2017年04月23日

「養殖は文化である」〜27歳の企画展

宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館で23日まで、企画展「養殖あれこれ〜人と海の営み〜」が開かれている。ワカメやカキなどの養殖で使われるはえ縄式の養殖施設や漁具などを展示。同市など三陸沿岸で盛んな養殖漁業の歴史と現状を、写真や図解で分かりやすく紹介している。

企画展を担当する学芸員のKさんとは、去年の「週末は気仙沼。」ツアーで知り合った。現在27歳のKさんは福井県出身で、富山県の大学で民俗学を学び、2014年に同美術館に就職。特にやりたいことがあって気仙沼に来たわけではないが、研究テーマを探して地域をめぐるうちに、民俗学的視点から養殖をとらえてみようと思い立った。ツアーを一緒に回りながら、そんな話を聞いた。

気仙沼や南三陸の漁師を訪ねて話を聞いたり、仕事を体験させてもらいながら、2年にわたって企画展の取材を重ねたというKさん。ツアーへの参加もその一環で、気仙沼市浦島地区の漁師に話を聞き、カキやワカメ養殖の様子を写真に撮って熱心に記録していた。企画展では、浦島地区の漁師に借りた漁具も展示している。

あれから約1年。さらに現場を歩いて資料を集めたKさんは、養殖を「人の血が通った文化的営み」と位置づけ、学芸員になって初めて担当する企画展に反映させた。
「養殖というと同じものを大量生産するというイメージがありますが、そうではありませんでした。自然に対して人間が働きかける、それに対して自然がリアクションする。そこには人間と自然の対話があるのです」
養殖は、取ってくるのでなく、育てる漁業。その点で農業に近いという。

展示では、カキやワカメ、コンブ、ホヤ、ギンザケなどの養殖の工程を写真やイラストで説明するほか、「養殖業の文化誌」として、それらの産物の地域での食べ方も紹介。さらに、公害や経済発展、東日本大震災と養殖との関係についても、パネルで詳しく言及している。

養殖とは、人間が自然に働きかけ、自然を耕す(CULTIVATE)営みであり、文化(CULTURE)の一部である、と言うKさん。「養殖を水産学や産業としてでなく、文化の視点でとらえる展示は、たぶん日本初の試み。地域の人が身近な自然とのかかわりを考えるきっかけにしたい」と意気込む。新しい土地に根を下ろして生きようとする若者の頼もしさ。そのきらきらする目は、1年前よりさらに輝きを増しているように見えた。






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2017年03月14日

変わる風景、気仙沼市鹿折地区

 かさ上げされた土地に、大規模な災害公営住宅団地が整備され、商店街が再建された気仙沼市鹿折(ししおり)地区。2012年1月に訪れた時には、住宅の基礎や壊れた建物、積み上げられた車の残骸など、震災の爪痕が生々しく残っていた。

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住宅跡でのボランティアの様子。ガラスや陶器の破片、針金などを拾い、仕分
けするのが仕事だった=2012年1月20日



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仮設商店街「鹿折復幸市場」は、2ヵ月後の3月にオープン。一部できていた
建物で、ボランティアは地元の人からおにぎりとお茶の差し入れを受けた=同



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どの被災地にもおびただしい数の車の残骸があった。文明の利器が災害の
象徴のようになっているのが不思議だった=同



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奥に見えるのは大型漁船「第18共徳丸」。津波とともに家々をなぎ倒しながら
ここまで打ち上げられたという=同




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震災から約2年半後の第18共徳丸。車を止めて見物する人がたくさんいた=
2013年8月19日



第18共徳丸は、市が震災遺構として保存することを目指したが、市民アンケートで「保存の必要はない」との回答が約7割に上ったため、断念。2013年10月に解体された。
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2017年03月12日

もう6年、まだ6年

「一歩踏み出す」。いやいや、まだまだとても。「あの日を忘れない」。いやいや、忘れたい人だっている。「復興は着実に進んでいる」。なぜそんなことが言える。そもそも復興って何だ。何がどうなれば復興になるのか。

どんなに言葉を尽くしても、そこからこぼれ落ちる現実がある。現実は言葉にした途端、型通りのレプリカになってしまう。あいまいな言葉を安易に使って、わかったつもりになって、とりあえず安心。「大変だね」「すごいね」「悲しいね」。今年もまた、そのようにして現実は消費されたのだ。
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2017年03月08日

6年後、気仙沼を歩く

災害公営住宅
 震災の津波と火災で街がほぼ壊滅した気仙沼市鹿折(ししおり)地区。市の区画整理事業で42ヘクタールがかさ上げされる計画で、今も工事が続く。かさ上げが済んだ「新しい街」に、市が整備する災害公営住宅団地で最大の市営鹿折南住宅が完成していた。4階建てと5階建ての計8棟、284戸の団地は2016年7月から順次入居が始まり、現在約220世帯が暮らす。
 入居者の半数以上が60歳以上で、半数の世帯が1人暮らしという。そもそも災害公営住宅は、経済的事情などで自宅再建が難しい被災者らを対象にした賃貸物件で、住民には高齢者が多い。共同通信の集計では、岩手、宮城、福島3県の災害公営住宅で、65歳以上の入居者が占める割合は、40.3%。各県の高齢化率は30%程度であり、それに比べると高水準だ。各地の災害公営住宅で、孤独死を防ぐための見守りなどの支援が課題になっているという。
 鹿折南住宅では、住民のコミュニティーづくりが始まったばかり。社協や支援団体のサポートが入り、自治会を組織するための話し合いが進められているという。震災で地域の絆を断ち切られた人たちは、仮設住宅でできたつながりとも切り離され、また一から隣近所の関係を作り直さなければならない。特に集合住宅に住み慣れない高齢者や単身者にとって、それは簡単なことではないはずだ。

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 広大な敷地は閑散として、生活の気配がない。本当にここには220世帯の人々が暮らしているのだろうか。目の前に整然と並ぶ建物群が、過疎化が進む都市郊外のニュータウンの風景と重なった。そもそもここは高齢者や単身世帯が多いことを想定して造られた団地のはずなのに、建物の配置や様式は、都会のマンションと変わらないように見える。もっと住民が外に出て交流したり、地域とのつながりを促すような工夫があって然るべきだと思うのだが。

商店街
 鹿折南住宅近くに再建された「かもめ通り商店街」の飲食店で、ハーモニカ煮定食を食べた。脂が乗ってとろけるような食感だ。「ハーモニカ」とは、メカジキの背びれの付け根部分で、骨付きの身の形状からそう呼ばれる。希少部位であり、気仙沼でも知る人ぞ知る味だったが、震災後、支援に来た学生らが名物として広めたといい、今では全国から食べに来る人がいるらしい。

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 震災前、約30店舗あったというかもめ通り商店街。震災1年後の2012年3月、仮設商店街「復幸マルシェ」として営業を再開したが、2014年8月に区画整理のため別の場所に移転して18店舗の仮設商店街「復幸マート」となった。その復幸マートも昨年8月に閉鎖され、かさ上げされた土地に、この新しい「かもめ通り」が造られた。10区画あるが、現状で6区画しか埋まっていないという。別の場所で再建したり、再建を断念した店も多いということだ。
 市内の土地区画整理事業区域にある仮設商店街は2017年の春、続々と退去期限を迎える。港近くの「復興屋台村気仙沼横丁」は3月20日、「南町紫市場」は4月20日頃に閉鎖されることになっていて、事業者の中には移転先が決まらず、休廃業せざるを得ない例も少なくないという。

気仙沼大島大橋
 気仙沼湾の観光地である大島は、市街地からフェリーで20分ほど。架橋の構想は昔からあったが、震災後に一気に実現へと動き出した。災害時の輸送路確保や観光振興などを目的とした復興の目玉事業として、工事が進められている。浦島地区と大島の間に架けるアーチ橋は長さ356メートル。三陸を縦貫する国道45号につながる新たな県道を造り、市街地から気仙沼湾東岸を経由して大島まで通す計画で、総工費約220億円、2018年度の完成予定だ。

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ふ頭で建設中の橋の本体部分 

 橋のアーチを含む本体部分は、湾西岸のふ頭で建造中で、市街地からも見える。この本体部分は全長228メートル、重さ2700トン。3月26日に海上クレーンで運ばれ、大島と浦島の間にある橋脚に架設されるという。

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海上から見た浦島地区側の橋脚と作業用足場

 湾の東岸にある浪板、大浦、小々汐、梶ヶ浦といった集落は、津波で多くの家が流され、高台移転が進む。そんな地域に、新しい県道が造られようとしている。住民の中には、震災で家族を失った上に、県道建設のため住居も立ち退かざるを得ないという人もいると聞いた。「復興」の陰で、悲しみに耐えねばならない人がいるということを忘れてはいけない。
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2017年02月15日

気仙沼、地域と縁を結ぶ旅 〜浦島地区「週末は気仙沼。」ツアー

 宮城県気仙沼市の内湾に面した浦島地区は、大浦、小々汐(こごしお)、梶ヶ浦、鶴ヶ浦の四つの集落から成り、「四ヶ浜(しかはま)」とも呼ばれる。昔からカキやワカメの養殖が盛んなこの土地は、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。
 
 約240世帯のうち7割が被災、海沿いは家を再建できない災害危険区域とされたため、多くの住民が故郷を離れて暮らさざるを得なくなった。集落は高台移転を進め、住宅の再建が進んでいるが、地区の世帯数は震災前の6割ほどにとどまる見込みだ。

 ばらばらになった地域を再建し、にぎわいを取り戻すにはどうすればいいか。浦島の人たちは新しいまちづくりを進めながら、模索を続けてきた。「週末は気仙沼。」ツアーは、そんな取り組みの一環として始まった。

 ツアーは、住民でつくる浦島地区振興会と、震災直後から地区を支援してきた日本国際ボランティアセンター(JVC)が共同企画し、2014年から毎年1〜3月に数回ずつ開催してきた。1泊2日で浦島地区を巡り、震災時の避難所だった旧小学校やワカメ加工場の見学、カキ養殖の仕事体験などをする。

 このツアーの最大の特徴は、参加者と住民の距離が近いことだ。案内や説明をするのは、その道のプロではなく、浦島で暮らす普通の人たち。参加者は身構えることなく、知り合いの土地に来たような気軽な気持ちで体験を聞き、質問し、もてなしを受ける。地域の暮らしの日常を、身近に感じることができるのだ。

 旧浦島小学校では、避難生活を経験した住民が、当時の様子を説明する。震災直後、ここでは237人が避難し、暖房用の灯油や発電機を動かすガソリンも自分たちで確保した。山火事が学校に迫ると、手分けしてプールの水をバケツリレーし、消し止めた。そうした共同作業の際に機能したのが、自治会の班編成だという。当時、小々汐集落の自治会書記として避難所を運営した尾形光三郎さんは「浦島には昔からの人のつながりがあり、そのおかげで統制が取れた。住民の絆の深さが非常時の強みになった」と語る。

 この旧浦島小学校は、今も浦島の人たちの心の拠り所である。小学校は震災後の児童数の減少で13年3月に閉校したが、建物や敷地はそのまま残され、地域のために役立てようと住民組織が活用の道を模索している。地区唯一の小学校は、昔から大事な交流の場であり、特に毎年ここで開かれる住民総出の運動会は、地区を象徴するイベントだった。運動会は震災後に中断していたが、2015年の夏に再開。地区の外に移り住んだ人も大勢集まり、浦島出身者としての絆を深め合った。

 ワカメ養殖の仕事体験では、海の上から養殖いかだを見学する。船で案内するのは、鶴ヶ浦で海上タクシーを営む畠山東治さん。畠山さんは震災時、津波で船に乗ったまま流され、3日間陸地に近づくことができなかった。やっとの思いで鶴ヶ浦の漁港に戻ってきた時、みんなが万歳で出迎えてくれた。その時の光景が忘れられないという。そんな経験も、毎年自分で直接、参加者に伝えている。

 ツアーは今年で4年目。浦島の人たちは、自分たちでアイデアを出し合って企画し、実現させてきた。地元では当たり前のことも、外から見れば面白い。参加者との交流は、そんな地域の再発見にもつながった。「ツアーは地域にとって、祭りのようなもの。人のつながりを深め、地区がまとまる機会になっている」と、浦島地区振興会の尾形健会長は話す。振興会は、浦島と大島を結ぶ気仙沼大島大橋(2018年度完成予定)の開通も視野に、ツアーを含めた観光を柱に据えた地域づくりを進めていく考えだ。

 気仙沼には、「気いっぺえ、腹いっぺえ」という言葉があるという。「気持ちをいっぱい込めて、腹いっぱいになるまでもてなす」という意味で、外から訪れる人を大切にする漁師町の気質を表すのだそうだ。太平洋に面し、広い世界に開かれた気仙沼では昔から、人と人の出会いが生み出すダイナミズムが、歴史や文化を形作ってきた。
 
 ツアーでは、「海の仕事と人に出逢う旅」という副題の通り、毎年全国からの参加者が地元の人と出会い、交流を深めている。ツアーを通じて広がる「縁」は、新たな地域づくりに取り組む浦島の人たちはもちろん、全国の参加者にとっても、自分たちの故郷に向き合い、そこで生きていくための糧となるに違いない。



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2016年07月27日

絆取り戻す、住民運動会 〜気仙沼・旧浦島小に歓声響く

東日本大震災の影響で閉校した宮城県気仙沼市の旧浦島小学校で24日、地区の運動会が開かれた。津波の被害を受けて離散した住民の絆を取り戻そうと、地域再生に取り組む住民らでつくる浦島地区振興会が企画。家を失うなどして故郷を離れている住民らも参加し、約90人がともに汗を流した。

浦島地区は、大浦、小々汐、梶ヶ浦、鶴ヶ浦の四つの集落から成り、計約240世帯が暮らした。そのうち7割が津波で被災し、多くの住民が今も地区を離れて暮らしている。災害危険区域になった沿岸部は住宅の再建ができないため、高台移転が進められているが、戻って来る世帯は約6割にとどまる見込みだ。

地区唯一の小学校だった浦島小は2013年3月、児童の減少で閉校。1960年ごろには200人を超えていた児童数は、最後の12年度には7人にまで減っていた。小学校の運動会は住民総出で毎年開かれ、地区の交流行事として定着していた。閉校に伴い運動会も休止されていたが、昨年7月、振興会が住民に呼びかけて3年ぶりに復活させた。

校庭には今も仮設住宅が立ち並んでいるため、体育館が会場に。集まった参加者は、集落ごとのチームに分かれ、玉入れやスプーンリレー、「ジャンケン列車」などを楽しんだ。最後は全員で校歌を斉唱し、地区の絆を確かめ合った。近くに住む女性(76)は「みんなと会えて楽しかった。息子と一緒に参加したころはほんとに賑やかだった」と、懐かしそうに話した。振興会長(72)は「浦島地区にとって小学校は心の拠り所。住民が旧交を温める貴重な機会として今後も続けていきたい」と力を込めた。

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夢中になって玉入れ競技を楽しむ参加者


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校庭に立ち並ぶ仮設住宅。23戸あり、今も5世帯が暮らしている


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2016年03月08日

気仙沼、地域の今を体感 〜東日本大震災5年、浦島地区ツアー

宮城県気仙沼市の浦島地区で2月27、28日、地域の暮らしを体験するツアー「週末は気仙沼。海の仕事と人に出逢う旅」があった。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた住民らが、観光で地域を再生しようと始めて3年目。1泊2日で養殖体験やまちあるきなどをしながら、住民と参加者が交流を深めるという内容だ。気仙沼は東日本大震災の後、ボランティアと旅行で計2度訪れたが、地元の人とかかわる機会はあまりなかった。震災からもうすぐ丸5年。生活を立て直そうとする人たちの生の声が聞きたくて、参加することにした。

ツアーは、浦島地区の住民組織と日本国際ボランティアセンター(JVC)の共同企画。JVCは震災直後から津波で被災した同地区に入り、給水支援や漁具の回収などの活動を続けた。その後も地区にとどまり、地域社会の再建に取り組む住民を支えてきた。もともとJVCがボランティア関係者を対象に行っていたツアーを住民主導の地域活性化に生かそうと、2014年に地元の旅行会社を通じて一般参加者の募集を開始。それ以降、毎年冬に数回実施し、住民自ら案内役となって地域の魅力を紹介している。

◆変わりゆく街の姿

初日は午前10時40分に気仙沼駅に集合。参加者約20人と旅行会社の添乗員、住民、JVC職員が1台のバスに乗り、まず標高239メートルの安波山(あんばさん)に向かう。10分ほどで市内を見渡せる駐車場に到着。震災の被害と復興の概況について説明を受ける。

気仙沼湾の奥まった所にある平地は、津波と火災で被害が大きかった鹿折(ししおり)地区。震災約1年後の2012年2月、私はボランティアとして、ここに打ち上げられていた大型漁船「第18共徳丸」の近くで住宅跡地の清掃を手伝った。当時は建物もほとんどなく、住宅の基礎が残るばかりであったが、今は船も撤去され、かさ上げした茶色い土地の上には、建設中の災害公営住宅がずらりと並んでいる。街としての姿を取り戻しつつある風景に、4年という歳月の重みを感じた。

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その鹿折地区に下り、仮設商店街「復幸マート」で昼食。震災前の「かもめ通り商店街」が12年3月に「復幸マルシェ」という仮設店舗として再開、その2年後に名前を変えてこの場所に移転したという。ボランティアに来た時は「マルシェ」のオープン直前で、この辺りで唯一の建物だったプレハブで休憩し、みんなで差し入れのおにぎりを食べた記憶がある。仮設から仮設への移転を余儀なくされながらも、団結して営業を続ける商店街。かさ上げした新しい街でもにぎわいをつくり出せるだろうか。

◆浦島地区

午後、いよいよ浦島地区へ。鹿折から気仙沼漁港の東岸を2キロほど南下すると、大浦の集落に入る。浦島地区は大浦、小々汐(こごしお)、梶ヶ浦、鶴ヶ浦の四つの集落から成り、昔から「四ヶ浜(しかはま)」と呼ばれてきた。戦後に浦島小学校が開校して以降、学区としてのまとまりから浦島の名が浸透した。多くの家が津波の被害を受け、4集落で計241だった世帯数は94にまで減少(14年2月26日時点・JVC調べ)。主な産業であるワカメやカキなどの養殖も大きな打撃を受けた。

大浦にあるワカメの加工場で、作業の様子を見せてもらう。かごいっぱいの生のワカメが続々とコンベアに載せられ、ボイルされ、塩を加えられていく。ワカメは今が収穫の最盛期。加工場は湯気と熱気に包まれていた。「気仙沼で養殖はいつごろ始まったのですか」「ここのワカメはどの辺で採れたものですか」。参加者の熱心な質問に、工場長さんが丁寧に答えてくれる。津波はこの工場にも押し寄せ、建物や設備の被害は大きかったが、幸い、従業員は全員避難して無事だった。そんな当時の状況についても、写真を見せながら説明してくれた。

◆進む高台移転

続いて、梶ヶ浦の高台にある団地へ。自治会の役員さんから、防災集団移転の経緯と現状を聞く。梶ヶ浦には約50軒の家があったが、そのうち9割が津波の被害を受けた。震災直後、避難などでちりぢりになった住民の動向を把握するため、自治会とJVCは、残った家を1軒1軒訪問して消息を確認していったという。

その後、海沿いの集落があった場所は災害危険区域に指定され、家を再建できなくなった。住民の自治会は集落の存続をかけて、高台に移転することを決断。自分たちで地権者と交渉してこの場所を確保し、新しい集落をつくる取り組みを続けてきた。誰がどこに家を建てるか、道路はどのように通すか、といった計画段階から住民は何年もかけて協議し、みんなが納得できる形にしたという。

団地には真新しい住宅が並び、住んでいる人もいるということだが、所々に空き地のままの区画もある。土地は比較的安いが、住宅建設費の高さが負担になり、戻るのを断念した住民も少なくないという。現状では梶ヶ浦に住んでいた住民のうち、この新しい団地に戻って来るのは20軒ほどにとどまる見通しだということだ。

高台の団地から海沿いの元の集落があった場所までは、新しい道が通じている。案内してくれるというので、みんなで歩いて向かった。下りていく途中、反対側に鶴ヶ浦の海が見えた。その向こうは大島である。鶴ヶ浦と、大島の亀山という所を結ぶ橋が2年後にできるという。架橋の計画は数十年間進まなかったが、震災復興事業として一気に着工が決定。浦島地区の住民は、「鶴ヶ浦」と「亀山」の頭文字を取った「鶴亀大橋」という愛称を提案して採用された。観光地である大島とつながるこの新たなルートには、浦島の地域再生への期待がかかっているのである。

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歩いているのは、その橋へのルートとして建設中の幹線道路なのであった。トンネルをくぐると左手に海が見え、その手前に開けた土地があった。元の集落があった場所だ。更地になっている。役員さんが山腹を木を指差して「あそこに白いビニール袋が引っ掛かってるでしょ。あれが津波の高さです」と教えてくれる。ここの津波は13メートルということだが、実感が伴わない。

ここに50軒の家が並んでいた。そこに家の高さをはるかに超える津波が来た。それは一体、どのような光景なのか。役員さんは、頭の中にある記憶を前提として説明している。その前提を持たない私たちは、想像力を働かせて、目の前の風景を見つめるしかない。地盤沈下で壊れたという漁港は修復され、船が並んでいた。人が住まなくなった土地に残された生活感。少しほっとする。夕日に輝く海は穏やかで、美しかった。

◆小学校は心の拠り所

次に向かったのは、小々汐の山腹にある旧浦島小学校。震災直後、避難所になり、237人がここで生活した。その時の様子を語り部から聞く、というのが初日の最後のプログラムだ。

浦島小学校は、震災後の児童数の減少で13年3月に閉校した。建物や敷地はそのまま残され、地域のために役立てようと、浦島地区振興会が活用の道を模索している。地区唯一の小学校は、昔から大事な交流の場であり、住民統合の象徴だった。だから閉校しても心の拠り所として残したい、というのが浦島の人たちの願いなのである。活用の一環として、昨年の夏、震災後に中断していた地区の運動会を体育館で再開。地区の外に移り住んだ人も大勢集まり、浦島出身者としての絆を深め合った。

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体育館には椅子とテーブルが並べられ、地元のおばさんたちがお茶を用意してくれていた。地区振興会の会長さんから、震災直後の状況を聞く。避難した住民たちは、自分たちで暖房のための灯油や発電機を動かすガソリンを確保し、山火事が小学校に迫ると、プールの水をバケツリレーして消し止めた。その際に機能したのが、自治会の班編成だという。自治会書記として活動を指揮した男性は、以前からあった住民のつながりが非常時の強みになったと語った。

段ボールと毛布が床に並べられていた。寝てみてくださいと言う。背中の硬い感触と冷たさ。着の身着のまま避難してきた人たちが耐えたという寒さと心細さは、どれほどのものであったか。校庭には仮設住宅が建ち並び、今も住んでいる人がいるということだった。

宿は、浦島地区から少し離れた唐桑半島の鮪立(しびだち)という所にある民宿「唐桑御殿 つなかん」。バスで30分くらいの道中、浦島地区出身の30代の添乗員さんが、小学校時代の思い出を話してくれる。「この道を上がった所が僕の家です」「この道を通って学校に行ってました」。浦島小学校の校歌も歌ってくれた。「ぽんぽんぽーん」という発動機船の擬音を入れた楽しい歌詞。浦島の子の自慢だったという。半世紀以上も歌い継がれてきた校歌。これからはもう思い出の中に残るだけだ。

◆唐桑御殿の夜

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鮪立は、遠洋漁業に従事した人が多かったという地域だ。船の持ち主の家は唐桑御殿と呼ばれ、民宿もそうした御殿のひとつだった。裏には、このあたり独特の木造の蔵である「板倉」があった。木を縦横に組んだ造りで、地震に強いという。参加者の1人で、民俗学専攻で東北地方のフィールドワークをしているという学芸員の若者が、そう教えてくれた。

民宿「唐桑御殿」の建物は、震災の被害を受けながら、全国から集まったボランティアの宿舎として使われた。おかみさんの明るいキャラクターがボランティアの若者らの人気を集め、その後、民間企業が関わって資金を調達して民宿としての営業を始めたのだという。

夕食は、カキやワカメなど地元の海の幸づくし。大広間で、参加者と浦島地区の住民、JVC職員が入り混じっての宴会だ。一人一人、順番にみんなの前で自己紹介して、ツアーの感想などを話す。ボランティアで東北に30回は来たという男性、東北の食材に魅せられ料理家になった元女性会社員、気仙沼市や大船渡市の職員、福島で被災者のケアに携わる看護師。津波で息子さんを亡くしたという夫婦もいた。参加者の年齢や職業、動機はさまざま。背景が分かれば人との距離が一気に縮まる。お酒も入って宴会はいよいよ盛り上がる。

2次会が終わり、JVC職員と住民の方々が地元に帰った後、有志で3次会をやろうという流れになった。残ったのは私を含め4人。別の部屋のこたつを使わせてもらって話を続ける。東京の女性は、カキの養殖の手伝いで唐桑に通ったといい、5年経っても被災した人が不自由している現状が許せないと言った。千葉から来た20歳の看護学生は、今回初めて被災地に来て、人の役に立つ看護師になるための勉強を頑張る、と目を輝かせた。「板倉」を教えてくれた学芸員の若者は、自然災害と人間の暮らしのかかわり方を歴史的な視点でとらえる必要があると語った。

みんながそれぞれ人生の中に震災の経験を位置づけ、誰のものでもない、自分だけの「物語」を持っている。震災は、被災者ではない人の人生も変えた。他人事ではないと感じる人たちは今も全国各地にいる。そしてそれぞれに、思い入れのある東北の地とのつながりを求めている。自分の人生にとって大事なその場所のために、何かしたいと思っているのだ。

その後、民宿のアルバイトのお姉さんが合流し、座は一転して賑やかな雰囲気に。美大出身のお姉さんが特技の星座占いを披露したのだが、一人一人の運勢を言い当てていくトークが絶妙におかしく、みんなで腹を抱えて笑い合った。なんだかんだで楽しい時間、気がついたら午前2時になろうとしていた。

◆海の仕事体験

2日目は午前6時起床。朝食の後、全員がカッパを着て鶴ヶ浦漁港に向かう。まずはワカメ養殖の見学だ。船で案内してくれたのは海上タクシーの船長さん。養殖いかだでは、別の船で待っていた漁師さんが、刈り取りを見せてくれた。朝日に輝く海は、あくまで穏やか。これが5年前、津波と火災に見舞われた海なのだろうか。あの日、船長さんはこの船に乗ったまま津波に流され、3日間陸地に近づけなかったという。ようやく鶴ヶ浦に戻った時、住民の人たちが万歳で出迎えてくれた。その光景が忘れられないと、声を震わせながら話してくれた。

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カキむき体験の後、そのカキをいただくために梶ヶ浦漁港へ。住民の人たちが調理の準備をしてくれていた。採ってきたばかりのワカメを吊るしてあり、漁師さんが刈り取りの作業を手取り足取り教えてくれる。まきをくべたドラム缶の上の鉄板で、おばさんたちが、大量のカキと野菜を焼き始めた。「カキの味がしみたネギが特にうまいんだ」と、元漁師さん。「チャンチャン焼き」といって、居酒屋などでこういう食べ方をするらしい。

カキはびっくりするほど大きい。長野のスーパーで見るパック入りの身の倍くらいはある。この大きさになるまで3年かかるという。やっと軌道に乗り始めたように見える養殖業だが、再開までにはさまざまなドラマがあった。震災直後は、同じカキの産地である広島の漁師が来て、再開を支援してくれたという。同じ鉄板を囲んで、住民の人のそんな話も聞いた。

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◆取り残された家

ゆでたカニやワカメのしゃぶしゃぶなどもいただき、お腹いっぱい。次のリアス・アーク美術館に向かう前に「トイレに行きたい人はどうぞ」と案内されたのは、港から階段を上った所にある民家だった。集落があった土地を見下ろす庭に、犬が1匹。最初は吠えていたが、参加者の女性がなでると大人しくなった。オスである。「かわいい、かわいい」とみんなで戯れていると、家の中から年配の女性が現れた。この家の住人さんらしい。お礼を言ったついでに話してみる。

「犬はね、震災の後に飼い始めたの。1人じゃさびしくてね」。この家は集落で津波の被害を受けなかった数軒のうちの1軒。元の集落は家の再建はできないが、残った家に住み続けることはできる。その代わり高台移転などの補助は出ない。要するに、取り残されたのだという。家が残ったからといって、良かったとも言えない。コミュニティの再生といっても、取り残された人はどうすればいいのだろう。疑問が次々湧いてきて、頭が混乱する。こういう人たちの声にこそ、じっくり耳を傾けるべきではないか。そこに思いが及ばなかったことが恥ずかしい。

◆記憶を呼び覚ます

リアス・アーク美術館は気仙沼湾を見下ろす丘陵地にあり、現代美術とともに歴史民俗系の常設展示をするユニークな公的施設だ。震災直後から学芸員が被災地を歩いて独自の調査記録を始め、2年間の活動で撮影した写真や収集した資料などを常設展示している。

ずらりと並ぶ写真は203点。建物の残骸に埋め尽くされ、煙が立ち上る街、たくさんの船が打ち上げられた港、路上に淀むヘドロや重油。被災当日や翌日に現場の真っ只中で撮影された写真はどれも臨場感にあふれ、被災直後のにおいや温度まで伝わってくるようだ。

ここの展示の特徴は、それぞれの写真に添えられた数行の文章である。説明文というよりは、現場リポートに近い。撮影した学芸員自身が、現場でその時感じたこと、思ったこと、考えたことを主観的に綴っている。客観的事実としての記録ではなく、主観的事実としての記憶を残したい、というのが展示の意図。文章は写真を見る人の記憶を引き出すための呼び水というわけだ。

被災現場で収集した建材や家電製品や自転車、ぬいぐるみなども数多く展示されている。どれも錆びたり、歪んだり、ぼろぼろの痛々しい状態。「がれきという言い方はしたくないのです」と学芸員さんが説明する。がれきという言葉には「価値のない、つまらないもの」という含意がある。被災者にとってこれらの物は大切な記憶の一部であり、言葉で一括りにできるようなものではない、という。

「これを読んでみてください」と示されたのは、展示物に添えられたはがき状の紙片。記されているのは、その物にまつわる物語だった。方言で語りかけるような文体で、誰によってどのように使われていたのかが暗示されている。たとえば炊飯器には、それを使っていた主婦が、家族構成や炊いていた米の量を紹介する、という体裁で。これらの文章は実際の証言ではなく、じつは学芸員の創作。見る人がものを介して、震災以前の日常や被災後の思いを具体的に想像できるようにするための工夫だという。

◆想像力

他者の経験を想像すること。被災者でない私が被災者のためにできることは結局、すべてそこから始まるのかもしれない。展示写真を、涙を流しながら見つめているボランティア経験者がいた。話しかけようとしたが、言葉が見つからなかった。人はそれぞれ、自分一人で向き合わなければいけない記憶を抱えている。私は、私でない人の経験や心情を完全に共有することはできない。それを踏まえた上で、人のために何ができるのか、想像しなくてはならない。問われているのは、他人事を自分のこととして捉える感性だ。

「海の市」で各自おみやげを買ってから、午後3時50分、気仙沼駅に到着。長かったような、短かったような1泊2日のツアー、ここで解散である。昨日ここに集合した時とは違い、すっかり打ち解けた参加者たち。みんな名残惜しそうだ。主催者である地区振興会の役員さんが締めのあいさつ。「思い出を持って帰って、ぜひ自分の周りの人に話してほしい」。もてなされるばかりで何だか申し訳なかったが、地元のお祭りに参加させてもらっているようで、温かい気持ちになれた2日間だった。

◆被災地に学ぶ

約2年半ぶりに訪れた気仙沼。ボランティアで片付けをした鹿折地区は、かさ上げ工事が進み、建物が増えていた。そうした現状を見ると、復興は進んでいるのかもしれないと思う。しかしそもそも、復興とはどういう状態を指すのか。決定的なのは、私がこの街の元の姿を知らないということだ。そんな人間に、復興云々という言葉を使う資格はない。

私にできるのは、現状を見続けること。記録し続けること。そして経験者から学ぶこと。ツアーに参加して感じたのは、被災地でいま進行している出来事は、被災地でない土地にとっての先行的事例であるということだった。コミュニティーの再生やまちづくりといったこの地の人々の取り組みを前にして、これまで自分が見てきた長野や愛媛の過疎地域の様子が心に浮かんだ。住民主導でこんなにすてきなツアーを企画運営することが可能なのだということを、長野でまちおこしに取り組む人たちに伝えたいと思った。被災地には、日本中のあらゆる地域に共通の問題が凝縮された形で顕在化している。そして故郷を何とかしようと住民が知恵を絞った試みが、今まさに、さまざまな形で進行中なのである。そこから学べることは多いはずだ。

ここで会った人の顔を、ここで見た風景を、私はこれからも事あるごとに思い出すだろう。そして、自分の知らないことを知っている人たちから学び続けるために、何度もこの地に足を運ぶだろう。地元の人が結んでくれた縁をどう生かすか。今度は自分が考える番だ。

◆エピローグ

解散後、地元在住の参加者が車で気仙沼を案内してくれるという。東京への最終列車までは時間があったので、私を含め3人でお言葉に甘えることにした。この人は60代の気仙沼市職員。土木の専門家で、もともと東京の葛飾区の職員だったが、震災後に宮城県の職員公募に応じ、気仙沼市に派遣されてきた。3年間、漁港の改修工事を担当してきたが、今年の3月で任期が終わるため、気持ちの区切りをつけるためにツアーに参加したのだという。

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向かったのは、国道を30分ほど南下した波路上(はじかみ)地区。17メートルの津波が来たといい、かさ上げされた平野が広がっている。そこにぽつんと建っているのは、旧気仙沼向洋高校の校舎。3階に車が突っ込んだ形で残り、震災遺構として保存される見通しというが、敷地はフェンスで囲われて近づくことができなかった。そこから1キロほどの半島の突端が、岩井崎。潮吹き岩で有名な昔からの景勝地には、津波で残った松が「龍の松」として保存されていた。職員さんがどうしても見てほしいと次に訪れたのは、杉ノ下の慰霊碑。小高い丘になっていたここは避難場所に指定されていたが、津波は丘の頂上まで達し、50人以上の住民が犠牲になったという。慰霊碑にはその一人一人の名が刻まれていた。

大谷海岸駅跡とその近くに造られた防潮堤を訪れた後、最後に見せてくれたのは、仮設住宅。なんと、そこは職員さんが3年間住んでいる自宅ということだった。気仙沼はアパートなどの賃貸住宅が少なく、借りるのは至難の業。というわけで、就職時に仮設を紹介されるのだという。仮設といってもメーカーによってピンからキリまであり、ここは住宅メーカーの製品だから造りがしっかりしているらしい。

「風呂の追い焚きができないのは不便だけどね」と事も無げに言う職員さん。石巻でのボランティアをきっかけに、専門知識を被災地のために生かそうと、家族と家を残して見知らぬ土地で働いてきた3年間。4月からはまた数年間、今度は福島県で働くという。「福島に来ることがあったら、連絡してください」と電話番号を教えてくれる。この人の人生にとって、震災とは何なのか。今度会ったときにじっくり聞いてみたいと思った。
posted by Dandelion at 10:34| 長野 ☀| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月17日

10ヵ月後の一歩、17年後の救い

 1月8日、早朝6時20分。夜行バスに9時間揺られて、まだ明け切らぬ遠野駅前に降り立つ。

 雪が花びらのように、闇の奥からはらりはらりと落ちてきた。駅前ロータリーの街路灯が、白一色に閉ざされた世界を浮かび上がらせる。ガツンと打たれるような冷え込みに、全身が緊張する。駅舎の脇の自動販売機で缶コーヒーを買う。手のひらの温もりが、いとおしい。息は吐く先からもうもうと白い塊になって、目の前にそのまま漂っている。

 ボランティアは初めてである。1日だけでもできればとやって来た。とりあえず力仕事希望と伝えておいたが、実際何をやるのかわからない。具体的な仕事内容は直前に決まるらしい。

 バスを見送ってから、「遠野まごころネット」に向けて歩き出す。岩手三陸の被災地支援の後方基地として、個人ボランティアを中心に受け入れている団体だ。ボランティア希望者はネットで事前登録してから、前日もしくは当日ここを訪れてニーズとのマッチングを受ける。その上で沿岸の被災地へ向かうことになっている。

 青い闇の底で、凍りついた路面が鈍い光を放つ。油断するとたちまちのうちに転んでしまいそうだ。踏み固められた歩道を避け、雪の新しい車道の路肩を、一歩一歩確かめながら進む。



 
 あの日から、10ヵ月が経とうとしている。
 行こう行こうと思いながら何もしないまま、とうとう年を越してしまった。「休みがない」「仕事で疲れた」「装備がない」「手続きを忘れた」・・・その時々にいろいろ理由をつけて、行くことを先延ばしにしてきた気がする。

「思っているだけでは、何もしたことにはならない」 
背中を押してくれたのは、職場の先輩の女性だった。いつも忙しそうに、仕事に追われているように見えるその人が、2回も被災地に行っていた。何気ない会話のなかで偶然それを知った時、自分の中で何かが吹っ切れたような気がした。言い訳はもうやめよう、と思った。




 冷気は執拗に、身体の先端部から責めてくる。手袋の指先がじんじんと痺れる。踏切を渡ると、正面に山が見えた。稜線の向こうに、茜色に染まった雲が浮かんでいる。歩くこと約15分。「浄化センター」の門が見えてくる。あそこの敷地の一角に、「まごころネット」の事務所がある。

 門に入ろうかというところで、脇道から出てきた人と鉢合わせになった。
「おはようございます」
不意を突かれた。慌ててあいさつを返す。オリーブ色の作業服、首に黄色いタオルを巻き、足元はごつい長靴。同年代くらいだろうか。穏やかな表情の男性だ。

「どちらから」
「長野からです」
「それはそれは遠くから。来て下さって助かります」
やわらかい物腰と、銀縁眼鏡の生真面目そうな風貌。どことなく将棋の羽生善治二冠を思わせる。聞けばこの人も個人参加のボランティアで、県内から車で通っているという。いかにも慣れた様子で「受付はこちらですよ」と、案内してくれる。

 きょうの活動は大槌と釜石の2ヵ所になるという。この時期来てくれるのはほんとに有難いのです、と羽生氏は何度も謝意を述べる。冬になり、やはりボランティアはかなり減っているらしい。そんな話をしながら歩いて行くと、浄化センターの建物の裏手に「まごころネット」の事務所があった。半分雪に埋もれたような、平屋のプレハブだ。

 事務所で誓約書を提出し、初心者向けのレクチャーを受ける。活動の概要と注意事項を、若いスタッフが手際よく説明する。カウンターの前に5、6人並んで聞く。ほぼ半分は女性だ。

 活動中に身に着ける蛍光色のビブスとシール式のワッペン(名前を書く)を受け取り、宿泊棟へ。畳敷きの大広間で作業着に着替える。「おはようございます」と、見ず知らずの私にも声を掛けてくれる。タオルを首に掛けた人、歯ブラシをくわえた人。宿泊者の朝はたった今始まったばかりのようだ。

「マイナス16度だってよ」
「ほんとかよ」
「外の温度計、見てみろよ」
「壊れてんじゃねえのか」
部屋を出入りする人が、そんな会話を交わしている。この地に慣れた人でも、今朝の寒さはやはり格別なのだ。学校の教室を縦に二つ並べたくらいの広さの部屋に、小さな石油ストーブが2、3台。ここで寝るのはつらそうだ。宿泊者は若者よりも、どちらかといえば中年より上の年代の人が多い。壁際の棚には寝袋や毛布、リュックなどの私物が山積みになっている。濃厚漂う生活のにおい。アジアの安宿のドミトリーを思い出す。

 7時20分、前庭に集合。ラジオ体操の後、マッチングが始まる。活動は内容によって二つに大別される。仮設住宅などで催されるお茶の会やカフェの運営、つまり被災者に直に接する仕事と、がれきの撤去や仕分け、物資の運搬などの力仕事。それぞれの仕事の内容は日によって違う。

 スタッフが今日の仕事を発表する。「カフェ」と「がれき撤去」。40人ほどの参加者が、希望する仕事の方へ、○×ゲームのように分かれる。カフェ部隊に15人、がれき部隊は25人。だいたいそんなところだ。事前の希望と関係なくどちらに手を挙げてもいいようだったが、結局、申請の通り力仕事を選ぶ。

 がれき部隊の行き先は、大槌と釜石。羽生氏の言った通りだ。いつもは陸前高田の活動もあるらしいが、今日は休みだという。どちらに行こうか迷う。とりあえず様子を見る。人数は大槌の方が多い。バランス的には釜石を選ぶべきなのだろう。釜石は唯一、震災後に訪れた土地。それも何かの縁かもしれない。ふと見ると、釜石の列に羽生氏の姿があった。話せる人がいたほうが心強い。釜石に行くことにする。

 マッチングが終わり、いよいよバスへ。普通の路線バス車両だ。「早池峰バス」と書いてある。制服の運転手もいる。全部込みでチャーターしているのだろうか。乗り込んだのは、男性7人と女性4人の、計10人。一番前に座った隊長が一声あいさつして、7時40分、出発。

 深い山の中を貫く立派な自動車専用道を、バスはひたすら走る。窓から差し込む黄金色の光。天気の心配はしなくてよさそうだ。ぽかぽかと暖かい車内に、エンジン音だけが低く響いている。静かだなあと思ったら、みんなうつらうつらとまどろんでいる。自分はといえば、夜行バスではほとんど一睡もしなかったはずなのに、不思議と頭が冴えて、少しも眠くない。輝く山並みの上に、真っ青な空が広がっている。トンネルを抜けるごとに地表の雪は薄くなり、日差しが強くなっていくように感じる。

「思っているだけでは、何もしたことにはならない」 
あのフレーズが、また頭の中をかけめぐる。
その声には、聞き覚えがあった。




 1995年の冬、私は大学2年生だった。千葉の実家に住んでいた。学業もサークルもほどほど、アルバイトばかりしている学生だった。そんな時、阪神淡路大震災が起きた。
 被災地に行きたいと思った。何かの役に立ちたいと願った。でも何をどうすればいいのか、よくわからなかった。ボランティアという言葉が使われ始めたころ。情報が錯綜していた。人手が足りないと言う。その一方で、行っても迷惑になるだけだ、という話もあった。

 大学生として何をなすべきか。いろいろ考えたけれど、よくわからなかった。テレビや新聞が伝える非日常の光景。不思議な感覚だった。あれは現実なのだといくら自分に言い聞かせても、リアリティはふわふわと浮遊したままで、うまく受け止めることができなかった。そして結局、何もしなかった。

 いろんな意味で、被災地は遠かったのだ。友人にも行った者はいない。身の回りの日常は、そのままそこにあった。アルバイトだって、結構忙しい。休むと迷惑がかかる。収入も減る。そうやって普段の生活に追われるうちに、当初の気持ちも薄れていった。
 
 あの時、なぜ自分は何もしなかったのか。若くて、自由で、要するに人生で一番いい時期。やろうと思えば何でもできたのだ。では、なぜ?

「やろうと思っていた。でも、いろいろあって・・・」
その後の人生のいろんな場面で、自分はことあるごとに、こういう言い訳をしてきたような気がする。無作為は積極的な選択の結果である。なまじそれを自覚しているが故に、たびたび自責の念に苛まれた。
 
「思っているだけでは、何もしたことにはならない」
だから今、ここにこうしてやって来た。




 気がつくとバスは市街地を走っていた。道路にも建物にも、雪はない。9月11日に訪れた釜石。見覚えのある街並みだ。

 8時50分、コンビニ休憩。各自ここで食料を仕入れる。小さめのおにぎり弁当と、車内で食べる肉まんを買う。きょうは何も食べていないけれど、あまり空腹を感じない。

 数分後、釜石駅近くのボランティアセンターで再び小休止。ここでトイレを済ませた後、市の中心部へ。駅前通りから左へ曲がって線路をくぐり、川を渡ると商店街だ。建物の1階部分はがらんどうのまま。9月に見たのと同じ街の風景が、車窓を流れていく。

 「これから向かう箱崎地区ですが」
隊長が立って説明を始める。50代後半から60代くらいの小柄な男性。この人も個人ボランティアだが、リーダーになるくらいだから、ベテラン中のベテランなのだろう。この辺りの土地の事情は知り尽くしているといった風格が感じられる。

 箱崎地区は、ボランティアがなかなか入れなかったエリアだという。被災後、住めなくなった住宅に窃盗団が入った。住民は警戒し、県外の者が地域に出入りするのを拒んだ。最近になってやっと、細かい支援の手が届くようになった。そんなこともあり、復旧は他の地区に比べて遅れている。そういういきさつを、あくまで淡々と、隊長は語った。

 トンネルを抜け、曲がりくねった峠道を越えて、バスは平野に出る。釜石市の鵜住居地区。「うのすまい」と読むのですと隣の女性が教えてくれる。東京の下町から来ているというこの人は、年の頃40代前半。何度も通っているリピーターらしい。

 一面の平野は、ことごとく地肌がむき出しになっている。建物が根こそぎ流された跡だ。所々に重機やトラックが入って、作業している。がれきの山の向こうに、ぽつんと残る校舎が見えた。

「あれが鵜住居小学校です。ほら車がまだ、あの通り」
隊長に促されて、目を凝らす。確かに、あれは車の後部。軽自動車だ。3階の窓に前から突っ込んだ形で、そのまま引っ掛かっている。そういえばテレビか何かでこの光景、見たような気がする。

 海岸に出ると、津波の爪跡はいよいよ生々しくなる。小さな漁港の桟橋は水に浸かったまま。傾いて今にも倒れそうなコンクリートの建物。波は道路のすぐ脇まで打ち寄せている。ここに砂浜があったなんて、とても信じることができない。

 鵜住居からさらにもう1本、トンネルを抜けた所が箱崎地区だった。9時30分、箱崎小学校着。ここがボランティアの活動拠点になっている。グラウンドでバスを降り、現地スタッフの出迎えを受ける。震災前から廃校になっていたという箱崎小。被災した建物を片づけて、用具や資材を置いている。グラウンドの一角に建つプレハブの集会場は地区のもので、休憩所として使わせてもらっているのだという。

 大学生のような若い現地スタッフが、活動の概要と注意事項を説明する。ここでの活動はすべて地元住民の好意によって成り立っています。そのことを肝に銘じて、くれぐれも建物や備品を汚したりしないように。責任と自覚を持って行動しましょう。しつこいくらいに念を押される。

 用具を受け取って、みんなで今日の仕事場に向かう。スコップ、ツルハシ、ホウキ、ネコ(運搬用の手押し車)などを分担して持って行く。三方を山に囲まれたこの箱崎も、鵜住居と同じように、あたり一面、地肌むき出しの更地である。ぽつん、ぽつんと残る家もことごとく被災していて、人が住んでいる様子はない。

「かっこいい服ですね」
羽生氏に話しかけられる。話をするのはあの早朝の受け付け前以来だ。覚えていてくれたのだと思い、なんだかほっとする。

 言われてみて、あらためて自分の服をまじまじと見る。ワークマンで一昨日買ったばかりの防寒用作業服上下。ポリエステル製でスキー服のように蛍光色のラインが入って、確かにしゃれて見えなくもない。しかしながらこれは、このうえなく不便な服であった。

 今朝初めて着て、ズボンにポケットがついていないことに気がついた。財布やタバコを入れるところがない。仕方なく上着のうちポケットに入れたのだが、これがかさばるのだ。しかもズボンのウエストが緩い。

 みんなの服装を見ると、上下とも綿の作業着で、たくさんのポケットに工具や小物を入れて、その上に上着を着ている。足元はごつい、膝まであるゴム長靴。そのまま土木工事にも行けそうなほど、板についている。

 ここでは安全靴よりも、防水性に優れたゴム長靴の方が役に立つという。それはたぶん、狭い家の中や、がれきを踏み分けていくような作業はすでに終わっており、いまは屋外の土や泥の上での作業が中心になっているということなのだろう。「汚れちゃいますしね。もったいないですよ」と羽生氏は、私の真新しい安全靴を見て言った。

 100メートルくらい向こうに、海が見える。山並みがそのまま海に落ち込むようなリアス式海岸の、静かな入り江。対岸は大槌町だという。冬晴れの海は青く、穏やかに輝いている。あれが本当にこの街を壊滅させた海なのか。想像するのは難しい。

 歩いて5分、仕事場に到着する。個人宅で、コンクリートの基礎部分だけが残っている。建物は取り壊されて撤去されているが、石ころや、木片や、ガラスの破片など、細かいがれきは残っている。それらを仕分けしながら取り除くのが、ボランティアの仕事だ。

 敷地の隅にビニールシートを敷き、その上に私物を置いて、玄関跡の前に集合。基礎だけになっているが、家の構造がよくわかる。1階部分だけで5部屋くらいある。かなり立派な家だ。玄関からまっすぐのびた廊下の両側に各部屋があり、突き当たりはトイレと風呂。便器や浴槽はそのまま残されているのが痛々しい。隊長の指示で、5人ずつに分かれ、それぞれの班が一部屋を担当する、ということになる。羽生氏とは別の班になった。

 午前10時、作業開始。スコップで土を掘る。土にはいろんなものが含まれている。金属、ガラス、木片、瓦、石、プラスチック。それらを選り分け、それぞれのバケツに入れていく。土は手押し車に載せる。そうやって仕分けしたものを、たまったら集積場に捨てに行く。

 最初のころは、そういう作業手順がわからなかった。ただ何となく掘っていると、1人がバケツを持ってきて、並べ始めた。ガラスはここで、これはプラスチック用。石は外に放り出しちゃいましょう。そうですね。一同うなずく。しばらくすると別の1人がどこからか長い板を調達してきて、コンクリートの基礎部分に斜めに立て掛ける。こうすれば手押し車を通しやすいです。なるほど。みんなで納得する。

 誰かが指示するというのではない。各人が、気がついたことを率先してやっていく。そうしているうちに、自然と役割分担ができてくる。掘る人、仕分けする人、捨てに行く人。分担が決まれば作業がスムーズに進む。そのようにして、手順がだんだんと整い、共同作業が軌道に乗っていった。

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 石ころやガラスや建材、その他にもさまざまなものが出土した。アニメキャラクターのキーホルダー、ハサミなどの工具、錆びてボロボロになった100円硬貨・・・もう役には立たないけれど、それらもやはり思い出のかけらには違いなかった。

「休憩にしましょう」
隊長が叫ぶ。作業を始めて30分。これからも30分ごとに休憩を取っていくという。ボランティアにノルマはありません、と隊長がその理由を説明する。安全に作業を進めることが第一です。無理をして怪我でもしたら誰かに迷惑をかけることになる。まあ皆さん、頑張りすぎず気楽にいきましょう。確かにその通りだ。

 女性ボランティアの1人が、ポットのコーヒーを紙コップに注ぎ始めた。それをみんなに配っているもう1人の女性から、「ありがとうございます」と恐縮して自分も受け取る。和やかなコーヒーブレイクが始まる。

 小袋のチョコレートを一つずつ配ってくれる人もいる。さっき長い板で手押し車の通り道を作っていた男性だ。40歳くらいだろうか。丸刈りで眼鏡をかけて、永平寺の雲水のようなストイックなたたずまい。職場の山岳部出身の先輩に雰囲気が似ているので、その人にちなんで心の中でひそかにタカシさんと呼ぶことにした。静かな人だが、周囲にこまやかな心配りをしながら、さりげなくリーダーシップを発揮している。タカシさんはもう何度も来ているベテランなのだろう。

 せっかくだからと、簡単な自己紹介が始まる。ほとんどが社会人で、東京、千葉、栃木、広島と、遠方から休暇を取って来ている人もいれば、岩手県内から日帰りで通っている人もいる。初参加は私と、もう1人の女の子の2人だけ。あとはもう去年から何度も来ているリピーターだ。ちなみにタカシさんは水沢の人で、去年の夏から月1回のペースで通っているのだという。同じく県内在住の羽生氏は、子どものころ大槌町に住んでいたことがあり、釜石も地元のようなものだから、皆さんがこうしてボランティアに来てくれることがうれしいと、そういう自己紹介をした。

 午前の作業も終わりに近づく。ひたすら掘り続ける自分の影が土の上にくっきり映る。海からの風は冷たいが、それ以上に日差しが強い。これはひょっとすると日焼けするかもしれない。そんな予感もする。最後の休憩の時、内ポケットに入れていたタバコの箱が濡れてぐしゃぐしゃになっているのに気づいた。ズボンの中に手を入れると、下着が汗でびしょびしょである。まったくこの作業着ときたら、ポリエステルで暖かそうなのはいいけれど、通気性はゼロ。ポケットはないし、ずり落ちるし、全然使えない。

 12時、昼食。道具を置いて、拠点の小学校に戻る。靴の泥をしっかり落としてから、校庭のプレハブ集会場に入る。室内にはストーブがあり、お湯の入ったポットがあり、たくさんのお菓子が置いてあった。これら全部、まごころネットのものではなくて、地元の〇〇さんという個人の差し入れなのだという。ご好意、ありがたくいただきましょう。そして床やテーブルをくれぐれも汚したりしないようにと、学生風のスタッフが、また念を押す。

 ボランティアは、地域住民によって支えられている。逆説的に聞こえるけれども、それは疑いのない事実であり、現場で作業する者がいつも意識しておかなければいけない常識だ。たとえばがれき撤去をしている時、地元の人が通りかかったら、ボランティアはみんなで大きな声であいさつする。それは単に「体育会系」というのではなくて、ボランティアが被災地と継続的な関係を構築していくための手法なのだ。

 ボランティアは日々、自らの立ち位置を手探りしながら、活動している。ボランティアと被災地の関係というのは、「助ける」と「助けられる」という二分法では正確にとらえることができない。そこにはさまざまな利害と感情が複雑に入り組んでいる。その混乱に分け入って、絡み合った網の目をひとつずつ解きほぐしていくのが、「支援」なのだ。スタッフの学生君が言いたいのは、おそらくそういうことだろうと思う。

 来る途中で買ったおにぎり弁当を広げる。普通のコンビニ弁当がうまい。隣に年配の男性がいた。休憩の時など、みんなの輪の中心で賑やかにしゃべっていた人である。「初めてなんです」と自己紹介すると、そこから話がつながった。
 
 栃木から来たSさん。4回目の参加で、昨日から1週間の予定で参加している。経済関係専門の翻訳を個人でやっているという。62歳。えっ、そうなんですか。お若く見えますねと言うと、表情が少しやわらいだ。
「団塊の世代がもっと来たらいいんだよ」と彼は言う。「どうせ暇なんだから」
なるほど、たしかにそうですね。自分の親を思い浮かべる。退職していつも家にいる父。それを負担に感じるとこぼしていた母。考えてみればこのSさんと同じ年代なのだ。彼らもぐずぐずと家に閉じこもらずに、東北へ来たらいいのだ。

 冬になって、やはりボランティアは極端に減っているという。夏場の最盛期には数百人単位だった。いまやその10分の1。厳冬期ということもあるけれども、被災地の現状がちゃんと伝わっていないと彼は言う。新聞やテレビは来なくなった。仮設住宅の方はともかく、破壊された被災地の姿は報道されない。

 弁当を食べ終え、お茶とお菓子をいただきながら、話は続く。
「だいたい、いまもこうやって毎日がれき撤去やってるって知ってた」と彼が問う。
「いや、もうがれきはほとんど終わってるって思ってました」私は答える。「支援の重点はもう仮設での心のケアに移っていると聞いてたもので」
それは本当だった。何となくそのように思い込んでいた。新聞やテレビの情報で、勝手にイメージをつくり上げていた。イメージと現実の、このギャップ。あなたが感じたそれを、帰ったらぜひとも地元の人に伝えてほしいんですよと彼は重ねて訴えた。地道な作業はまだ続いていて、これからも多くの人手が必要なのだということを。

 隊長と学生君が何か打ち合わせをしている。女性は女性同士で輪になっている。横になっている人もいる。食事を終えた人たちは、思い思いの仕方でくつろいでいた。一服して帰ってくると、羽生氏が仰向けになっていた。「あなたも休んだら」と勧められて、寝転んでみる。

「ほら背中が冷たいでしょ」しばらくの後、羽生氏が言う。「この建物、プレハブでしょ。仮設住宅と一緒ですね、この冷たさ」
「・・・・・・」
返す言葉が見つからない。静かな部屋の中で、羽生氏が穏やかに続ける。仮設と言うのは建物はそれなりでも、床は例外なく冷たい。じゅうたんを敷けばいい、布団を敷けばいいと思うかもしれない。でも下からじわじわと侵食してくる寒さは、何かを敷いたくらいで防げるものではない。

 話はそこまでだった。羽生氏はやはり穏やかな様子で、目を閉じていた。仮設住宅の本当の厳しさは、そこに寝起きして生活する人でないとわからない。つまりそういうことですか。口には出さず、羽生氏に問い掛けてみる。どういう人なのだろう。どこに住んでいるのか。ボランティアは何度目なのか。いろいろ訊ねてみたけれど、結局やんわりとはぐらかされた。わかったのは岩手県内から車で通っているということと、大槌町に住んだことがあるということだけだ。もしかしてこの人は被災者なのだろうか。でもそんなことはさすがに訊けない。

 午後1時、作業開始。疲れたというのではないが、どことなくけだるさを覚える。作業の成果がなかなか実感できない。基礎部分のコンクリートが30センチほど出るくらいの深さまで掘るのが目標だが、土は部分的に減っているものの、全体としては地面の高さはたいして変わっていないように見えた。
 
 スコップを阻むのは、がれきではなくて、凍った土である。ある程度まで掘ると、カチカチになった土の塊が顔を出す。スコップでは歯が立たないので、ツルハシで突き刺すようにして、ほじくりだす。それをさらにほぐしながら、がれきの破片を取り出す。そんなことをしているから、作業は遅々として進まない。

 2時ともなると、日が傾き始める。冷たさを増した海からの風が、容赦なく吹きつけてくる。真っ昼間から一気に夕方になってしまったようである。そのうちに太陽は山の向こうに隠れてしまった。東が海で、西が山。地理的にみればたしかにそうなるのが摂理だ。見回してみると集落全体がすっぽりと山の陰になっている。ボランティアたちの口数も次第に少なくなっていった。
 
 「そろそろ終わりにしましょう」という隊長の声に、正直ほっとする。三陸は雪が降らないというが、だからといって気候が穏やかということではない。ここには別の種類の自然の厳しさがあるのだ。

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 道具をまとめて、撤収する。半日作業して、結局1部屋分も終わらなかった。続きはまた明日。これだけの人数が毎日来ても、1軒に1週間ぐらいはかかるのだという。何という地道な作業。Sさんの言葉がつくづく身にしみる。午後3時、「早池峰バス」に乗り、箱崎小学校出発。

 ここにもう住めないことはわかっている。それでもきれいにしてほしい。住民はそう言って依頼してくる。その思いに応えるのがボランティアの仕事なのだと、作業を始める前に隊長は言った。家を流されてしまった人たちの気持ちが理解できるなんてとても言えないけれど、そういう形にならない思い、行政など公的なシステムではすくい取ることができない、ごく個人的な思いというものがあり、それがその人にとっては切実だということもあり得るということは、わかる気がする。

 4時10分、遠野まごころネット着。5時過ぎからミーティングがあるという。「初めてだったら話を聞いておくといいよ」とSさんが言うので、参加してみることにする。参加せずに車で帰るというタカシさんにお礼を言って、バスを降りる。羽生氏はいつの間にかいなくなっていて、あいさつできなかった。

 宿泊棟でしばらく休んでいるうちに、他の部隊の人たちも帰って来て、だんだん賑やかになる。ミーティングの前にみんなで掃除をするという。Sさんに教えられるままについて行き、トイレ掃除をする。宿泊棟の仮設トイレが終わると、次は隣に建っている静岡県ボランティアセンターの宿泊施設のトイレ。シャワー室を使わせてもらっているから、ついでにトイレ掃除もこちらが担当しているのだという。

 宿泊棟に戻ると、いつの間にかたくさんの人が集まっている。50人くらいはいるだろうか。5時20分、ミーティング開始。司会は「まごころ」世話役のKさんだ。4月に京都から来て、そのままここのスタッフになったというKさんは20代後半から30代前半くらいで、まだ若いけれども世話役を任せられるほどしっかりした人だということは、司会ぶりでわかった。茂山宗彦と尾崎豊をミックスしたような風貌で、いまの若者としてはわりと古風なたたずまいだ。

「伝えたいこと、共有したい情報、ありますか」
Kさんの問い掛けに、あちこちから手が挙がる。本部スタッフからの、求人情報や事務連絡。一般ボランティアの発言で目立つのは、共同生活についての注意や提案だった。午後10時の就寝以降に物音を立てるのはやめましょう。トイレやシャワーの水を撒き散らさないように。医療関係の仕事をしているという中年の男性は、感染症予防のために、マスク着用と定期的な部屋の換気を提案した。佐渡から来て8ヵ月間ここに暮らしているという44歳の男性は、「まごころ」で体験した活動を、帰ったらぜひともみなさんの身の回りの人に伝えてほしいと呼びかけた。

 ここには自治がある。30分におよぶ活発な意見交換を聞きながら思った。各人が身分や利害やしがらみにとらわれず、自らの能力を持ち寄って、みんなのために役立てようとする。私的なものと公的なものが打ち消し合うのではなく、つながっていって、問題の解決策が導かれる。スタッフも一般ボランティアも、みんな個人の資格であり、基本的に平等なのだ。理想として語られる直接民主政とは、こんな感じのものなのかもしれない。

 午後6時。すべての活動が終わった。「帰ります」とSさんにあいさつする。Sさんは、いまさっき到着したばかりの、ボランティア初参加の若者に、明日の活動日程を説明しているところだった。年齢も性別も社会的地位も関係なく、同じボランティアとしての資格で、ベテランが初心者に経験を伝えている。ごくごく当たり前のことが、何だかかけがえのない営為に思えるのが不思議だ。

「ありがとうございました」
「また会いましょう」
仕事帰りのあいさつのように、気楽な調子で応えて、Sさんは若者のところに戻っていった。

 外はもう真っ暗だった。駅に向かう雪道はやはり凍っていて、油断すると滑ってしまう。この雪はおそらく冬の間ずっと解けることはないのだろう。根雪に覆われた静かな街。その片隅に、全国から集う人々の、熱い思いが息づいている。2012年冬の遠野とは、そんなところだった。

 何度でも来てやろうと思う。3日間の人が3ヵ月に1回来るなら、1日しかできない自分は毎月来ればいい。意味なんて考えずに行動してしまえばいい。気軽に観光気分で来るもよし。友達同士で旅行ついでに寄るもよし。いつでも誰でも、ここに来れば被災地のために何かしらの役に立つことができる。それを可能にするシステムが、ここには整備されている。

 ここに来た人みんなが、自分の体験を地元に伝える。ミーティングで佐渡の人が言っていたように、それもまたボランティアの大事な仕事のひとつなのだ。そうやって、無名の支援が絶え間なく続いていけばいい。

 ボランティアは楽しいぞ。やりがいがあるぞ。いろんな人と知り合えるぞ。幾人かの友人や同僚の顔を思い浮かべながら、ここで見たもの聞いたもの感じたことを、どのような言葉で伝えたらいいか、そのことばかり考えていた。
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2011年11月13日

傷ついた街 石巻

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石巻市門脇地区にて(2011年9月12日)

 石巻駅から徒歩約40分、日和山という丘を越えてたどり着いた海沿いの平野部は、一面の更地になっていた。ぽつりぽつりと残る建物のほかに視界を遮るものはなく、1キロほど先の堤防まで見通せる。開発前の埋立地のような、茫漠としたとりとめのない風景。しかし歩いてみると、土地の区画がはっきり判別できた。ここには確かに街があったのだ。
 
 門脇小学校には津波とともに多くの車が押し寄せ、その車から海側の校舎に引火したとのこと。周囲は墓地だったのか、おびただしい数の墓石が倒れたままになっていた。

 さらに20分ほど歩いて旧北上川へ。水位が高く、川面がすぐ目の前にある。川沿いの道を上流に向かう。はるか向こうの対岸に打ち上げられたままの漁船。多くの家が浸水で破壊されている。交通量の多い橋を越えたあたりにある遊歩道は、路面が水に浸かり、欄干だけが杭のように突き出ていた。

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2011年10月05日

傷ついた街 釜石 

 正午を過ぎた。中心商店街に戻る。壊れた店の前に、選挙ポスターがずらりと張られた掲示板が立っている。きょうは投票日なのだ。延期された岩手知事選と釜石市議会議員選。半年が経ち、ようやく民主主義の手続きが進み始めた。

 アーケードの屋根は、下から見ると痛々しい。ねじれた骨組み。ゆがんだ吊り看板。壊れて散らかったままの店舗。張り紙で別の場所で営業している旨を知らせる店もある。またこの場所で営業を再開する日は来るだろうか。

 真新しい自動販売機が目を引く。よく見ると、街のいたるところにある。飲料メーカーの支援だろうか。車道は相変わらず車が多い。切れ目なく走って来るので、道を渡るのも一苦労だ。信号はやはりついていない。赤色灯を光らせパトロールする警察車両が目立つ。大阪府警や兵庫県警といった他県のパトカーも走っている。

 商店街の裏通りは飲み屋街のようだ。小さなパブやスナックが入った雑居ビル、居酒屋、割烹料理屋。ほとんどすべての建物が被害を受けている。取り返しのつかないほどの。片づけるとか、片づけないとか、そういうレベルではない。取り壊すか、残すか。それはもう、個人の判断を超えた問題だ。

 防災無線が、投票を呼びかける。きょうの一票に、市民はどんな思いを込めるのだろう。災害は政治を停止させる。民主主義とは、平時を前提とする営みなのだと思う。

 腹が減る。我慢する。今は歩くしかない。海沿いの道を、今度は漁港と反対方向へ。グランドホテルという大型観光ホテルがあった。やはり2階部分まで窓ガラスがない。立派な建物にぱっくり開いた、いくつもの黒い穴。人影は見えない。時間が止まったようだ。

 甲子川の河口にほど近い、この辺り。荒涼とした風景が広がっている。国道が通る矢の浦橋は、欄干がひん曲がり、柵の一本一本がいろんな方向に突き出ている。たもとの信号機はポールごとなぎ倒され、警官が手信号で車を誘導していた。

 午後2時。再び浜町。午前中に歩いた街は、風景が一変していた。港に沿う道路が冠水している。漁港の入口をふさぐように積み上げられた土のうは、浸水を防ぐためのものだったのか。

 市営釜石ビルは、この辺り唯一の高層建造物。壁には「津波避難ビル」の大きなマークが描かれている。9階建ての3階までがテナントで、4階から上は共同住宅のようだ。1階は窓枠しか残っていない。郵便局が入っていたらしい。唯一機能しているのは管理人室だけ。2階の窓にもガラスはなく、板が打ち付けられている。

 管理人の男性によれば、やはり上階は住居になっており、今も人が住んでいるという。以前からビルは避難場所に指定されており、あの日も多くの人が避難して来た。もっとも男性自身はその時非番で、駅近くの自宅アパートにいたため、その様子は見ていないということだった。

 あの日、押し寄せる津波はアパートのベランダからも見えた。管理人室のドアの前で、男性の話にしばらく耳を傾ける。津波は線路を越えて、駅前のローソンも水に浸かった。アパート2階の部屋は無事だったが、建物は浸水して駄目になった。今は仮設住宅に住んでいる。

 その男性は還暦を少し過ぎたくらいに見えた。自ら語るというよりは、こちらの質問に淡々と答えてくれる。あの日の出来事について。生活の現状について。半年の間に起きたことすべてが、この人にとっては被災の体験なのだ。災害は終わっていない。まだ、歴史になっていない。

 不自由な仮設住宅の暮らし。なにしろ遠い。仕事があるのは有難いが、通勤には困っている。帰りは駅まで自転車。駅からバスに乗って約30分。さらにそこから、置いてある自転車で、山の中腹にある仮設住宅まで上る。周辺には店もない。もっと便利な場所にある仮設にも申し込んだが、抽選で落ちた。下手をすると、もっと不便な場所にある仮設に回されるので、行政に文句は言わない・・・

 その時だった。地の底からわきあがるような音。サイレンだ。うなりはゆっくりキーを上げながら、街を包み込んでいく。午後2時46分。あの地震からちょうど6ヵ月。祈りの1分間が始まったのだ。

 耳を圧迫する高音。建物の中にも音が充満する。会話が途切れた。視線のやり場に迷う。とりあえず外を見る。ワゴンが1台、ビルの前に停まった。若い男性が3人。車を降りて、それぞれに街の方に向き直ると、そのまま動かなかった。3人とも、一言もしゃべらなかった。

 長い長い1分間。黙とうすべきか、否か。隣の男性の顔をこっそりうかがう。目は閉じていない。ただ黙って立っている。このおれに、黙とうする資格があるのか。それとも黙とうに資格などいらないのか。迷いながら、祈る人々の背中を見ていた。


 フェードアウトするサイレン。3秒、5秒、10秒。沈黙が続く。言葉を探す。見つからない。

 「半年経ちましたね。どんな感じですか」
 「・・・・・・」
 こんな問いかけしかできない。情けない。もどかしい。これじゃ、答えようがない。それは自分でもわかっている。

 「たとえば、今半年ですけど、これから釜石はこうなってほしいとか、こうなるべきだとか、そういう思いみたいなものはありますか」。しどろもどろの質問。でもいくらか具体的になった。かろうじてそこからまた、会話が始まった。

 釜石の街は大きく変わるだろう。これからは線路の向こう側が街の中心になるのではないか、と男性は言った。この辺りの家はことごとく被害を受けて、ほとんどの住民が出て行ってしまった。沿岸部がかつての賑わいを取り戻すことはないと思う。その口調には、あきらめと確信、両方のニュアンスがあった。聞けば男性、まさにこの浜町の出身ということだった。

 かつての賑わいの「かつて」とはいつのことだろう。もしかしたらそれは何十年も昔のことで、あの商店街や、この漁師町がある沿岸部は、もうとうに中心市街地の座を失っていたのかもしれない。話を聞きながら、母の故郷である新居浜のことをまた思い出していた。

 別子銅山とともに発展した愛媛県新居浜市。閉山により住友の企業城下町という街のカラーが薄れ、かつての中心市街地は急速に寂れていった。デパートは撤退する。バス路線は廃止される。代わりに増えたのは車だ。山側の国道沿いに新興住宅地が造成され、そこに全国資本の郊外型店舗が進出する。市民はこぞって車で買い物に行くようになる。かくして残ったのは、渋滞する国道と、歩く人のいない街の風景。

 釜石はどうなのだろう。この街の歩んできた姿を私は知らない。だからいい加減なことは言えない。そのことを踏まえた上でしかし、想像せざるを得ない。街の発展と衰退。何十年もかけてゆっくり進んでいた街の変化を、今回の災害が一気に速めてしまったのだとしたら。それは今まで積み上げてきた営みをゼロにしてしまったということなのか、それとも、今まで隠れていた現実が白日の下にさらされたということなのか。いずれにしても残酷な仕打ちには違いないと思う。

 「もうみんな戻ってこねえだろうな、仕事もねえし」
 男性がつぶやく。返す言葉がない。考えたところで、見つかりそうもなかった。ただ淡々と、他人事のように話す男性の口ぶりが、私には救いだった。


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2011年09月22日

傷ついた街 釜石 

 朝。買っておいたパンと缶コーヒーで朝食を済ませてから、ホテルを出る。若干肌寒い。雲が厚い。雨が心配だ。

 海に向かうにつれ、被害があらわになっていく。商店街の建物は、ことごとく1階部分ががらんどうで、外壁だけになっている。歩道の隅には泥が残り、かすかにドブのにおいがする。壁がはがれた家。骨組みがむき出しになったビル。国道45号線の高架下あたりまで来ると、ひしゃげた車の残骸が目につくようになった。ほとんどが軽自動車。空き地に数台ずつ集められている。どんな力が加わるとこうなるのか。想像がつかない。

 港に向かって左手の山の方へ。「津波避難場所」という看板に従って階段を上る。高台に出た。漁港を正面から一望できる。テレビで流れた津波の映像が脳裏に蘇る。間違いない。ここから撮られたものだ。花が供えられている。金網に立てかけるようにして。「安らかにお眠りください」。添えられたメッセージ。高知の女子高の水泳部一同とあった。盛岡で行われた高校総体の帰りに立ち寄ったとのこと。丁寧な文面から、真摯な祈りが伝わってくる。

 漁港の周辺は浜町もしくは新浜町という。古くからの漁師町らしい。こういう地勢、覚えがある。記憶の中でシンクロするのは、愛媛県の新居浜市の風景。母の実家があった街。別子銅山とともに栄えた住友の企業城下町。コンクリートで固められた工業都市の海岸の外れに、昔ながらの漁港がこんなふうに、ひっそりとある。新居浜の漁師町は沢津と言った。そこから売りに来る行商の魚屋から、祖父は新鮮な魚介類を仕入れていた。沢津の港ではキスやベラやシャコが釣れた。釣った魚を祖父が捌いて、みんなで食べた。遠い遠い、夏休みの思い出。

 そんな感傷はしかし、街に下りると即座に吹き飛んでしまう。漁港に打ち上げられたままの貨物船「亜洲欣和(ASIA SYMPHONY)」号の青い船体が、否応なしに目に入る。引き寄せられるように、そちらに向かう。巨体の迫力。近づくにつれ圧倒的になる。目視で全長約80メートル、全高約15メートル。赤い吃水部分の先端が、岸壁にがっちり食い込んでいる。写真を撮る人がいる。10分おきくらいに車がやって来る。近くに停めて、下りて何枚か撮影して、また乗り込んで。1人であったり数人連れであったり。

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 土のうを乗り越えて、港の中に入る。釣りをしている人がいる。座っていると、海鳥がよちよちと近寄ってくる。トンビがゆっくり舞っている。山からセミの声が聞こえる。のどかな日常の光景。それだけに、巨大な船の異様さが余計に際立つ。

 浜町界隈を歩く。被害が尋常でないことを思い知らされる。漁港周辺の民家はことごとく、2階部分まで窓がない。建物の海に面した方は、外枠と柱だけ。それでも建っている。これは高台からではわからない。港の敷地内の事務所とおぼしき建物は、コンクリートのバルコニー部分が引きはがされ、ぐにゃりと曲がった鉄筋が何本も突き出ていた。民家も店も事務所も、建物のほとんどに、あの赤い×印。戸口には赤い旗が掲げられている。名前と、住所と、「立会希望」という手書き文字。やっとわかった。赤い印は解体のサインなのだ。台所には床に食器が並べられ、軒先には本が山積みに置かれている。烙印を押された家には、生活の痕跡がまだ色濃く残っていた。

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 空き地で作業している人たちがいる。地区の消防団だろうか。黒いお揃いのTシャツの背中には「仲間は宝」の文字。悲愴感はなかった。汗と、笑顔があった。話を聞いてみたいと思った。でも掛ける言葉が見当たらない。

 顔を失った建物の間を、ただひたすらに、歩く。「営業中」という赤い幟が立っていた。薄暗い建物の中に、椅子がぽつんと1台。誰もいない。「カットのみ」という手書きの紙片が、壁にガムテープで貼られている。理髪店ということか。たしかに、椅子とハサミ1本あれば、商売は成り立つ。困難な状況の中で髪を切ることができるというのはどんなに有難いことだろう。ある意味で象徴的な風景だ。そう思ってカメラを取り出し、構えた時だった。

 「こらあ」
 それが自分に向けられた声だと認識するまでに、数秒を要した。建物の横の空き地に停めた車から、男性が身を乗り出しているのが目に入った。50代くらいの短髪の男性。「こちらの方ですか」。思わず呼び掛けていた。男性と一瞬、目が合ったと思った。聞こえなかったのだろうか。いや、声は届いたはずだが。無言のまま、男性は車のドアを閉めた。ばたん、と大きな音が響く。それが彼の返事のようだった。

 上気して顔がほてっているのがわかった。この場を一刻も早く逃れたかった。歩きながら、自問自答をくり返す。なぜ、とっさにあんなことを言ってしまったのか。それをきっかけに、あわよくば話ができると思ったのだ。それはしかし、あまりにナイーヴなやり方だったのではないか。

 自分はいったい、何をしているのか。平静を取り戻したところで、おのれの行為を振り返る。気づくと、平気で民家を撮っていた。許しも得ずに。他人の暮らしを覗き見していた。あるじの不在に乗じて。撮られた人がどう思うか。そんなこと、考えもしなかった。熱に浮かされたように、むき出しになった家の中に、カメラを向けていた。

 ふつうの街ならこんなことはしない。壊れているから、主がいないから、許される。そんなふうに考えていたわけではけっしてない。でも非日常の光景に慣れるにつれて、いつの間にか節度を失い、行為に歯止めがきかなくなっていたことは確かなようだった。

 日常と非日常の境界をしっかり見定めなければ。あらためて自戒する。
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2011年09月20日

傷ついた街 釜石 

 夜、釜石駅のホームに降り立つ。
 21時48分、定刻着。新花巻で新幹線から乗り換え約2時間。三陸は遠い。あらためてそう思う。雨上がりの湿った夜風がまとわりつく。不快ではない。むしろTシャツでは肌寒い。濃厚な秋の気配に身震いする。一緒に降りた数人の後について、改札口へと歩く。駅名表示板が進行方向を向いているのは、終着駅だったころの名残りか。ここから先は、宮古方面に向かう山田線。でも今、その線路は通じていない。震災で断ち切られたままだ。あすは9月11日。あの日からちょうど半年が経とうとしている。

 駅を出る。眼前に工場の敷地が広がる。煌々と輝く黄色い照明。闇の中に巨大な施設が浮かび上がる。夜空にそびえ立つ煙突が、もうもうと煙を吐き出している。

 未知の土地。地理がわからない。駅の地図で、市街地への経路を確かめる。震災による被害の状況についても、詳しく調べないまま来てしまった。街はどうなっているのか。店は開いているのか。手持ちの情報は何もない。とりあえず駅前のローソンで食料を調達してから、ホテルに向かうことにする。

 店は明るく、レジの若者はきびきびと元気だ。カップ麺もおにぎりもパンも揃っている。見慣れたコンビニの風景。少し安心する。必要以上に身構えていたのかもしれない。

 駅前の大通りを左へ。この道を行けば、中心市街地を経て港に出るらしい。カーブしながら線路をくぐる。また上る。橋を渡る。川の名は甲子川。「かっしがわ」と読む。背後から車が何台も、追い越していく。

 橋を渡ると、商店街が始まった。車は通るが、人は歩いていない。どこにでもある地方の夜のわびしさ。と、最初は思った。しかしながら、何かが違う。はっきりそう感じたのは、車が途切れた時だった。ヘッドライトの照り返しが消えた街。静寂が広がる。暗い。ちょっと暗すぎる。よく見ると、街灯がついていない。信号機も消えている。思わず立ち止まった。闇に目を凝らして、やっと気がつく。立ち並ぶ商店や民家。シャッターがない。窓もドアもない。1階部分が丸見えになっている。ことごとく、そうだった。がらんどうの店もあれば、家具や木材の切れ端などが足の踏み場もないほど散乱している店もある。ほとんどの建物の壁にはスプレーで書かれたような、赤い×印があった。

 港までは、この先まだ1キロ以上あるはず。とすれば、この道を通って津波はここまで流れてきたというのか。これはただごとではない。一度緩んだ全身の知覚が、また緊張してくるのがわかった。

 商店街の途中に、今晩の宿はあった。ホテルサンルート釜石。被災地のホテルで唯一、「じゃらん」で予約できたのが、ここだった。地方の老舗チェーンホテルらしい、堂々とした造りの建物。一見何ともないようだが、間近に見るとここもやはり無傷ではないらしい。2階部分まで工事用の白いカバーで覆われている。仮設の入り口には「負げねぞ釜石」の文字。階段を上がった2階のロビーに、会議室で使うような机が置いてあり、その奥に男性が座っていた。そこが臨時のフロントなのだった。

 2階の床まで水が来た、と受付の男性は言った。ボイラーが水に浸かったので、冷暖房は使えない。それでもホテルは6月に営業を再開した。ボランティアや自衛隊の人たちも泊まった。7月にやっとお湯が出るようになった。津波はやはり商店街の道を流れて駅の方まで達したらしい。それどころか、川からもさかのぼり、甲子川の河原は流されてきた車でいっぱいになったという。

 水もお湯も出る有難さを感じながら、カップ麺を食べ、シャワーを浴びた。多少の不自由があるにせよ、被災地にこうやって普通に泊まることができている。それは不思議な感覚だった。テレビからはキー局のバラエティ番組の賑やかな笑い声。日常と非日常の境がわからなくて、くらくらするようだった。番組はつまらないわけではなかったが、素直に笑う気にもなれなかった。

 午前0時すぎ、ベッドに入る。部屋の明かりを消すと、窓の外からかすかに、人々の笑い声が聞こえた。酔客だろうか。そういえばきょう、9月11日は日曜日。週末の夜なのであった。
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2011年04月07日

灯の消えた街

 歩いても歩いても、生暖かさがまとわりつく。金属とゴムのまじりあったようなにおいがよどんで、地下鉄の駅はひどく蒸し暑かった。案内板の照明が消えている。壁にはめこまれた広告の明かりもついていない。構内は全体的に薄暗く、なんとなく足元がおぼつかない。行き来する勤め帰りのサラリーマンの装いが、いつもより沈んで見えた。
 階段を下りて、渋谷方面行きホームで電車を待つ。肌着がじっとり濡れて、ベンチに座る気にもなれない。コートのジッパーを下ろし、額の汗を拭う。この蒸し暑さといい、光の感じといい、なんだか、東南アジアのどこかの街にいるみたいだ。
 「節電のため運行本数を減らしています」と書かれた紙が、時刻表の上から張られている。ここは本当に東京なのか。いよいよあやしくなってくる。次の列車が何時何分に来るのかわからない。この首都の大動脈で、そういうことは普通なら許されないだろう。やはり今は非常時なのだ。
 接近を告げる表示板が右から左に点滅して、電車がもうすぐやってくることを知らせる。ラッシュはピークを過ぎているとはいえ、それなりに人は並んでいる。電車はほどなくホームに入ってきて、浅草方面からの乗客を吐き出した。
 列の一番後ろから乗り込み、いつものようにドア横に居場所を確保する。電車が走り出す。軌道の明かりが、白い軌跡となって流れていく。目の前のガラスに映る自分の顔と、一瞬目が合った。まったく俺は、何をやっているんだろう。この大変な時期に。用もなく街をうろついたりして。
 河出文庫の「久生十蘭ジュラネスク」を取り出し、読みかけのページを開いてみたが、一向に読書に集中できそうにない。感情をかき乱すのは、テレビのニュースで見た、あの犬の顔だ。
 気仙沼の沖合で漂流していたところを保護されたという犬。茶色い、たしか雑種の雌だった。抱かれてタオルにくるまれ、こちらをじっと見据えていた。その目が、脳裏に焼きついて離れない。おびえているのか、安堵しているのか。喜怒哀楽のいずれにもおさまらない表情。いったい何を見たのだろう。何事かを懸命に訴えようとしているようにも見えた。
 次は日本橋。アナウンスを聞いてわれに返る。そろそろだ。読みもせず開いていただけの文庫本を、かばんにしまいかけたときだった。
 空気が動いている。ふと、そんな気がした。空調ではない。冷房は切られているはずだ。扇風機はもともと付いていない。でもそういえばたしかに、駅の構内よりは過ごしやすく感じる。たしかに風が流れている。注意しなければわからないほど微かだが。
 電車が減速を始めた。犬をひとまず頭から追い出し、車内を見回す。さっきより空いている。座っている人の方が多い。疲れた顔の勤め人たち。みんな自分の世界に没頭している。黙り込んでうつむく男たち、女たち。居並ぶ頭、頭。それは真っ黒な車窓を背景にして・・・
 わかった。窓が開いているのだ。車両のところどころ、上の部分が20センチほど下げられている。それは初めて見る光景だった。地下鉄の車両って、窓が開くんだ。この発見を誰かに知らせたいと思った。メールを出そうか。鉄道好きの友人の顔が浮かんだ。でもすぐ思い直して、やめる。それほど驚くことではないのかもしれない。乗客たちは相変わらず携帯端末の画面を見つめているし、車内アナウンスはいつもの清楚な声で駅名を告げるだけだ。窓に気を留める人など、誰もいない。
 銀座駅で降り、4丁目交差点への出口から地上に出る。階段を上がるにつれて空気がだんだん冷たくなる。今はまだ4月の初めなのだ。久しぶりに思い出した。
 4丁目からまっすぐ、京橋方面を見通す。「灯の消えた街」。どこかで聞いたような、そんな言葉を思い出した。比喩ではない。それは現実に、この目の前に広がっている。ネオンサインが消えている。RICOHもHaierも、INAXの看板も、そこにあるはずものが、見えなかった。この光景を誰かに知らせたい。メールで写真を送ろうか。でも誰に? 今度は相手が思い浮かばない。
 信号が青になる。和光のビルの方へ、交差点を渡る。とにかく明かりがついていない。どの店も。街灯だけが点々と弱々しく輝いている。その青白い光が、街はいっそう暗くしているように見えた。百貨店ばかりでなく、キムラヤも山野楽器も閉まっている。閉店時間を早めているのだろう。ブティックのショーウインドーも、ことごとく消されている。
 それでも人は歩いていた。カップルが、同僚たちが、連れ立っておしゃべりしている。車も走っている。非日常の風景のなかで、日常の営為が続けられている。それが救いに感じられた。
 闇に溶け込む人々の輪郭。山野楽器を通り過ぎると、闇は深さを増した。すれ違う人々の顔が見えない。ちょうど建物の1階部分、地面から2〜3メートルのあたりが特に暗いのだ。声だけが聞こえてくる。それにしても、この静けさは何だろう。光の量と街の喧騒は反比例するのだろうか。
 京橋との境、高速道路の下まで来て、交番横の喫煙所に立ち寄る。高架をくぐればもう千代田区。もちろん路上喫煙禁止だ。だからいつも、ここで一服することにしている。
 向かいの高架下が、いつの間にか紳士服の量販店になっている。あそこには以前、何があっただろうか。考えてみたが、どうしても思い出せなかった。こうしている間にも、街は刻々と変貌しつつあるのだ。完全に置いて行かれている。
 会社員らしい、若いグループが目の前を歩いていく。仕事帰りに和光の前で待ち合わせして、銀座をぶらぶらする。学生の頃、そんなサラリーマン生活を漠然と思い描いていた。椎名誠の読み過ぎだったかもしれない。そうだとしても、自分の中ではひとつの理想として、そういうイメージがあった。理想は理想のまま終わるんだろうな。あらためてそう思うと、なんだかやりきれない。
「君たち、今の暮らしは楽しいかい」
 駆け寄って訊ねてみたら、彼らはどんな顔をするだろう。何と答えるだろう。
「おまえはいったい、何をしたいのだ」
 返す刀でそう問われたら困るので、訊ねるのはやめにした。指先の煙草が、ほとんどフィルターだけになっている。さてと。行くとするか。10時が近い。そろそろ急がねば。ノスタルジックな妄想を頭の中から追い出し、歩き出す。
 高架をくぐって千代田区に入ると、街の暗さはさらに際立った。歩く人もまばらになった道を、急ぎ足で東京駅に向かう。
 一つ目の交差点の信号が赤になっている。歩調をゆるめたその時だった。歩道の左手の角から、犬を連れた人影が現れた。シルエットからすると、年配の女性らしい。薄手のジャンパーが街灯にほの白く浮かび上がる。その少し後をよちよちとついていくのは、足の短い中型犬だ。大小の影はつかず離れず、ゆっくりゆっくり目の前を横切っていく。
 あの目がまた、頭の中によみがえってくる。気仙沼の冷たい海の上で、何日も耐えていたという漂流犬。ふるえながら何かを訴えていたあの犬にもきっと、このように飼い主と散歩したりする日々があったに違いない。言葉にならない体験を経て、再びそんな日常を取り戻す日はやってくるだろうか。あの日の前、遠い東北の街で営まれていた暮らしのなにげない風景。寄り添いながら遠ざかっていく2つの影に重ねながら、そのありさまを思い浮かべた。
 
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2011年03月26日

できること、できないこと

 震災発生から2週間が過ぎた。
 発表される死者・行方不明者の数は2万7000人を超えた。依然として20万人以上が避難生活を送っている。
 被災地の暮らしは、まだまだ厳しいようだ。
 報道によれば、人や物の流れが徐々につながり、物資は行き渡り始めているという。各自治体にボランティアセンターが開設され、支援の動きが機能しつつある。津波に破壊された街では、仮設住宅の建設も始まった。
 その一方で、新たな問題も次々に起きている。収容される遺体があまりに多く、荼毘に付すことができない(自治体が特例で埋葬を許可した)。散乱するがれきの所有権を確定できず、撤去が思うように進まない(財産権を消失したとみなす運用指針を政府が出した)。水や食料が届くようになった避難所だが、洗濯ができず、風呂にも入れない状況は今も変わらず、衛生環境の悪化が懸念されている。そんな状態が続く中、施設の都合で移転を余儀なくされる避難者もいる。
 避難生活の長期化は避けられないようだ。非日常的な事態がそのまま固定化する。がれきの中で営まれる日常生活。災害を生きのびた人々がとりあえず命の心配を免れた後に直面しなければならない現実とは、どのようなものなのか。そんなことを考えながらメディアの報道を見ていて、いくつか気になるニュースがあった。

 
 津波被害を受けた若林区では、住民の避難により不在になった住宅で家財道具などが盗まれる被害が後を絶たないため、避難所で暮らす約20人が自警団を結成して街のパトロールを始めた。(NHK、25日)

 給油に500台が並ぶこともあるという釜石市のガソリンスタンドでは、客による従業員や施設への暴力行為が起きている。市は災害対策本部などに「給油時にはマナーを守って」と呼びかける張り紙を掲示した。「襟首をつかまれた」「石を投げ込まれた」などとする店の訴えが相次いでいるという。(共同通信、24日)
 
 石巻市では、被災店舗を狙う窃盗が増えているとして、企業や店が対策に乗り出している。警備会社に24時間警備を依頼する家電量販店や、入り口に鉄板のバリケードを設置する銀行支店、自分の所在を知らせる張り紙で犯罪を抑止しようとする居酒屋店主もいる。宮城県警によれば、震災後10日間の110番件数は平常時の2.6倍、店を荒らす窃盗の件数は3倍になっているという。(時事通信、24日)

 7道府県警が制服警察官120人を岩手、福島に派遣した。「制服警官を見ると安心する」という避難住民の声があり、派遣には治安維持だけでなく、市民の不安を和らげる狙いがあるという。(共同通信、24日)

 「気仙沼信金4000万円盗難 津波で店内浸水」(毎日新聞、23日統合版朝刊)     
 「自宅失った男性、飛び降り自殺か 岩手・山田」(同)


 被災地で今、何が起こっているのか。そこでの暮らしがどのようなものか。人々が何を思い、感じているのか。今のところはニュースを通じて知り、想像するしかない。被害地域はあまりに広く、被災者はあまりに多い。確かなことは、何事においても、一概には言えないということだ。
 テレビで悲しむ人の姿を見れば、同情する。力になりたいと思う。新聞で笑顔の写真を見れば、救われる気もする。励ましたいとも思う。それは人として自然な感情の発露だ。しかしながら一方で、そのようなナイーヴで一時的な感情は、胸の内に静かにとどめておかなければいけない気もする。
 自分はやはり部外者なのだ。当事者ではない。関係者でもない。そんな私にできることといえば、彼らと自分の立場の違いをわきまえながら、持てる感受性を総動員して想像してみること。それから、祈ること。その上でなお、できることがあればやってみる。結局のところ、そのくらいなのだろう。
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2011年03月24日

報われぬ春

 静岡で桜が開花した。甲子園ではセンバツが開幕した。気がつけば、そんな季節である。
 あれほど待ちわびた春。それがもうすぐやって来るのだ。そう言い聞かせてみるのだが、心は立ち止まったままで、一向に湧き立つものがない。日々、やること、なすこと、見るもの、何もかもが、どこか虚しい。「無常」という言葉の響きだけが確固たる実体を伴って、胸の奥にいつまでも渦巻いている。
 規制値を超す放射性物質が検出されたとして、福島県産の野菜11品目について政府が摂取制限および出荷停止を求める指示を出した。出荷停止は、福島産の原乳や、北関東3県のホウレンソウなどにも及び、これらの品物が店頭から消えた。さらに東京都の水道水からも放射性ヨウ素が見つかり、都は乳児の飲用を控えるよう呼びかけた。その結果、東京ではペットボトルの水を求めて、母親らが奔走し、売り切れになる店が続出した。
 丹精こめて育てた野菜や家畜。地道な労働の成果を無駄にすることを余儀なくされた農家の落胆ははかり知れない。農業という地域の産業そのものが存亡の瀬戸際にある。それは補償で解決する問題ではないだろう。その一方で、買い控えや買いだめをする消費者は、批判されようと、後ろめたさを感じようと、子を守る親であってみれば、それは当然の選択であるとも言える。
 やり場のない怒りや悲しみ。際限なく広がる戸惑いと不安。生きることに必死であればあるほど、人々の溝が深まっていく。震災や原発事故がこのようなかたちで日々の暮らしをさいなむことを、誰が予想しただろうか。
 つい一月前までの、あの平穏な日常はもう失われてしまった。いつどこで何が起こってもおかしくない状況で、みんなが神経をすり減らしている。当たり前の生活を取り戻すために、何を、どうすればいいのか。誰に頼るでもなく、誰のせいにするでもなく、一人ひとりが自らの責任において考え、模索していかなければならない。
 「無常」とは絶望であり、希望である。一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、一定のままではないという。幸福はいつかは不幸に転じ、不幸はいつかは幸福に転ずるということだ。先の見えぬトンネルの中を、今はみんなで、着実に一歩一歩、進んでいくしかないのだろう。暗闇の先に光あることを信じて。
posted by Dandelion at 11:03| 長野 ☁| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月19日

戻らない時間

あの日から1週間が過ぎた。

死者・行方不明者1万7000人以上。
1万人以上が今なお被災地に孤立し、救助を待っている。
約2100ヵ所の避難所で38万人が不便な生活を強いられている。

この1週間で、いろんなことがわかった。

津波の凄惨さ。
水が街を破壊する。
映像で、その恐るべき力の一端を知ることができた。
記録を残した被災者に感謝しなければならない。

首都圏の帰宅難民。
列車が止まると、サラリーマンは家に帰れない。
都庁で一夜を明かす人がいた。歩いて帰ろうとする人もいた。
そんなことが現実になるとは。
直下型地震でなくても、東京は大混乱した。

避難生活の厳しさ。
電話も鉄道も道路も寸断される。
ガソリンや灯油が底をつく。
燃料が足りないと、身動きが取れない。
寒波が、厳しい暮らしに追い打ちをかける。
食事も風呂もトイレも、ままならない。
そんな状況で、連絡が取れない家族を探し続ける人々。
生きているのか、死んでいるのか。
わかるのは、連絡が取れないということだけ。
そんな別れ方が、あっていいものだろうか。
被災者の無念は、はかり知れない。
避難所で亡くなる人もいる。
津波を逃れたからといって、助かったことにはならない。
特に、病人やお年寄りにとっては。

物流のたよりなさ。
救援物資が末端まで届かない。
ガソリンがない、ルートがない。
送るだけではだめだということ。
システムを構築しなければならない。

電気のありがたさ。
東京電力が史上初の計画停電を実施した。
原発が止まると、直ちに電力が不足する。
暮らしを支える基盤の、このもろさ。
日本人の「豊かな生活」とは、その程度のものだったのだ。

原発の不可思議。
それにしても、知識がなさ過ぎた。
福島原発が今どうなっているのか。
これからどうなるのか。
東電も保安院も、よくわからないという。
専門家にわからないものが、市民に理解できるわけがない。
安全という言葉を疑わず、仕組みもよく知ろうとしないままに、ただその恩恵を享受してきた自分は、今回の事態に対して何を言えるのだろうか。

不気味な緊急地震速報。
宮城、長野、茨城、静岡・・・
震源はいたるところに飛び火する。
人間をあざ笑うかのように、自然は気まぐれだ。
あのチャイム、赤と青の画面表示、同時に鳴り出す携帯。
今でも速報が流れるたびに、身の縮む思いがする。

要するに、他人事ではないということだ。

仕事を終えた深夜、パンを買おうと近くのコンビニに行ったら、棚が空になっていた。
被災地への商品供給を優先していると断り書きがあった。
店員によれば、発注しても全部入荷するかわからないという。
食品、防災用品、ガソリン。
消費者による買い占めも報じられた。
日常生活のレベルに直接、影響が及んでいる。

長野でも、マックやファミレスは深夜営業をやめた。
東京では、映画館も寄席も、夜は休業だという。
深夜に働く人は困っているだろうと思う。
誰もが、どこにいても、無縁ではいられない。

一人ひとりが自らに直接かかわることとして、この出来事を考える必要がある。
私たちは、行動しなければならない。
同情している場合ではないのだ。

あの日、3月11日を境に、世界が変わった気がする。
それ以前に何をしていたのか、何を考えていたのか。
何だか遠い昔の記憶をたどるようで、よく思い出せない。
時間は断ち切られてしまったのだろうか。

とりあえず義援金を送った。
ネットで寄付ができることを初めて知った。
自分なりに考えて、いろいろある窓口を選び、金額を考えた。

私にできることは何か。
自問の日々はこれからも続く。


posted by Dandelion at 07:57| 長野 ☀| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月15日

届かない手

日に日に明らかになる被害の全容。

刻一刻と増す新たな災害への不安。

じりじりする。

もやもやする。



親が、子が、夫が、妻が、

普通の家族が、人目も憚らずに泣いている。

おじいさんが、おばあさんが、一生懸命に体験を語ってくれる。

突如剥き出しになった生と死。

跡形もなくなった故郷の街で、耐えしのんでいる人々の姿。

見ていて胸が張り裂けそうだ。



諸外国が続々と、援助の手を差しのべてくれている。

つい先日旅をして知り合った台湾の人から、お見舞いのメールをいただいた。

海外からのメールなんて、人生で初めてだ。

ただただ、ありがたい。

外国出身の被災者だって、かなり多いに違いない。

日本の国民として、どれだけ感謝しても足りない。



「食べ物を」「水を」「電気を」「情報を」

声は届いて来るのに、こちらからは何も届けることができない。

釜石市では、泥に埋まった倉庫を掘り返して、被災者たちは食料を現地調達しているという(食品会社側が提供を決めた)。(共同通信配信記事、15日付紙面)

こんなことがあっていいはずがない。

でもこれが現実。



今は自分に与えられた責務を全力で果たそう。

自分の仕事が、何かしらの助けにつながることを信じて。

この出来事を、できるだけ多くの人に伝えること。

そのために少しでも役立つことができれば。

休みなんてなくてもいい。

就職して初めて、そう思った。



役に立ちたいと思う人は多いはず。

一人ひとりのそういう意思を、もっとうまく活かす仕組みはできないものか。

何か方法はあるはずだ。

posted by Dandelion at 06:44| 長野 ☁| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

眠れない夜

東北・関東大地震。
職場のテレビで被災地の様子を見ていた。
津波が、家や田畑をのみこんでいく。
炎で赤く染まる夜の街。
胸がいっぱいになった。
何もできない。ただ見ているしかない。

きょう未明にはなぜか長野と新潟も揺れ始めた。
新潟県境の栄村で震度6強。
気象庁によると、きのうとは別の地震だということだ。
長野市内の揺れは大きくなかった。
「緊急地震速報」が5回も流れた(午前6時現在)。
テレビと携帯メールが、さっきから鳴り響いている。
その度にビクッと、身がすくむ。

どうなってしまうのだろうか。
とりあえず眠らなければ。

被災地の方々、どうかご無事で。
祈るばかりだ。
posted by Dandelion at 06:07| 長野 ☁| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする