2016年03月31日

ミッドナイトラントレ日記160 「1秒間に4歩」

リオ・パラリンピック女子マラソン日本代表候補の道下美里さんは、驚異的なピッチ走法である。脚の運びは1秒に4歩。世界と戦うため、その一歩一歩のストライドを延ばすという課題に取り組んでいるという。

脚というものはそんなに回転するものなのか。試してみたが、1秒の歩数は頑張ってもせいぜい3歩。速く回そうとすると力が入って疲れてしまう。走りはピッチとストライドで成り立っている。とすれば、両者の最も適した調和点というものが、ランナーそれぞれにあるはずだ。

12.112km
783kcal
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2016年03月29日

ミッドナイトラントレ日記159 「踏ん張りどころ」

年度末から年度初め、職場は仕事が忙しい一方で人が減り、休日が極端に少ない。
何をするにも意欲が減退気味。

11.039km
727kcal
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2016年03月26日

北の大地に息づく物語〜「北の無人駅から(渡辺一史著)」

新幹線、北海道へ。
新しい物語が始まり、古い物語が終わる。
のではなく、
物語はずっと続いていて、そこに新たなページが加わる。
ということだと思う。
廃止になった夜行列車、ローカル線、小さな駅・・・
姿は消えても、物語の一場面であることに変わりはない。
前景にあらわれたもの、後景に退いたもの。
両者をつなぐ無数の小さな物語に耳を傾けたい。

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2016年03月25日

ミッドナイトラントレ日記158 「疲労と付き合う」

慢性的な疲労感。今日は休もうと思いつつも、帰宅するとつい走ってしまう。
無理をしているのかどうか、よく分からない。
疲れているわりに、走りそのものは悪くなかった。
まだ大丈夫ということなのだろう。

ここにきて、冷え込む夜。山裾は雪景色であった。

11.658km
766kcal




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2016年03月24日

ミッドナイトラントレ日記157 「LSDその2」

脚の痛み、大丈夫そうなので、キロ6分で90分LSD、のつもりで出発したが、5キロ手前でやはり再発。ウオーキング含みのモードに切り替える。それでも、とりあえずそこまでは順調に走れたのでひと安心。歩いたらLSDにならないのかもしれないが、まあ良しとする。そもそも、自分のレベルではLSDとJOGの違いもあいまい。走ろうが歩こうが、とりあえず大事なのは距離と時間の長さだ。本当は、さまざまな種類のトレーニング(注)を組み合わせてきっちり練習計画を立てるべきなのだろうが、そこまではまだまだ。

ふと見上げると、街頭の光の中に舞う雪。どこかはかなげな、なごり雪。

(注)
LSD(Long Slow Distance)
・・・長時間、ゆっくり、長距離を走り続ける。軽い負荷を長時間かけることで有酸素運動能力を高める。初心者はキロ7〜8分、中級者6分半〜7分、上級者5分半〜6分で、時間は90〜120分ほど。

JOG
・・・基本的なジョギング。楽に走れる(LSDより30秒ほど速い)ペースで40〜60分。筋力強化と有酸素運動向上を図る。

レースペース走
・・・レースの目標タイムから割り出した平均ペースで一定の距離を走り、ペース管理の感覚を体得する。

ウインドスプリント
・・・短めの距離を気持ちいい速度で繰り返し走り、スピード感覚を養う。

ビルドアップ走
・・・徐々に速度を上げていき、心肺機能を高めるとともにスピード感覚を養う。

17.463km
1時間53分51秒
6分31秒/km
1178kcal



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2016年03月23日

ミッドナイトラントレ日記156 「激走のツケ」

一日を通して体がだるく、意識もぼんやり。いかんいかん、仕事に支障を来しては。2時間走のリカバリーには24時間じゃとても足りない。消耗は仕方ないとして、問題は何らかの蓄積につながっているかということだ。

走り出した途端、左もも裏のハムストリングに強い痛みが走る。なるべくひざを使わないように、腹に力を入れて脚の付け根から動かすようにする。平地なら何とか走れるが、上りは無理。走っては歩き、歩いては走りして、何とか距離を稼ぐ。散歩程度でも、何もしないよりはましだ。

右脚は大丈夫なんだがなあ。やはりバランスが悪いのだ。とはいえ、休んで回復を待つ余裕はない。走りながら何とかするしかない。

8.780km
616kcal

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2016年03月22日

ミッドナイトラントレ日記155 「2時間走」

長野マラソンまで1ヵ月を切った。
初めてのフルマラソン。なのに21キロ以上はろくに走ったことがない。このままじゃいかん、と思いつつ実行できないでいたLSD。

キロ5分40秒のペース設定を守れず、いけるならいってしまえと調子に乗った。結局、1時間15分過ぎあたりから、膝と脚の付け根が鈍く痛み出し、あとはもう、なしくずし。

42キロを走るとはどういうことか。まだ感覚でつかめていない。思った以上に難しい。大丈夫か、こんな有様で。

22.520km
2時間2分37秒
5分26秒/km
1482kcal
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2016年03月21日

ミッドナイトラントレ日記154 「不意を衝かれる」

「当たり前にある日常のありがたさを胸に」

昨日開幕したセンバツ、小豆島高校主将の選手宣誓。
高校生の言葉が心に突き刺さった。

思えば自分が学生のころは、「終わりなき日常を生きろ」であった。
時代は変わったのだ。あの日を境に。

8.243km
558kcal
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2016年03月16日

ミッドナイトラントレ日記153 「悲喜こもごもの年度末」

3月といえば人事異動。内示が出たわが職場も新体制のスタートを前にあわただしい。転勤の辞令は会社員にとって絶対。動く人、動かない人、行き先は望み通りの人もいれば、意に沿わない人もいて、悲喜こもごもの人間模様が、水面下で渦巻いている。

京都にいた小学生のころ、転勤するという父に「引越しするのはいやだ」とごねたことがあった。結局その年は動かず、翌年に千葉に来ることになったのだが、あの最初の年、父はいったい、会社にどう申し開きをしたのだろう。いま思えば、子どもだったとはいえ、済まないことをしたものだ。

異動は従業員にとって一大事。人生を変えることもある。なのに会社からは何の説明もない。誰が決めているのか。決定の責任は誰にあるのか。従業員は知るすべがない。これは不条理ではないかと思う。なぜこんなことが、いつまでもまかり通っているのだろう。

とりあえず自分は動かないので、今日も走る。

11.682km
790kcal
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2016年03月15日

ミッドナイトラントレ日記152 「季節の歯車」

雪。
といっても、ほとんどみぞれ。
気温は同じ0度でも、1月のそれとは体感温度が明らかに違う。
季節の歯車は、着実に回り続けていた。

10.336km
687kcal
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2016年03月14日

ミッドナイトラントレ日記151 「圧倒された日常」

気仙沼から帰って、なぜか走ろうという気持ちが薄れてしまった。
「3.11」にまつわる何かが心の中にずっと引っ掛かっていて、うまく日常に戻れない。
その何かが、うまく言い表せないのだけれど。
日々の習慣が、その何かに圧倒されてしまったのだ。

考えてみれば、長野マラソンまであと約1ヵ月。
うまく立て直すことができるだろうか。

11.051km
736kcal
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2016年03月13日

津軽海峡・冬景色2016

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何? 北海道新幹線?
おう、知ってるよ。開通するんだってなあ、今月。
こっちは関係ねえよ。
トンネルったって、車が通れるようになるわけじゃねえしな。
日本の物流支えてるのは、なんたってトラックよ。
こちとら、ちゃらちゃら浮かれてる暇はねえんだ。
なんせ、トラックは休みなしだからな。
雨が降ろうが風が吹こうが、昼間も夜中も365日、運び続けるだけよ。

おれの名は「ブルーマーメイド」ってんだ。
津軽海峡フェリーの函館青森航路で、4隻あるうちの最新型さ。
全長143.58メートル、幅23メートル。
旅客は583人、トラック71台または乗用車230台も載せられるんだぜ。
なんせ2014年就航だからな、ピッカピカよ。

船の旅もいいもんだよ。
甲板で風に吹かれて景色でも見てりゃ、3時間40分なんてあっという間さ。
陸地はずっと見えてるしよ、カモメもすぐ近くに来たりするしな。意外と退屈しないもんだぜ。
客室だって、ベッドのあるスイートからごろ寝のスタンダードまで4種類あるんだ。
赤ちゃんルームやドッグルームも完備してる。
運賃はスタンダードならオフシーズンで2220円。安いだろ。

食堂がねえのがなあ・・・でも自販機は充実してるよ。
カップめんとか、コンビニにあるような出来合いのものとか。
その場でチンすりゃあったかいのが食える。
長万部の駅弁「かなやのかにめし」まであるんだぜ。

港は駅からちょっと遠いけどよ。
函館のフェリーターミナルなら駅からシャトルバスがある。
ドライバーさんだけじゃなく旅客のみなさんも大歓迎だからさ。
まあ、新幹線に飽きたら、乗りに来てくれや。

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乗船日時
2016年3月9日
函館発17時30分、青森着21時10分


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2016年03月08日

気仙沼、地域の今を体感 〜東日本大震災5年、浦島地区ツアー

宮城県気仙沼市の浦島地区で2月27、28日、地域の暮らしを体験するツアー「週末は気仙沼。海の仕事と人に出逢う旅」があった。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた住民らが、観光で地域を再生しようと始めて3年目。1泊2日で養殖体験やまちあるきなどをしながら、住民と参加者が交流を深めるという内容だ。気仙沼は東日本大震災の後、ボランティアと旅行で計2度訪れたが、地元の人とかかわる機会はあまりなかった。震災からもうすぐ丸5年。生活を立て直そうとする人たちの生の声が聞きたくて、参加することにした。

ツアーは、浦島地区の住民組織と日本国際ボランティアセンター(JVC)の共同企画。JVCは震災直後から津波で被災した同地区に入り、給水支援や漁具の回収などの活動を続けた。その後も地区にとどまり、地域社会の再建に取り組む住民を支えてきた。もともとJVCがボランティア関係者を対象に行っていたツアーを住民主導の地域活性化に生かそうと、2014年に地元の旅行会社を通じて一般参加者の募集を開始。それ以降、毎年冬に数回実施し、住民自ら案内役となって地域の魅力を紹介している。

◆変わりゆく街の姿

初日は午前10時40分に気仙沼駅に集合。参加者約20人と旅行会社の添乗員、住民、JVC職員が1台のバスに乗り、まず標高239メートルの安波山(あんばさん)に向かう。10分ほどで市内を見渡せる駐車場に到着。震災の被害と復興の概況について説明を受ける。

気仙沼湾の奥まった所にある平地は、津波と火災で被害が大きかった鹿折(ししおり)地区。震災約1年後の2012年2月、私はボランティアとして、ここに打ち上げられていた大型漁船「第18共徳丸」の近くで住宅跡地の清掃を手伝った。当時は建物もほとんどなく、住宅の基礎が残るばかりであったが、今は船も撤去され、かさ上げした茶色い土地の上には、建設中の災害公営住宅がずらりと並んでいる。街としての姿を取り戻しつつある風景に、4年という歳月の重みを感じた。

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その鹿折地区に下り、仮設商店街「復幸マート」で昼食。震災前の「かもめ通り商店街」が12年3月に「復幸マルシェ」という仮設店舗として再開、その2年後に名前を変えてこの場所に移転したという。ボランティアに来た時は「マルシェ」のオープン直前で、この辺りで唯一の建物だったプレハブで休憩し、みんなで差し入れのおにぎりを食べた記憶がある。仮設から仮設への移転を余儀なくされながらも、団結して営業を続ける商店街。かさ上げした新しい街でもにぎわいをつくり出せるだろうか。

◆浦島地区

午後、いよいよ浦島地区へ。鹿折から気仙沼漁港の東岸を2キロほど南下すると、大浦の集落に入る。浦島地区は大浦、小々汐(こごしお)、梶ヶ浦、鶴ヶ浦の四つの集落から成り、昔から「四ヶ浜(しかはま)」と呼ばれてきた。戦後に浦島小学校が開校して以降、学区としてのまとまりから浦島の名が浸透した。多くの家が津波の被害を受け、4集落で計241だった世帯数は94にまで減少(14年2月26日時点・JVC調べ)。主な産業であるワカメやカキなどの養殖も大きな打撃を受けた。

大浦にあるワカメの加工場で、作業の様子を見せてもらう。かごいっぱいの生のワカメが続々とコンベアに載せられ、ボイルされ、塩を加えられていく。ワカメは今が収穫の最盛期。加工場は湯気と熱気に包まれていた。「気仙沼で養殖はいつごろ始まったのですか」「ここのワカメはどの辺で採れたものですか」。参加者の熱心な質問に、工場長さんが丁寧に答えてくれる。津波はこの工場にも押し寄せ、建物や設備の被害は大きかったが、幸い、従業員は全員避難して無事だった。そんな当時の状況についても、写真を見せながら説明してくれた。

◆進む高台移転

続いて、梶ヶ浦の高台にある団地へ。自治会の役員さんから、防災集団移転の経緯と現状を聞く。梶ヶ浦には約50軒の家があったが、そのうち9割が津波の被害を受けた。震災直後、避難などでちりぢりになった住民の動向を把握するため、自治会とJVCは、残った家を1軒1軒訪問して消息を確認していったという。

その後、海沿いの集落があった場所は災害危険区域に指定され、家を再建できなくなった。住民の自治会は集落の存続をかけて、高台に移転することを決断。自分たちで地権者と交渉してこの場所を確保し、新しい集落をつくる取り組みを続けてきた。誰がどこに家を建てるか、道路はどのように通すか、といった計画段階から住民は何年もかけて協議し、みんなが納得できる形にしたという。

団地には真新しい住宅が並び、住んでいる人もいるということだが、所々に空き地のままの区画もある。土地は比較的安いが、住宅建設費の高さが負担になり、戻るのを断念した住民も少なくないという。現状では梶ヶ浦に住んでいた住民のうち、この新しい団地に戻って来るのは20軒ほどにとどまる見通しだということだ。

高台の団地から海沿いの元の集落があった場所までは、新しい道が通じている。案内してくれるというので、みんなで歩いて向かった。下りていく途中、反対側に鶴ヶ浦の海が見えた。その向こうは大島である。鶴ヶ浦と、大島の亀山という所を結ぶ橋が2年後にできるという。架橋の計画は数十年間進まなかったが、震災復興事業として一気に着工が決定。浦島地区の住民は、「鶴ヶ浦」と「亀山」の頭文字を取った「鶴亀大橋」という愛称を提案して採用された。観光地である大島とつながるこの新たなルートには、浦島の地域再生への期待がかかっているのである。

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歩いているのは、その橋へのルートとして建設中の幹線道路なのであった。トンネルをくぐると左手に海が見え、その手前に開けた土地があった。元の集落があった場所だ。更地になっている。役員さんが山腹を木を指差して「あそこに白いビニール袋が引っ掛かってるでしょ。あれが津波の高さです」と教えてくれる。ここの津波は13メートルということだが、実感が伴わない。

ここに50軒の家が並んでいた。そこに家の高さをはるかに超える津波が来た。それは一体、どのような光景なのか。役員さんは、頭の中にある記憶を前提として説明している。その前提を持たない私たちは、想像力を働かせて、目の前の風景を見つめるしかない。地盤沈下で壊れたという漁港は修復され、船が並んでいた。人が住まなくなった土地に残された生活感。少しほっとする。夕日に輝く海は穏やかで、美しかった。

◆小学校は心の拠り所

次に向かったのは、小々汐の山腹にある旧浦島小学校。震災直後、避難所になり、237人がここで生活した。その時の様子を語り部から聞く、というのが初日の最後のプログラムだ。

浦島小学校は、震災後の児童数の減少で13年3月に閉校した。建物や敷地はそのまま残され、地域のために役立てようと、浦島地区振興会が活用の道を模索している。地区唯一の小学校は、昔から大事な交流の場であり、住民統合の象徴だった。だから閉校しても心の拠り所として残したい、というのが浦島の人たちの願いなのである。活用の一環として、昨年の夏、震災後に中断していた地区の運動会を体育館で再開。地区の外に移り住んだ人も大勢集まり、浦島出身者としての絆を深め合った。

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体育館には椅子とテーブルが並べられ、地元のおばさんたちがお茶を用意してくれていた。地区振興会の会長さんから、震災直後の状況を聞く。避難した住民たちは、自分たちで暖房のための灯油や発電機を動かすガソリンを確保し、山火事が小学校に迫ると、プールの水をバケツリレーして消し止めた。その際に機能したのが、自治会の班編成だという。自治会書記として活動を指揮した男性は、以前からあった住民のつながりが非常時の強みになったと語った。

段ボールと毛布が床に並べられていた。寝てみてくださいと言う。背中の硬い感触と冷たさ。着の身着のまま避難してきた人たちが耐えたという寒さと心細さは、どれほどのものであったか。校庭には仮設住宅が建ち並び、今も住んでいる人がいるということだった。

宿は、浦島地区から少し離れた唐桑半島の鮪立(しびだち)という所にある民宿「唐桑御殿 つなかん」。バスで30分くらいの道中、浦島地区出身の30代の添乗員さんが、小学校時代の思い出を話してくれる。「この道を上がった所が僕の家です」「この道を通って学校に行ってました」。浦島小学校の校歌も歌ってくれた。「ぽんぽんぽーん」という発動機船の擬音を入れた楽しい歌詞。浦島の子の自慢だったという。半世紀以上も歌い継がれてきた校歌。これからはもう思い出の中に残るだけだ。

◆唐桑御殿の夜

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鮪立は、遠洋漁業に従事した人が多かったという地域だ。船の持ち主の家は唐桑御殿と呼ばれ、民宿もそうした御殿のひとつだった。裏には、このあたり独特の木造の蔵である「板倉」があった。木を縦横に組んだ造りで、地震に強いという。参加者の1人で、民俗学専攻で東北地方のフィールドワークをしているという学芸員の若者が、そう教えてくれた。

民宿「唐桑御殿」の建物は、震災の被害を受けながら、全国から集まったボランティアの宿舎として使われた。おかみさんの明るいキャラクターがボランティアの若者らの人気を集め、その後、民間企業が関わって資金を調達して民宿としての営業を始めたのだという。

夕食は、カキやワカメなど地元の海の幸づくし。大広間で、参加者と浦島地区の住民、JVC職員が入り混じっての宴会だ。一人一人、順番にみんなの前で自己紹介して、ツアーの感想などを話す。ボランティアで東北に30回は来たという男性、東北の食材に魅せられ料理家になった元女性会社員、気仙沼市や大船渡市の職員、福島で被災者のケアに携わる看護師。津波で息子さんを亡くしたという夫婦もいた。参加者の年齢や職業、動機はさまざま。背景が分かれば人との距離が一気に縮まる。お酒も入って宴会はいよいよ盛り上がる。

2次会が終わり、JVC職員と住民の方々が地元に帰った後、有志で3次会をやろうという流れになった。残ったのは私を含め4人。別の部屋のこたつを使わせてもらって話を続ける。東京の女性は、カキの養殖の手伝いで唐桑に通ったといい、5年経っても被災した人が不自由している現状が許せないと言った。千葉から来た20歳の看護学生は、今回初めて被災地に来て、人の役に立つ看護師になるための勉強を頑張る、と目を輝かせた。「板倉」を教えてくれた学芸員の若者は、自然災害と人間の暮らしのかかわり方を歴史的な視点でとらえる必要があると語った。

みんながそれぞれ人生の中に震災の経験を位置づけ、誰のものでもない、自分だけの「物語」を持っている。震災は、被災者ではない人の人生も変えた。他人事ではないと感じる人たちは今も全国各地にいる。そしてそれぞれに、思い入れのある東北の地とのつながりを求めている。自分の人生にとって大事なその場所のために、何かしたいと思っているのだ。

その後、民宿のアルバイトのお姉さんが合流し、座は一転して賑やかな雰囲気に。美大出身のお姉さんが特技の星座占いを披露したのだが、一人一人の運勢を言い当てていくトークが絶妙におかしく、みんなで腹を抱えて笑い合った。なんだかんだで楽しい時間、気がついたら午前2時になろうとしていた。

◆海の仕事体験

2日目は午前6時起床。朝食の後、全員がカッパを着て鶴ヶ浦漁港に向かう。まずはワカメ養殖の見学だ。船で案内してくれたのは海上タクシーの船長さん。養殖いかだでは、別の船で待っていた漁師さんが、刈り取りを見せてくれた。朝日に輝く海は、あくまで穏やか。これが5年前、津波と火災に見舞われた海なのだろうか。あの日、船長さんはこの船に乗ったまま津波に流され、3日間陸地に近づけなかったという。ようやく鶴ヶ浦に戻った時、住民の人たちが万歳で出迎えてくれた。その光景が忘れられないと、声を震わせながら話してくれた。

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カキむき体験の後、そのカキをいただくために梶ヶ浦漁港へ。住民の人たちが調理の準備をしてくれていた。採ってきたばかりのワカメを吊るしてあり、漁師さんが刈り取りの作業を手取り足取り教えてくれる。まきをくべたドラム缶の上の鉄板で、おばさんたちが、大量のカキと野菜を焼き始めた。「カキの味がしみたネギが特にうまいんだ」と、元漁師さん。「チャンチャン焼き」といって、居酒屋などでこういう食べ方をするらしい。

カキはびっくりするほど大きい。長野のスーパーで見るパック入りの身の倍くらいはある。この大きさになるまで3年かかるという。やっと軌道に乗り始めたように見える養殖業だが、再開までにはさまざまなドラマがあった。震災直後は、同じカキの産地である広島の漁師が来て、再開を支援してくれたという。同じ鉄板を囲んで、住民の人のそんな話も聞いた。

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◆取り残された家

ゆでたカニやワカメのしゃぶしゃぶなどもいただき、お腹いっぱい。次のリアス・アーク美術館に向かう前に「トイレに行きたい人はどうぞ」と案内されたのは、港から階段を上った所にある民家だった。集落があった土地を見下ろす庭に、犬が1匹。最初は吠えていたが、参加者の女性がなでると大人しくなった。オスである。「かわいい、かわいい」とみんなで戯れていると、家の中から年配の女性が現れた。この家の住人さんらしい。お礼を言ったついでに話してみる。

「犬はね、震災の後に飼い始めたの。1人じゃさびしくてね」。この家は集落で津波の被害を受けなかった数軒のうちの1軒。元の集落は家の再建はできないが、残った家に住み続けることはできる。その代わり高台移転などの補助は出ない。要するに、取り残されたのだという。家が残ったからといって、良かったとも言えない。コミュニティの再生といっても、取り残された人はどうすればいいのだろう。疑問が次々湧いてきて、頭が混乱する。こういう人たちの声にこそ、じっくり耳を傾けるべきではないか。そこに思いが及ばなかったことが恥ずかしい。

◆記憶を呼び覚ます

リアス・アーク美術館は気仙沼湾を見下ろす丘陵地にあり、現代美術とともに歴史民俗系の常設展示をするユニークな公的施設だ。震災直後から学芸員が被災地を歩いて独自の調査記録を始め、2年間の活動で撮影した写真や収集した資料などを常設展示している。

ずらりと並ぶ写真は203点。建物の残骸に埋め尽くされ、煙が立ち上る街、たくさんの船が打ち上げられた港、路上に淀むヘドロや重油。被災当日や翌日に現場の真っ只中で撮影された写真はどれも臨場感にあふれ、被災直後のにおいや温度まで伝わってくるようだ。

ここの展示の特徴は、それぞれの写真に添えられた数行の文章である。説明文というよりは、現場リポートに近い。撮影した学芸員自身が、現場でその時感じたこと、思ったこと、考えたことを主観的に綴っている。客観的事実としての記録ではなく、主観的事実としての記憶を残したい、というのが展示の意図。文章は写真を見る人の記憶を引き出すための呼び水というわけだ。

被災現場で収集した建材や家電製品や自転車、ぬいぐるみなども数多く展示されている。どれも錆びたり、歪んだり、ぼろぼろの痛々しい状態。「がれきという言い方はしたくないのです」と学芸員さんが説明する。がれきという言葉には「価値のない、つまらないもの」という含意がある。被災者にとってこれらの物は大切な記憶の一部であり、言葉で一括りにできるようなものではない、という。

「これを読んでみてください」と示されたのは、展示物に添えられたはがき状の紙片。記されているのは、その物にまつわる物語だった。方言で語りかけるような文体で、誰によってどのように使われていたのかが暗示されている。たとえば炊飯器には、それを使っていた主婦が、家族構成や炊いていた米の量を紹介する、という体裁で。これらの文章は実際の証言ではなく、じつは学芸員の創作。見る人がものを介して、震災以前の日常や被災後の思いを具体的に想像できるようにするための工夫だという。

◆想像力

他者の経験を想像すること。被災者でない私が被災者のためにできることは結局、すべてそこから始まるのかもしれない。展示写真を、涙を流しながら見つめているボランティア経験者がいた。話しかけようとしたが、言葉が見つからなかった。人はそれぞれ、自分一人で向き合わなければいけない記憶を抱えている。私は、私でない人の経験や心情を完全に共有することはできない。それを踏まえた上で、人のために何ができるのか、想像しなくてはならない。問われているのは、他人事を自分のこととして捉える感性だ。

「海の市」で各自おみやげを買ってから、午後3時50分、気仙沼駅に到着。長かったような、短かったような1泊2日のツアー、ここで解散である。昨日ここに集合した時とは違い、すっかり打ち解けた参加者たち。みんな名残惜しそうだ。主催者である地区振興会の役員さんが締めのあいさつ。「思い出を持って帰って、ぜひ自分の周りの人に話してほしい」。もてなされるばかりで何だか申し訳なかったが、地元のお祭りに参加させてもらっているようで、温かい気持ちになれた2日間だった。

◆被災地に学ぶ

約2年半ぶりに訪れた気仙沼。ボランティアで片付けをした鹿折地区は、かさ上げ工事が進み、建物が増えていた。そうした現状を見ると、復興は進んでいるのかもしれないと思う。しかしそもそも、復興とはどういう状態を指すのか。決定的なのは、私がこの街の元の姿を知らないということだ。そんな人間に、復興云々という言葉を使う資格はない。

私にできるのは、現状を見続けること。記録し続けること。そして経験者から学ぶこと。ツアーに参加して感じたのは、被災地でいま進行している出来事は、被災地でない土地にとっての先行的事例であるということだった。コミュニティーの再生やまちづくりといったこの地の人々の取り組みを前にして、これまで自分が見てきた長野や愛媛の過疎地域の様子が心に浮かんだ。住民主導でこんなにすてきなツアーを企画運営することが可能なのだということを、長野でまちおこしに取り組む人たちに伝えたいと思った。被災地には、日本中のあらゆる地域に共通の問題が凝縮された形で顕在化している。そして故郷を何とかしようと住民が知恵を絞った試みが、今まさに、さまざまな形で進行中なのである。そこから学べることは多いはずだ。

ここで会った人の顔を、ここで見た風景を、私はこれからも事あるごとに思い出すだろう。そして、自分の知らないことを知っている人たちから学び続けるために、何度もこの地に足を運ぶだろう。地元の人が結んでくれた縁をどう生かすか。今度は自分が考える番だ。

◆エピローグ

解散後、地元在住の参加者が車で気仙沼を案内してくれるという。東京への最終列車までは時間があったので、私を含め3人でお言葉に甘えることにした。この人は60代の気仙沼市職員。土木の専門家で、もともと東京の葛飾区の職員だったが、震災後に宮城県の職員公募に応じ、気仙沼市に派遣されてきた。3年間、漁港の改修工事を担当してきたが、今年の3月で任期が終わるため、気持ちの区切りをつけるためにツアーに参加したのだという。

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向かったのは、国道を30分ほど南下した波路上(はじかみ)地区。17メートルの津波が来たといい、かさ上げされた平野が広がっている。そこにぽつんと建っているのは、旧気仙沼向洋高校の校舎。3階に車が突っ込んだ形で残り、震災遺構として保存される見通しというが、敷地はフェンスで囲われて近づくことができなかった。そこから1キロほどの半島の突端が、岩井崎。潮吹き岩で有名な昔からの景勝地には、津波で残った松が「龍の松」として保存されていた。職員さんがどうしても見てほしいと次に訪れたのは、杉ノ下の慰霊碑。小高い丘になっていたここは避難場所に指定されていたが、津波は丘の頂上まで達し、50人以上の住民が犠牲になったという。慰霊碑にはその一人一人の名が刻まれていた。

大谷海岸駅跡とその近くに造られた防潮堤を訪れた後、最後に見せてくれたのは、仮設住宅。なんと、そこは職員さんが3年間住んでいる自宅ということだった。気仙沼はアパートなどの賃貸住宅が少なく、借りるのは至難の業。というわけで、就職時に仮設を紹介されるのだという。仮設といってもメーカーによってピンからキリまであり、ここは住宅メーカーの製品だから造りがしっかりしているらしい。

「風呂の追い焚きができないのは不便だけどね」と事も無げに言う職員さん。石巻でのボランティアをきっかけに、専門知識を被災地のために生かそうと、家族と家を残して見知らぬ土地で働いてきた3年間。4月からはまた数年間、今度は福島県で働くという。「福島に来ることがあったら、連絡してください」と電話番号を教えてくれる。この人の人生にとって、震災とは何なのか。今度会ったときにじっくり聞いてみたいと思った。
posted by Dandelion at 10:34| 長野 ☀| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

ミッドナイトラントレ日記150 「自分の速さはどのくらい」

期せずして、新聞配達の女性の自転車と並走する。住宅街の狭い道、ことさらに抜くのも遅れるのも不自然な状況。歯車がかみ合ったみたいに真横にぴったり、そのまま30メートルくらい進んで、交差点で別れた。

自分の走るスピードは、少し速めのママチャリぐらい。指標がひとつできた。

10.357km
680kcal
posted by Dandelion at 13:15| 長野 🌁| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

ミッドナイトラントレ日記149 「旅の重さ」

4日間休んだ。旅をしていた。自分の中の何かが変わった。それほど濃密な旅。走る自分を忘れていた。走りながら、旅の前に考えていたことを徐々に思い出す。走って、寝て、仕事、という日常がそういえばあった。先週までの自分が、遠い存在に思える。

11.656km
789kcal
posted by Dandelion at 12:55| 長野 ☀| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする