。時々そんなふうに思うことがあるという。
 「だから監視員もみんな仲良く、気持ちをひとつにせんとね」
 と言うと男性は首のタオルで顔をひとぬぐいして、作業帽をかぶり直した。そろそろ見回りに行く時間らしい。今年もう8頭のカメを見つけたという還暦の新人さん。誇りを持って仕事する人の背中が、暗闇の中で大きく見えた。
 
 9時を過ぎ、10時を過ぎてもカメは現れなかった。きょうが夜勤最終日だというごましお氏が、ロビーで手持ち無沙汰にしていた私に、携帯電話のカメラで撮った写真を見せてくれた。朝日が照らす砂浜に、カメの歩いた跡がわだちのように刻まれている。これだけ深い足跡だから夜の暗闇の中でもカメが上がればすぐわかるのだと言う。
「くわしいですね」
 感心して言うと、ごましお氏の眼が輝いた。
「この道長いからね」
 彼もまた、何をかくそう、つい数年前まで、監視員の仕事をしていたのであった。
 ごましお氏は日和佐生まれの66歳。若いころは貨物船の船員として日本全国の港を回っていた。なるほど、そう言われれば、すらりとした大柄な体躯、はきはきとした物腰には、いかにも海の男らしいおおらかさが感じられる。10年ほど前に引退して故郷に帰り、悠々自適の年金生活をするつもりが、縁あってウミガメ保護に携わることになった。昔に比べてカメの上陸が減ってきているのが気がかりだが、それでもいまの仕事にはやりがいを感じている。
 話が一段落したところで、ごましお氏は「ちょっと」と言って、フロントの奥に引っ込んでしまった。
 これはもしや。とうとう来たか。
 数分の後、戻って来たごましお氏の両手には、缶ビールが一つずつ。カメではなかったようだ。「すいません」と、黙って差し出された友好のしるしを受け取る。恐縮至極。ロビーのソファーでちびちびやりながら、問わず語りの夜が静かにふけていく。
 うみがめ荘には、3代にわたってカメを見に来る人もいるという。学生時代にたまたまカメの産卵を見た人が、十数年後、自分の子にも見せようと再び日和佐を訪れる。やがてその子が成長して親になると、今度はまた自分が昔味わった感激を伝えようと、わが子を連れてやって来る。そんな宿泊客と話をする時、この仕事を続けてきてよかったと思う。
「ほやけんカメは、人と人をつなぐんやな。見たことある人もない人も、カメに会いたいというおんなじ気持ちで、毎年はるばる来てくれる。日和佐の人だけのもんやない。観光客だけのもんでもない。みんなのアイドルなんや。だから守らなあかんのよ」
 と言ってほほえむと、ごましお氏はまたひと口ビールをあおった。照れたそぶりも見せず、素直に自分の気持ちを語る海の男である。カラカラと小気味いい語り口に耳を傾けていると、カメを実際に見られるかどうかということは、それほど重要な問題ではないように思えてきた。
 
 黄金色の潤滑油も残り少なくなり、気がつけば、11時過ぎである。仕事の妨げになってはいけないので、そろそろ部屋に引き上げることにした。
 「今晩、見れるといいなあ」
 席を立ちながら言うと、
 「安心して寝とってください。大丈夫、来たらちゃんとお知らせしますけん」
 日に焼けた顔が、頼もしく笑った。
 
 明日は5時起きである。目覚ましをセットして、寝床につく。あと数時間で私はこの町を去らねばならない。短い旅の間に出会った人たちの顔が、漆黒の闇に、浮かんでは消える。ウミガメはなぜ戻ってくるのか。この町に来て初めて、その理由がわかった気がした。
 日和佐はウミガメの上陸地であるというだけではない。町民の不断の努力によって支えられた「ウミガメの町」なのだ。カメに帰って来てほしい、と心から願う人々が大勢いた。彼らの熱い思い、そのほんの一端を垣間見ることができただけでも、日和佐に来た目的は達せられたのではないか。今ではそのように思える。カメの産卵は見られないかもしれない。それでもこの旅に悔いは残らないだろう。私は「ウミガメの町」の核心に触れたのだ。そういう手応えが、確かにあった。

 その晩、私は一度も目を覚ますことなく、朝までぐっすり眠った。
 ウミガメは最後まで、とうとう姿を現さなかった。
 
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2010年09月29日

ウミガメの帰る町

夏服の女子高生が2人、うつらうつらと船を漕いでいた。

8月5日、午後6時半。
部活帰りの高校生たちの大半を阿南の駅で降ろし、牟岐線の普通列車はいま、ふたたび針葉樹の山の中に入った。徳島を出て1時間、にわかにローカル線の風情が漂い始めた。青いざわめきの余韻を残した車内に時折、思い出したようにディーゼルのエンジン音が響く。私は読んでいた開高健の『ロビンソンの末裔』に適当な区切りをつけ、古い文庫本を傷めないように、注意深くかばんにしまった。日和佐まで、あと20分ほどである。

ロングシートの片隅で、寄り添うようにまどろむ少女の髪が、西日を受けて輝いている。足下にはスポーツバッグと、テニスラケットが1つずつ。徳島はいままさに、夏の盛りである。来週には阿波踊りが開幕するという。期間中の営業時間延長を告知する中吊り広告の活字が、鮮やかに目を引いた。

きょうの目的地である日和佐の大浜海岸は、ウミガメの産卵地として知られている。毎年5月から8月にかけて、体長1b、体重100sほどもあるアカウミガメが卵を産むために、この砂浜にやって来る。夜の闇に紛れて上陸したカメは、2時間ぐらいかけて、場所を選定し、穴を掘り、卵を産み、穴を埋め、海に帰って行く。上陸に20〜30分、穴掘りに25分、産卵に30分、穴埋めに20分、降海に10分くらいかかるのだという。

手のひらに乗るほどの子ガメが、太平洋を何千`も旅しながら成長し、十数年後、自分が生まれた小さな砂浜に帰って来る。太古の昔から人知れず繰り返されてきたというその命の営みを、一度見てみたいと思っていた。

8月に入り、2ヵ月ぶりの連休が取れることになった。ピークは過ぎているが、まだ一応、産卵シーズン中である。連休なんて、次はいつになるかわからない。この機会を逃す手はなかった。8月5・6日の2日間、私はこのラストチャンスに賭けることにした。

いくつかの町を過ぎ、上り下りを何度か繰り返して19時58分、日和佐着。降りるやいなや、視界が真っ白になった。眼鏡が曇ったのだと気づく前に、むせかえる湿気が生温かく、肌という肌にまとわり付くのがわかった。乗客とともに降りた車掌に切符を渡す。対面ホームの立派な駅だが、駅員はいないらしい。「ウェルかめの舞台地、日和佐へようこそ」と書かれた幟が、ホームの柵にしおれていた。それを見て初めて、ここがドラマのロケ地だったことに気がついた。

日和佐は思ったよりも大きな町のようだった。
きょうの宿は、「うみがめ荘」といって、大浜海岸のすぐ近くにある。その名の通り、カメを見にこの地を訪れる観光客の定宿のようになっていて、たとえば夜中、カメが浜に上がって来たりすると、館内放送で宿泊客に知らせてくれたりするのだそうである。そこに1泊、予約してある。駅前の観光案内板によると、大浜海岸までは徒歩20分。夕食は8時までと言っていたが、この時間なら歩いても間に合いそうだ。

駅からまっすぐに延びる道の正面に、城が見えた。山の頂に、夕陽に照らされた天守閣がぽつんと建っている。突き当たりを左に曲がると、昔の街道らしき道に出た。古い住宅や商店が立ち並ぶ街はいたって静かだ。遠く三方の山から届くひぐらしの声が、郷愁を誘う。道のところどころに水たまりがあり、雲間にのぞく青空の名残りを映していた。路面の乾き具合からすると、ついさっきまで降っていたようだ。

どこからか煮物の匂いが漂ってきた。煮物なんてここ数年、まともに食べた覚えがない。その昔、母がよく作っていた肉じゃがを思い出した。薄暮の街に人影はないが、家々からは生活の気配が、濃厚に感じられた。

歩いているうちに闇が深くなり、少し不安になり始めたころ、前方に松林の影が見えた。その向こうからかすかに、波の音が聞こえる。なおも歩いて行くと、やがて人家がまばらになり、道は松林の中に入っていった。神社があり、その境内の横を通り過ぎたところに、大浜海岸があった。

海は意外に荒く、打ち寄せる波音の大きさに少したじろぐ。人気のない浜を見渡す左手に、4階建てぐらいの建物がある。あれだろうか。海沿いの道を歩いて行くと、果たしてそうだった。19時半、「うみがめ荘」に到着。多少古めかしいが、何十室もある立派な宿である。大きな駐車場もある。

部屋に荷物を置くと休む間もなく、1階の食堂で夕食ということになった。エビや貝や魚が、焼き物、煮物、刺身、天ぷらと、いろんな形で出てきた。海の幸のフルコースである。宿泊料は料理で決まるということで、予約の時、一番高い9700円のプランを申し込んでおいた。揚げたての天ぷらやサザエのつぼ焼き、カメノテが入ったみそ汁など、たしかに料理は新鮮で、工夫が凝らされていた。その一方で、なんとなく物足りない感じがしなくもなかった。たぶんそれは、肉じゃがが出なかったからだろう。

食事の後、フロントの人に聞いてみたら、自然のことだからはっきり言えないけれど、きょうは見られるんじゃないかということだった。
「こういう蒸し暑い晩によく来るんですよ」と、その60がらみのおじさんは言った。作業服を着て、眼鏡を掛け、ごましお頭。人当たりがやわらかく、口の達者な人だ。8月2日に2頭上がって以来、この2日間は来ていないが、案ずることはない。ことしは最近10年では最も上陸が多く、これまで延べ49頭のカメが上がってきている。延べというのはつまり、同じカメが2回3回と上陸するからで、それは認識票を付けて個体を識別しているからわかる。8月はもう子ガメが孵化を始める時期で、産卵のピークは過ぎているけれども、ことしは当たり年だから望みはある。だいたいそんなようなことを、ごましお氏は立て続けに、なおかつ丁寧な口調を崩さずにしゃべり、カメ初心者に予備知識を与えてくれた。

ここ日和佐の大浜海岸では毎年、5月20日から8月20日までの3ヵ月がウミガメの保護期間とされ、夜間(22時〜4時)の浜への立ち入りが禁止される。昭和42年に「大浜海岸のウミガメおよびその産卵地」が国の特別天然記念物に指定されて以降、町の条例でそのように定められている。期間中は、監視員が1時間ごとに浜を巡回して、上がってくるウミガメをチェックするほか、浜に面した道の一切の灯りが消される。うみがめ荘にも、浜に面した部屋の窓はカーテンを閉めるようにと注意書きがあった。

ウミガメが来たら真夜中でも全館に館内放送が流れる。浜に駆けつけた宿泊客は、監視員の指示にしたがって、カメに近づき、産卵の様子を静かに見守りながら、説明を聞く。見られるのはカメが産卵を始めてから、穴埋めの途中まで。産卵前のカメは光や音に神経質になっていて、少しでも危険を感じると、産まずに海に帰ってしまうこともあるそうだ。最近では、登録すれば監視員がカメを見つけ次第、携帯メールで知らせてくれる「ウミガメール」
という便利なシステムもある。

部屋に戻り、窓の外を見ると、なるほど真っ暗であった。光が漏れないように気をつけながら曇った窓を開けてみたが、どこからが海なのか、見分けがつかない。くだける波の音がする方にしばらく目を向けていると、沖の方向に小さな光がひとつだけ、ちかちかとまたたいているのがわかった。星はあまり出ていない。晴れていればきっと、満天の星空が広がるのだろう。

大浴場で汗を流し、トイレを済ませると、あとは寝るだけとなった。テレビはあったが、見る気がしなかった。ウミガメールに登録してから、開高健を少しだけ読む。厳選された珠玉の語彙の連なりと戯れながら、ゆっくりと味わっているうちに、こころよい眠気が天恵のように到来した。カメはもうすぐそこまで来て、波間を漂いながら、陸の様子をうかがっているのではないか。なんとなく、そんな気がした。はたして今宵、その高貴な姿をわたしたちに見せてくれるだろうか…




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2010年04月27日

風そよぎ、コイの季節

R0012175.JPG祖父の葬儀を終えた帰りに立ち寄った広島のマツダスタジアム。

土曜日のデーゲームである。テレビ中継で見た前日のナイターはガラガラだったが、この日はさすがに混んでいた。

駅から球場へ、線路沿いの道に人が鈴なりになっている。家族連れが多い。みんなキャップやらユニホームやらメガホンやらを身に着けていて、赤い行列がどこまでも続いている。

当日券の窓口では、席の種類がたくさんあって迷う。名物の「砂かぶり席」に×印がついている。「パフォーマンスシート」というのが応援団用の席だと聞いて、なるほどと思った。

結局無難な「内野自由席」のチケットを買い、中に入る。ゲートで荷物検査があった。自分は持っていないが、容器の飲み物がチェックされているようだ。

1階が指定席で、自由席は2階だ。スタンドに出たらほぼびっしり埋まっていた。何とか2人分の空きを見つけて座る。そう、きょうは同行者がいる。母が一緒なのだ。

中日との3連戦の2日目。試合はもう始まっている。1回裏、カープの攻撃。昨日のナイターは劇的なサヨナラ勝ちだった。前田智が決めた。その勢いに乗ってきょうも、というわけにはいかないらしく、もう2点取られている。あまり乗り気でない母をむりやり座らせ、飲み物を買いに行く。

グッズショップを覗いたりして戻ると、試合は3回まで進み、4−0になっていた。「あかんわ。フォアボールばっかりや」と母が言った。

青空のもと、内野まで緑の天然芝が映えている。想像通りの素晴らしい球場である。日陰で少しひんやりするが、風もそよそよと気持ちよい。

母は九州に帰るというので、5回まで見るということにする。その後も点を取られ、ワンサイドゲームの様相を呈しているが、カープファンは楽しそうだ。内野自由席でもうるさいくらいの声援が飛んでいる。

5回裏。7点取られたカープの反撃が始まった。2番の梵(そよぎ)がバントヒットで出塁し、それがきっかけとなって、打線がつながり、なんと1点差まで追い上げたのだ。それにしても、中日の外国人投手の動きを良く見て、狙いすましたようなバント、梵の判断は絶妙だった。

その5回が終わったのが3時半。心残りながら、約束なので球場を出る。野球というのは興味がない人には本当につまらないものらしい。そういえば、子どものころ、甲子園やら西宮球場やらいろいろ見に行ったが、母と一緒だったという記憶はない。あれは全部父に連れられて行ったのだった。

母と2人、駅に向かったが、このまま帰るのは何だか名残り惜しい気がして、自分だけもうしばらく残ることにした。

母を見送ったあと、1人で広島の街をぶらつく。駅前にある愛友市場というのは戦後すぐにできたのだそうで、ちょうど上野のアメ横のような独特の雰囲気がある市場だ。呉の伯母さんはここの魚が新鮮だというので時々買いにくると言っていた。

地下街を通って福屋に行ってみたり、本屋とCDショップが一緒になった駅の横手のビルに入ったり、あちこち歩いた後、そろそろ帰ろうかなと駅に向かっているとき、ラジオの野球中継が聞こえた。どこかの商店がスピーカーで流しているらしく、その店の周りに人だかりがしている。

かなり盛り上がっている様子なので、近づいてみると、どうもカープが勝ったようである。「2日連続のサヨナラ勝ち」とアナウンサーの高らかな声。打ったのは広瀬らしい。

「カープまた勝ったんか」「たいしたもんじゃ」。そうかそうか、という感じで、市場のおばちゃんが確認するために歩いてやってくる。誰それが良かったと、きょうの勝因について、おじさんたちが互いに自説を主張し合っている。そうやっていつの間にか、店のスピーカーを取り巻く人たちが増えている。

その光景を見て、あらためて思った。

カープは、この街の一部なのだ、と。地域密着とかフランチャイズとか、そんな言葉であえて表現するまでもない。強くても弱くても、カープは広島市民一人ひとりの心のなかに生きている。市民球団とはそういうことだ。あらためて問うまでもなく、昔からそうだったし、いまもそれは変わらないのだ。

プロ野球の球団として、これほど幸せなことがあるだろうか。野球ファンの人もそうでない人も、自分の子どものように思ってくれる。愛される球団とはこういうことをいうのだろう。

そんなに強くなくてもいい。球場がいつもいっぱいにならなくてもいい。いや、むしろその方がいいような気がする。強くあり続けることはなかなか大変だし、いろんなしがらみも出てくるだろう。カープはカープらしく、一部のマニアックなファンや資本の支配と関係ないところで、マイペースにわが道を行ってほしいと思う。

にわかカープファンだけど、広島から遠く離れて、この長野県から、ひそかに応援していこう。そう心に決めた。

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2010年01月08日

しゃんとせにゃあ、いけんのんよ

R0011597.JPGなぜか広島。
考えもせず、来ていた。
1月6日水曜日、風花の昼下がり。

子どもの時分、呉に住む伯父夫婦の家によく泊まりに行った。夏になるとぼくら兄弟は、よく旅をした。京都の親元から呉へ。そこからさらに海を渡って、愛媛の祖父母の家へ。連れて行ってくれるのは母だったり、祖母だったりした。呉には2歳下の従兄弟がいて、一緒によく遊んだものだ。彼は一人っ子だったが、人見知りせず、誰からも好かれた。友達も多かった。社交好きの家庭に育ったということもあったのかもしれない。呉の家にはいつもたくさんの人が出入りしていた。そこには、社宅住まいの我が家にはない、華やいだ雰囲気があった。いつも大勢の人に囲まれ賑やかな従兄弟の暮らしが、ぼくには眩しく見えた。

一緒に遊んでいて年長のぼくが何か悪戯をしようとすると、従兄弟は決まって「そんなことしたらいけんのんよ」と言って注意した。伯母さんはいつも「ちょっとこっち来んさい」と言って、ぼくらを叱った。叱られたぼくらを伯父さんは「しゃんとせにゃあ」と言って、優しく慰めた。そんな言葉の一つ一つが、心に残っている。

従兄弟は20歳の時、留学先のアメリカで亡くなった。祖母に買ってもらった自動車に乗っていて、事故に遭った。友人が運転していたらしい。ぼくが生まれて初めて参列した葬式は、この年下の従兄弟の葬式だった。防腐処理を施されてアメリカから運ばれてきたという遺体を見ても、まるで現実感がなかった。ひとりの人間が死んだのだという実感は湧いてこなかった。葬儀のために久しぶりに訪れた呉の家は、ずいぶん大きくなっていた。数年前から事業を始めた伯父が、自宅を増築して事業所にしたのだった。そこには相変わらずたくさんの人がいたけれど、子どものころの記憶はもう、うまくつながらなかった。ぼくは大学3年生になっていた。

広島というと、こんなことも思い出す。
でもそれは、この旅とはあまり関係がない。思い出をたどるために来たのではない。

では、なぜ広島。
それはこの街を歩いてみたくなったから。
ただそれだけのこと。

路面電車が走っている。にぎやかなアーケードの商店街がある。「八丁堀」という地名がある。城下町だ。街の真ん中に川が流れ、公園がある。プロの球団を持ち、球場もある。大都会なのにこの、隅々にまで手の届く感じ。規模も広さも、ちょうどいい。

広島駅から、街の中心部へ。いつもは歩くのだが、今回は広島電鉄の「パセオカード」を使い、路面電車で行ってみることにした。前の人にならい、入口の扉の脇に設置された機械にカードを挿し込む。一瞬の後、今度は機械の上からカードが出てきた。カードに穴は開いていない。これで入場が記録されたということなのだろう。今ではもうほとんど硬貨で運賃を払う人はいないようだ。このパセオカードももう時代遅れらしく、「スイカ」のようなタッチ式のカードを使う乗客が多かった。これはまた専用の読み取り機が置いてある。降車は前後方いずれかの扉から。降りる時にまた機械にカードを挿し込むと、今度はパンチ穴が開いていた。

「紙屋町西」で降りて、アーケード街の中にあるパン屋を探す。「アンデルセン」というチェーン店が上野駅構内にあり、そこで時々買っているのだが、その総本山のような店舗が広島にあるという。店舗はビルになっていて、1階から6階まである。ホームページにはそう書いてあった。

それは石造りの古めかしいビルだった。入口の脇に立つ案内板によると、この建物は歴史的な建造物なのだという。戦前は「帝国銀行広島支店」で、爆心地から約400メートルの地点にあったが建物は倒壊を免れ、紆余曲折あって現在はベーカリーショップが入っているという説明があった。

中に入ると、パンやその他チーズやハムなどの売り場と喫茶店が1階にあり、2階はレストランになっていた。3階から上はパーティーなどの催し物のためのスペースなのだとか。品揃えも上野の店舗と変わらない。1階から6階までパンづくし、というわけではなかった。まあ考えてみれば、それもそうだ。そんなにパンをたくさん並べても仕方がない。でも目当ての「長時間発酵ブレッド」を置いていなかったのには少しがっかりした。

紙屋町から平和公園まで歩く。「開いとるよ」という札が下がったお好み焼き屋に行列ができている。雲の切れ間に青空が見える。風が冷たくなったと思ったら、橋のたもとに出た。そのまま渡った所を右へ曲がり、川沿いの遊歩道を上流へ向かって行くと、川を挟んで右手に、原爆ドームが見えた。

折り鶴を収めたモニュメントの近くで、女性たちが合唱している。外国人観光客が多い。なぜか、女子高生も多い。部活動の帰りだろうか。それとも、もう新学期か。3人、4人と連れ立って、みんな楽しそうだ。

何かがホコリのようなものが顔に当たるような感じがさっきからしていて、注意して見たら、それは雪が舞っているのだった。風花といえば上州だけど、テレビや映画で見るような、ああいう辺り一面、きらきら光りながら舞うというのではなく、広島の風花はそれこそホコリのように、輝きもせず時々肌に触れることでやっとそれとわかる、という程度のものだった。

ドームを正面に見ながらベンチで一服していると、雪が舞っているというのに、日差しが暖かく感じられた。この感覚、久しぶりだ。日の光が暖かいということすら、人はすぐに忘れてしまう。失って初めてわかる物の価値。あの高校生たちに教えてやりたいと思った。「君たち、いまを大切にせにゃあ、いけんよ」

大通りへ出て、再び橋を渡ってドームの方へ。何度も見ているが、今日もまた、前に来た時と変わらなかった。それはそうだ。これは不変であることを義務づけられた世界遺産なのだから。私は小学生のころ、このドームの内部に入ったことがある。鉄骨越しに見上げた空や、辺り一面、無造作にがれきが散らばっていたのを覚えている。記憶が正しければ、そのころは確か、周りに柵などなく、出入り自由だった。1980年代前半の話である。気になって正面の案内板で確かめると、原爆ドームの世界遺産登録は平成8年(1996)となっていた。大規模な保存工事が、昭和42年(1967)、平成2年(1992)、平成15年(2003)と、これまで3度実施されたと書いてある。おそらくこの、2度目の工事あたりで柵が設置され、立入禁止となったのではないかと思う。

ドームの周りには、ガイドの説明に耳を傾ける外国人観光客が大勢いた。1人のガイドに数人ずつ、4つぐらいのグループができている。ボランティアの市民ガイドなのだろうか、しっかりと英語で説明している。説明を聞く外国人らのまなざしは真剣だ。メモを取ったり、熱心に質問したりしている。彼らはここで何を学んで帰るのだろう。彼らの目にこのドームは、どのように映っているのだろう。それは私たちが見るドームと同じものだろうか。いや日本人だって、広島の人とそうでない人では受けとめ方は違うだろう。広島の人でも被爆者もいればそうでない人もいる。つきつめていけば、結局、人の数だけ見方があるということになるのかもしれない。その無限に思える見方の違いは、言葉によって乗り越えられるものなのだろうか。ガイドというのは、これもまた難しい仕事であるに違いない。

大通りを渡って球場へ。正面入口の脇に「旧市民球場」と書かれた真新しい木の銘板があった。数日後に行われるファン感謝イベントを告知する大きな垂れ幕が掛かっていた。まだ当分は残るようだ。扉が開いていたので中を窺っていると、警備のおじさんが出てきて、「どうぞ見学していってください」と声を掛けてくれた。スタンドに出てグラウンドを見ることもできるという。

R0011602.JPG箱庭のようなグラウンドはそのままだった。もう何年も前だが、この3塁側内野席で見たのは、阪神戦だったか。意外なことに、グラウンドではソフトボールの練習をしていた。中学生か高校生か見分けがつかなかったが、男子生徒が20人くらい、ゲーム形式で元気一杯に動きまわっている。スタンドの照明設備が芝生の外野に影をくっきりとした落としている。見学の人はそれでも何人かいて、バックネット裏あたりで小さな子どもとお母さんがくつろいでいるのが見えた。

あれは2007年の秋だったか、奥田民生がここでひとりきりの弾き語りライヴをやったことがあった。私はチケットまで取ったのだが、寝坊して結局行くことができなかった。その様子を伝える中国新聞の記事が、球場建物の通路に貼られてあった。「市民球場の歩み」として紹介されているいくつかの写真を見ていて、あのコンサートが球場50周年を記念してのものだったことを初めて知った。つくづく、惜しいことをした。数々の寝坊をしてきたが、あれはまさに人生屈指の「痛恨の寝坊」と言わざるを得ない。

そろそろ帰る時間だ。もうすぐ午後3時。あすは朝からの勤務だから今日のうちに長野にたどり着かなければならない。名古屋発19時40分の「しなの」最終便に間に合うためには、遅くても17時ごろの新幹線に乗る必要がある。

駅に着いたとき、何かすべきことを忘れているような気がしたと思ったら、新球場をまだ見ていなかったのだった。新球場は駅の近くの線路沿いにあるという。場所だけでも確かめておこうと思った。線路沿いの道は新球場への「参道」として整備され、初めて訪れる人にも道順がわかるようになっていた。道に沿って選手をひとりひとり紹介する看板が並んでいる。試合がなくても、歩いていると、何だか気分が高まってくる。

球場までの道のりは、思ったより長かった。約20分、1キロ以上は歩いたと思う。「メインゲート入口」と示された方には、そのまま空に続くような広い坂道が延びていた。なかなか壮大な建物である。建物NEC_0055.jpgの中のグッズショップが開いていたので、入ってみた。閉店間近ということもあり、客は私一人で、レジの若い女性が3、4人、手持ち無沙汰におしゃべりしていた。それにしても、品揃えはなかなか充実していた。新球場ができて、カープはキャラクターグッズにも力を入れはじめたのだろうか。「カープ坊や」の女の子版というのがあり、あまりにかわいかったので、ピンバッジとキーホルダーを買った。

今年はカープファンになろう。ふと、そう思った。江藤、前田、金本、野村、緒方などが活躍した世代以降、いまの選手は栗原ぐらいしかわからないけれど、今年は選手名鑑でも買って、ちょっと勉強してみるか。カープは日本プロ野球唯一の市民球団なのだ。球場は新しくなっても、市民球場である。新聞社や企業が保有する球団とは、やっぱり発想からして違うのだ。どうしても応援したくなるではないか。別に市民でなくてもいいだろう。よその人間が外から応援するというのも、悪くない。その資格はあると思う。なにしろ私は、この街が好きなのだ。


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2009年12月03日

清流ツーリング 沈下橋エレジー

R0010736.JPG

5月に行った四万十川自転車ツーリングの続き。8月にを書いてそのままになっていた。もう半年前の話だ。メモもしていない。薄れてしまった記憶をたどって梗概のみ記す。

前日の夜、私は大阪の友人Mar君と宇和島で落ち合い、翌朝からいよいよ四万十川沿いを走るということになった。

5月9日、快晴。城好きでもあるわれわれは、まず早朝に宇和島城参詣を済ませ、ホテルで朝食をとってから9時38分、宇和島発の予土線に乗った。自転車をたたんで乗せる輪行である。

車両最後尾にはすでに袋詰めした自転車が置いてあった。先客がいるらしい。自分の自転車をすきまに入れ固定していると、男性が話しかけてきた。東京から来てわれわれと同じく四万十川を走りにきたという。スポーツ用サングラスをかけ、サイクリングジャージにレーシングパンツ姿で決めているが、バリバリのサイクリストという感じではない。それにしては体つきががっちりしすぎている。自転車はMTB。源流を見に行きたい、と30代後半くらいのその人は言った。列車で中村まで行き、そこから川をさかのぼるという。しかも今晩の宿は江川崎。そう聞いて耳を疑った。いくらなんでもそれはあまりに遠回りである。そういうと、そうかもしれないと言って地図を見直していた。どうもこの辺の地理をよくわかっていないようなので、「江川崎で降りるといいですよ」と助言したら、そうしようかな、とうなずいていた。

10時15分、MTB氏と別れ、松丸駅で下車。
駅舎に温泉施設がある。後ろ髪を引かれながら、先に進む。ルートは国道381号から441号という一本道。迷う心配はない。川はもう、すぐ隣を流れているが、道はがけの上を走っているため、水面ははるか下にあり、川の近くを走っているという実感があまりない。

数キロ走るうちに汗が吹き出してきた。けっこうアップダウンが激しい。日差しも強くなってきた。愛媛から高知へ県境を越え、四万十市に入る。この辺りの中心的な町である江川崎に近づくと、沈下橋がぽつぽつ姿を現し始めた。ひとくちに沈下橋といっても、いろんなタイプがある。大きさも形も違う。下流の中村まで下るにつれて数も増え、それぞれちゃんと名前がついている。

江川崎に着くともう正午を過ぎていた。今晩泊まる宿さえ決めていないわれわれ。泊まるならここ江川崎か、河口の中村ということになる。中村まで日暮れまでに行けないことはないが、あすまた戻ってくるのがおっくうなので、協議の結果、江川崎に宿をとることにした。江川崎にはホテルが1軒、山村ヘルスセンターという施設、それに民宿が何軒かある。ホテルはわりとこぎれいだが高い。Mar君は以前ここに泊まったことがあり、けっこう快適だったという。山村ヘルスセンターは温泉つきで7000円ぐらい。迷ったがきょうは快適さを選ぶことにした。山村ヘルスセンター、じつはちょっと見に行ってみたのだが、昼間の時間は閉まっているらしく人の気配がなかった。建物も古く、ちょっと泊まる気になれなかったということもある。

「ホテル星羅四万十」という名のホテルは、名前に違わずプチホテル風のしゃれた外観で、建物も新しかった。カップルが似合いそうなこのホテルに男2人、飛び込みで宿泊交渉を試みる。その結果、なんとかツインの洋室が1つ確保できた。本当は和室がよかったがぜいたくは言えない。

部屋に荷物を置いて身軽になり、われわれはまた走り出した。30キロほど先、中村の数キロ手前の「佐田の沈下橋」をとりあえずの目的地に、往復するということにした。途中、赤い鉄橋のたもとにあるドライブインで昼食。川幅はだいぶ広くなった。曲がりくねる川に白い砂利の川原が広がり、壮観である。その川に渡したロープに、こいのぼりが何匹も並んで、ゆったりと泳いでいた。

すでに時刻は午後2時すぎ。国道441号は急に狭くなり、ときどき追い抜いていくクルマにひやひやさせられる。クルマも対向車とすれ違うのに難儀している。道路沿いの木々の緑が深くなってきた。木にかくれて右側の川がほとんど見えない。

ここまで自転車とすれ違うことはほとんどなかった。それだけに前方に自転車が現れ、しかもそれが朝の列車で出会ったMTB氏であることを認めた時には、本当に驚いた。MTB氏はぼくの助言に従い江川崎で降り、中村を目指したが途中であきらめ、引き返して来たのだという。「きついです」と彼はサングラスをかけたまま言った。彼が予約していたというホテルは江川崎の星羅四万十で、同宿である。奇遇とはまさにこういうことを言うのだろう。再会を期して、われわれは川上に向かうMTB氏と別れ、先を急いだ。

Mar君はBD−1という折りたたみの小径車である。ロードレーサーに乗っているぼくと走っているとどうしても差がついてしまう。先に行っては待ち、先に行かせ、ということを繰り返す。四万十川はカヌーのメッカでもあるらしい。キャンプ場でレンタルできる。そういう施設で寄り道して休んだりアイスを食べたりしていたら、あっという間に夕方である。

R0010746.JPG佐田の沈下橋に着いた時にはもう、日差しが傾いて赤みを帯びていた。さすがにこの橋は立派なものである。観光客も多い。でも僕はどちらかといえば、途中にいくつも見た小さな沈下橋の方が風情があって好きだった。そういう橋なら、静かな川辺に寝転がって、いつまでも見ていたいと思った。

若干急ぎ気味に、引き返す。にもかかわらずわれわれは、同じ道はいやだというので、通じているのか定かでない対岸の道を行ってみたりしていた。まあでも、来た道はほぼ平坦だったし、30キロくらい2時間もかからない。そういう楽観論はそれなりに根拠あるものでもあった。しかしわれわれの見通しは、思わぬアクシデントによって先をふさがれることになった。

「ちょっと変なんだよ」とMar君は言った。帰り道の途中、また寄り道した沈下橋を出発した直後のことだった。BD−1の後輪、細い小さなタイヤを見ると、ゴムの設置面の1部分だけ、プクッとふくれているところがある。「エイリアンでも出てきそうだなあ」。そんな冗談はすぐに、冗談でなくなった。

少し先を走っていたMar君が止まっている。「やっちゃったよ」と言って彼は後輪を指差した。見事に空気が抜けている。パンクだった。

チューブもタイヤも、スペアは持ってきていないという。これはもう、お手上げだった。ホテルまでは約10キロ。歩いて歩けないことはないが、着くまでに日が暮れてしまう。街灯などない道である。途方にくれるMar君。冗談めかして嘆いていたけれど、目が笑っていなかった。ぼくとしては何も助けることができない。

考えられる打開策は3つあった。まず、ホテルにクルマで迎えに来てもらう。第2に、タクシーを呼ぶ。第3にヒッチハイク。折りたたみ自転車なので、トラックでなくても乗せることはできる。携帯を取り出したMar君はまず、ホテルに電話を掛けた。

迎えに来られないというホテルに、それならばとタクシーの電話番号を聞き、Mar君はかけ直した。まず江川崎のタクシー。おばあさんが出て、要領を得ないという。こんな山の中に迎えに来いという依頼は受けたことがないのだろう。しかも自転車と聞いていやがっている節も感じられるという。仕方ないので中村のタクシーにかけてみたら、15分で来られるという返事。やれやれ。これだけのことが、なかなか進まない。世の中難しい。

先に行っててというMar君を残し、夕暮れの道を急ぐ。午後5時過ぎである。時速30キロ超を維持してしばらく飛ばしていたぼくは、川が見渡せる場所にさしかかった時、思わず息をのんだ。暮れなずむ空に川面の光が映えている。光る川のゆるやかなカーブに小さな沈下橋が影を作っている。立ち止まって眺めずにはいられない光景がそこにはあった。

再び走り出してまもなく、Mar君が追いついてきた。「お元気ですか」と、昔見たセフィーロの井上陽水のように、徐行したタクシーの窓を開けてぼくに声を掛けてから、走り去った。辺りが急に静かになった。

ホテルの玄関で待っていたMar君は「早かったね」と、ぼくをねぎらった。夕食は、量は少なめだったが山菜だの川魚だの、なかなか手の込んだコース料理が出た。きょう1日で80キロあまりを走ったぼくには少し物足りなかった。2人で食べていると、あのMTB氏が部屋に入って来て、あいさつしてから、2つくらい向こうの席に座った。席が決められているので相席というわけにはいかない。自分たちの食事を終えたわれわれは、軽くあいさつして部屋に戻ったため、結局、彼とはそれっきりになってしまった。でもたとえあのとき相席になったとしても、われわれにはもう、あえて会話をする気力も残っていなかったように思う。

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次の日、われわれは松山に向かった。そこの小径車専門店でMar君のBD−1のタイヤの交換をするためである。3連休の最終日、あわよくば午前中に交換を済ませ、午後、今治からしまなみ海道を尾道まで走ることができれば、と目論んだのだが、時間を考えるとやはり無理ということになった。

今治から船に自転車を乗せ、いくつかの島をめぐることにした。大三島に渡り村上水軍ゆかりの大山祇神社に詣でた後、渡船でとなりの大崎上島へ。この静かな島は広島県になる。島を半周してからフェリーで本州の竹原に渡って、山陽本線で三原、そこから新幹線に乗った。もう1日休みを残していたMar君は福山に泊まると言ったが、ぼくは次の日から仕事。少なくとも名古屋まで帰っておかねばならなかったので、Mar君とは新幹線で別れた。

だいたいこのようにして、われわれは自転車で旅をしている。誰かと一緒なら旅もまた違った楽しさがある。この先いつまで続けられるかわからないけれど、これからもときどき、こういう旅ができればいいなあと思う。
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2009年08月03日

清流ツーリング 宇和島まで

列車が新居浜に着くころには、もう午後7時を回っていた。薄明るい空には雲ひとつ見あたらない。鏡のように澄みわたった夕空の向こうに、海沿いの工場群がくっきりしたシルエットを浮かび上がらせている。

新居浜は曾遊の地である。というよりも、私の故郷である。母がこの街で生まれた。祖父母の家がある。子ども時代は毎年、そこで夏休みを過ごした。近所に友達ができた。彼らの小学校に毎朝、ラジオ体操に通った。山に虫捕りに行った。海へ泳ぎに行った。魚釣りもした。生まれた土地を知らず、転勤族の家庭に育った私にとって、新居浜は間違いなく、故郷だった。子どものころからずっと変わらない風景を見るために、大人になってからも、つい最近まで、たびたび祖父母に会いに帰っていた。

昨年の秋、その祖父母が新居浜を離れた。数年前に祖母が認知症と診断され、90歳を超えた祖父が懸命に夫婦の生活を支えていた。でも症状が進むにつれ、それも難しくなった。そう判断した広島の伯父が、自分たちの近くに住むことを提案した。自分が建てた家を離れたことがなかった祖父が、勧めに応じた。そのようにして、祖父母は戦前から住み慣れたこの新居浜を離れ、新しい土地で暮らすことになった。

家はいまもある。伯父がときどき来て、手入れしているという。妹であり、昔から転勤族の妻として遠く離れて暮らす母は、こういう問題に関して発言権がない。その息子である私も然り。ただ祖父母の思いを大事にしたいと思うだけだ。でも「大事にする」とはどういうことなのか。本当のところ、そこはよくわからない。ただひとつ、はっきりわかるのは、私にとってこの新居浜が、もう帰るべき場所ではなくなってしまったということだ。

その新居浜を、きょうは通り過ぎる。車窓の外に暮色が垂れそめて、見慣れた駅前の風景はもう判然としない。これから向かうのは宇和島。愛媛県の南の端で予讃線の終着駅である。時刻表によればあと約3時間。正直、愛媛出身とはいえ、宇和島がこんなに遠いとは思わなかった。せいぜい松山のすぐ先だろう、くらいに思って、ゆっくりしすぎたのがいけなかった。長野を出たのは11時。岡山着が17時すぎ。この岡山から4時間半かかるのだ。このことをまったくわかっていなかった。このまま行くと、宇和島着は21時59分、もう深夜である。


前置きが長すぎた。話を進めよう。

5月に3連休がもらえることになったので、私は自転車の旅に出かけることにしたのだ。めざすは四国の四万十川。愛媛と高知の県境あたり、延々と川に沿って続く国道を走り、「最後の清流」の風景を満喫しようという計画だ。ちょうど同じ時期、大阪に住む友人のMar君も、休暇が取れるという。彼も自転車好きである。この計画を知らせたら、「いいね」という。休みをうまく合わせて、2人旅ということになった。Mar君は大阪から、私は長野から、宇和島で待ち合わせてその日は泊まり、次の日に、四万十へ向かうことにした。


宇和島の手前、丸く冴えた月が右に左に、線路がカーブする度にめまぐるしく動いて見えた。きょうは5月9日、旧暦卯月の十五日である。メールで知らせはしたが、待ち合わせにしては少し遅すぎて、ちょっと申し訳なく思いながら、改札を出ると、そこにMar君がいた。

「あんた何してんの」
「いやあ、悪い悪い。宇和島って遠いなあ。何時ごろ着いたの? どうするかなあ。飯食った?」
「ホテルで寝ちまった」
「え、そんなに早く着いたの。まあ、でも、今日中に来れてよかった。宇和島なんてずいぶん前に来たことあるけど、岡山から通しで乗ったことなかったしなあ。4時間半って、新幹線だったら東京から九州まで行ってしまうよな」
「とりあえずチェックインしてくれ」

Mar君が取ってくれた駅直結のホテルに荷物を置いてから、打ち合わせがてら食事に出かけた。すっかり暗くなっていた街でやっと見つけた居酒屋で、刺身の盛り合わせを肴に久闊を叙する。長野県出身で、もと職場の同僚のMar君は、先輩だったけども同い年で、うまが合った。訳あって彼が全国組織の同業他社に移って、もう5年ほどになる。その間、東京から大阪に転勤して、彼は結婚した。仕事はできるらしい。自分でそう言っているから、そうなのだろう。自転車はBD−1という小径車の愛好者である。今度の旅に持ってきたのもこれだ。

言い忘れていたけれども、自転車は列車に乗せて持ってきた。私はTREKという米国メーカーのロードレーサー。Mar君は小径車。このことが後々、重要な意味を持つようになるとは、この時はまだ2人とも意識していなかった。

協議の末、とりあえず決まった計画は次のようなものだった。明日の朝、予土線に自転車を載せて、松丸という駅まで行く。そこで下車してすぐの、川沿いの国道381=441号線を15キロほど走って、江川崎という駅あたりで宿を見つけてから、中村近くまで30キロほど下って、また戻ってくる。折り返す目安は「佐田の沈下橋」。テレビなどでよくみる四万十川の沈下橋のなかでも、一番有名なもので、観光名所になっている。

当初は中村まで行き、そこで宿泊する話になっていた。ところがよく考えると、私の休みは3日しかなく、中村まで行ってしまうと、翌日困ってしまうことがわかった。行くところがなくなってしまうのだ。翌日には帰らなければならない。帰る日だけど、できれば半日くらいは自転車に乗りたい。また前日と同じ、川沿いの道を戻るのは気が進まない。といって、足摺岬あたりに行く時間もない。中村に行ってしまうと、翌日はもう、帰るしかなくなってしまうのだ。

江川崎で泊まるなら、翌日を有意義に使える。列車で宇和島に引き返し、予讃線に乗り継いで今治まで行く。そこから自転車でしまなみ海道を通って本州まで走っても、夕方の新幹線に乗れれば、名古屋までは帰れる。翌々日の仕事は午後からなので、名古屋に泊まることができれば、長野まで、仕事に間に合うように帰れる。

四万十川としまなみ海道。3日しかない休みのうちの2日間、それだけ走れれば申し分ない。休みが1日多いMar君は別にそんなに急ぐ必要はなかったが、強引に説得して、この計画に付き合ってもらうことにした。

少ない時間を最大限に生かす。これこそまさに「旅とサラリーマン」にふさわしい。われながらよくできた計画だと思った。ただ、そうした計画通りに物事が進まないのもまた「旅とサラリーマン」である。そのことになぜか、この夜は少しも気がつかなかった。明日からの充実した旅の予感に胸ふくらませ、新鮮な魚介料理に舌鼓を打ちながら、旅の初日の夜は、ゆっくりと更けていったのであった。


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2009年07月11日

消えていくもの

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忌野清志郎、三沢光晴、マイケル・ジャクソンと、このところ思わぬ訃報が続いた。ファンではないけれど、なんだかやりきれない。会った事はないけれど、3人とも、子どものころから親しんだ人たちだ。自分の中のどこか一部分が失われてしまった感じがする。

「知った人がおらんようなるいうことは、さびしいもんよ」。今年93歳になる祖父が、ある時そんなことを言っていた。戦友会・同窓会・同期会…毎年楽しみに出かけていた会合も、いつのころからか開かれなくなった。高齢になり病気になったり亡くなったりする人が多く、集まることができなくなったのだという。すっかり疎遠になっているうちに、仲間や友人は次々に亡くなり、気がつけば自分ひとりになってしまった。

何気ない会話のなかでさらりと言っていたけれど、祖父のこの言葉は、心に重く響き、いまもはっきり残っている。この世界は永遠ではない。自分の身の周りにある存在は、いつかは消えていくものだ。時の流れは容赦なく、それを前にして自分はどうすることもできない。そういうことを否応なしに思い知らされるような場面が、年を取ると増えてくるのだろう。

余部鉄橋は私にとって、それほど慣れ親しんだというわけではない。初めて訪れたのは中学3年の夏休みだった。鉄道好きの友人と2人、千葉から山陰をめぐる旅。思えば初めての大旅行だった。だから、それなりに思い出の詰まった場所である。

その鉄橋が、もうすぐ姿を消すという。コンクリートの新しい橋が開通するのが平成22年度。それまでにもう一度、見ておかねばならない気がした。訪れるのは2回目。約20年ぶりの再訪ということになる。

山陰本線の鳥取方面から普通列車で餘部駅に着いたのは午後1時半。降り立った瞬間、ここはどこかと思うほどの喧騒に包まれた。橋の付け根にある小さな無人駅には、フェンスが張られ、作業員が忙しそうに歩き回っている。列車を見送った先、赤い鉄橋の傍らにはクレーンが立ち並び、コンクリートの白い橋脚が、張りめぐらされた足場の間から先端部分をのぞかせていた。

架け替え工事中だとは聞いていたが、ここまで進んでいるとは思わなかった。駅の裏手はフェンスに遮られ、20年前に登って写真を撮った撮影ポイントには行くことができない。仕方ないので林の中の遊歩道を歩いて、集落に行ってみることにした。

急な道を下りながら、見上げる鉄橋の威容は昔のままで、20年前の記憶がだんだんとよみがえってくるようだった。あの時は列車転落事故からまだそれほど時間が経っておらず、鉄橋の下は更地になっていたと思う。「ここに落ちたのかな」などと、一緒だった友人と話しながら、ひと気のない集落を歩いていた。

そういえばあの日も、今日と同じような曇りの天気だった。灰色の空をバックに、錆びたような鉄橋の赤が、なにか異様な存在感をもって迫ってきたのを覚えている。あの時ほどの重い威圧感がないのはやはり、橋に寄り添って立つクレーンと、コンクリートの橋脚のせいだろうと思う。役目を終えようとしている鉄橋の末期の姿が、なんだか痛々しかった。

あの日あの時、そこには確かに、あの人がいて、これがあって、そのような存在に囲まれて、自分はいた。それほど近しい存在ではなくても、今まで生きてきた中で、自分がかかわってきたいろんなものが、形を変えて、無くなっていく。声を上げて泣きたくなるというのではないけれど、少し悲しい。

惜別というのだろうか。祖父の言うように、年齢を重ねるにつれて、これから自分も、いろんなものと別れなければならないのだろう。そしてそれに耐えていかなければならないのだろう。

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2009年06月01日

どこから行っても遠い駅@ プロローグ

まあそう熱くなるな。とにかく落ち着け。あなたが怒ったところで、状況は何も変わりはしない。それより、ただ見るのだ。感情に流されてはいけない。あてにならない情念の桎梏を脱け出て、冷たい理性の領域へと退避せよ。そこから曇りのない眼をもって、細部まで逃さぬように、物事を見続けよ。生活をするのではなく、生活を見ること。傍観者の立ち位置で、偽りの生活に甘んじること。それこそがあなたの選んだ生き方なのだ…

誰だ? このおれに説教してやがるのは。「あなた」なんて言うあいまいな呼びかけをする奴はろくなもんじゃない。おまえはいったいおれの何なのだ。説教? そういえば最近そういうこともなくなったな。昔は事あるごとに、よく説教されていたものだが。「あんたの理屈にはお母さん、勝てないよ」。いつだったか、おふくろにそう言われたときは、勝ち誇ったようで鼻が高かった。おふくろを負かした。いい気分だった。でも考えてみると、あれ以降、おふくろはおれに説教というものをしなくなった。人と向き合わず、得意げに理屈ばかりこねまわすこのおれに愛想をつかしたのだろうか。反抗期というのは残酷なものだ。親子の間にできた溝がもはや埋めきれないほど深くなってしまったことを、否応なしに思い知らされる。わが子に言い負かされた親は、いったいどうすればいいというのか―

ふとわれにかえる。
ここはどこだ? 真っ暗な闇と低く響く走行音。そうだった。ここは広島行きの夜行バス「セレナーデ」号。おれは2階席窓際、7A席に座っていたのだった。時刻は1時10分。まだ1時か。気が重くなる。名古屋駅を出発してから、2時間しか経っていない。消灯された車内の暗闇に、窓のカーテンが防ぎきれない対向車のヘッドライトの残光が時折流れていく。このバスの休憩は1回だけで、朝の5時15分だと言っていた。あと4時間もある! だいたい密室に6時間以上も閉じ込めたままなんて、どういうつもりだろう。車内の空気はすでによどみきっている。ほぼ満員の乗客たちのたてる寝息の間の抜けたアンサンブル。荷物のような扱いを受ける乗客は、大半が20代で、男女半々くらい。こんなところでよく寝られるものだ。まあいいや。考えるのはよそう。これ以上考えるとますます頭が冴えてしまいそうだ。とにかく眠らなければならない。おれは外れかけていたヘッドフォンを掛け直し、さっきまで聴いていた中島みゆきの初期アルバム『あ・り・が・と・う』を再び最初から聴き始めた。

社会の底辺で熾のようにくすぶり続ける敗者の情念を執拗に追跡する松本清張の短編作品に触発されて、亀嵩に行くことにした。言わずと知れた『砂の器』の舞台。昔見た映画のシーンがふとよみがえったのは、清張の「父系の指」という短編を読んでいるときだった。亀嵩は島根県仁多郡奥出雲町というところにある。駅は木次線の亀嵩駅。木次線は中国山地を走るローカル線で、広島と岡山県の新見を結ぶ芸備線の途中にある備後落合という駅と、宍道という島根県の海側の駅を結ぶ全長80キロほどの路線だ。そのほぼ真ん中に亀嵩駅はある。

3月後半の2連休で亀嵩に行くことに決めた。だが調べてみて愕然とした。こんなに行きづらいところが、まだ日本にはあったのだ。列車の旅というのは不自由なもので、行きたいときに行きたいところに行くことができない。とくに限られた日数でローカル線を旅するなどというときには、複数路線のダイヤを見比べ、組み合わせながら、あり得る可能性を1つずつ精査していくという作業が必要になる。それはわかっていたけれど、亀嵩の手ごわさは半端ではない。調べた結果、亀嵩に行くには3つの選択肢があることがわかった。ひとつは岡山から伯備線でいったん日本海側に出て、宍道から木次線に入るというルート。これは岡山と出雲市を結ぶ特急「やくも」を使えるので便利ではあるが、米子の方へ回り道をする分、時間がかかる。さらに宍道からの木次線は午前中3本しかなく、岡山を早朝に出ない限り、昼間には着くことができない。長野から一番早い列車でも岡山には11時10分着。これでは亀嵩には夕方着になり、宿泊のあてがなければ実質的にはこのルートは無理ということになる。
もうひとつは岡山から同じく伯備線で行き、途中の新見で芸備線に乗り換え、備後落合から木次線に入るルート。距離的には短く経済的だが、こちらは芸備線と木次線という本数が少ないローカル線2本の乗り継ぎとなるため、時間的にはこれもシビアだ。備後落合発の木次線は午前2本と午後2本の4本だけ。長野から行くと午前中の木次線は無理。午後は14時10分の次が17時50分で、運良く14時10分に乗れれば、次の列車で宍道まで出られる。途中の木次で泊まることもできるだろう。伯備線と芸備線のダイヤを見ると、新見発12時36分に乗れば備後落合14分間の接続で木次線14時10分発に乗れる。
3つ目のルートは広島経由の芸備線で、つまり新見とは逆方向から備後落合に向かう方法だ。「父系の指」で主人公が伯備線の生山という駅に向かうのはこのルートであり、ちょっと魅力的だったが、これはしかし現実的ではない。芸備線は途中の三次で必ず乗り換えるダイヤになっていて、広島―三次と三次―備後落合がそれぞれ1時間半かかる。長野から名古屋経由の新幹線で広島は午後着。備後落合にたどり着くのは夜になる。というわけで、3つのなかで一番現実的な新見経由の伯備線−芸備線−木次線のルートで行くことに決めたのだった。

―眠れない。アルバムは6曲目の「ホームにて」にさしかかった。中島みゆきには夜が似合う。夜行の旅は中島みゆきに限る。ところでいまどの辺りを走っているのだろう。ピンで固定されたカーテンをそっとめくってみるが、照明もない高速道路に、場所を示すものは何も見えず、場所を確かめることはあきらめた。暗闇に戻る。そういえば隣は背広の若い男だった。あいつはどこに何をしにいくのだろう。一番前の列には白髪の男性もいた。田舎に帰るのだろうか。でもあの歳で、こんなつらい旅なんて、おれなら断固拒否するところだ。でもそんなことはどうでもいい。彼は彼で、おれはおれなんだ。仕方ない、本でも読むか。おれは読書灯を点け、かばんから読みかけの本を取り出した。倉橋由美子『暗い旅』。きのうの夜、名古屋までの「しなの26号」の車中で読み始めてとまらなくなったのだった。フランスかぶれの衒学的な若書きの青春もの。なんだかなあ。最初はそう思った。でもいつの間にか、この女性作家の挑発的な文体に、おれはすっかり参ってしまったのだ。何百回何千回と繰り返される「あなた」という呼びかけが、おれの心をわしづかみにする。この強引さはなんだ。おれは「あなた」じゃない。拒めば拒むほど、そう呼ばれることに快楽を覚えるようになった。そしておれはますます深く、物語世界に引き込まれていくのだった。
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どこから行っても遠い駅A 長野〜三次

新見回りで亀嵩に行くという計画は、思わぬ形で頓挫した。おれは寝坊したのだ。このルートは朝一番の列車でなければならない。ところが起きたら昼。あきらめようと思った。それでも未練がましく時刻表を開いて見ていたら、ふと目にとまったのが、巻末のハイウェイバスのページにあった「三次」という文字だった。三次? どこかで見た地名。たしか木次線の起点備後落合まで、そこから1時間半だった。そうか、ここから始発に乗れば木次線の1番列車に乗れるかもしれない。木次線のページをみると、果たしてそうだった。
備後落合発9時30分で亀嵩着11時12分。そこで下車して次の列車で宍道まで抜けると、その日のうちに長野へは帰って来れない。ただ、亀嵩発12時37分で折り返せば、備後落合から7分接続で新見行きがあり、新見には15時28分着。15時50分新見発で岡山には17時22分、そこから新幹線で名古屋、名古屋で10分待ちで最終の長野行き「しなの25号」に乗れるではないか。再びハイウェイバスの欄で確認すると、三次に行く夜行バス「セレナーデ号」は名古屋駅発23時で、三次駅に5時46分着とある。
なにか複雑な方程式でも解いたときみたいに、おれは満足感に酔った。なにも向こうで泊まることはないのだ。どのみち亀嵩に宿泊することはできないのだから、亀嵩での滞在時間は泊りがけで行っても、日帰りでも同じだ。どうせ何もない駅。1時間もいればいいだろう。ならばこの夜行バスで行っても「亀嵩に行く」という目的は十分達せられることになる。宿泊費も節約できるとなれば、多少きつくてもこの方法で行くメリットはある。おれは長野発最終の「しなの」が出る19時40分までゆっくり過ごし、おもむろにこの旅を始めたのだった。

―そういう自分がいやになる。どうにかなるさという裏づけのない自信を根拠に、準備や対策をおろそかにして、結果オーライで済ませてしまう。今回だってそうじゃないか。本当なら今晩は山陰の温泉にでも泊まってゆっくりできたはずなのだ。それがどうだ。こんなバスの密室に押し込められ、結局まんじりともせず、眠るべき夜を無為に過ごしている。3時を過ぎた。いかんいかん。おれはまたあれこれ考え始めている。時間は有効に使うべし。本を読もう。『暗い旅』に目を戻す。
「第1つばめ」に乗り込んだ主人公が、消えた恋人の痕跡を探しに京都へ向かう途中、既知の大学講師佐伯に出会ったところだった。この「第1つばめ」車内の描写はすばらしい。出発してまもなくすれ違う「あさかぜ」とか、かつて乗った「銀河」の思い出とか、どうしてこんなに具体的なのだろうと思う。主人公は隣の席に座った老人をG氏と名付け、逐一行動を観察する。発車後まもなく食堂車の注文を取りに来たり、昼に食堂車に食べに行ったり、本筋とは関係なさそうなところが細かい部分まで描かれるのが、妙に面白い。昭和30年代の特急列車の旅の情景が目に浮かんでくる。
6時間ほどの旅、いろいろやることがあって良い。それに引き換え現代の旅の貧しさときたらどうだ。運ばれるだけの存在に成り下がった乗客。この夜行バスなどその典型じゃないか。おれは憤慨した。憤る頭とは裏腹に、尻の感覚がだんだんなくなってきた。2階建ての2階客室の低い天井がさっきより圧迫感を増したように迫ってくる感じがする。中島みゆきはMDに入れた3枚目のアルバム『親愛なる者へ』が終わろうとしている。「狼になりたい」、いい曲なのに、腰の痛みと尻のしびれのせいで心に響いてこない。「もう夜行バスには乗らない」。おれはそう固く誓った。
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どこから行っても遠い駅B 三次〜備後落合

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三次だ。「セレナーデ号」は小憎らしいほどの正確さで、5時45分、駅前バスターミナルに到着した。降りたのは2人。まだ夜は明けていない。早朝の冷気に思わず身ぶるいする。寒さはあまり感じない。寝不足の身体は、自らが置かれた現状をまだ十分に把握できないみたいだ。3分停車の後、バスが走り去ると、静寂が駅前のがらんとした空間を覆った。おれはコートのポケットからくしゃくしゃになったゴロワーズの袋を取り出すと、1本くわえ、火をつけた。「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」。かまやつひろしの代表曲。朦朧とした頭のなかで再生のスイッチが入った。スパイダース以来、日本のポップス・シーンを黎明期から支えてきたこの大御所ミュージシャンはことし古希を迎えたそうで、つい最近トリビュートアルバムが出た。おれはジタンの方がどちらかといえば好みだが、クセのあるゴロワーズもたまにはいい。「何かに凝らなくてはダメだ」。30年前の歌の歌詞が、頭の中をかけめぐる。「狂ったように何かに凝れば凝るほど、君は幸せになれる」。ムッシュ、その言葉、ほんとに信じていいのかい。あなたはそう言うけれど、おれはもう正直、疲れてきたよ。幸せなんて、どこにあるのか見当もつかない。でも今さら方向転換するわけにもいかないし、このままこの道を行くしかないよね。
それにしても冷えてきた。冷気がいつの間にか身体の芯まで入り込んで、耐え難いほどになっている。底冷え。そう、ここは中国山地の真ん中なのだ。起き抜けのゴロワーズにくらくらしながら、ムッシュとのつかの間の対話を終えたおれは、駅舎の中で寒さをしのぐことにした。

備後落合行きの始発は6時36分。まだ40分以上ある。缶コーヒーを飲んだり駅の時刻表を眺めたりしているうちに、ホームにぼつぼつ列車が入り始めた。久しぶりに聞く気動車のエンジン音。大きなスポーツバッグを担いだ中高生が一人、また一人と改札を通り抜けていく。広島方面に向かう生徒が多いようだ。彼らの一日はもう始まっている。こんなにも早く。朝練、授業、放課後の練習、来る日も来る日もその繰り返し。そういえばおれも中学時代、こんな生活をしていた時期があった。あの懐かしき水泳部。部員5人で頑張っていた。陸上部と合同で朝練もしていた。あのころ、なんで一日があんなに長かったのだろう。朝から晩まで毎日、いろいろやることがあり、なかなか一日が終わらなかった。あれから20年。もう20年。通り過ぎる制服姿の中高生、なんだかまぶしく見える。美しき17歳。南沙織の17歳。おれは2倍だ。彼らの2倍だ。そんなにも長く、生きてしまっている―

気になる乗客がいた。茶色い短めの髪で色白の青年。黒の薄手のブルゾンとジーンズ、足元はコンバースのスニーカー。20代前半だろうか。最近よくみる若手ミュージシャンのようなたたずまいで、傍らに小さめのリュックを置き、地図のようなものを一心に見つめている。三次を出てすでに1時間、列車はさっきの備後西城駅で通学の中高生たちを降ろすと、一気にガラガラになった。残された乗客は2人。おれと、彼だ。それとなく見てみると、彼が持っているのは鉄道路線の書かれた白地図のようだった。おそらく鉄道マニアだ。それにしては「鉄」のにおいがまったくしない。下を向いて地図を見ながら、さかんにくしゃみをしている。花粉症なのだろうか。

ふと、中学時代の親友Tを思い出した。サッカー部でありながら、鉄道マニアでもあった彼とは2年間同じクラスで、長期に休みごとにいろいろなところに旅をした。鳥取、青森、九州と、青春18きっぷやワイド周遊券をフル活用して、中学生のおれたちはどこでも行けるんだという気概をもって日本全国を旅していた。サッカー部で鉄道マニアだった彼は花粉症でもあり、春になると鼻を赤くしていることから「トナカイ」というあだ名がついていた。父親が地元出身の流行作家の友人で、その作家のエッセイにも定番のキャラクターとしてしばしば登場するのをよく自慢していた。隣の市の高校に行ったTとはその後、音信不通になってしまったが、ずいぶん後になって、地下鉄の運転士になったということを風の便りに聞いた。いまでもあの街で暮らしているのだろうか。結婚して家族がいたりするのだろうか。そしてまだ、鉄道と旅を好きでいるだろうか。あれから20年もの歳月が過ぎてしまった。おれは流れ流され、挙句まだ一人でこんな旅をしているけれども。

比婆山を過ぎると車窓に山が迫ってきた。朝の光は木々に遮られ、車内が薄暗くなる。速度を落とし、あえぎながら深い山に分け入っていく列車。そこに行けばどんな夢もかなうとでもいうように、1両きりの気動車は今ここにある苦難に負けまいと、懸命に山を登っていく。終点の備後落合はもう次の駅なのだった。
posted by Dandelion at 05:22| Comment(0) | 中国・四国の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする