2017年10月29日

草津温泉、もう一つの歴史 〜重監房資料館を訪ねて

草津温泉で有名な群馬県草津町には、国立のハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」がある。標高約1100メートル、総面積約73万平方メートル。尾根を切り開いた広大な敷地に居住棟や診療施設などが建ち並び、今も約80人の元患者が暮らす。1932年創設のこの療養所には、戦前から戦後にかけて「重監房」という建物があった。反抗的とされた入所者が監禁され、23人が死に追い込まれたという、全国で唯一の懲罰施設。療養所の広大な敷地の一角に建つ「重監房資料館」では、その重監房の一部を実物大で復元し、医療の名の下に国家が行った人権侵害の実態を伝えている。

温泉街中心部のバスターミナルから歩くこと約40分。国道から静かな林道に入り、しばらく歩いた先に、その資料館はあった。レンガ風の壁の、こぎれいな建物。あたりに人の姿はない。開いているのだろうか・・・私はいささかの不安を覚えた。そもそもここは療養所の敷地なのだ。勝手に入ってきて良かったのだろうか。

入り口から中をうかがう。事務室の奥に、座っている人がいる。「見学したいんですが」と告げると、初老の男性が出てきた。入館無料とのこと。受付で名前を書くと、男性は「こちらへどうぞ」と先に立って歩き出す。案内されたのは、学校の視聴覚室のような部屋だった。「まずこれを見てから、展示を自由にご覧ください」。そう言うと男性は明かりを消し、扉を閉めて行ってしまった。

資料館ができたのは2014年4月。らい予防法廃止(1996年)と、国の強制隔離政策の責任を認めた国家賠償請求訴訟熊本地裁判決(2001年)の後、重監房の復元を求める元患者らの要求を受けて、厚生労働省が開設した。1938年に設置された「重監房」には、全国の療養所から反抗的とされた入所者らが送り込まれ、暖房もなく食事もろくに与えられない過酷な環境に置かれた。47年に廃止されるまでの間に延べ93人の患者が収監され、うち23人が亡くなったとされるが、十分な調査もされないまま取り壊されたため、詳細な事実は未だ定かではない。2013年には、基礎部分だけ残る重監房の発掘調査が行われ、資料館にはそこで出土した南京錠や食器、眼鏡なども展示されている。

その部屋で見たのは、15分ほどの啓発番組だった。ハンセン病の概要や強制隔離の歴史、重監房ができた経緯などが関係者の証言を交えてまとめられていた。国の政策が誤りだったという視点から番組は作られ、私はこの問題に対する国の姿勢というものを明確に感じ取ることができた。

教室を出ると、館内はやはりひっそりしている。私は順路に沿って、第1展示室に向かった。収監者の記録を紹介するパネルには、氏名、収監時期や理由、死亡者はその年月日などが記されていた。収監理由は「無断外出」「飲酒喧嘩」「浮浪」「逃走癖」「本妙寺部落役員」「園内不穏分子」など、さまざま。収監は療養所長の権限だったということだが、それがいかに恣意的に行使されていたかが分かる。氏名の一部は「□山□男」というように伏せ字になっていて、「収監者の尊厳を守るため」という断り書きがあった。負の歴史を伝えるための展示が、なぜ匿名なのか。私には解せなかった。国の事業の限界だろうか。

展示室の奥には、重監房の一部が実物大で復元されていた。灰色のコンクリートの壁に、分厚い扉の入り口には「特別病室」の表札が掲げられている。内部の通路と独房はやはり壁で仕切られ、中に入ると建物の全容は分からない。記録によれば、独房は全部で八つ。医務室もあったが、医療が行われた形跡はないという。通路から身をかがめて、壁のくぐり戸を抜ける。そこが独房の区画だった。

4畳半ほどの板敷きの独房。覗き込むと、薄い布団が敷かれ、人形が座っている。入所者の証言によれば、冬は氷点下20度近くにもなり、積雪も深かったが、暖房も電気もなかったという。明かりといえば、壁の上部に開いた縦約10センチ、横約70センチの穴から差し込む光だけ。床と壁の間には、小さな食事の差し入れ口がある。食事は1日2回で、わずかな麦飯と梅干し、具のないみそ汁といった程度。2ヵ月と定められた期間を超えて収監された人も多く、記録によれば14人が「獄死」、8人が病気のため「出獄」後1年以内に死亡したという。

続いて、第2展示室へ。強制隔離と療養所の歴史をまとめたパネルとともに、4年前の発掘調査で出土した南京錠、眼鏡、椀などが並んでいた。丸い縁の眼鏡は、片方の柄が折れている。ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長で、栗生楽泉園の自治会副会長でもあった詩人の谺(こだま)雄二さんは、重監房を「日本のアウシュビッツ」と呼んだ。国家が法の名の下に個人の存在を否定し、抹消する。それは世界史の中の事実ではなく、自分がその一員である、この日本という国が積極的に推し進めた政策でもあったのだ。

重監房は1947年8月、参院選補欠選挙の活動で日本共産党員が栗生楽泉園を訪れたことをきっかけに、その存在が明るみに出る。入所者自治会が重監房撤廃と職員の不正を訴え、それを新聞が報道、国会は議員調査団を楽泉園に派遣した。そしてその数ヵ月後、重監房は廃止、一部の職員が休職や懲戒免職になった。

第2展示室では、その議員調査団の視察を伝えるニュース映像を見ることができる。「日本ニュース 戦後編第91号 『楽泉園の実状 群馬』」というタイトルのモノクロ映像には、重監房の外観や独房内部の様子が映っている。これが重監房の姿を知ることができる唯一の記録ということだ。

議員調査団訪問の6年後、重監房は突然取り壊される。入所者には何も知らされなかったという。それが戦後の話、「基本的人権」をうたう日本国憲法が施行された後の出来事であることに、私は愕然とする。戦争が終わっても、隔離政策を定めた法の規定は残った。そして、重監房の建物やその公的記録は残らなかった。議員調査団の「調査」とは一体、何だったのか。釈然としない思いは消えなかった。

ところで、その重監房はどこにあったのだろう。事務室で尋ねると、さきほどの初老の男性がA4版1枚のマップをくれた。重監房の遺構は療養所西端の正門の近くにあり、そこまで敷地の中を歩いて行けるという。療養所の東端にある資料館から敷地の外周に沿う形で見学コースが設けられていて、一般の人が園内の史跡を見学しながらたどれる、ということだ。私はマップを手に、そのコースを歩いてみることにした。

まず、資料館の隣の納骨堂を見学する。東屋に箱入りの線香が置いてあり、1本取ってお供えする。資料によれば、2006年までにこの療養所で亡くなった入所者は2003人。うち納骨堂に納められている遺骨は1192柱。納められていない遺骨のうち遺族に引き取られたものはごくわずかで、多くは納骨堂が建てられる前に誰のものか分からなくなってしまったという。病気というだけで家族や社会との縁を切られた入所者たち。亡くなっても、その縁が戻ることはなかったのだ。

案内板に従って、先へ進む。居住区域は立ち入り禁止ということだが、道のすぐ脇には赤い屋根の長屋が並んでいる。窓も庭も丸見えで、庭の手入れをしているお年寄りらしき人の姿もあった。マップには「入所者に話しかけないでください」と書いてある。こんなところをほんとに歩いていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。私は少し気後れしながら、居住区域の方を見ないようにして先を急いだ。

道は林の中に入る。午後3時すぎだが、日は傾き、風は冷たい。上ったり下ったり、起伏が激しくなる。木々の中に、火葬場跡の供養碑があった。1964年まで、ここで入所者の火葬が入所者の手で行われていたという。さらに進むと、宗教団体の施設が続く。天理教会堂、日蓮宗妙法会、浄土真宗大谷光明寮、創価学会の会館。死んでも社会には戻れない。そんな絶望的な不条理を、宗教は入所者に対して、どのように説明したのだろう。

「松の湯」という共同浴場の建物があった。案内板の説明によると、療養所で温泉が引いてあるのは全国でも栗生楽泉園だけという。温泉は開所時に引かれ、今も7ヵ所の共同浴場がある。この松の湯は入所者減少のため3年前に閉鎖された、とのこと。1945年度に1313人いた入所者は、2016年度には79人。歴史を知る人が年々減っていく。

見学コースのほぼ中間点にある社会交流会館には、草津温泉にかつてあった湯之沢集落についての展示があった。湯之沢は、世界的にも珍しいとされるハンセン病患者の自治区。湯之沢の存在は、栗生楽泉園の沿革に深く関わる。なぜ草津のような有名な温泉地に、ハンセン病療養所があるのか。ここに来る前から漠然とあった疑問が、徐々に解けていく。私は夢中になってパネルの年表を読み続けた。

・・・明治時代初め、草津温泉はハンセン病に効能があるとされ、多くの患者が湯治に訪れた。明治中期になると、温泉を近代的な保養地として発展させようという動きが地元に強まり、患者たちは当時温泉地の外れにあった湯之沢という荒地への移転を命じられる。患者たちは反発したが、一般客に気兼ねなく療養できる居住地の建設に希望を見出して定住する人も増え、やがて湯之沢には患者やその家族らが営む旅館や商店が建ち並ぶようになった。1902年、湯之沢は草津町の行政区の一つとなる。区長が置かれ、消防や青年団などの組織もでき、町会議員も選出された。定住者の職業は、飲食業や呉服屋、鍛冶屋、大工、左官など多岐にわたったという。1916年、イギリス聖公会の宣教師として来日したコンウォール・リー女史が湯之沢に移住し、患者の救済活動を始める。教会や病院、幼稚園、小学校、患者が暮らすホームなどができ、湯之沢はハンセン病者の自由の別天地として発展していく・・・

そんな湯之沢の歴史にとって、転換点となったのが1931年。「癩(らい)予防法」の成立だ。公衆衛生の観点からすべてのハンセン病患者を強制隔離することを定めたこの法律に基づき、国は患者の収容先として各地に療養所を開設する。その一つである栗生楽泉園の目的は、湯之沢地区の解体と住民の受け入れだった。つまり、湯之沢という集落があったからこそ、草津に療養所がつくられた。そういうことだったのだ。

興味深いのは、湯之沢の人たちの療養所への移転が必ずしも強権的に行われたわけではないことだ。移転を迫る群馬県に対し、住民は少しでも有利な補償を得るために条件闘争をした。年表の説明から解釈する限りでは、県は警察による強制力を発動していない。住民側は代表を立てて行政と対等に交渉を重ねた、というふうに読める。事実だとすると、それはおそらく、湯之沢が正式な行政区だったからだろう。戦前の大日本帝国憲法の下、この山間部の温泉地に、住民自治が機能していた、というのは言い過ぎだろうか。

・・・1941年、湯之沢の住民はついに療養所への移転を受け入れ、群馬県知事と移転に関する覚書を交わす。県は移転命令を発し、湯之沢区は解散。翌年末までに湯之沢のすべての患者の移転が完了し、国内唯一のハンセン病者自治区は55年にわたる歴史の幕を閉じることになった・・・

国家によるハンセン病患者の強制隔離。思えば、私はその歴史的経緯について、何一つ知らなかった。隔離政策の以前、患者たちがどのように暮らしていたのか。草津の温泉街には、患者たちの自治が認められた地区があった。そしてその患者たちが団結して、権力と対峙した。ここで知った歴史には、「差別」という言葉で一括りにできない奥深さがあるように思える。歴史をイメージで捉えるだけで、何も見ず、疑問も持たず、知ろうともしない。それもまた、一つの偏見なのではないか。

資料館でもらった冊子には、社会交流会館に最近配属されたという常勤の学芸員が写真入りで紹介されている。話を聞いてみようと思ったが、会館の事務室にいる男性は別人のようだった。閉館時間も迫っていて、今日のところはこのまま帰るしかなさそうだった。

建物を出ると夕日が眩しかった。マップによると、ここからさらに南側には下地区というエリアがあるが、そこに向かう道は立ち入り禁止になっている。「自由地区」とも呼ばれる下地区は、戸建て住宅が並ぶ居住区。湯之沢集落には資産を持つ患者もいて、国は入所の際に自費で家を建てて健康な介添人(家族など)と一緒に暮らすことを認めたという。このような自由地区は、他の国立療養所には例がないといい、おそらく湯之沢の人たちが勝ち取った条件の一つなのだろう。正確なところは調べないと分からないが。

敷地の西の端に沿って歩く。舗装路だが、ずっと上り坂だ。病棟や事務本館がある。大学のキャンパスのようだ。時折、車が通るが、相変わらず歩いている人とは出会わない。15分ほどで正門への上り道に出る。その途中に、案内板が立っていた。林の中のぬかるんだ道に入る。50メートルほど先に、「重監房跡」と記された石の記念碑があった。

東西約23.6メートル、南北約15.5メートル。林の中にぽっかり空いた敷地は、柵で囲われている。桝目のようなコンクリートの基礎が残る遺構は、きれいに整地されていた。少し上がった「展望所」から全景を見渡す。高さ10メートルを超す木々の枝葉は鬱蒼として、薄暗い。目の前の景色に、資料館に再現されていた建物を重ね合わせてみる。うまくイメージすることができない。もどかしい。

私は東日本大震災の被災地で見た景色を思い出す。津波で流された建物の基礎だけが残る街。悲惨な景色であることは分かっていても、心の底から悲しみは湧いてこない。私は、建物があった街の姿を知らなかった。だから、失われたものがどれだけ膨大なのか、本当のところ実感できなかった。あの時のもどかしさに似ていると思った。

病気を罪とみなし、患者を社会から追放する。隔離し、なかったことにする。医療従事者が、患者に懲罰を与える。それは常軌を逸した蛮行ではなく、法に基づく行政の手続きだった。そしてその法は、ほんの20年前まで存続していた。なぜそんなことが許されたのか。患者と一部の人以外は、なぜそれが間違っていると声を上げなかったのか。

それは要するに、事実を知らなかったからだ、と私は思う。あるいはうすうす知っていながら、その事実に触れようとしなかった。知らないことは、ないことも同じ。触れようとしないことは、変わらない。現実に目を背け、ただ無関心に、絶対悪を許容してきた。隔離されていたのは、患者だけではない。一般社会の側もまた現実から隔離されていたのだ。

温泉街への帰り道もまた、上り坂である。たった4キロ、されど4キロ。入所者にとって、故郷ともいえる湯之沢までのその距離は、どんな意味を持ったのだろう。国により、なかったことにされてしまったハンセン病患者の日常。そこには実は、悲惨さや不条理だけでは語れない、多様で豊かな人々の営みが息づいていた。悲しみとともにあったはずの喜び、絶望とともにあったはずの希望。イメージにとらわれずに理解するには、何が必要なのか。今日一日見聞きしたことを思い浮かべながら、私は薄暮の道を歩き続けた。



posted by Dandelion at 08:32| 長野 ☁| Comment(0) | 関東・甲信越の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

ミッドナイトラントレ日記360 「ひと区切り」

立ち寄った24時間営業の西友で、お相撲さんと遭遇。
そういえば、長野場所というのが今週末にあるとテレビCMで見た。
レジで一緒に並んだけども、僕より背が低いその若い力士は、
きちんとまげを結って着物姿、大きなペットボトルの水を買っていた。
それにしても午前1時に、なぜ。

レース出場はひと区切り。
なぜ走るのか、これからまたしばらくは、自問自答の日々が続く。

8.480km
7分51秒/km
1時間6分34秒
632kcal
posted by Dandelion at 04:20| 長野 ☔| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

芝生、ほのぼの、古戦場マラソン

上田古戦場ハーフマラソン、なにげに3年連続の出場である。
松本マラソンから2週連続の出場、おまけに前日は夜中まで仕事、それに暑さもあって、
スタートから足がだるく、ほぼ10キロで切れてしまった。
それでもゴールの県営上田野球場にたどり着き、グラウンドに大の字に寝転がってみると、
ことしも来てよかった、と思える自分がいた。

地元ランニングクラブの子どもたちが、きゃっきゃと走り回っている。
完走したお父さんを、小さな子とお母さんがねぎらっている。
運営する高校の陸上部の生徒たちは一生懸命で、楽しげだ。
そして緑の芝生と、青い空。

この感じがいいんだな、やっぱり。
posted by Dandelion at 05:12| 長野 ☁| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

ミッドナイトラントレ日記359 「それなりの松本マラソン」

上ってるっちゃ上ってるし、平坦っちゃ平坦っていう微妙な坂も、積み重なれば高低差100mの立派な起伏に富んだコースになるということを実感した松本マラソン。けっして楽ではなかったが、苦しいばかりではなかったのは、その景色もまた市街地あり、城があり、空港もあり、広々した公園ありと、変化に富んだものであったからと思われる。

「25kmまではウォーミングアップ」という言葉を意識して抑え目を心がけた前半は、息も乱れず気持ちよく、5kmラップを24分台で揃えて中間点は1時間43分台、30kmは2時間半。目標の3時間半には1時間で12km走ればいいわけで、まあいけるだろうと思ったのもつかの間、それ以降はなぜだかずるずると、ペースは落ちる一方、さっぱり体が動かず集中力も切れてしまった。やっとのことでゴールしたのは3時間45分。なんだかなあ。

それでも、長野マラソンの時のように股関節は痛くならなかったし、愛媛マラソンの時のように足裏の皮はむけなかった。それが進歩といえば進歩である。

一緒に参加した同僚のHさんは44歳で自己ベストを更新。Mくんは前日夜中まで仕事というハードな状況で完走を果たした。帰りは塩尻の入浴施設で休養してから電車で長野に戻り、焼き鳥屋で祝杯。3人ともいい年でいろいろあるけれど、走ることで気持ちが通じ合っている。そんなつながりがこれからも続いていけばいいなとあらためて思いを確かめ合ったのであった。

10.054km
5分51秒/km
58分50秒
682kcal
posted by Dandelion at 07:27| 長野 ☁| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする