2020年12月25日

年1便の「深夜特急」

沢木耕太郎さんのラジオ番組「ミッドナイト・エクスプレス 天涯へ」を聴く。クリスマスイブの深夜、3時間の生放送。沢木さんの穏やかな語り口とともにゆったりとした時間が流れる。これを聴くと、ああ今年も終わりかという実感が湧いてくる。

かれこれ20年ぐらい聴いているが、沢木さんの1年間の活動の報告と、旅に生きようとする「沢木チルドレン」たちとの電話のやり取り、という内容はずっと変わらない。会社を辞めて旅に出たり、地方に移住して新たな暮らしを始めたり。「深夜特急」をはじめとする沢木さんの作品に影響を受けた「チルドレン」たちが、何年たってもずっと再生産され続けているのが面白い。今年の番組にメールや電話で登場した人たちも、20代や30代の若い人たちで、やはりそれぞれの人生で悩んだり、迷ったりしていた。

例年と違う点といえば、沢木さんの新しい旅の報告がなかったこと。新型コロナで世の中が普通でなくなるなかで、自分は可能な限り、全力で、普通に暮らし続けたい、と彼は言う。仕事場からの帰り道、閉店したお好み焼き屋さんを見て、そこに集っていた常連客の人生に思いをはせる。いつも自転車で配送の仕事をしている若い女性を見て、心の中でエールを送る。この人が見ていることは、旅の空でも、身の周りの日常でも、結局変わらないのだと思う。普通であり続けるとは、自分がどこにいようと、大事なことを見ようとする意志を持ち続けるということなのだろう。

番組の締めは、こんな話。米国でフィギュアスケートの選手になる夢を諦めた女性が、ある時訪れた森の中で、凍った湖を見つける。ここで滑ってみたいと、女性はスケート靴を持って再訪し、氷の上を思いのままに滑走する。フィギュアとは図形の意。フィギュアスケートとはもともと、氷の上に図形を描く競技だった。競争にさらされるなかで、滑ること自体の楽しさを見失ってしまった女性。誰にも見られず、誰にも知られず、森の中の湖でひとり、氷に図形を描き続けていた・・・
年に1便の深夜特急。来年もまた無事に乗車できることを願って。


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2020年05月19日

自分と向き合う80キロ 千曲川から信濃川へ

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 松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出た時の年齢と、自分の年齢が今まさに同じであると気づいたのは、今年の2月のことだった。俳諧だけでなく、神田上水の改修工事に携わったり、深川に退隠したり、紆余曲折の末に新境地を開拓すべく旅立った芭蕉。片やこちらは、何ら特筆すべきこともない平板な人生を今も送っている。芭蕉のように一世一代の旅をいつかしてみたいと思うけれど、それはきっと願望のまま終わるんだろうなあ、などと時々、「おくのほそ道」を読み返しながら、ぼんやり考えたりする。

 芭蕉の出発から331年後の春、旅人は試練にさらされている。新型コロナの猛威と外出自粛。当たり前の日常が吹き飛んだ。旅などするな、ということになった。いくら「漂泊の思ひやまず」とも、「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」ても、家にいろというのだ。

 それにしても、待ちわびた春である。この状況でできることを考えた。そして、自転車の旅に出ることにした。もちろん日帰りで、寄り道せず、誰とも話さず、ただ走る。前から走ってみたい道があった。千曲川に沿って、飯山から新潟まで続く静かな県道。飯山線の車窓から見て以来、ずっと気になっていた。千曲川は新潟県に入ると、信濃川と名を変える。その地点を見てみたい。それを旅の目的としよう。距離約80キロ、ひたすら自分と向き合う道のりだ。


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 千曲川の右岸には、春の景色が広がっていた。市街地から堤防道路に入って約20分、小布施の手前辺りで、それはいっそう鮮やかになる。菜の花の黄色に染まった土手。河川敷には満開の桜並木。対岸のはるか向こうには、雪を被った飯縄山が見える。心配した風も、それほど強くない。時速25〜27キロで快走する。

 小布施橋を渡って、左岸へ。右岸の道はやがて川から離れてしまうのだ。できるだけ川に沿って走りたい。橋の下の河川敷には、リンゴの木々。地面が泥で覆われ、ひび割れている。昨年10月の台風19号で、千曲川は氾濫した。水が引いた後に残ったのが、途方もない量の泥だった。被害が大きかった長野市の長沼地区はこの近くだ。ボランティアで作業した住宅地はどうなっているだろうか。今年になって登録制になったボランティア活動も、新型コロナの影響で中断していると聞いた。
 
 堤防道路が終わり、国道117号に合流。すぐまた川沿いの道に入る。とにかく車がいない道を選びたい。間もなく、左側に飯山線の線路が現れた。立ケ花という小さな駅がぽつんとある。飯山線とはこの先、付かず離れず、長い付き合いになる。カーブになった坂を上ると、また国道117号に合流した。間もなく、「中野市」の看板。ここまで家から23.7キロ。1時間34分が経過した。

 片側1車線の国道は、軽いアップダウンを繰り返す。出発してから初めて、フロントをインナーに入れる。自転車のツーリングは2年ぶり。インナーに入れたのは、それ以来ではないか。2年前の2月、広島の大久野島から愛媛の大三島に渡り、そこからしまなみ海道を経て松山まで。子どもが生まれたばかりで、まだ妻の実家にいた。それをいいことに、旅に出たのだった。「これが最後」と理由をつけて。

 替佐という交差点で右折し、県道へ。車がほとんどいない。坂を越えると再び千曲川が現れた。右側に千曲川、その向こうに山。左側に飯山線、その向こうに山。この配置が、これから先のコースの典型的なパターンとなる。狭い谷を縫うように、川と、鉄道と、道路が並行している。人工物の方が、自然の地形に合わせて造られている。そんな風景を美しいと思う。ここまで来ると、川の流れもずいぶんゆったりしている。自転車を停めると、聞こえるのは鳥の声と、風の音だけ。時間も穏やかに流れている。

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 飯山市に入る。家からここまで2時間10分、32.3キロ。「1時間で20キロ」の想定ペースよりかなり遅いが、まあいいか。古牧橋のたもとから国道292号に入る。しばらく走り、伍位野から裏道へ。飯山駅の新幹線高架をくぐり10分ほど行くと、商店街にさしかかった。「雁木通り」とある。雁木とは、軒から庇を長く差し出して作った雪国のアーケードのこと。寺の柱のような茶色い雁木がアクセントになって、きれいな商店街だが、歩いている人は誰もいなかった。この商店街には、会社に入ったころ同じ部署にいた先輩の実家がある。その先輩は1年ほど前、50になろうかという年齢で、突然辞めてしまった。もしかしたらと覗いてみたが、店にはいないようだった。

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 また国道292号にぶつかった。この292号を富倉峠を越えて新潟の直江津まで走ったのは、もう10年以上前のこと。一緒に行った職場の先輩のMさんは、私に自転車の楽しさを教えてくれた人。そのMさんも今では会社の幹部になり、もう会うこともない。

 その国道を渡って、県道409号へ。辺り一面、田畑が広がる。吹きっさらしの道だ。山から吹き降ろす風に、時々ハンドルをとられそうになる。2、3キロも走ると、左手に見覚えのある建物が見えてきた。黄色い壁に、大きな緑色の屋根。その屋根に大きく「かまくらハウス」と書いてある。
 
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 この一帯は、冬には「かまくらの里」といって、地元の人たちが作ったかまくらが並ぶ観光地になる。今年の1月、ここのかまくらで、妻子と一緒に「のろし鍋」を食べた。地元産の「みゆきポーク」や野菜がたっぷり入ったアツアツの鍋。1人3500円でも食べる価値はあった。そり遊び用の斜面もあり、2歳の子を誘ったが、怖がって乗ろうとしなかった。そんな思い出が残るかまくらの里。雪が消えた今は、ただ茶色い畑が広がっているだけだ。

 かまくらハウス前のベンチで、冬の記憶を辿りながら、カロリー補給する。ここまで44.7キロ、2時間50分。疲労はそれほどないが、尻の痛みが出てきた。約15分休んで、思い出のかまくらハウス出発。

 路面に時々現れる「JAPAN ECO TRACK」という表示が気になる。自転車のイラストもあるから、何らかのサイクリングコースに指定されているのだろうが、説明がないのでよく分からない。確かに車も少ないし、景色も良いし、人に勧められるいい道だと私も思う。

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 スキー場やペンションが並ぶ戸狩温泉を過ぎ、右に下ると、戸狩野沢温泉駅の近くに出た。駅前通りは県道408号、もうずっとこの道を行けばよい。間もなく道はまた右にカーブしながら下り、千曲川の左岸に出た。久しぶりの再会だ。ここからしばらくは例の典型的なパターン、つまり道と、川と、飯山線だけの、静かな世界が続く。

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 車が来ない。人がいない。風もない。坂もない。景色がいい。飯山線の車窓から見てイメージしていた通りの、理想的な道。ゆるゆると楽しみながら30分ほど走ると、「いいやま湯滝温泉」が見えてきた。4年前の秋、北信州ハーフマラソンの帰りに寄って以来、ここには何度も来ている。特になんてことない日帰り温泉施設だが、いつ来てもそれほど混雑せず、静かなのがいい。飯山産の「みゆき米」と「みゆきポーク」を使った食事も魅力。日曜には「湯滝寄席」もある。一度参加したことがあるが、10人ほどの観客を前に、地域のアマチュア落語家が「酢豆腐」を一生懸命に語っていた。何ともほのぼのとした、休日の昼下がり。ここではそんなゆったりした時間を過ごすことができる。

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 ここまで54.6キロ、3時間35分が経過。温泉に寄りたい気持ちを抑えて、先を急ぐ。千曲川の左岸は、相変わらずの静かな道。田畑があり、所々に集落がある。人の姿はほとんどない。たまに野良着姿のおばあさんが歩いていたりすると、ほっとする。こういう風景というのは、たぶん何十年、何百年前とあまり変わらないのだろう。生々流転の世の中、それとは別に、地域に固有の時間の流れがあり、そこに根差した暮らしがある。

 西大滝という集落を過ぎた所に、スノーシェッドがあった。雪対策の覆いがトンネルのようだが、右側は柱があるだけなので、川の流れが見える。新潟に近いこの辺りは、県内随一の豪雪地帯だ。スノーシェッドの中は上り坂、ダンシングすると脚がだるく、疲労がたまっているのが分かる。外に出て間もなく、栄村に入った。ここまで64.8キロ、4時間15分。

 国道117号に合流する。交通量が多く路側帯がないので、小石と段差だらけの歩道を走らなければならない。千曲川とも離れてしまった。「理想の道」は終わったのだ。あとはもう、最後まで突き進むのみ。

 車やトラック、アップダウンにカーブ、長めのトンネル。つらい道のりだ。加えて尻の痛み。座る位置をずらして何とかごまかす。そんな我慢の走りを約30分、栄村の中心部に入った。森宮野原駅がある。村役場がある。道の駅「信越さかえ」で休憩。店は全て閉まっていた。

 それはあまりに唐突だった。出発して間もなく、「新潟県」の看板が現れたのだ。カーブの下り坂になっていて、直前まで見えなかった。急いでブレーキをかけて自転車を停め、写真を撮る。よく見ると、「新潟県」の看板の向こうに橋があり、そのたもとには「信濃川」の看板がある。千曲川から信濃川へ。まさにあの橋を境に名前が変わるのだ。家を出て5時間12分、74.9キロ。これで旅の目標達成である。

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 県境の橋を渡り、津南まで足を延ばすことにした。左手に見える信濃川は曲がりくねって、流れが速い。今までの千曲川とは趣が違う風景だ。そんな川と近づいたり離れたりしながら約1時間、長いトンネルを抜けて、津南の市街地にたどり着く。国道沿いに商店街があり、なかなか賑やかだ。117号から左折して405号に入る。直線を一気に下って、しばらく離れていた信濃川と再会。橋を渡ると、そこが駅だった。

 駅舎の大半が温泉施設になっている。「リバーサイド津南」というらしい。駅前広場には、駐車場と食堂が1軒。バスもタクシーもいない。温泉利用者の車が時々入って来るが、あとはひっそりしている。しばらく休んでいると、どこからか、コロコロコロ・・・クルミをこすり合わせたような、あの硬質の音。カエルだ。そうか、もうそんな時季なのか。いろいろあっても、時は確実に進んでいるのだ。季節の移ろいを、何も気にせず、心の底から喜べる日が、早く戻ってきてほしい。いつかこのトンネルを抜けたら、当たり前の日常を大事にして生きていこう。夜の帳がおり始めた山里に、カエルの声は静かに響き続けた。


所要時間 5時間47分
総走行距離 84.9キロ
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2019年11月03日

地元復旧、険しい道のり 〜長野市でボランティア その2

居ても立ってもいられない

朝起きると、雨だった。
ボランティアは基本的に、雨天中止。でもボランティアセンターのフェイスブックには、何のアナウンスもなかった。電話も話し中でつながらない。やるのか、やらないのか。

迷っていても埒があかない。行ってみることにした。今回は電車で向かう。10時半までにボランティアセンターで受け付けをすればいいという。長野駅発、9時54分の長野電鉄。約20分で柳原駅着。相変わらず小降りの雨。7分ほど歩いて、ボランティアセンターがある柳原の市民センターに着く。

やっぱりやるようだ。テントの周りに多くのスタッフがいる。「2度目以降」の受付で名前を書く。ボランティアらしき人は数人。スタッフの方が多い。しばらく待つように言われる。その間に建物の中でトイレを済ませ、上着を着替え、長靴に履き替える。戻ると、3人の男性と引き合わされた。4人で班を作るとのこと。スタッフに何度目の参加かと聞かれる。2度目と答えると、「リーダーをお願いします」と言われた。

ついに、リーダーである。スタッフに、名前と電話番号を書いた紙を渡す。本部からの連絡は私に来るという。4人で簡単な自己紹介をする。年配の人と、中年の人と、若い人。若者は小ぎれいな服装をしている。まだ着いたばかりのようだ。
「すいません、ちょっと着替えていいっすか」
話し方がはきはきしている。なんか初々しい。

スコップやヘルメットを借り、マイクロバスに乗り込む。約5分で、前線基地がある国道沿いの農産物直売所へ。ここで活動場所と人員のマッチングをする。スタッフのビブスを見ると、青年海外協力隊OBやNPOの関係者が多い。ノウハウがあるということか。しかし待っててくれと言ったきり、電話ばかりしている。20分ほど待たされ、ようやく決まる。
「ウチマチという地区に行っていただきます。被害がひどく、まだ手付かずの家も多い所です」

コーディネーターという女性の案内で、徒歩10分。女性が1軒の家を訪ね、ガレージにいた夫婦と話す。
「やるっていっても今日は雨だからねえ。これを積むくらいかな」
軽トラの周りに、家の中から搬出した家電や家具などが積まれている。
「じゃあここで2人、お願いします。それとも4人一緒の作業がいいですか。それなら別の場所にしますが」
と、女性が言う。そんなこと言われても、よく分からないのだが・・・

年配の人と中年の人が何となくそこに残ることになった。私と若者は女性に連れられ、別の家へ。何だかはっきりしない女性だ。30メートルほど戻って、門のある立派な農家に入る。70歳過ぎぐらいのおじいさんがいた。
「そうだなあ、裏の畳を出してもらうか」
アポなしで来ているのか。私たちは依頼内容も知らされていない。ここで仕事を決めるのか。こんなコーディネートの仕方は初めてだ。

「ではお願いします」と言って、女性は帰ってしまった。もう11時過ぎだ。私と若者が手持ち無沙汰でいると、おじいさんがかっぱを着始めた。一緒にやるのだろうか。案内されて家の裏に回る。そこはリンゴ畑だった。目と鼻の先に堤防のブルーシートが見える。あれが決壊場所か。おじいさんに聞くと、ここは穂保(ほやす)とのこと。

リンゴ畑は一面の泥に覆われている。木々には赤く色づいた立派なリンゴ。どうなるのだろう。建物に近い奥まった一角に、漂着物が散乱していた。畳が2枚。細長いトタンの板が数枚。板、柱、さまざまの木材。家具。ほうき。看板、等々。

おじいさんが表にあった軽トラを移動させてきた。持ってきた物を載せて災害ごみの集積場に運ぶという。おじいさんも加わり、早速取り掛かる。しかしその軽トラまでの15メートルほどの道のりが、容易ではなかった。泥がこんもりと丘のように積もり、ぬかるみがひどい。1人で持てる木材はまだよかった。でも畳はだめだ。水を吸った畳、話には聞いていたが、重さが尋常ではない。若者と2人でやっとのことで持ち上げたが、泥の丘は越えられなかった。後ろ向きに運んだ私はぬかるみにはまり、しりもちをついた。早くも泥まみれになった。

「あれを道にしたらどうすかね」
若者がトタン板を指差す。幅1メートル、長さ3メートルほどのトタンが3枚。半分泥に埋まっているのを掘り出し、持ってきて縦に並べてみた。歩いてみる。なるほど、いいかも。畳は無事運び出せた。何とか軽トラに載せた。汗だくになった。

トタンの道のおかげで運搬はだいぶ楽になった。でも作業はそれほどはかどらなかった。難儀したのが、物を泥から掘り出す作業だ。細い木材やビニールなど軽そうなものも、簡単には取り出せない。泥に埋まり、木や他の物と絡みつき、一つ一つがどうなっているのか分からない。

畳に続く大物があった。看板だ。1メートル×50センチほどの金属。白地に筆文字で「貸部屋」とある。それがワイヤーで木の板に貼り付けられている。持ち上げようとしたが、びくともしない。金属と板の間にびっしりと泥が詰まっている。スコップを突っ込んでその泥を少しずつ落とす。なぜこんなものがここにあるのか。

ほどなく軽トラの荷台が満杯になる。おじいさんの運転で集積場に向かう。私と若者は荷台の物の上に乗る。5分ほどで到着。公園だ。滑り台がある。通路に軽トラごと入り、空いている所を探す。両側にはうず高く積まれた廃棄物の壁。人の背より高い壁が、延々と続いている。おじいさんが壁の切れ目で軽トラを停めた。3人で荷を下ろす。分別も何もない。木も金属もプラスチックも、かまわず投げ上げる。

ここには暮らしに必要とされていた、あらゆる物がある。畳、たんす、布団、家電、自転車・・・それら一つ一つに持ち主の愛着や思い出があったはずだ。災害は、その愛着や思い出を奪ってしまった。何年もかけて積み重ねてきた暮らしを、たった一日で壊してしまった。

「これどうすんのかなあ」
帰りの荷台で、若者がつぶやく。
「どこかに持ってくとしても大変ですよね。これから寒くなるし」
膨大な廃棄物であふれた公園。灰色にくすんで、戦争で破壊された街のように荒れ果てて見える。公園に笑顔や歓声があふれる日々は、いつになったら戻ってくるのか。

家に戻ると、午後0時半。昼食にする。相変わらずの小雨。おじいさんが庭の屋根がある場所にケースを裏返しに置いて、座る場所を作ってくれた。池や植木がある立派な庭。屋根のある通路が回廊のように、庭を囲んでいる。蔵や農機具の倉庫もある。2階建ての大きな家屋は1階が開け放たれていた。畳が外され、乾燥機の大きな音が鳴り響いている。おじいさん以外に人の姿を見ていない。家族はいるのだろうか。

「居ても立ってもいられなくて」
千曲川決壊の空撮映像を見てそう思ったと、若者は言った。愛知県で飲食店に勤める彼はH君といって、33歳。妻も子も愛知にいるが、実家は長野市。生まれ育った街だから、何かしなければと思い、ここへやって来た。名古屋から朝、始発の特急で来て、これが終わったら帰るという。ボランティアが初めてだということは、服装で分かった。ジーンズの上に、薄手の白いレインウェアのズボンをはいている。それがビリビリに破れている。
「それ大丈夫?」
「あっ大丈夫っす。着替えありますから」
どこまでも礼儀正しく、明るい。

昼食を終え、作業を始めてしばらくして、携帯電話が鳴った。さっきの女性だ。雨が強くなったので作業は1時で中止。2時にバスが出るのでそれまでに戻ってくれとのこと。今さら何を言っているのか。その思いはH君も同じようだった。せっかく来たのでもう少しやりたいと、彼は言った。10分もあれば帰れる。あと40分くらいは作業できる。遅れたら遅れたでいい。どうにかなるさ。

時間との闘いが始まった。漂流物はまだまだある。おじいさんだけ残して、このまま帰れるか。もう1回ぐらいは集積場に行きたい。3人で脇目もふらず運んだ。軽トラに積んだ。汗も雨も泥も、全部一緒に引き受けてやる。みるみるうちに、荷台はいっぱいになった。1時40分。さあ行くぞ、集積場へ。ラストスパート。

帰り際、おじいさんが決壊当日の状況を話してくれた。決壊の前に水があふれてきたが、その段階では、水は膝ぐらいだった。その状態が長く続いたので油断していた。決壊で一気に水が来て、家の2階に避難した。一帯が海のようになってからも、ずっと2階にいた。しばらく避難所にいて、昨日、家に戻ったばかりだという。

もっと作業したい。もっと話したい。あまりに時間がない。アナウンスやコーディネートの仕方を含めて、もう少し何とかなったんじゃないかとも思う。愛知から5時間かけて来たH君。活動は正味2時間ちょっと。でも彼は不平を言わなかった。作業の間、彼は一度も力を抜かず、進んで重いものを持とうとしたし、アイデアを出して作業を効率化した。ボランティアの本質的な要素は、経験や技術ではなく、「思い」であることを、彼から学んだような気がする。

私たちは日常に戻るけれど、あのおじいさんの日常は、ずっとそこにある。傷ついたまま、忘れられ、手付かずで放って置かれている。自力で元に戻せというのか。そんなことは、あってはならない。

助けを待っている人が、たくさんいる。
そのことが、もっともっと知られなければならない。
彼らを一人ぼっちにしてはならない。
見て見ぬふりをすべきでない。
傍観者であってはならない。
少しでも「思い」が湧き上がってきたら、行動に移すべきだ。

人手が足りない。圧倒的に足りない。
事態は急を要している。


活動日 2019年10月29日        



posted by Dandelion at 06:49| 長野 ☀| Comment(0) | ボランティア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月01日

地元復旧、険しい道のり 〜長野市でボランティア

朝の長野駅前は、いつものように通勤や通学の人たちが慌しく行き交っていた。上下グレーの作業着にリュックという姿は目立つはずだが、私のことなど誰も気に留めたりしない。ロータリーの外れにあるバス停へ急ぐ。「おはようございます。ボランティアの方はこちらです」。係の人に案内され、大型バスに乗り込む。静かな車内、乗っているのは15人ほどか。数日前から毎日運行している、市北部のボランティアセンター行きの送迎バス。平日はボランティアの数が少ないと聞いていたが、やはりそうなのだ。窓際に座り、8時半の出発を待つ。10日前の出来事は現実だったのか。駅前に広がる日常の風景を眺めていると、何だかよく分からなくなってくる。本当にここから数キロ先に、その日常を奪われた地域があるのだろうか。

10月12日に上陸した台風19号は東日本各地に河川氾濫の被害をもたらし、長野県内では主に千曲川とその支流の氾濫で9000軒を超す住宅が浸水した。長野市の住宅浸水は床上、床下合わせて5000軒以上。特に千曲川の堤防が決壊した北部の長沼地区は、大量の水が流れ込み、広範囲にわたって被害を受けた。12日夜から13日早朝にかけて、私の携帯電話にも避難を呼びかける緊急速報メールが何度も何度も届いた。夜が明けると、テレビの空撮映像で、川から濁流がすごい勢いで住宅地に流れ込む様子が実況中継された。これが自分の住む市で、今まさに起きていることなのか。テレビの中の光景と、自分の生活空間である長野市が、なかなか結びつかなかった。これまで自分が見た「被災地」は、飛行機や電車で行く場所だった。それが今度は自転車で行けるくらいの距離にある。もはや他人事ではない。とりあえず行かなければ、と思った。

晴れているが、集落の中の道は茶色く湿り、あちこちに水たまりやぬかるみがある。頻繁に来る軽トラや車をよけながら歩くので、なかなか進まない。道の脇に積まれた泥は高さ30センチほど、それが堤防のようにどこまでも続いている。昔の街道のような家並みで、古い立派な造りの家が多いが、どの家も1階は窓や戸が外され、がらんどうだ。中には、壁がはがれて木の骨組みがむき出しになったり、1階部分が歪んで傾いた家もある。そうした家々から撤去した家具や家電、木材や布などがあちこちに山のように積み上げられている。赤いリンゴがたわわに実るリンゴ畑の木々の根元は、一面黒い泥で覆われている。

バスの中で班分けされた私たちは、作業現場に向かっている。メンバーは男性が私を含め2人、女性が6人。それそれがボランティアセンターで借りたスコップと土のう袋を持って歩く。「この辺りの地名にはサンズイが付くのよね」と、千葉から来た年配の女性がつぶやいた。昔から洪水が多い土地なのだろうか。それにしても、災害の爪痕はあまりに生々しく、ため息が出る。現場までは歩いて20分ほどかかるとのこと。出発前に地図を渡されたのだが、たどり着くのは簡単ではなかった。リーダーの男性がスマホで住所検索し、そのルートに従って行って、失敗した。スマホが示すリンゴ畑の中の道は途中で泥が深くなり、ぬかるみに膝まではまるような状態で、これ以上進めないということになり、引き返したのだ。住民の人に聞いて、なんとかルートのめどがついたものの、結局、現場に着くまでに30分以上かかってしまった。

現場は、堤防の決壊場所近くの民家だった。裏庭の50メートルほど先に、堤防のブルーシートが見える。リーダーが依頼主である家の主人にあいさつし、作業内容の打ち合わせをする。リーダーは、たとえば家の主人から事前に聞かされていない作業を依頼されたりすれば臨機応変に応じなければいけないし、休憩や昼食の時間を把握して号令をかけたり、終了後に報告書を書いたり、なかなか大変だ。普通はその現場に何度も来ているような人がなるものだが、今回の人は長野に来たこともあまりないという埼玉の男性だった。バスの中でスタッフに決められたらしい。50歳くらいのその人は、有給休暇を取って日帰りで来たという。

とにかく家の中の泥を出して、家財道具も全部出す。それが私たちの仕事だ。午前10時40分、作業開始。古い造りの家で、1階は台所と座敷に、あと2部屋ある。座敷は、庭に面した側が押し寄せた木材など大量の漂着物で覆われているため光が入らず、真っ暗だった。床は10センチほどの泥で覆われ、あちこちに家具や家電などが埋まっている。家主の家族や知人の男性が数人、すでに作業していて、庭先には大量の家具などが積まれていたが、家の中はまだまだ片付いていなかった。

粘土状に固まった泥をスコップで崩す。それをすくって、猫車(取っ手付きの一輪車)に乗せる。たまったら、門の外の道端まで押していって、捨てる。猫車は呉のボランティアで経験したので得意のはずだったが、厄介なのが、玄関の段差だった。段差は30センチ以上ある。家の中から出すときに強引に押していくと泥が落ちてしまうので、前の部分を持つ人が必要になる。つまり、人手を食うのだ。泥を出すたびに、誰かがスコップの手を止めて、手伝わなければいけない。それでも、私が声を掛けるまでもなく、誰かしらが助けにきてくれた。誰が指示するでもなく、各人がその都度、役割を見つけて作業する。どの土地のボランティアも、それは同じだ。

台所の白い壁の高さ2メートルほどの所に、そこまで水が来たことを示す薄い線が残っていた。食器棚は、棚の上にも泥がたまっていた。その泥を落としながら、皿などを一つ一つ取り出して、土のう袋に入れる。熱心にその作業をしているのは、千葉の女性だ。年配の女性が泥出しをするのは大変だ。それぞれが自分にできることを見つけて、率先してやっている。どんな現場にも自分の役割は必ずあるものだ。

台所には床に収納スペースのような長方形の穴があり、泥の海と化していた。水を多く含んだ泥は、猫車に積みすぎると外に垂れてしまうので要注意だ。3メートル×1メートルぐらいの穴には、液体状の泥の下に、粘土状の泥が堆積し、その中にいろんな物が埋まっていた。それが何なのか、取り出してみないと分からない。即席めんや洗剤、しょうゆや食用油のビン。班のメンバーの女子大生と一緒に、そうした物を取り出しているうちに、大物に突き当たった。平たい、板状の物。つかんで持ち上げようとしても、びくともしない。泥をかき出しながら少しずつ動かし、2人で格闘すること10分。姿を現したのは・・・テレビだった。「わあすごい」。私も女子大生も、思わず声を上げた。不思議な達成感があった。

古い家だからか、とにかく物がたくさんある。それらの搬出がまた一苦労だ。台所の隣の一室は手付かずで、たんすやふすまが倒れこみ、その下にソファや棚、人形、布団などが散乱していた。窓から入った水がそれらを押し倒したのだろうか。いろんな物が引っ掛かったり絡み合ったりして、ただ引っ張っただけではびくともしない。家族の関係者の体格のいい男性数人と力を合わせて、重しになっているたんすをやっとの思いで動かす。布団を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。水を吸った布団は、鉄のように重い。2人がかりで何とか運び出す。力もない。知恵もない。役に立たない自分。もどかしい。みっともない。

20分作業して10分休憩、が目安と言われたが、それでは日が暮れてしまう。放っておくと誰も休憩しようとしないので、リーダーの声掛けが重要になる。そういう意味では今回のリーダーはちゃんと時間を見て指示しているし、優秀だと思う。物静かで、見た目はリーダーといったタイプではないけど、しっかりした人だ。1回の休憩を挟んで計1時間半ほど作業し、正午過ぎ、昼食となった。

家の人たちも休憩するようだ。奥さんが庭先にプラスチックのケースを裏返しに並べて、みんなの座る場所を作ってくれた。さらに温かいお茶、おやき、弁当までいただいた。弁当は避難所で配られたものだそうだ。家族は今、避難所で暮らし、日中はここへ来て片付けをしている。国道沿いで自動車販売の店をやっているが、浸水で車40台がだめになった。そちらの片付けを優先したので、自宅に取り掛かるのが遅くなった。家の主人がそんな話をしてくれた。60歳前後、こわもてだが気さくな人である。

この辺りの地域について聞くと、丁寧に教えてくれた。浸水被害を受けた長野市北部の長沼地区には、赤沼、津野、穂保(ほやす)、大町という四つの区がある。堤防の決壊場所はちょうど穂保と津野の境辺りで、ここは津野になる。この家の歴史は古く、主人は10代目になる。穂保という地名は報道で有名になったが、津野はあまり知られていない。津野は四つの区の中で一番人が少なく、80世帯ほどしかない。大きな被害を受けた家が多く、もう戻って来ない住民も多いだろう。そうなると、津野という区自体がなくなってしまうかもしれない。
「おれももう、ここには住みたくない。でも、他に行くところもないしなあ」
主人は、諦めたように言う。
何と答えていいか、分からなかった。

昼食後、1時間ほど作業して、今日の活動は終了となった。バスが2時に出るので、それまでに戻らないといけない。床上の泥出しは進んだが、まだ運び出せていない物がたくさんある。床下の泥は手付かずだ。これで帰るのはしのびないが、仕方がない。
「これで失礼します。ありがとうございました」
作業を続ける家の人たちにあいさつし、後ろ髪を引かれる思いで帰路につく。

帰り道、みんなの足取りは重かった。道端の泥、がれきの山、壊れた家。空き地には流れた車が放置されたままだ。前を行く女子大生、縛った髪の後頭部に、泥が付いている。女子大生は3人で来ていて、県立大の学生だそうだ。6人の女性たちは力仕事もいとわず、泥まみれになって頑張っていた。それでもまだまだ足りない、何も終わっていない。被災から10日経っているが、まだ家の中さえ片付いていない。片付けは手作業でやるしかない。今回のように人手がある家族はいいが、たとえば高齢者だけの家などはどうしているのだろう。片付けが終わったら、出したものを集積場まで持っていかなければいけない。家を突き破っている大きな漂流物も撤去しなければいけない。膨大な人手が必要なのだ。

長野市で活動するボランティア、平日は700〜800人ほど。11月上旬までは最低1500人は必要だという。個人的な印象だが、遠くから来てくれる人たちがたくさんいる一方で、長野市民の参加が少ないように感じる。自分たちが住む地域の問題なのに、なぜなのだろう。行きたいと感じる人が少ないとすれば、悲しいことだ。行きたいけど行けない人が多いというなら、それはまだ救いがある。仕事で参加できないというのなら、職場は平日でも行きたい人が行けるような制度を作るべきだ。会社が作れないというのなら、作れるような条件を行政が整備するべきだ。ボランティアは趣味とか善意とかの問題ではない。阪神大震災から20年以上経っているのに、まだそんな認識が横行している。ボランティアを社会的資本として捉え、地域が生き残るための方策として位置づける。そういう視点が必要なのではないか。

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活動日 2019年10月24日
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2019年08月16日

熱いぜ、図書館  「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」

ナレーションなし、テロップなし、効果音なし。ドキュメンタリーの巨匠、フレデリック・ワイズマン監督がいつものように映像と録音のモザイクだけで描き出すのは、当たり前のように身近にありながら、実はあまり知られていない、図書館という存在の奥深さだ。

本館、四つの研究図書館、88の分館から成るニューヨーク公共図書館。その多岐にわたる活動が丹念に記録されている。エルヴィス・コステロやパティ・スミスら有名人のトークも興味深いが、とりわけ印象的なのは、地域の分館で行われている日常的な活動の様子だ。子どもの教育プログラム、中国系移民のためのパソコン講座、就職支援フェア、障害者対象の住宅制度説明会、高齢者のダンス教室、点字や手話のセミナー等々。「図書館は本の置き場ではない。図書館とは人だ」という分館の設計担当者の言葉が心に残る。何かを求める人たちがそこに集まり、話し合い、物事を動かしていく。図書館がコミュニケーションの場として地域住民に期待され、信頼されていることがよく分かる。

たびたび出てくる幹部会議のシーンでは、デジタル格差の問題が議論される。ニューヨークのような大都市でも、情報にアクセスできず、社会から取り残される人たちがたくさんいる。格差解消のためネット環境の整備が、図書館の責務として語られる。幹部職員たちのやり取りを通じて浮き彫りにされるのは、図書館は人種や宗教を超えて万人に開かれた「知の基盤」でなければならないという共通認識だ。図書館では接続機器の無料貸し出し制度もあり、その手続きの様子も映し出される。ちなみにニューヨーク公共図書館は、公立ではない。財源の半分は市、残りは民間の寄付である。だから館長自ら民間支援者を前に事業内容を説明し、アピールする。官でも民でもない「公共」。それはつまり、誰にでも開かれているということだ。その価値を守ることが図書館の使命であるという意識が、すべての活動の根幹にある。いかにもアメリカらしい。

図書館を地域コミュニティの拠点として位置づけようという動きは、日本でも広く共有され、各地でさまざまな試みがなされていることは知っている。果たしてそれらは、この映画が描き出すような公共的空間として地域に根付いているだろうか。私にはどうしても気になることがある。もう10年近く前のことになるが、当時私が住んでいた地域の市立図書館では、新しい企画を次々と打ち出し、全国的にも注目されたことがあった。史料のデジタルアーカイブ化、デジタル古地図を使った街歩き、商店街と連携した地域通貨の発行などの先進的な取り組みは面白く、私は企画に参加したり、館長に話を聞いて勉強させてもらったのだが、その中でもどかしく思ったのは、図書館の職員の多くが有期雇用であることだった。役職がある市の職員数人以外は、館長も公募の任期付き職員である。アイデアを出すのは館長。実行するのも館長。市の正規職員は関わらない。有期雇用の職員に日々の担当以外の仕事で時間外労働させるわけにはいかない。残業してもキャリアアップにつながるわけではないのだから。結果として、企画は館長と数人の有志だけで進められる。新しい図書館をつくろうという気概が、組織全体で共有されているようには見えなかった。

映画に登場する人たちは、みんな雄弁でエネルギッシュだ。図書館の職員も利用者も、明確な意志を持ち、言葉で表現しようとする。誰にでも開かれているということは、そこにアクセスして何かをしたいという人が大勢いるということだ。国家でも会社でも家族でもない、図書館だからこそできることがある。それは以外にたくさんあって、しかも多くの人の人生に関わっているということを、映画は教えてくれる。図書館で何ができるのか。何がしたいのか。そういう市民の意志があれば、何となく曖昧なまま存在し続けている日本の図書館の方向性も見えてくると思うのだが。
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2019年01月24日

恋の都、花の都

 浅草六区にある「待合室」という喫茶店の2階が、ライブ会場だった。狭い階段を上がると学校の教室ぐらいの広さの部屋があり、30脚ほどの木の椅子が無造作に並べられていた。どこでもいいというので、真ん中より少し後ろに座ることにする。客席は半分ほどが埋まっていて、ほとんどが年配の女性だ。少し緊張しながら開演を待っていると、斜め前の女性に声を掛けられた。
「懐メロお好きなんですか。お若いようですけど」
60代半ばぐらいに見えるその人は、ここでの今日の3公演と明日の2公演を全部見るために沖縄から来たと言った。私のような年代がこの場にいるのが珍しいらしく、いろいろ話しかけてくれる。おかげで私はだいぶリラックスすることができた。

 「東京大衆歌謡楽団」について私が知っていたのは、戦前・戦後に流行した昭和歌謡を専門に演奏する3人兄弟のグループということ、そして彼らがまだデビューして数年の若い世代であるということぐらいで、詳しい知識や思い入れがあるわけではなかった。ただ、ある時テレビで、彼らが藤山一郎の「東京ラプソディ」を演奏している姿を見て、戦前からそのまま抜け出てきたような独特な風貌と歌声が頭から離れなくなった。一体彼らは何者なのか。ともかく一度、生で見てみたいと思ったのだ。

 午後5時半、開演。奥の部屋から出てきた3人が、定位置につく。向かって左がアコーディオン、真ん中がウッドベース、右がボーカル。3人とも確かに若い。そしてスラリと背が高く、端正な顔立ちをしている。だからなのか、ワイシャツにネクタイ、ポマードで撫でつけた黒髪という古風なスタイルが良く似合っている。特にボーカルの人は丸い黒縁眼鏡を掛けていて、いかにも戦前のインテリといった佇まいだ。

 演奏はアンプもマイクもないが、十分に迫力があった。特にボーカルは声量はあって、鼻に掛かったような甘い声だが、繊細というよりも力強く、ソウルフルな印象だ。確かに昭和歌謡なのだが、ラジオなどで聴く昔の音源の静かなイメージとは少し違う感じがする。それにしても、昭和歌謡独特のこのような歌唱法を、今この時代、どうやって習得したのだろうか。いずれにしろこの人の歌声は、模倣や再現といったレベルを超えている。

 演奏をリードするのはアコーディオン。さまざまな奏法を駆使してリズムやメロディーをアレンジし、楽曲に表情を与えている。楽器が限られていても単調にならないのは、このアコーディオンがあるからなのだろう。

 「上海帰りのリル」「港が見える丘」「憧れのハワイ航路」・・・分かる曲が意外と多い。特に思い入れがなくても、曲が分かると心が躍る。私も客席の女性たちは一緒に手拍子をしたり、体を揺らしたり。気が付くと音楽の世界に入り込んでいた。

 ライブ中盤、新しいメンバーが加わった。バンジョーを持って登場したのは3人兄弟の弟で、平成生まれの四男だという。この四男は楽団の正式メンバーなのか、あるいはサポート的な役割なのか、そこまでの説明はなかった。それはともかく、楽器が増えて、音に厚みが出るのは良いことだ。そして、次の曲が、あの「東京ラプソディ」だった。

 軽快なイントロに、待ってましたと拍手が起こる。やはりこの曲が十八番らしく、会場の温度が一気に上がるのが分かった。手拍子とともに演奏もどんどんヒートアップしていく。驚いたのはサビの部分だった。
「た〜の〜しみやこ〜」
「みやこ!」
「こ〜い〜のみやこ〜」
「みやこ!」
なんと、掛け声である。客席の女性たちは声を合わせ、舞台と一緒に曲を盛り上げている。私は圧倒されるばかりだった。そして、昭和歌謡というものを誤解していたかもしれない、と思った。歌い手は直立不動で、聴き手は静かに、というイメージが何となくあったのだが、考えてみれば、それはただの先入観に過ぎない。その曲が流れていた時代、それがどのように歌われ、どのように聴かれていたのか。もしかしたら、このように自由で賑やかな音楽体験こそが昭和歌謡の魅力だったのかもしれない。

 終演後、沖縄の女性にまた話しかけられた。
「どうでしたか、昭和歌謡」
「いや良かったです。歌も演奏も迫力があって・・・」
うまく表現できず、あいまいなことを言う私。女性はさらに続けた。
「あの声、いいでしょう。うっとりしちゃう」

 夜の浅草六区はだいぶ人通りも少なくなり、風が冷たかった。演芸ホールの外観だけが煌々と、賑やかに見える。ふと、「東京大衆歌謡楽団」が演奏する昭和歌謡とは、あるいは落語のようなものかもしれないな、と思った。古いけれども確固とした形式がある。歌われているような世界は消えてしまっても、それをフィクションとして、ひとつの世界観としてしっかり構築できれば、普遍性を獲得できる。時代の制約を超えることができる。ただ郷愁の対象として消費されるのではなく、同時代と切り結ぶ表現形式として、この音楽が生き残っていってほしい。

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2018年11月05日

センチメンタルな旅 〜北海道・津別峠再訪

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 再訪という言葉にはセンチメンタルな響きがある。あの風景をもう一度見たい。あの人にまた会いたい。再びそこを訪れることで、人は「あの時」に立ち戻り、懐かしく思う。と同時に、「あの時」がもう二度と戻ることができない過去であることに気づかされる。変わってしまったのは、その場所なのか、自分なのか。時の流れの中に身を置いて、自らの立ち位置を再確認したい。同じ場所を旅する人の心の中には、そんな欲求があるのかもしれない。

 北海道東部の津別峠。初めて見る屈斜路湖の眺望に圧倒されながら、私は7年前の自転車旅を思い出していた。オホーツク海沿岸の標津から津別に向かう行程の途中で日が暮れてしまい、月明かりを頼りに峠越えしたこと。翌日、どうしても眺望が見たくて津別から再び峠を上ったが、展望台は霧で何も見えず、失意のまま下る途中、2匹のキタキツネに出合ったこと。いずれも忘れられない思い出だ。
 7年前、私はこの峠で、眺望という目的が果たせなかった代わりに、何か自分にとって大切なものを得たように思う。もし最初の峠越えが夜にならず、当初の計画通りに景色が見えていたとしたら、たぶんここは旅の通過点として記憶の中にしまわれ、こうして何年も経って再訪することもなかっただろう。

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2011年9月、津別峠付近で出合ったキタキツネ。2匹のうち1匹は
自転車に興味を持ち、タイヤをくわえようとするので、気が気ではなかった



 そんな津別峠、今では「雲海」の名所としてPRされているというのが面白い。津別町の宿泊施設では、夏から秋にかけて早朝の「雲海ツアー」があり、参加者を募集している。ガイドによる送迎付きで、通常は9時にならないと開かない展望台に上って、いろいろ説明してくれるという。
 標高947メートルの津別峠ならでは、同じ屈斜路湖の展望スポットである美幌峠と差別化を図ろうということか。それにしても、あの湖の眺望が見えないことをもって「絶景」とは。物事の価値は見方によって変わるもの、とはいえ、それでは自分のこの7年越しの思いというものは、いったい何なのか。あちこちに張られたポスターの写真で見る雲海は、確かに美しかったけれども。

 時は流れる。時代は変わる。あれからいろいろあって、自転車の旅はレンタカーの旅になった。一人旅は家族旅行になった。変わる自分と、変わらない自分。変わりたくない自分と、変わらなければならない自分。これから先、どうなるか分からないけれど、旅は続けようと思う。いくつになっても「そぞろ神」の声に耳を傾ける旅人であり続けたいと思う。
 

 
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2018年10月30日

秋、祝祭風景

 ガラス越しに見るサケは、美しかった。紅色の婚姻色が鮮やかな鉤鼻のオス。小柄ですんなりと清楚なたたずまいのメス。入り交じってゆったり穏やかに泳ぐさまを見ていると、3年も4年もかけて数千キロの旅をしてきた魚たちとは思えなかった。しかし確かに彼らは、生涯を懸けた旅の最終目的地である故郷の川に、今まさにたどり着いたところなのだ。

 北海道東部の標津町にある標津サーモン科学館。ここの見どころのひとつが、魚道水槽だ。科学館のすぐ裏の標津川から導かれる水路がガラス張りになっていて、9〜10月には遡上してきたサケを間近に見ることができる。魚道の先には直径4メートルの捕獲用水車があり、いけすに捕らえられたサケは、地元のさけ・ます管理団体によって人工孵化がなされるという。

 自然産卵の場合、遡上してきたサケは川で1ヵ月ほど生きるのだと、職員の男性が教えてくれた。産卵に適しているのは、湧き水のある川底。産卵場所をめぐる争いは激しく、メスは他のメスの卵を掘り返してまで、自らの卵を産もうとする。だから産卵後も1週間ほど生きて、守っているのだという。オスはオスで、メスをめぐって何度も争いを繰り返す。そうやって傷つけ合い、ボロボロになりながら、サケは生命を全うする。

 建物を出て、標津川に架かる橋から見下ろす。川全体を埋め尽くすような無数の黒い影。サケの群れである。橋は観覧橋といい、遡上するサケを観察するための施設。橋の下には柵があり、ここから上流へは遡れないようになっている。つまりこの無数のサケは生命を全うすることはできないわけだ。それでもその無数に動めく影は、華やいで見えた。とにかく生きろ。生を肯定し、謳歌せよ。そんな風に言われている気がした。


 
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2018年09月21日

タイムキーパーの不安とおじいさんの畑  倉敷市真備町、西日本豪雨ボランティア

8月17日 晴れ

午前9時25分
JR新倉敷駅北口
 ロータリーの一角に、人が集まっている。帽子、作業着、長靴、動きやすい格好をした、総勢20人ほど。9時半に、ここにボランティアセンターの送迎バスが来ることになっている。自分もその一群に加わり、バスを待つ。青空、日差し、シャーシャーというクマゼミの声。みんな静かに待っている。1人で来ている人が案外多い。

午前9時40分
倉敷市玉島の災害ボランティアセンター
 センターは駅から2kmほどの中国職業能力開発大学校に設置されている。受付のため体育館に入ると、長蛇の列。更衣スペースを探し、着替える。長袖、長ズボンの作業着と、安全靴。シール状の名札にマジックで日付と名前を書き、肩に貼ってから、列に並ぶ。
 若い人が多いせいか、館内は活気にあふれている。受付を済ませた人は、そのままパイプ椅子が並ぶエリアに進むようになっている。そこでガイダンスを受けるのだ。システマティックな人の流れがつくられている。

午前10時10分
 ガイダンス。まず赤十字の人から、熱中症防止について。「20分作業したら、10分休憩」という原則を必ず守るようにと言われる。次に、ボラセンのスタッフから、今日の作業について。座った横一列の5人で班をつくるので、話し合って、リーダーとタイムキーパーを決めてくださいという。
 私の列は、男性2人と女性3人。Oさんという男性が、2回目の参加ということで、リーダーを引き受けてくれた。リーダーは、作業の指示をしたり、終了後に報告書を提出したりするのが役割。そのOさんに頼まれて、私がタイムキーパーをすることになった。時間を把握して「20分作業、10分休憩」を守らせるのがタイムキーパーの役割。人の命にかかわる任務を仰せつかってしまった。


午前10時40分
真備町へ向かうバス
 川を渡った途端、景色が一変した。視界が黄色くなった気がする。砂だ。道路だけでなく、屋根にも砂をかぶった痕跡。車が通るたびに砂塵が舞い、街全体がほこりっぽい。大通り沿いにスーパーや家電量販店が並ぶ郊外の街並み。よく見ると、ほとんどの建物は1階の窓ガラスがなく、がらんどうになっている。真備町では町の約3割に当たる約1200ヘクタールが浸水し、4000棟を超す家屋が被害を受けたという。

午前11時5分
真備町のボランティアセンター岡田サテライト
 サテライトは、いわば前線基地。公民館の建物が充てられていた。「これからマッチングをしますので、各班のリーダーはこちらへ来てください」と、サテライトのスタッフ。10分ほどして、戻ってきたOさんは「草取りらしいです」と私たちに告げた。同じバスで来た4人の班と一緒に作業するという。スタッフの女性が「けっこう大変な作業かも。肌を出さないように。軍手とマスクがそこにあるから、ない人は持ってって」と言う。

午前11時15分
 サテライトの備品の鎌と、草を入れるビニール袋を各自持ち、歩いて現場へ。さっきのスタッフの女性についていく。やはり1階の窓ガラスがない家が多い。あちこちの家で片付けをするボランティアの姿。「おつかれさまです」と声を掛けながら歩く。
 「うちも1階が浸水したんです」とスタッフの女性が言う。この近くに住んでいるそうだ。高梁川に合流する小田川という小さな川が、増水した高梁川から逆流して溢れたのだと教えてくれた。40代前半くらい、よくしゃべる朗らかな感じの人だ。「どちらから来られました?」と、1人1人に話しかけてくれる。
 Oさんが岡山市の人で、班の女性2人はOさんの連れだと分かった。私も聞かれたので「長野からです」と答えると、スタッフの女性とOさんは驚いた様子で、「遠くから来ていただいて、ありがとうございます」と言った。ひたすら恐縮。

午前11時25分
真備町岡田の住宅地
 現場は、住宅に囲まれた畑だった。正確には「畑だった荒れ地」。低い柵で囲った30坪ほどの土地は、全面にわたって、腰ほどの高さの雑草が生い茂り、一角にあるトタンぶきの物置小屋は、錆びて傾いている。
 「うわ、ヘビ」と、誰かが叫ぶ。何から手を付けていいのか、みんなで腕組み。気づくと、スタッフの女性が、誰かと話している。見知らぬおじいさんだ。
「このな、柵も取ってほしいんよ。物置もな、中は片づけたけん、壊してもうてええんよ」
「でもおじさん、時間が限られとるけん、どこまでできるかわからんよ。まず草取りせんと」
 おじいさんは70代くらい。黄色いTシャツに眼鏡。甲高い岡山弁。2人は知り合いらしい。
 それにしても、これはちょっと酷ではないか。私有地の草取り、建物の撤去まで? いいように使われてるんじゃないか、と思った。ボランティアは業者じゃない。
「これって、あんまり災害と関係ないですよね」
 思わず口に出して、Oさんに同意を求めた。
「まあ、よくあることですよ」
 Oさんは淡々としている。釈然としないのは自分だけなのか。
 まずは雑草を何とかして、後のことはそれから考える、ということになった。とにかくやるしかない。荷物を道端に置いてから、帽子をかぶり、マスクをして、軍手をはめる。

午前11時32分
 作業開始。みんなでビニール袋を持って、茂みに分け入る。腕時計を見ると、もう昼前。そうだ、タイムキーパーだった。釈然としなくても、自分の役割は果たさなければ。
 片っ端から草を抜く。袋に詰める。雑草といってもさまざま。すんなり抜ける草もあれば、根が張っていて、腰を入れてもなかなか抜けない草もある。草むらには小さな虫がたくさん、抜くたびに根についた土も舞い、ほこりっぽい。マスクをしなければ作業にならない。
 奥に進むと、作物だったとおぼしき枯れ草が出てくる。カボチャ、トウモロコシ、ナス。畑というよりは、家庭菜園か。何年前まで作っていたのだろう。あのおじいさんが育てていたのか。だとすれば、なぜやめてしまったのか。なぜこんなになるまで放置しているのか。
 20分なんて、あっという間。みんなに知らせなければ。でもどう言えば。とりあえず声を張り上げて、「20分経ちましたあ」。Oさんが「休憩しましょう」とさらに大きな声でフォローしてくれた。

午前11時55分
 最初の休憩。道端に座って、水分補給する。空が青い。風があるので暑さはそれほどでもない。向かいの家には、2階の壁まで水の跡がある。住人は避難しているのか、人の気配がなかった。静寂の街にたたずむボランティアの10人。そういえば、スタッフの女性とおじいさん、どこに行ってしまったのか。
 「今日は涼しくて助かりますよ」とOさんが言う。真備町のボランティアは2回目、前回はつい先週だったという。決壊した堤防の近くで、側溝にたまった流出物の除去作業。とにかく暑くて、活動は2時間くらいが限界だった。「あの暑さに比べれば、今日は天国ですよ」。

午後0時2分
 作業再開。視界が開けてきた。雑草エリアはあと半分くらい。意外と進むものだ。
 みんな黙々と作業する。草を抜く人、袋に詰める人、袋を運び出す人、何となく分業の態勢ができて、能率が上がる。やればやるだけ、事態が進む。成果がはっきり見える。足腰にくるけど、つらくはない。なんだかすがすがしい。心の中のもやもやが、だんだん晴れていく。
 
午後0時25分
 食事。各自、持参のおにぎりやパンなどを食べる。私はカロリーメイト。道端には日陰がない。猛暑ではないにしても、少しこたえる。「だいぶ進みましたね。もう少しですね」と、班のメンバーのもう1人、若い女性が快活に言う。1人で来ているらしい。最初のうちは全然しゃべらなかった。打ち解けてきたようだ。
 真備町はどんな所か。岡山県人のOさんたちに聞いてみる。昔から水島コンビナートで働く人たちの社宅が多くあった地域。意外と海に近いのだ。土地が低くて、何十年か前にも洪水があったという。
 長野は標高どのくらい、と聞かれる。400〜500メートル。蒜山ぐらいか、とOさんの連れの女性。涼しいでしょう。まあ朝晩は。でも大して変わらないです。長野でも35度超えが続出した7月。あの暑さ、何だったのだろう。
 1時半に帰りのバスが出る。それまでにサテライトに戻らなければいけない。作業は遅くても1時10分くらいまで。ということは、次がもう最終クールだ。
 
午後0時45分
 さあ始めるか、という時に、おじいさんが自転車でやってきた。スーパーの袋に、はちきれんばかりのペットボトルのお茶やおにぎり。差し入れだという。袋をボランティアの一人に渡すと、おじいさん、カメラを手に、写真を一緒に撮ってくれと言う。
 「あの小屋は50年前からあるんよ。友達の畑にあったのをもろて、そのまま持ってきたんや」
この土地に、深い思い入れがあるらしい。ボランティアの1人がカメラを構え、おじいさんを真ん中に。みんなで並ぶ。おじいさんはカレンダーを胸の位置に掲げている。8月17日のところに印がついている。
 「これも縁じゃ。記念になるからの」
 何枚か撮り、あらためてさあ始めるか。と、今度はスタッフの女性が戻って来た。手には、はちきれんばかりの、スーパーの袋。差し入れはアイスの「ガリガリ君」だった。

午後0時55分
 作業再開。最終クール、どこまでできるか。みんな無言で、作業に集中する。
 あのおじいさんにとって、この土地は何なのか。整地するということは、もしかして、手放すつもりなのか。50年も前から耕してきた土地を手放さなくてはならなくなったきっかけが、あの豪雨だったとしたらー
 事情は分からないが、いずれにせよ、「災害と関係ない」という発言は適切ではなかった気がする。作業の経緯や意味についてあれこれ言うべきではない。ボランティアの役割は、復興の手伝いをすること。ニーズに応えること。できることをすればいい。できないことはできないと言えばいい。Oさんの淡々とした態度は、そんな心構えの表れか。

午後1時15分
 すべての作業終了。雑草はほぼ取り終えた。「だいぶすっきりしたね〜」と班の女性陣。視界が開け、一帯の景色が明るくなった。
 スタッフの女性が「あとはまた明日のボランティアがやりますから」と言う。雑草の袋もそのまま置いていっていいという。それはいいとして、崩れかけた物置小屋と柵。どうするのだろう。
 各自、自分の荷物と備品の鎌を持って、サテライトへ。鎌も結局、使わなかった。この手だけで、あそこまでやった。確かな手応えと達成感。
 帰り道、「横溝正史疎開宅500m」という看板を発見。小さい字で「名探偵金田一耕助誕生の地」とある。真備町にそんな場所があるとは。来なければ気づかなかっただろう。訪れてこそ知る事実。頭でなく、足で得る知識が自分の中に増えていく。それが楽しい。

午後1時25分
真備町のボランティアセンター岡田サテライト
 靴を水で洗い、消毒液でうがいと手洗い。テントが張られた専用のスペースにスタッフがいる。徹底している。息つく暇もなく、帰りのバスが入って来る。
 
午後1時32分
 バス出発。玉島のボランティアセンターまで約30分。しばしの休息。黄色い街には、あちこちにまだ作業するボランティアの姿が。自分たちの作業時間は正味、2時間もなかった。熱中症対策としても、もう少し長くてもいいような気がするが。
 災害から1ヵ月半。訪れてみれば、まだまだ人手が必要だと分かる。行政や、自衛隊や、専門業者の手が届かないような、住民1人1人の暮らしの課題。あまりに膨大なそれらの課題は、一つ一つ手作業で解決していかなければならない。そのためにボランティアが必要なのだ。暮らしの日常を取り戻すためには、地道に手作業を積み重ねていくしかない。
 おじいさんのあの畑は、どうなるのだろう。草を取って土地も心もすっきり。いろいろ考えることもあったが、結果的にやりがいのある活動になった。少しでも、おじいさんの助けになればいいけれど。

午後2時
玉島のボランティアセンター
 出先から戻って来た人でいっぱい。バスを下りて歩くうちに、Oさんたちとはぐれてしまった。体育館の前で、もう一度靴を洗ってうがいと手洗い。かき氷のサービスがあり、メロン味にする。
 今日のボランティア参加者は976人。体育館の掲示板で知る。椅子に座ってかき氷を食べ、しばらく休憩。冷房が効いて気持ちいい。

午後2時30分
新倉敷駅北口
 バスを見送る。ボランティアたちはてんでに散ってしまって、静かな駅前。ここにまた来ることがあるだろうか。次は「横溝正史疎開宅」に行ってみよう。
 とりあえず、めしでも食うか。
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2018年08月13日

あなたなら、どうする  〜「ゲッベルスと私」〜

おばあさんが俎上に乗せられている。103歳のポムゼルさん。ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスの秘書だった。モノローグが延々と続く。宣伝省での仕事の内容、そこで働くようになった経緯、ボスであるゲッベルスの人柄・・・カメラは、その言葉遣いや表情、身振りを、余すところなく映し出す。そこから何を読み取るか。このおばあさんについて、どう思うか。映画は観客に、何らかの判断を下すように迫ってくる。

「ユダヤ人迫害についてはよく知らなかった」「私に罪があったとは思わない」「私は自分の仕事と生活に一生懸命だった」そのような独白の合間に、当時の宣伝映像が挟み込まれる。たとえば、ポーランドのゲットーで餓死したユダヤ人の無数の死体を運搬する映像。おばあさんは、本当に知らなかったのか。嘘をついているのではないか。判断材料は、語り続けるおばあさんの顔しかない。

無数のしわが刻まれたおばあさんの顔。見ていると、どうしても、自分の祖母の顔が浮かんでしまう。おばあさんは正直に話していると思う。語り口も理路整然としっかりしている。当時の状況と自分の立場を正確に伝えようという誠意が感じられる。おばあちゃん子のセンチメンタリズムかもしれないが、私にはこのおばあさんを批判したり、責めたり、軽蔑したりすることはできそうにない。では、どのような判断を下せばいいのだろう。

想像してみるしかない。おばあさんの若い日の姿。なかなかの美人だ。速記のスキルを習得し、出世していくキャリアウーマン。ラジオ局での仕事ぶりが評価されて宣伝省に入ることになった。仕事で女性が認められるには大変な努力が必要だ。評価を落とさないように、必死に働く毎日。余計なことは考えず、与えられた目の前の義務を果たすのに精一杯。自分が勤める国家が何をしているか、薄々感づいてはいるけれど、詳しくは知らない。知ろうとも思わない・・・

知りたいと思わないことは、知ろうとしない。見たいと思わないものは、見ない。思えばそれは、今の自分にも通じる行動原理でもある。たとえば、国による精神障害者やハンセン病患者の隔離政策。たとえば旧優生保護法下の不妊手術。私は最近になるまでほとんど何も知らなかった。知ろうとしてこなかった。昨年生まれた娘がまだお腹の中にいる時、出生前診断を受けるかどうか検討した。障害があるということがどういうことか、診断を受けることが何を意味するのか、私はそれまで、ろくに考えたこともなかった。考えないままに、何となく時流に乗ろうとしていた。知らないうちに、自ら進んで命の選別に加担しようとしていた。

「若い人は、もし自分があの時代にいたらユダヤ人を助けたはずだと言うが、きっと彼らも同じことをしていたと思う」と、おばあさんは言う。それは無為を正当化する言い訳なのだろうか。それとも、あの時代のことはあの時代を生きた者にしか分からない、という諦めの表現なのだろうか。しかし私にはその言葉が、何よりも私自身に投げかけられた問い、私の生き方の根本をえぐるような挑発的な問いとして、突き刺さってくる。

「あなたなら、どうする」

映画を通じて対峙するおばあさんと私。俎上に乗せられているのは、私の方だったのだ。



 (岩波ホール 6月30日)
posted by Dandelion at 04:43| 長野 ☀| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月25日

クジラが来た島

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山口県西部の日本海側にある青海島(おおみじま)。長門市仙崎からバスで青海大橋を渡り、さらに20分ほど走った終点に、通(かよい)という集落があった。島の東端にあるこの漁村には、捕鯨で栄えた歴史がある。漁港近くの国指定史跡「鯨墓」と、隣接する「くじら資料館」が、その記憶を静かに伝えていた。

鯨墓は、クジラの胎児を供養するためのもの。1692年に建立された。クジラは冬の日本海を出産と育児のために南下するが、通では冬を漁期としていたため、受胎したクジラを捕獲することがしばしばあった。漁師たちはクジラを解体した時に出た胎児を寺に運んで埋葬し、さらに捕獲したクジラには戒名を付けて過去帳に記録した。クジラを弔う法要は、今も毎年営まれているという。

72頭の胎児が眠るという鯨墓は、海を見下ろす高台にあった。くじら資料館のパネル展示によると、葬られた胎児が、そこで生きることができなかった大海を見られるように、という思いが込められているということだ。

資料館には「鯨位牌」や過去帳、捕鯨用具などのほか、地元の小学生の手書きによる解説ノートもあった。通で捕鯨が行われたのは江戸時代の初期から明治40年ごろまでで、捕獲数は235年間で約1000頭、年平均だと4頭ほど。クジラ1頭の値段は現在の価値で3400万円ほどだった、などと、かわいらしい文字で書いてある。湾内に入ってくるクジラを待つという方法で、年に4頭。古式捕鯨とは、なんともつつましい漁なのだ。

資料館を出たところで、敷地にある大きなクジラの模型が気になった。聞いてみると、それは毎年7月の「くじら祭り」で使う「鯨船(くじらぶね)」だという。受付の若い女性とは別に、奥の事務所から年配の男性が出てきて、現物を前に詳しく説明してくれた。くじら祭りは、鯨墓の建立300年に当たる1992年に始まったこと。祭りでは、海上で鯨船を使って古式捕鯨の再現をすること。全長約13メートルの鯨船は船舶の登録をしている文字通りの「船」で、人が乗り、潮を吹く装置もあること、等々。

「漁師役、ネットで募集してますよ。どうです、やってみませんか」
古式捕鯨の再現では、赤いふんどし姿の若者が漁師役となり、数人ずつ小船に乗って、鯨に見立てた鯨船を追い込む。その漁師役のなり手が地元では少ないため、全国から募集しているのだという。祭りが始まって今年で26年。昔は3500人いた漁師も今では1200人になった。ほら、あの丘の上に小学校があるでしょ、あそこの子どもたちも10数人しかいない。若い人がどんどん出て行って、もう私らみたいな年寄りばかりですわ、と男性はしみじみと言う。この人はもしかしたら、学校の先生だったのではないか。首に提げた名札にある「長門市教委」の文字を見て、ふと思った。

なんだか話が面白くなってきたけども・・・
タイムリミットが迫っていた。「4時5分のバスですね」と、男性が察してくれる。これを逃すと帰れないのだから、仕方ない。あと2分、あと1分、やって来るバスが見えたところで、急いで別れを告げる。明治時代に終わっていた捕鯨の歴史が、平成になってから語り継がれることになったのはなぜなのか。そこにはどんな経緯があったのか。皮肉なもので、バスに乗ってから、聞きたいことが次々と頭に浮かんでくるのだ。ああ、一期一会のやるせなさ。

遠ざかっていく集落の街並み。青い空に、トビが舞っている。年に1度、全国から人が集まるというクジラ祭り。古式捕鯨の再現とはどんなものなのだろう。今は歩く人の姿もないこの集落が、どんな賑わいを見せるのだろう。また来ることがあれば、あの男性の話を、今度はじっくり聞いてみたいと思った。

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2017年10月29日

草津温泉、もう一つの歴史 〜重監房資料館を訪ねて

草津温泉で有名な群馬県草津町には、国立のハンセン病療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」がある。標高約1100メートル、総面積約73万平方メートル。尾根を切り開いた広大な敷地に居住棟や診療施設などが建ち並び、今も約80人の元患者が暮らす。1932年創設のこの療養所には、戦前から戦後にかけて「重監房」という建物があった。反抗的とされた入所者が監禁され、23人が死に追い込まれたという、全国で唯一の懲罰施設。療養所の広大な敷地の一角に建つ「重監房資料館」では、その重監房の一部を実物大で復元し、医療の名の下に国家が行った人権侵害の実態を伝えている。

温泉街中心部のバスターミナルから歩くこと約40分。国道から静かな林道に入り、しばらく歩いた先に、その資料館はあった。レンガ風の壁の、こぎれいな建物。あたりに人の姿はない。開いているのだろうか・・・私はいささかの不安を覚えた。そもそもここは療養所の敷地なのだ。勝手に入ってきて良かったのだろうか。

入り口から中をうかがう。事務室の奥に、座っている人がいる。「見学したいんですが」と告げると、初老の男性が出てきた。入館無料とのこと。受付で名前を書くと、男性は「こちらへどうぞ」と先に立って歩き出す。案内されたのは、学校の視聴覚室のような部屋だった。「まずこれを見てから、展示を自由にご覧ください」。そう言うと男性は明かりを消し、扉を閉めて行ってしまった。

資料館ができたのは2014年4月。らい予防法廃止(1996年)と、国の強制隔離政策の責任を認めた国家賠償請求訴訟熊本地裁判決(2001年)の後、重監房の復元を求める元患者らの要求を受けて、厚生労働省が開設した。1938年に設置された「重監房」には、全国の療養所から反抗的とされた入所者らが送り込まれ、暖房もなく食事もろくに与えられない過酷な環境に置かれた。47年に廃止されるまでの間に延べ93人の患者が収監され、うち23人が亡くなったとされるが、十分な調査もされないまま取り壊されたため、詳細な事実は未だ定かではない。2013年には、基礎部分だけ残る重監房の発掘調査が行われ、資料館にはそこで出土した南京錠や食器、眼鏡なども展示されている。

その部屋で見たのは、15分ほどの啓発番組だった。ハンセン病の概要や強制隔離の歴史、重監房ができた経緯などが関係者の証言を交えてまとめられていた。国の政策が誤りだったという視点から番組は作られ、私はこの問題に対する国の姿勢というものを明確に感じ取ることができた。

教室を出ると、館内はやはりひっそりしている。私は順路に沿って、第1展示室に向かった。収監者の記録を紹介するパネルには、氏名、収監時期や理由、死亡者はその年月日などが記されていた。収監理由は「無断外出」「飲酒喧嘩」「浮浪」「逃走癖」「本妙寺部落役員」「園内不穏分子」など、さまざま。収監は療養所長の権限だったということだが、それがいかに恣意的に行使されていたかが分かる。氏名の一部は「□山□男」というように伏せ字になっていて、「収監者の尊厳を守るため」という断り書きがあった。負の歴史を伝えるための展示が、なぜ匿名なのか。私には解せなかった。国の事業の限界だろうか。

展示室の奥には、重監房の一部が実物大で復元されていた。灰色のコンクリートの壁に、分厚い扉の入り口には「特別病室」の表札が掲げられている。内部の通路と独房はやはり壁で仕切られ、中に入ると建物の全容は分からない。記録によれば、独房は全部で八つ。医務室もあったが、医療が行われた形跡はないという。通路から身をかがめて、壁のくぐり戸を抜ける。そこが独房の区画だった。

4畳半ほどの板敷きの独房。覗き込むと、薄い布団が敷かれ、人形が座っている。入所者の証言によれば、冬は氷点下20度近くにもなり、積雪も深かったが、暖房も電気もなかったという。明かりといえば、壁の上部に開いた縦約10センチ、横約70センチの穴から差し込む光だけ。床と壁の間には、小さな食事の差し入れ口がある。食事は1日2回で、わずかな麦飯と梅干し、具のないみそ汁といった程度。2ヵ月と定められた期間を超えて収監された人も多く、記録によれば14人が「獄死」、8人が病気のため「出獄」後1年以内に死亡したという。

続いて、第2展示室へ。強制隔離と療養所の歴史をまとめたパネルとともに、4年前の発掘調査で出土した南京錠、眼鏡、椀などが並んでいた。丸い縁の眼鏡は、片方の柄が折れている。ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長で、栗生楽泉園の自治会副会長でもあった詩人の谺(こだま)雄二さんは、重監房を「日本のアウシュビッツ」と呼んだ。国家が法の名の下に個人の存在を否定し、抹消する。それは世界史の中の事実ではなく、自分がその一員である、この日本という国が積極的に推し進めた政策でもあったのだ。

重監房は1947年8月、参院選補欠選挙の活動で日本共産党員が栗生楽泉園を訪れたことをきっかけに、その存在が明るみに出る。入所者自治会が重監房撤廃と職員の不正を訴え、それを新聞が報道、国会は議員調査団を楽泉園に派遣した。そしてその数ヵ月後、重監房は廃止、一部の職員が休職や懲戒免職になった。

第2展示室では、その議員調査団の視察を伝えるニュース映像を見ることができる。「日本ニュース 戦後編第91号 『楽泉園の実状 群馬』」というタイトルのモノクロ映像には、重監房の外観や独房内部の様子が映っている。これが重監房の姿を知ることができる唯一の記録ということだ。

議員調査団訪問の6年後、重監房は突然取り壊される。入所者には何も知らされなかったという。それが戦後の話、「基本的人権」をうたう日本国憲法が施行された後の出来事であることに、私は愕然とする。戦争が終わっても、隔離政策を定めた法の規定は残った。そして、重監房の建物やその公的記録は残らなかった。議員調査団の「調査」とは一体、何だったのか。釈然としない思いは消えなかった。

ところで、その重監房はどこにあったのだろう。事務室で尋ねると、さきほどの初老の男性がA4版1枚のマップをくれた。重監房の遺構は療養所西端の正門の近くにあり、そこまで敷地の中を歩いて行けるという。療養所の東端にある資料館から敷地の外周に沿う形で見学コースが設けられていて、一般の人が園内の史跡を見学しながらたどれる、ということだ。私はマップを手に、そのコースを歩いてみることにした。

まず、資料館の隣の納骨堂を見学する。東屋に箱入りの線香が置いてあり、1本取ってお供えする。資料によれば、2006年までにこの療養所で亡くなった入所者は2003人。うち納骨堂に納められている遺骨は1192柱。納められていない遺骨のうち遺族に引き取られたものはごくわずかで、多くは納骨堂が建てられる前に誰のものか分からなくなってしまったという。病気というだけで家族や社会との縁を切られた入所者たち。亡くなっても、その縁が戻ることはなかったのだ。

案内板に従って、先へ進む。居住区域は立ち入り禁止ということだが、道のすぐ脇には赤い屋根の長屋が並んでいる。窓も庭も丸見えで、庭の手入れをしているお年寄りらしき人の姿もあった。マップには「入所者に話しかけないでください」と書いてある。こんなところをほんとに歩いていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。私は少し気後れしながら、居住区域の方を見ないようにして先を急いだ。

道は林の中に入る。午後3時すぎだが、日は傾き、風は冷たい。上ったり下ったり、起伏が激しくなる。木々の中に、火葬場跡の供養碑があった。1964年まで、ここで入所者の火葬が入所者の手で行われていたという。さらに進むと、宗教団体の施設が続く。天理教会堂、日蓮宗妙法会、浄土真宗大谷光明寮、創価学会の会館。死んでも社会には戻れない。そんな絶望的な不条理を、宗教は入所者に対して、どのように説明したのだろう。

「松の湯」という共同浴場の建物があった。案内板の説明によると、療養所で温泉が引いてあるのは全国でも栗生楽泉園だけという。温泉は開所時に引かれ、今も7ヵ所の共同浴場がある。この松の湯は入所者減少のため3年前に閉鎖された、とのこと。1945年度に1313人いた入所者は、2016年度には79人。歴史を知る人が年々減っていく。

見学コースのほぼ中間点にある社会交流会館には、草津温泉にかつてあった湯之沢集落についての展示があった。湯之沢は、世界的にも珍しいとされるハンセン病患者の自治区。湯之沢の存在は、栗生楽泉園の沿革に深く関わる。なぜ草津のような有名な温泉地に、ハンセン病療養所があるのか。ここに来る前から漠然とあった疑問が、徐々に解けていく。私は夢中になってパネルの年表を読み続けた。

・・・明治時代初め、草津温泉はハンセン病に効能があるとされ、多くの患者が湯治に訪れた。明治中期になると、温泉を近代的な保養地として発展させようという動きが地元に強まり、患者たちは当時温泉地の外れにあった湯之沢という荒地への移転を命じられる。患者たちは反発したが、一般客に気兼ねなく療養できる居住地の建設に希望を見出して定住する人も増え、やがて湯之沢には患者やその家族らが営む旅館や商店が建ち並ぶようになった。1902年、湯之沢は草津町の行政区の一つとなる。区長が置かれ、消防や青年団などの組織もでき、町会議員も選出された。定住者の職業は、飲食業や呉服屋、鍛冶屋、大工、左官など多岐にわたったという。1916年、イギリス聖公会の宣教師として来日したコンウォール・リー女史が湯之沢に移住し、患者の救済活動を始める。教会や病院、幼稚園、小学校、患者が暮らすホームなどができ、湯之沢はハンセン病者の自由の別天地として発展していく・・・

そんな湯之沢の歴史にとって、転換点となったのが1931年。「癩(らい)予防法」の成立だ。公衆衛生の観点からすべてのハンセン病患者を強制隔離することを定めたこの法律に基づき、国は患者の収容先として各地に療養所を開設する。その一つである栗生楽泉園の目的は、湯之沢地区の解体と住民の受け入れだった。つまり、湯之沢という集落があったからこそ、草津に療養所がつくられた。そういうことだったのだ。

興味深いのは、湯之沢の人たちの療養所への移転が必ずしも強権的に行われたわけではないことだ。移転を迫る群馬県に対し、住民は少しでも有利な補償を得るために条件闘争をした。年表の説明から解釈する限りでは、県は警察による強制力を発動していない。住民側は代表を立てて行政と対等に交渉を重ねた、というふうに読める。事実だとすると、それはおそらく、湯之沢が正式な行政区だったからだろう。戦前の大日本帝国憲法の下、この山間部の温泉地に、住民自治が機能していた、というのは言い過ぎだろうか。

・・・1941年、湯之沢の住民はついに療養所への移転を受け入れ、群馬県知事と移転に関する覚書を交わす。県は移転命令を発し、湯之沢区は解散。翌年末までに湯之沢のすべての患者の移転が完了し、国内唯一のハンセン病者自治区は55年にわたる歴史の幕を閉じることになった・・・

国家によるハンセン病患者の強制隔離。思えば、私はその歴史的経緯について、何一つ知らなかった。隔離政策の以前、患者たちがどのように暮らしていたのか。草津の温泉街には、患者たちの自治が認められた地区があった。そしてその患者たちが団結して、権力と対峙した。ここで知った歴史には、「差別」という言葉で一括りにできない奥深さがあるように思える。歴史をイメージで捉えるだけで、何も見ず、疑問も持たず、知ろうともしない。それもまた、一つの偏見なのではないか。

資料館でもらった冊子には、社会交流会館に最近配属されたという常勤の学芸員が写真入りで紹介されている。話を聞いてみようと思ったが、会館の事務室にいる男性は別人のようだった。閉館時間も迫っていて、今日のところはこのまま帰るしかなさそうだった。

建物を出ると夕日が眩しかった。マップによると、ここからさらに南側には下地区というエリアがあるが、そこに向かう道は立ち入り禁止になっている。「自由地区」とも呼ばれる下地区は、戸建て住宅が並ぶ居住区。湯之沢集落には資産を持つ患者もいて、国は入所の際に自費で家を建てて健康な介添人(家族など)と一緒に暮らすことを認めたという。このような自由地区は、他の国立療養所には例がないといい、おそらく湯之沢の人たちが勝ち取った条件の一つなのだろう。正確なところは調べないと分からないが。

敷地の西の端に沿って歩く。舗装路だが、ずっと上り坂だ。病棟や事務本館がある。大学のキャンパスのようだ。時折、車が通るが、相変わらず歩いている人とは出会わない。15分ほどで正門への上り道に出る。その途中に、案内板が立っていた。林の中のぬかるんだ道に入る。50メートルほど先に、「重監房跡」と記された石の記念碑があった。

東西約23.6メートル、南北約15.5メートル。林の中にぽっかり空いた敷地は、柵で囲われている。桝目のようなコンクリートの基礎が残る遺構は、きれいに整地されていた。少し上がった「展望所」から全景を見渡す。高さ10メートルを超す木々の枝葉は鬱蒼として、薄暗い。目の前の景色に、資料館に再現されていた建物を重ね合わせてみる。うまくイメージすることができない。もどかしい。

私は東日本大震災の被災地で見た景色を思い出す。津波で流された建物の基礎だけが残る街。悲惨な景色であることは分かっていても、心の底から悲しみは湧いてこない。私は、建物があった街の姿を知らなかった。だから、失われたものがどれだけ膨大なのか、本当のところ実感できなかった。あの時のもどかしさに似ていると思った。

病気を罪とみなし、患者を社会から追放する。隔離し、なかったことにする。医療従事者が、患者に懲罰を与える。それは常軌を逸した蛮行ではなく、法に基づく行政の手続きだった。そしてその法は、ほんの20年前まで存続していた。なぜそんなことが許されたのか。患者と一部の人以外は、なぜそれが間違っていると声を上げなかったのか。

それは要するに、事実を知らなかったからだ、と私は思う。あるいはうすうす知っていながら、その事実に触れようとしなかった。知らないことは、ないことも同じ。触れようとしないことは、変わらない。現実に目を背け、ただ無関心に、絶対悪を許容してきた。隔離されていたのは、患者だけではない。一般社会の側もまた現実から隔離されていたのだ。

温泉街への帰り道もまた、上り坂である。たった4キロ、されど4キロ。入所者にとって、故郷ともいえる湯之沢までのその距離は、どんな意味を持ったのだろう。国により、なかったことにされてしまったハンセン病患者の日常。そこには実は、悲惨さや不条理だけでは語れない、多様で豊かな人々の営みが息づいていた。悲しみとともにあったはずの喜び、絶望とともにあったはずの希望。イメージにとらわれずに理解するには、何が必要なのか。今日一日見聞きしたことを思い浮かべながら、私は薄暮の道を歩き続けた。



posted by Dandelion at 08:32| 長野 ☁| Comment(0) | 関東・甲信越の旅 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

ミッドナイトラントレ日記360 「ひと区切り」

立ち寄った24時間営業の西友で、お相撲さんと遭遇。
そういえば、長野場所というのが今週末にあるとテレビCMで見た。
レジで一緒に並んだけども、僕より背が低いその若い力士は、
きちんとまげを結って着物姿、大きなペットボトルの水を買っていた。
それにしても午前1時に、なぜ。

レース出場はひと区切り。
なぜ走るのか、これからまたしばらくは、自問自答の日々が続く。

8.480km
7分51秒/km
1時間6分34秒
632kcal
posted by Dandelion at 04:20| 長野 ☔| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

芝生、ほのぼの、古戦場マラソン

上田古戦場ハーフマラソン、なにげに3年連続の出場である。
松本マラソンから2週連続の出場、おまけに前日は夜中まで仕事、それに暑さもあって、
スタートから足がだるく、ほぼ10キロで切れてしまった。
それでもゴールの県営上田野球場にたどり着き、グラウンドに大の字に寝転がってみると、
ことしも来てよかった、と思える自分がいた。

地元ランニングクラブの子どもたちが、きゃっきゃと走り回っている。
完走したお父さんを、小さな子とお母さんがねぎらっている。
運営する高校の陸上部の生徒たちは一生懸命で、楽しげだ。
そして緑の芝生と、青い空。

この感じがいいんだな、やっぱり。
posted by Dandelion at 05:12| 長野 ☁| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

ミッドナイトラントレ日記359 「それなりの松本マラソン」

上ってるっちゃ上ってるし、平坦っちゃ平坦っていう微妙な坂も、積み重なれば高低差100mの立派な起伏に富んだコースになるということを実感した松本マラソン。けっして楽ではなかったが、苦しいばかりではなかったのは、その景色もまた市街地あり、城があり、空港もあり、広々した公園ありと、変化に富んだものであったからと思われる。

「25kmまではウォーミングアップ」という言葉を意識して抑え目を心がけた前半は、息も乱れず気持ちよく、5kmラップを24分台で揃えて中間点は1時間43分台、30kmは2時間半。目標の3時間半には1時間で12km走ればいいわけで、まあいけるだろうと思ったのもつかの間、それ以降はなぜだかずるずると、ペースは落ちる一方、さっぱり体が動かず集中力も切れてしまった。やっとのことでゴールしたのは3時間45分。なんだかなあ。

それでも、長野マラソンの時のように股関節は痛くならなかったし、愛媛マラソンの時のように足裏の皮はむけなかった。それが進歩といえば進歩である。

一緒に参加した同僚のHさんは44歳で自己ベストを更新。Mくんは前日夜中まで仕事というハードな状況で完走を果たした。帰りは塩尻の入浴施設で休養してから電車で長野に戻り、焼き鳥屋で祝杯。3人ともいい年でいろいろあるけれど、走ることで気持ちが通じ合っている。そんなつながりがこれからも続いていけばいいなとあらためて思いを確かめ合ったのであった。

10.054km
5分51秒/km
58分50秒
682kcal
posted by Dandelion at 07:27| 長野 ☁| Comment(0) | ランニング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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